「止まれ」
背後、いや真横から声が聞こえる。
ジィルバは足を止めた。口元に笑みを浮かべて、声のほうを振り仰ぐ。
「不意打ちはしないのか?」
「必要ない」
自信に満ちた声が響き、闇に巨躯の天使の姿が浮かぶ。
断罪の天使。驕れる人間を裁く者。彼らは自らの正義を信じ、自ら正しく判断し、行動する。その彼の目には迷いが見られない。
(……驕れてるのはお前のほうだ)
ジィルバは銀の拳銃を天使に突きつけた。天使はぴくりとも動かない。
「一応尋ねておこう……。軍に戻る意志はあるか?」
「あるならば、すでに帰っている」
答えて天使が両のこぶしを打ちつける。火花が散り、闇を一瞬照らす。
「では、処分だ」
引き金を引く。
乾いた破裂音とともに天使が高速で移動する。発光した肉体は移動の軌跡を残しながらぽつりと呟いた。
「……本当に変わった銃だ……」
ジィルバはその動きを目で追いながら、何かを吟味するような声を聞いた。
「その銃に仕込まれた法力は……お前によく似ている」
思わず瞳を見開く。
動揺の一瞬を狙って、こぶしが打ち下ろされる。
「……っく」
体をのけぞらせるようにしながら、地面を蹴って避ける。こぶしはアスファルトを砕き、跳ね上がった破片が制服の袖を裂いた。
「ふむ……」
こぶしを持ち上げながら、天使の双眸がジィルバを捉える。
「……これで三度、天使の攻撃を避けた。人間の動きではない、な」
背筋を伸ばし、目の前の青年をじっと見つめる。
ジィルバは息を呑んだ。
短気だが、この天使は聡い。救済の天使をうまく利用しただけのことはある。
「おかしいとは思っていたのだ……」
光を内包した双眸が、おもむろに怒りに満ちる。がばっと開いた口から蒸気が漏れた。
「銀闇の使者! ……貴様こそが、あの裏切り者か……!」
熱気が顔に吹き付けてくる。
ジィルバは拳銃を握り締めた。断罪の天使の声が増幅しながら、脳内に響き渡る。
――裏切り者! 裏切り者!!
「……黙れ」
声を絞る。手が、震えた。
死の裁きを与える天使の瞳は激しく燃え上がり、筋肉に包まれた体は脈打ってそれだけで盾にも砲弾にもなる。
「よくも同胞を裏切ったな!」
「黙れ」
「貴様の行為は神を裏切ったも同然だ!」
「黙れ!」
ジィルバは頭を振って、肺の空気をほとばしらせた。
「神を裏切ったのはお前らのほうだ!!」
まぶたの裏を焼く、過去。
大地の割れ目に人が呑み込まれていく。津波が街を流した。
「人間の自由を理解できなかった天使に非があるんだ!」
「貴様も天使だろうが!!」
天使の怒号が胸を貫く。
ジィルバは喉を引きつらせた。
「――っ黙れ!」
叫んで照準も合わないまま、銃を撃つ。
弾は掠りもしなかった。
天使が目を剥く。
「未熟者がぁっ!」
叫んでから彼は両腕を前方へ突き出した。重ねた手の平を胸元へ引き戻す。ぶわっと蒸気が吹き上がった。
体中の光が手の平へと向かう。まるで血管を流れているかのように幾つもの筋を作って、集まっていく。
法力だ。
「やめろ!!」
ジィルバの制止の声は半分掠れた。
びりびりと空気が震える。全身を覆う緊張に、総毛立った。
「……翼を捨てた背徳者……お前には防げぬ」
天使が赤く輝く両手を、何か球を持つように胸の前に固定する。
(……殺せるか……)
ジィルバは銃を構えた。
当たれば、終わる。――無論外しても、終わりだ。
そして、夜のまだ明けない暗い空に銃声が響いた。
ジィルバは目を見開いた。
硝煙を上げている、黒い拳銃。その銃をこちらに向けた黒髪の男。
そして、もうひとつ硝煙を上げているものがあった。
――目の前の断罪の天使の背中だ。
「撃て!」
聞き慣れた声が短く命ずる。
ジィルバは引き金を引いた。
ぱんっとあっけなく響いた銃声のあと、断罪の天使の体が揺らいで、倒れた。
「どうして……」
ジィルバが呆然と呟く。視界の端に、金髪の少年の姿を捉えながら。
リヒトはこちらを見ない。クラングの後ろに立って、動かなくなった天使を見つめている。
「それは、こちらのセリフだな」
クラングが歩み寄ってくる。
戸惑いながらそれを待っていると、平手が飛んできた。頬に乾いた痛みが走る。
リヒトはその音に驚いて顔を上げた。大佐がジィルバを睨みつける。
「……天使を匿ったな」
唸るような声など耳に入らず、ジィルバは目を瞬いた。
その襟首を掴み、クラングはジィルバに詰め寄った。彼の耳元で声を厳しくする。
「捕まえる以外、殺す以外、天使には関わるなと命じていたはずだ」
「……クラング……」
ジィルバはやっとクラングの声を受け止めた。
「……俺は……」
答えかけて、黒髪の背後の少年が目に入る。
空色の瞳がこちらを見ている。失望に揺れる眼差し。
「……天使を一体与えようとは言ったがな」
クラングは視線を逸らした銀の瞳を見つめながら続けた。
「子どもはダメだ。情が移る」
ジィルバがクラングに視線を戻す。
「俺は……別に……」
「ではなんだ、その目は。……子どもを裏切って後悔している目だ」
指摘され、ジィルバが口を噤む。
うつむいた青年の襟を離す。クラングはため息をついた。
「命令違反だ。罰は受けてもらうぞ」
「……そんな!」
声を上げたのはリヒトだった。
何か弁解しようと足を踏み出すと、青い瞳が、憎しみさえ滲んだクラングの瞳が刺すように振り返った。
その双眸の冷たさに怯えて、踏みとどまる。
「天使は黙っていろ。お前の処遇はそのあとだ」
怒りを帯びた低い声に、リヒトは思わずあとずさった。
それからクラングはもう一度ジィルバの方を振り返った。
「残念だよ」
一言そう告げ、彼は銃声を響かせた。
ジィルバは動かない。リヒトが目を覆いながら悲鳴を上げる。
「ジィルバさん!」
「……っ……」
小さく呻き、左足を押さえながらジィルバが倒れる。押さえた手とズボンが見る間に赤く染まっていく。
「……ひどい」
リヒトは涙をこぼした。力が抜けて、道路に膝をつく。
「……どうして、……こんな簡単に……」
「……簡単に、人間を殺してきた天使に言われる筋合いはないな」
冷たい声が頭上から降ってくる。
リヒトはこぶしを握って、クラングを睨んだ。
クラングはそれを無視し、懐に銃をしまうと代わりに携帯電話を取り出した。発信ボタンを押して耳に当てる。
「ブルーメン少佐か? ――ああ、断罪の天使を処分した。死体の処理を頼む。……あとジィルバが負傷した。救護班も……分かっている、では、早く来たまえ」
電話を切って、ひとつ息をつく。携帯電話をしまい、クラングはジィルバの傍に膝をついた。
「……ジィルバ」
負傷している青年に手を伸べると、それは打ち払われてしまう。苦痛に顔を歪ませたジィルバが、掠れた声を絞る。
「……触るな」
「救護班を待っている余裕が、私にはない」
どこか悲しそうに、クラングはそう告げて、銀髪の青年を抱き上げた。抱き上げる瞬間に、痛みが走ってジィルバが声を上げる。
息を乱して、ジィルバは相手の黒い制服を握り締めた。
「……リヒトには、何もするな……」
息だけの声で訴えられ、クラングは片眉を上げた。
「随分とご執心のようだな。……安心しろ。どうせしばらくはリヒトとやらよりも、そこの死体の処理のほうに手をとられることになる」
一連のやり取りを黙って見ていたリヒトがおもむろに立ち上がる。空色の瞳は困惑に似たものが占めている。
クラングは笑みを浮かべて見せた。
「軍に帰るぞ」
優美と言えなくもないその微笑に、リヒトは眉を寄せた。