薔薇の下 9

 神の声が聞こえない。
 神の声が聞こえない。
 だが誰の口からもそのことは漏らされなかった。
 そんなことがあるはずはないからだ。あってはならないはずだったからだ。
 二世紀に及ぶ地上の統制。天使時代は何の問題もなく続きそうだった。それこそ普遍の命を持つ天使のように。
 だが蜂起は起こった。
 ――間違いがあったからだ。
 少なくとも自分はそう思った。
 人間世界において、何かが崩れるのは必ずどこかに原因がある。
 ビルが崩れるのは土台作りが杜撰だったせい。大地が砂と化したのは、過剰な森林伐採のせいだ。
 だが天使は――他の天使は、人間の反乱を認めようとはしなかった。必ずや鎮圧せよ、大天使の粛然とした声に従い、断罪の天使たちが法力を使う。
 地面を裏返し、砕き、大気を切り裂く力。その圧倒的な力によって反乱は鎮まると誰もが信じていた。
 しかし、神話の時代において知恵を得た人間の抵抗は激しかった。数千年かけて解きほぐした世界の法則。人間の科学技術は天使に反撃するほどの力を彼らに与えていた。
 凄まじい攻防戦。
 世界が燃える。

 ジィルバは悲鳴を上げた。
 仲間を止めようと伸ばした手が、空しく宙を泳いでいる。その先が、見知った絵画がぶら下がった壁であることに気づいて、数瞬戸惑う。
「随分エキサイトな目覚め方だね」
 苦笑いを含んだ声が背後から響いて、ジィルバは息をついた。
「……誰のせいだと思ってるんだ」
「途中からうなされていたから起こそうかとも思ったんだが……迷っているうちに君が目覚めてね」
 ソファの背もたれに腰掛けたクラングが肩をすくめて見せる。
 先刻のクラングの仕打ちに関しては何も触れず、ジィルバはソファから立ち上がった。襟元を正す。
「時間を無駄にした。今、何時だ」
「午前一時をまわった。時間を無駄遣いできないのは天使の損な性格のひとつだね」
「俺は天使じゃない」
 振り向かずに吐き捨てる。
 その後姿にクラングは嘆息した。
「ああ、法力の使えない天使は天使とは呼べないな」
 ベルトのホルダーから拳銃を抜き取り、ジィルバはそれを握り締めて目を閉じた。
「断罪の天使は夜明け前に処分する」
「できるかね?」
「できる」
 歩き出す元天使を見送りながら、クラングは声をかけた。
「無理はするな。翼を失った君に残されたのは、その銃と、体温調節のきかなくなった身体だ」
 そしてその美貌、と冗談を付け足した男を無視して、ジィルバは大佐の執務室をあとにした。

 陸軍第三司令部の基地。その巨大な要塞を背後にジィルバはその敷地を横切った。
 守衛に身分証を見せながら、ふと門外に目をやる。
「えっ……」
「? どうかしましたか?」
 証明カードを返しながら守衛が怪訝そうに首を傾げる。
「……いや……」
 カードを懐にしまいながら、ジィルバは駆け足で外へ向かった。
 基地は郊外にあり、深夜は人の気配がまるでない。軍用を兼ねた広い道路を突っ切り、歩道に入る。ツツジの植えられた石畳に立ち、ジィルバは声を潜めた。
「……何をしているんだ」
 一株のツツジの陰から少年が顔を見せる。勝手に家内を荒らしたのか、フードつきの上着を着込んでいる。
 目深にかぶったフードの下から空色の瞳を覗かせ、リヒトは白い息を吐いた。
「その……ジィルバさんが心配で……すぐ断罪の天使の捕縛に向かっちゃうのかと思って……」
「……ずっとここにいたのか?」
 呆れるジィルバに微苦笑を浮かべて頷いてみせる。
「はい。でも、余計な心配だったみたいです」
 笑むリヒトの目元が赤く腫れている。
 眉を歪めて、ジィルバは手を伸ばした。冷えた頬。
「……ジィルバさん?」
 少年が首を傾げる。
(罪悪感か……)
 ジィルバは胸中で呟いた。
(同族を裏切った罪悪感とリヒトを傷つけた罪悪感……)
 比べようもないはずなのに、同じくらい重くのしかかってくる。
(どちらにせよ……)
「すまない。言葉が足りなかった……」
 苦しげに謝られて、リヒトはかぶりを振った。男の手に自分の手を重ね、にこりと笑ってみせる。
「いいえ。大丈夫です。聞こえましたよ、ジィルバさんの声」
「……声?」
「……期待は裏切ってないって……僕の幻聴じゃないですよね……?」
 はにかみながら聞いてくる。
 ジィルバは目を見開いた。聞こえたのか。
「それで僕、分かりました。最初にジィルバさんが言ってた『なぜ俺に話しかけてくるんだ。安眠も阻害された』っていうの」
 リヒトは足元に視線を落とす。
「僕、初めて施設を出て、何も考えてなくて……、往来をたくさんの人間が歩いてるのを見て怖くなったんです。今はまだ、天使を迫害する人間もいるっていうのを思い出して……」
 ずっと頭の中に響いていた、助けを求める声。
 ジィルバはその声を思い出して、目の前の少年と重ねた。
「誰かに助けて欲しいって……。最初は逃がした断罪の天使を頼ろうと思ったんですけど、彼とは繋がらなくて……。ずっと叫んでたらジィルバさんに届いちゃったみたいで」
 顔を上げ、すまなそうに眉を下げる。
「それで寝てるのを邪魔しちゃったんですね。ごめんなさい」
「……別に……」
 そのことはもういい、と言いかけて、ジィルバは不意に辺りを見回した。
(……近い)
 断罪の天使がいる。
 言い残した言葉どおり、自分を殺しに来たのか。
「ジィルバさん?」
 言葉を途切れさせた青年を仰ぎ見て、リヒトが不思議そうに首を傾げる。
「……ここから離れろ」
「え……なんで……」
 肩を押されて、リヒトは眉を寄せた。焦燥の滲んだ銀の瞳。
「……彼がいるんですか? 近くに」
「そうだ。逃げろ」
「逃げろって、そんな……」
 踏みとどまる少年を自分の陰に隠すようにしながら、ジィルバは左右に視線を動かした。見えない、が、感じる。
 遠くから近くへと怒気をはらんだ大気が動いている。
「いいから早く走れ!」
「でも、僕はっ」
「俺と一緒にいるのを見て、黙っている天使がいるか! 殺されるぞ!」
 怒鳴られてリヒトが肩をすくめる。
 これ以上は待てない。舌打ちして、ジィルバは駆け出した。
「ジィルバさん!」
「来るな!」
 振り向きながら叫んで、ジィルバは断罪の天使の気配がする方へ向かって走った。
 あっという間に小さくなっていく男の背中を見ながら、リヒトはおろおろと足を揺らした。
(どうしよう……どうしよう……)
 来るなと言われた。行けば、自分は邪魔になる。
 冷えた風が不安を煽る。
(でも、何か……できるかもしれないのに……)
 辺りを見回すと、嫌でも軍の基地が目に付いた。総本部ではないとはいえ、世界を支配するその権力を示すに十分な、巨大で堅固な要塞。
 圧迫感のあるシルエットは幾何学的で温かみが感じられない。じっと見つめていると、その暗い影が近づいてきているような錯覚を覚えた。
 呑まれて見つめていると、いつの間にか実際にひとつの影が近づいてきていた。ぎょっとする。
(人だ!)
 リヒトは慌てて、ツツジの陰に飛び込んだ。座って、フードをぎゅっと押さえる。
 しかし、足音が真っ直ぐに近づいてくる。革靴がコンクリートのブロックと擦(こす)れてたてる硬い足音。
(……見つかってる?)
 唇が震えた。リヒトは息を殺して、じっと自分のつま先を見つめた。
 やがて、足音が止まる。
「出てきなさい」
 響いたのは低い男の声だった。想像していたより柔らかく優しい声だ。
「昨日、脱走した救済の天使だね」
 すべて知られている。
 リヒトは観念して立ち上がった。だが、おとなしく捕まるつもりはない。
(ジィルバさんと断罪の天使がどうなるか確かめるまでは……)
 声の主は若い男だった。それでもジィルバより年上であることは間違いないだろう。
 黒い髪、青い瞳、背の高い男だ。真っ黒い制服の胸元に長く連なる略章を見つけて、リヒトは息を呑んだ。目を凝らすと袖章が四本入っているのが見えた。
(大佐……?)
 こちらの検分を待っていたのか、男はゆっくりと笑んだ。
「クラング・ヒンメルという。大佐をやらせてもらってるよ、一応ね」
 リヒトは一歩下がった。
(なんで、大佐なんかが一人で……)
「執務室から君が見えてね」
 大佐はそう言って基地を振り返った。リヒトもつられて彼の視線の先を見つめた。間をおいてクラングが再び、少年に視線を戻す。
「……ジィルバと……うちの中尉と話をしていた、ね?」
 心臓が跳ねた。見られていた。
 ジィルバはリヒトを発見したことを軍に黙っていたのだ。それが知れたら一体どうなるのか。リヒトは目を逸らした。
「何を話していたのかな?」
 聞いてくるクラングは笑みを浮かべているが、その青い瞳には隙がない。何かを探っている目だ。
 リヒトは手を握り締めた。手の平に指先を冷たく感じる。
 答える様子のない天使に、クラングはさらに相好を崩した。
「では、聞き方を変えよう」
 すっと右腕を上げる。
 リヒトは空色の瞳を見開いて、息を詰めた。
「答えろ。ジィルバに何をした」
 口調が鋭いものに変わり、青い瞳が不穏な色に染まる。
 掲げられた拳銃が、基地の光を受けて、無表情に輝いた。ぴたりとリヒトを見つめて。