翠の証 14

 青い月は死んだ女の顔だ。哀れにも、若くしてこの世を去った、美しい女の。
 横で椅子から立ち上がる音がする。シギルはのろのろとそちらへ目をやった。
 翠の瞳が輝き、金の髪が揺れる。
 ――青い月の女だ。
「おやすみ、シィ」
 呆然と自分を見上げる養父にいくらか困惑しながらもザックは扉の方へ歩んだ。
 しかし突然、目次に戻る進めなくなった。
 シギルが後ろから抱きしめてきたのだ。
「すまなかった……」
 低く呟かれる謝罪。
 ザックは首を捻るようにして、シギルを見上げた。だがうなだれる養父の表情は窺えない。
「すまなかった。許して欲しいなんて思ってない……」
 今更な台詞。
 開いていない筈の窓から生ぬるい、雨上がりの風が吹き付けたような錯覚。それに不安を覚えながら、ザックは声を絞った。
「シィ、俺は独りにされたことなんて……」
 語尾は途切れた。シギルの腕に力がこもる。
「痛……」
 ザックはたまらず、その腕から逃れようとした。しかし病み上がりの体に力は入らない。
「マリー……」
 耳元で囁かれた名前にぎょっと目を開く。
「シィ? 俺は母さんじゃない」
 だが、シギルにはザックの言葉など耳に届いていないようだった。罪悪感に満ちた声で言葉を続ける。
「……ジルが死んで、一瞬、私は……喜んだ」
 ザックは自分の体の力が成す術もなく抜けるのを感じた。
(――裏切りじゃ、ない)
 理性が心の中で喚く。
 シギルとて一人の男だ。相手が人妻でも、愛してしまったのなら仕方がない。
 けれど叫びは虚しく、たった一言が頭の中にこだまする。
 ――喜んだ……。
「……嘘だ」
 自失した状態で呟く。
 しかし瞳に深い絶望を映したザックは、いまやシギルの前には存在しなかった。彼の腕の中にいるのは、金の髪を持ったひとりの女である。
「許してくれ。マリー……」
 シギルは一体、「いつ」に立ち戻っているのだろうか。
 ジルが死んだ夜か。それとも別の夜か。
 やがてザックは静かに呟いた。
「シィ……、離して」
 胸の奥から言いようもない感情が湧き上がってくる。
 顔を知らなくても、声を知らなくても、何も知らなくても、それでもジルは最愛の父親だった。母がこの世で愛した、たった一人の、自分の父親だ。
 それは、嫌悪だった。
「離せ!」
 この自分がシギルに嫌悪を覚えるなんて、夢にも思っていなかった。ジルよりも、明らかにシギルと共に過ごした時間のほうが長いのに。
 ザックはシギルの腕を爪で引っかいて、その身を引き剥がすようにして彼から離れた。
 シギルは血の滲んだ自分の腕を見、そしてザックを見つめた。
「ザック……?」
 驚いたように養子の名を呼ぶ。ザックは眉を寄せてその様子を見た。
 今までの態度を一変させ、シギルは目をしばたいている。まるで何も覚えていないようだ。
「どうした、ザック?」
 心配そうに伸ばされた腕に、ザックはびくりと肩をすくめた。シギルの瞳に驚きの色が浮かぶ。
「ザック?」
「あ、……ごめん。俺、もう寝るから」
 ザックは早口にそう言うと、シギルの部屋を飛び出した。
「あ……」
 呼び止めることはかなわず、シギルは扉が閉まるのを何も出来ずに見た。腕に残った傷跡。
 月光が独り残された彼の影を床に照らし出していた。

 客室のドアを後ろ手に閉め、ザックはそのままずるずると座り込んだ。窓から銀に輝く青い光が差しこんでいる。ザックは忌々しくその光を睨んだ。
(――狂わせたんだ)
 青白い不気味な月が。
 月は魔力を持っている。力は引力。人々を過去に引き付けて止まない。
 シギルはその魔力にあてられたのだ。月の魔力が、彼を過去に立ち戻らせた。
 ザックは青い月が嫌いだった。
 青い夜。
 海も空も輝く月までも、青で統一されて。もういなくなった筈の人達が、波の狭間から顔を出していそうだ。物欲しげに。虚ろな瞳さえ、青く。
 風のない静かな夜は、独りで震えていた。眠ってしまえば、楽になれるのに。潮騒が彼から逃げ場を奪う。
 ザックは髪を縛っていた紐を乱暴に引っ張った。落ち着くように、ゆっくりと深呼吸をする。
(……違う。一瞬だ。一瞬だけ喜んだって……。完璧な人間なんていない。……俺はシィと一緒に暮らした。俺はシィが好きだ)
 ザックは首を振った。
(父さんの事なんか知らない。知らない人のために、一緒に暮らした人を嫌うなんて……。そんな事……)
 夜の闇に響く潮騒は信じる心をざわつかせた。安らかな心を掻き乱した。
 歯を食いしばり、ザックはふらふらと立ち上がった。ベッドの傍に置かれていた鞄を開き、その奥の隠しに手を突っ込んだ。
 色褪せてしまった写真を手に取る。写っているのは三人。笑みを浮かべた男女、そして赤ん坊。そのうちの一人は自分だ。
 他の二人は?
(……知らない。こんな奴ら、知らない)
 しかし、ザックはこの写真を手放すことができずにいた。知らなくても、誰なのかは分かっていた。
 写真をもとの場所に戻し、ベッドに足を進めた。
 そして、彼のベッドで夢の世界へ旅立っている少年を見つける。
「あれ……?」
 もう一つのベッドに目をやれば、闇音の寝顔が見える。
 ザックはしばらく、一人で途方に暮れた。