翠の証 13

「――まだ、夜中じゃないよな?」
 ふと、ザックが口を開く。フレイムは時計に目をやって、うなずいた。
 ザックは傍においてあった上着を羽織るとベッドから出た。
「シィと話してくる。折角会ったのに全然喋ってないからな」
「大丈夫?」
 フレイムが首を捻ってザックを見上げる。彼は柔らかい笑みを浮かべると、少年の頭を撫でた。
「……高くついたが、熱は下がったからな」
 その言葉にフレイムは眉を下げて笑い、そのままザックの後ろ姿を見送った。扉が閉まるのを見届けて、欠伸をする。
「俺は寝よう……。もう限界だよ」
 そう独り言を漏らし、自分のベッドに眠る闇音を見下ろした。
「今更、起こすわけにはいかないよね…」
 さっきまでザックが寝ていたベッドに潜り込む。布団に残された温もりに、フレイムは淡い笑みを浮かべて目を閉じた。

 足元はまだふらつくが、だいぶ楽になった。不本意ながらも、飛竜に感謝しようとザックは思った。今回の事で健康が一番だと思い知らされたわけである。
 シギルの部屋は客室の二つ隣にあった。ノックするとすぐに返事が聞こえ、扉が開かれる。
「ザック?」
 シギルが驚いて、声を上げる。しかしそれは無理もないことであった。彼の養子は雨に濡れて、高熱にうなされていたはず。起き上がって自分の部屋を訪れるなどありえないことだ。
「大丈夫なのか?」
 おろおろと尋ねる男に、ザックは苦笑した。
「ああ」
 本当のことを言うわけにはいかないだろう。納得できない表情を浮かべている養父に首を傾げてみせる。
「部屋、入れてくれよ。それともここで、立ち話?」
 冷たい廊下を指差すザックの言葉にシギルは我に返り、彼を部屋に通した。
 シギルの部屋は小綺麗に片付いていた。そしてよく見てみると、本の並びから筆立ての位置までに何かしらの規則性が窺える。
「かわんないな……。相変わらずの几帳面さだ」
 背が高く薄いものから、低く厚い順に並べられた本棚を見てザックは笑った。
「ああ、そうじゃないと、落ち着かなくてな」
 シギルはザックを椅子に座らせた。そして自分も腰を落とすと、まっすぐに養子を見つめた。
「大きくなったな」
「そりゃ……、あの後、成長期に入ったからな」
 ザックは恥ずかしそうに眉を下げた。シギルが言いようのない笑みを浮かべる。
 シギルは端においていた椅子を引っ張ってきて腰を下ろした。ザックは普通に座っているのが辛いのか、椅子の背もたれを前にして、そこに体をあずけた。
「おまえはやんちゃでいたずら坊主だったな」
 笑いを含んだシギルの口ぶりに、ザックは思わず肩をすくめた。
「あの頃はその元気さに、父親のジル似だと思っていたが……。いや、実際性格はそうなんだろうが」
 そう言いながらザックの目尻に触れる。
「マリーによく似てきた」
 その言葉にザックは息を呑んだ。
「……どの辺が?」
 ほとんど顔も覚えていない母に自分が似ているというのはなんだか変な気分だった。
「目元や、鼻の形かな。……いや、全部だ」
 思い出に目を細める養父をザックは見た。彼は今、自分にマリーの面影を見ているのだ。
「でも、俺は母さんも父さんも覚えてないよ」
 自分の足元に視線をおとし、ザックは低く呟いた。彼らはザックにとって最も近しい血筋の他人であった。知らない人間は他人だ。
 シギルは肩を落とした養子に優しく微笑んだ。
「おまえはジルとマリーの子だよ。間違いなくな」
 力強くそう言いきる。ザックは首を傾げた。
「なんで?」
「その目の色だよ」
 シギルはザックの瞳を指差した。
「その黒色はジルから、翠はマリーから受け継いだものだ」
 ザックは驚いて目を見張った。
「母さんて、目、翠だった?」
「なんだ、知らなかったのか?」
 今度はシギルが驚く。ザックはうなずいた。
「なんて事だ」
 シギルが大仰に首を振る。それからザックの肩を掴んだ。
「ちゃんと知っておかんとダメだぞ。島で一番美人だった母親なんだ」
 ザックはその勢いに気圧されながらうなずいた。それからシギルは椅子に腰掛けなおすと、どこから話すか思案している表情を見せ、ゆっくりと口を開いた。
「……マリーが大陸の人間だったことは知ってるな。グルゼは知っての通り、みんな黒髪黒目だ。だからジルがマリーを連れてきた時は、みんなでジルの家へ押しかけたよ」
 シギルは脚の上で手を組み、天井を仰ぎながら語った。
「覗いてみたらどうだ。綺麗な金色の髪に、翠の目だ。彼女はびっくりして、ごったがえした村人たちを見ていた。その驚いた顔までが可愛らしい人形のようでな、若い男達はみんな彼女に一目ボレしたんだ」
「シィも?」
 ザックが興味深そうに、養父の話に口を挟む。シギルは思わず吹き出した。問いに対する驚きと答えることに対する困惑の入り混じった顔で養子を見る。そして是非を答えることなく、彼は続きを話し始めた。
「……まあ、そうして、美男美女の若夫婦が出来たわけだ。結婚してすぐ、おまえが生まれた。おまえのその目を見て、マリーはたいそう喜んでたぞ」
 シギルがザックのほうに身を乗り出す。
「二人の瞳の色が両方入ってたんだからな。まさに愛の結晶というわけだ」
 まるで自分の事のように嬉しそうに話すシギルに、ザックは眉を寄せた。
「父さん以外の男だったら?」
 ザックの言葉にシギルが目を剥く。
「おまえは何て事を言うんだ。彼女が貞淑な妻であったことは間違いないし、おまえは二人が島にやってきてから七ヶ月弱で生まれたんだ。計算してみろ、島の男が彼女に手を出してる暇なんかないぞ」
「マイナス三ヶ月だ」
 ザックは指を折って数え、笑った。 
 ふと、外の雨音が聞こえなくなっている事に気づき、ザックは窓のほうに目をやった。切れた雲の間から星が見える。月もじきに顔を出すだろう。
「……こういう夜って、寂しくなって、……たまらないんだ」
 椅子の背もたれに顔をのせ、静かに呟く。
「雨上がりの夜は静か過ぎて……、潮の音が耳にこだまするんだ」
 シギルは養子の神妙な面持ちに息を詰まらせた。青い影の横顔には既視感がある。
「……怖かったよ。……一人の夜は怖かった……」
 ザックの声は震えていた。窓の外、暗い紺の空を見つめながら、彼は故郷の空を見ている。
 シギルは愕然とした。一人残された子どもが、毎日笑顔で過ごしてきたはずがないのに。
「……ザック」
 シギルの呼びかけを遮って、ザックは笑った。
「俺の怖がりは、どっちに似たんだろうな」
「……わからん」
 シギルは重い息を吐いて、うつむいた。
「ジルはもとより、マリーも意外と肝の据わった娘だった」
「じゃあ、シィに似たのかな?」
 軽く告げられた言葉にシギルは顔を上げた。翠の混じった黒い瞳が、優しい光を湛えて自分のほうを見ている。
「シィは怖がりだろ? 雨漏りの水が跳ねる音にも、跳び上がってビックリしてた」
 意地悪そうに笑いながら、ザックは自分の記憶を掘り下げた。
「血はつながってなくったって、十年も育てられたんだ。シィに似てもおかしくはないだろうな……」
 そう言うと、笑ってザックは空を見上げた。
「……もう寝るよ。宵も更けてきた」
 シギルがつられて窓の外に目をやると、青い月が輝いていた。
(あの夜も、月はこんなふうに輝いていた……)