リヒトの声に誘われたのか、次から次へと鳩が舞い降りてきた。
肩に手に降り立ってくる鳥達をリヒトは笑顔で迎える。ジィルバの足元にいた鳩も少年のもとへ飛んでいってしまった。
翼。飛び交う翼だ。一人の天使を中心に、誰もが彼を愛して。
遠い情景に心が震えた。
「……リヒト」
うつむいたまま絞った声は思いのほか小さかった。聞こえなかったかもしれない。もう一度呼ぼうと思って、ジィルバはリヒトのほうへと顔を向けた。
翼に遮られた視界の向こう、空色の瞳がこちらを見ていた。
「なんですか?」
――嗚呼。
この静かな空間でなら、何もかも手放してしまっていい気がした。
「リヒト、俺は天使だ」
リヒトは凍りついたように動かなかった。
鳩たちはその緊張に堪えられないのか、どれからともなく皆飛び立っていく。灰色の空に無数の翼が舞い上がり、その影が二人の上に落ちた。
「銀闇の使者は、裏切りの天使だ」
そのとき、ジィルバは自分がどんな顔をしているのか分からなかった。体中が五感を失ったようで、まるで何も感じない。
宙ぶらりんの人形はきっとこんな気持ちだろう。
「ジィルバさん……」
少年の声が震えている。
自分の声も震えていた。
「俺は、天使の言うことが信じられなくて……俺は天使なのに……」
なぜだかリヒトが大きく歪んだ。
「天使を殺した」
「……ジィルバさんっ……」
リヒトが駆け寄ってきて、ジィルバの前に膝をついた。彼の頬に触れようとして、一瞬指先が戸惑う。
「ジィルバさん、ねえ、ジィルバさん」
憚(はばか)るように、けれども必死に男の名を呼んで、リヒトはそのままジィルバを抱きしめた。
「ジィルバさん……泣かないで」
リヒトの服を握り締めて、ジィルバは嗚咽に言葉をのせた。
「……仲間を裏切ったんだ」
天使が正しいとは思えず、人間が正しいとも言い切れず、それでも人間に手を貸した。銀の銃を同胞に向けたのだ。
「……誰も俺を裁いてくれない……」
自由戦争以来、多くの天使が死んだ。
戦後の処理に明け暮れて、自分は自分のしでかしたことを認められずにいた。
「……俺は、罪を犯したのに……」
――そうだ、俺は咎人(とがびと)だ。
その罪の重さが恐ろしくて、ずっと自分は人間だと言い続けてきた。
涙に濡れた懺悔を聞きながら、リヒトもいつの間にか泣いていた。
「ジィルバさん……」
ジィルバは、ずっと自身を断罪してくれる者を探していたのだ。
そしてリヒトが選ばれた。
なぜ、それが自分なのかリヒト自身には分からなかった。幼い彼は、金の髪を風に遊ばせて、青空の瞳で下界を見渡していた美しい大天使を知らない。
ただ、ジィルバは自分を選んでくれた。
答えたい、彼の懺悔に答えなければいけない。
「ジィルバさんは僕を助けてくれました……」
服を握る手がびくりと震えて、さらに力がこもった。
「……それはただ……」
後ろめたかっただけだ、掠れた声が善意を否定する。
リヒトは頷いた。
青年の肩口に頭を寄せて、目を閉じる。
「それが償いというものではないでしょうか」
のろのろとジィルバは顔を上げた。
首を傾げて、間近にある少年の顔を見つめる。
「あなたは償い続けてきた」
リヒトは蒼穹の瞳に銀色の天使を映した。
「僕はあなたを許したい」
同じように少年を映した銀の瞳が何度か震える。
それから、ジィルバはリヒトを抱きしめた。
二度と離してくれないのではないかというほどの力で抱きしめられて、リヒトは今更あたふたと頬を染めた。
「じ、ジィルバさん……」
困ったように名を呼ぶが、ジィルバはしがみついたまま身じろぎすらしない。
リヒトは肩の力を抜くと、青年の背中をぽんぽんと軽く叩いた。
(まあ、いいか……)
風は冷たいし、ジィルバは温かい。
リヒトは視線を転じて、チューリップの花園を見た。綺麗な花だ。寒さの中において、凛と冴えた美しさを感じる。
普通の天使はこれを禁忌だというのだろうか。ならば、自分はやはり駄目な天使なのかもしれない。
裏切りの天使のことさえも、優しい人だと感じてしまうのだから。
冬のチューリップをぼんやりと見つめるリヒトの耳に、静かに、本当に静かに声が響いた。
すまなかった、と。
そして、ありがとう、と。