一条の銀の光 9

 闇音たちは雪の店まで辿り着いた。
「では、雪さん。今日はもう外出しないで下さいね」
 闇音は優しい口調でそう言った。雪が小さくうなずく。
「あの……」
 雪は視線を足元に落としたまま、口を開いた。
「帰りは皆さんで寄って行ってくださいね」
 言い切ってから、顔をあげ、努めて明るく笑って見せる。
「……ええ」
 闇音は頷いて静かに微笑み返した。グィンが明るい声で継ぐ。
「絶対そうするよ!」
 そう答えて踵を返す二人の背に向かって、雪は声を大きくした。
「お茶を用意して待ってますから! 冷めないうちに!」
 闇音は振り返り、もう一度微笑むと来た道を駆け出した。雪は遠ざかるその影を黙って見送った。

 真夏の午後、二人の精霊は凍りついた。
 人通りの少ない、いや全くない道端に二人の男が体を投げ出していたのだ。
 地面に飛び散った真っ赤な血痕は、あまりにも現実味がない。心臓が恐ろしいほど高鳴り、胸が圧迫される。闇音は一瞬、我を忘れた。
「ザック!!」
 今まで出した事もないような悲鳴が彼女の喉をほとばしった。

 のっそりと黒い髪をした頭が起き上がる。
 青褪めて呆然としている二人に気付き、ザックは居心地悪そうに片手を上げて見せた。
「……よう……」
 頬からわずかに血が流れているが、それ以外に外傷は見つからない。
 闇音は開けた口を閉じる事が出来なかった。
「驚かさないでよ!」
 耳元でグィンの怒りさえ帯びた甲高い声が響く。
 冷水のように澄んだその声は、闇音を急速に平常に戻した。
「ザック!」
 ずかずかと歩み寄ると、主人の頭に遠慮もなく握り拳を振り下ろす。
「いってぇ――!!」
 ザックが殴られた頭を押さえ悲鳴を上げた。
「なにすんだ、てめえ!」
「それはこっちの台詞です!!」
 ザックの怒号は、更に大きな闇音の叫びに圧倒された。思わず肩をすくめ、ザックが二度目の攻撃に身構える。
 しかし再び拳が見舞われることはなかった。
「あなたって人はどうしてそうなんですか!?」
 代わりに大声が耳を殴る。
「人を驚かすような事ばかりして!」
 今までになく声を荒げる闇音に、ザックもグィンも呆然とした。
「自分がどういう存在なのか、考えた事がありますか!?」
「……いや?」
 闇音が一呼吸置いたところで、やっとザックは返事が出来た。
「ああ……」
 闇音は頭を抱えて、唸った。眩暈すら起こしそうな気分だ。
 自分はこれから先も、この男についていくのか。自問せずにはいられない。
 そうして、目の前でじっと自分を見上げる青年の顔を見つめた。美しい独特の色をした瞳はいたって無垢である。
 ――離れられるはずがない。こんなにも愛しいのに。生きていてくれてどんなに安堵しただろうか。
 やがて闇音は長いため息をついた。
「……どうしてこんな所で寝てたんです?」
「別に寝ていたわけではないんだが……」
 尋ねてくる闇音に答えながら、ザックは倒れている大男を指した。
「ガンズとし合って、多分勝ったから。……疲れてたし、ちょっと休んでただけだ」
 闇音は指さされた先に転がっているガンズを見とめた。
 右のこめかみから血を流し、腹部もわずかに赤く滲んでいるが、深い怪我には見えなかった。ゆっくりと胸も上下しているし、命にはなんら別状はないだろう。
「やりましたね」
 そう言ってわずかに唇の端を上げて見下ろすと、ザックはくしゃりと微笑んだ。
「ああ、一応な」
「じゃあ、早くフレイムのところに行こうよ」
 グィンが二人を急かす。
 ザックが頷いて立ち上がろうとしたがよろめいて、闇音が慌てて腕を貸した。
「はは、足ががくがくだ」
 ザックは笑う。
「先に行っててくれ。すぐに追うから」
「……大丈夫ですか?」
 闇音が眉根を寄せて、顔を覗き込んでくる。ザックはしっかり頷いた。
「ああ、俺の事よりフレイムが心配だよ。なあ、グィン?」
「うん」
 話をふられてグィンが即座に頷く。ザックがかすかに顔を緩めて、闇音を見返した。
「な? 先に行ってくれよ。グィン一人じゃフレイムのところには行けても、そのあとがな」
「分かりました」
 闇音は頷きながら答え、ザックをその場に座らせた。
「無理はしないで下さいよ」
「ばか。そんなヤワじゃねえよ」
 ザックがさっさと行けと手を振る。
 闇音は眉を下げて見せた。それから背の高い宿を見つめる。
「では、グィン、行きましょう」
 それだけ言うと、闇音は音もなく走り始めた。グィンが後に続く。
 あっという間に小さくなっていく精霊たちを見送りザックはため息をついた。
 それから剣帯から剣を抜き、地に立てそれに頼って立ち上がった。まだ足に疲れは残っているが、ぐずぐずしている気はない。
 宿の窓が反射する陽光にザックは目を細める。それから一呼吸整えて、走り出そうとした。
 しかしその瞬間、真夏の暑さを無視して、全身が粟立(あわだ)った。
 ぞっとするような殺気。

 振り向こうとした目の端に、銀の切っ先が無慈悲に冷たく光った。