薔薇の下 8

 外の闇は深くなっていた。
 街灯の数が減り、人々のざわめきは静まりつつある。
 天を仰ぎ、ジィルバは息を吐いた。わずかに白くなる。
「……もう十分だ」
 リヒトの謝る声が頭にこだまする。
 彼はジィルバの言葉を理解した。まるで聞く耳持たなかった今までの天使とは違い、天使のあり方に少なからず疑問を覚えた。
 それだけでもう十分だった。これ以上を望む気はない。
「リヒト……期待を裏切ってなんかいない……」
 呟きながら、なぜ自分の言葉はリヒトに届かないのだろうかと思った。
 自分は今も彼の声が聞こえているのに。

「ジィルバさん?」
 ふいに響いた声に、リヒトは驚いて顔を上げた。
 だが、扉は閉められたままで誰もいない。
(……でも、ジィルバさんの声……だった)
 期待は裏切られていないと、そう言った。
(嘘……なんで……)
 空耳だったのかと自分を疑う。
 天使同士は特に波長の合う者となら離れていても会話をすることができる。リヒトは母親とならばそれが可能だったが、狭い敷地内でその能力は必要なかった。
(……人間とも、可能なの?)
 ジィルバは天使の居場所が分かるらしい。彼の特殊な能力によるものだろうか。
 リヒトは抱きかかえた彼の感触を思い出した。戦っているあの姿を見たあとでは、意外なほど軽く感じられた。
 人から外れた美貌、肢体、能力。
 彼は本当に誤った天使を裁くために生まれてきた人間なのだろうか。
 銀闇の使者。
 彼の通り名が頭の中で舞った。

     *     *     *

 硬い扉をノックすると、すぐに返事があった。
 ジィルバは扉を押し開き、机に腰掛けたクラングを見つけた。天使が脱走したせいだろう、書類を何枚も机上に広げている。
 大佐の執務室は広い。応接用のテーブルとソファがあり、その奥に大佐自身の机が置いてある。絨毯は毛の短い重厚な赤で、壁にはひとつ風景画が掛けられていた。
「……ジィルバ……もういいのか?」
 驚いた顔でクラングが立ち上がり、歩み寄ってくる。
 ジィルバは頷いて見せた。
「……天使は?」
「まだだ……――ふむ、熱はないな」 
 答えながら、クラングが額に触れてくる。ジィルバは首を背けてその手から逃れた。クラングが苦笑する。
「私が嫌いか?」
「好きだと思うのか?」
「そう思っていたが?」
 クラングは笑うと手を振って、机に戻った。先ほどまで書いていた書類をわきにどけて、机の上で手を組む。そして青い瞳がよそを見ている銀髪の青年を真正面に捉える。
「……天使を一体、与えようか?」
 突然の発案に、驚いた表情でジィルバが振り返る。
「何?」
「例の拳銃の弾、そろそろ切れるんだろう? そして、それを補充できるのは天使だけだ」
 ジィルバは眉を寄せた。
「……天使が軍の命令を聞くはずがない」
「さて、どうだろうな」
 クラングは唇の端を吊り上げた。
 怪訝な顔をするジィルバをじっと見つめる。眩しい天井灯を弾き返す銀の瞳。光を含有する天使の瞳にも劣らないとクラングは常から感じていた。
「君がその美しい唇と美しい声で切なる願いを訴えれば、救済の天使の情は得られるんじゃないか?」
 ジィルバが即座に顔をしかめる。
「冗談じゃない」
「冗談、と思うのか? 私はこれでいけると思うよ」
 黒髪の男は軽く首を傾げて見せた。
「君の願いを叶えるためには、その銃は欠かせないんだろう?」
 ジィルバは舌打ちをした。大佐の机まで近寄って、足を止める。
「俺の願いを叶えるためには、別に軍にいる必要はないんだぞ」
「それでも、軍にいるのはなぜかな?」
「都合がいいからだ」
 即答する青年にクラングは苦笑した。
「いっそ清々しい答えだな」
 立ち上がる。
 と、視線の高さが逆転する。クラングはジィルバを見下ろして、右手をその頬に伸ばした。ジィルバがはっと息を呑んで後退する。
 クラングはURを仕切ると同時に自身もURである。その法力に対する感度はジィルバに劣ろうとも、他の人間とは比べようもないほど高い。そして一般に法力感度の高い人間は感性が鋭く、人心に敏(さと)いと言われている。ジィルバはそんな彼に触れられると、隠している事すべて見抜かれてしまいそうな気がしたのだった。
 クラングは拒まれた右手を見下ろし、それから青年に視線を戻した。
「……君はどうも潔癖でいけないな」
 腰を低くした体勢で、ジィルバは無言でこちらを見つめてくる。彼の行動を案への拒絶と判断したらしいクラングは肩をすくめた。
「だが、それでも天使を殺したいのだろう? 君は……」
 微かに笑いを含んだ声はどこか威圧的だ。
 ジィルバはばれないように息を呑んだ。捕獲命令が出ている脱走天使であるリヒトを匿っていること、それが彼に知れた場合、自分は、そしてリヒトはどうなるだろうか。
 佐官の最高位、クラング・ヒンメル大佐の一言は彼らのこれからを簡単に左右することができる。
 こつ、と薄い絨毯に硬質な足音をたてて、机の横を周るとクラングはジィルバの目前に立った。
 油断のない銀の瞳がひたとこちらを見据える。
「美しい瞳だな……」
 囁いて、クラングは今度は両手を伸ばした。ジィルバの頭を包み込むようにする。
 両腕に視界を遮られてしまう圧迫感にジィルバは肩をすくめた。
「……離せ」
 震える声を無視して、クラングは青年を抱き寄せた。
「もっと早く君と出会いたかったよ」
「離せ」
 青ざめた顔でジィルバがクラングを押し返そうとする。
 すっと手が背中を撫でた。傷跡がぞくりと冷える。
「あ……」
 小さく声を漏らして、ジィルバは相手の制服を握り締めた。
 抵抗する力を失ったその耳元で、クラングは囁いた。

「君の純白の翼を見たかった」

 激しい眩暈。
「白い光を背負った君は、きっと誰よりも美しい天使だっただろう」
 腕の中で銀の髪がのけぞる。そのまま倒れそうになるのを支えながら、クラングは長い、これまた銀の睫毛を見つめていた。
 白い喉を晒して、ジィルバは気を失っている。
 受肉した天使は人間より軽いつくりになっているらしい。見た目よりも軽い体を抱えあげ、応接用のソファに横たえる。
 ジィルバの体調がまだ万全でないことは無論気づいていた。だが、それでもジィルバは天使への捕縛へ向かうつもりだっただろう。
 弛緩した目元を撫で、クラングは一人で呟いた。
「死に急がないでくれ」
 ソファの背もたれに腰をかけ、睫毛を伏せる。
 戦争のさなかに見つけた銀色の青年。瞳と同じ色の銃を片手に、こちらを見返してきた。足元に巨躯の天使の死体を転がして。
 もし、そのときのジィルバにあの壮麗な翼が生えていたなら、自分はおそらく相手が男であることにも構わず恋に落ちていただろうと思う。
 天使は美しい。
 彼らの時代が終わった今も、それだけは変わらない事実だった。