翠の証 15

 フレイムが目を開けると、目前にザックの寝顔があった。
「わっ」
 慌てて身を起こし、自分がいる場所を見下ろした。そうだ。自分は昨日ザックのベッドで寝てしまったのだ。
 ほっと安堵の息をつき、横に眠る男を見た。随分と顔色も良くなっている。
 警戒心の欠片もない、緩んだ寝顔にフレイムは思わず微笑んだ。
「そうやっていれば、ザックも可愛いんですけどね……」
 背後からしみじみと呟かれ、フレイムは驚いて振り返った。闇音がぬる温くなってしまった水の入った洗面器を抱えている。
「私も、ついさっき起きたんですがね」
 そう言いながら、昇ったばかりの太陽を眺める。雨上がりの朝日は一層眩しく感じられた。
「あ、闇音さん、昨日は……」
 フレイムが肩をすくめ、闇音を上目使いに見上げる。闇音はフレイムを見て、優しく笑った。
「いいんですよ。少し、落ち着く必要がありました。柄にもなく、動転してしまって……」
 闇音は片手で前髪を掻き上げながら、小さくため息をついた。それからふと、洗面器に目を落とした。
「そういえばフレイム様、この水に何かしましたか? やけに温くなってるんですけど」
 フレイムはぎくりと肩を跳ねさせた。飛竜がやって来て使ったなんて、とてもじゃないが言えない。
「さあ? 俺にはわかりません」
 フレイムは爽やかな朝にふさわしい笑みをみせた。軽やかに嘘をつく自分に、内心で驚きながらも。
 闇音は眉を下げ、水に映る自分を見つめた。
「まあ、いいですね」
 そう結論付けると、洗面器を抱えて部屋から出ていった。見送って、フレイムは胸を撫で下ろした。
 それから、横で幸せそうに夢の世界に浸っている男に目をやる。
「ザックは朝に弱いんだよね……」
 フレイムは青年の横に寝そべり、その耳元で起きろーと囁いてみた。
 のろのろと黒い瞳が開かれる。フレイムはびっくりして声も出せずに、ザックの視線を受け止めた。
 ザックはぼんやりとフレイムを見やると、ゆっくりと微笑んだ。裏のないその笑みは、見る者すべてを魅了するかのようだった。
「おはよう……」
 掠れた声でそう言うと、また瞼を閉じる。フレイムは呆気にとられて、再び眠りについたザックを見つめた。
「おはようって……、寝る前の挨拶じゃないよ……?」
 ためしにザックの頬をつついてみたが、もうぴくりとも動かなかった。彼は寝ぼけていたのだろうか。
 ――可愛げがある。
 昨夜、飛竜が言った言葉が頭をよぎる。フレイムは肘をつき、ザックを見下ろした。
(『可愛い』って形容詞が当てはまる人だとは、思ってなかったんだけどな……)
 身長は高く、それに見合った長い手足は攻撃的な雰囲気がある。その白銀の剣を振るう姿には、同性のフレイムでもかっこいいと思うことがあった。
(本人に可愛いなんて言ったら、どんな反応するかな?)
 きっと顔をしかめるに違いない。ザックが不機嫌になる様子が容易に想像できたことに、フレイムは苦笑した。

 日もだいぶ昇った頃、ザックはくしゃくしゃになった髪を掻きながら、のんびりと起きあがった。寝ぼけまなこ眼を擦りながら、ベッドの横の台に手を伸ばす。最初は櫛を探していたようなのだが、手探りで見つけることができず、先に指に触れた紐を取ると、そのまま髪を結った。
 その寝起きの行動を、黙って見ていた三人――グィンもあとから起きてフレイムたちに加わった――は顔を見合わせて、肩をすくめた。
「まったく、あなたは何をやってるんですか」
 闇音は立ち上がると、台の端っこに載っていた櫛を取った。手にした黒い櫛をザックに差し出す。
「ああ、おはよう」
 ザックは闇音を見上げて笑ってみせた。しかしもう髪をいじる気はないらしく、櫛を受け取ろうとはしない。闇音は頭痛でも堪えるかのように片手をこめかみにやって、ため息をついた。
「私に髪の毛を引っ張られたいんですか?」
「……結ってくれるって事か?」
 ザックは首を傾げて、影の精霊の表情を窺った。闇音は無表情で彼の横に腰を下ろした。いささか乱暴な手付きで紐をほどく。ザックはわずかに眉をしかめたが、何も言わなかった。
 闇音が丁寧に彼の黒い髪を梳く。
「闇音、僕のもあとで結ってくれる?」
 グィンが彼の肩のそばで尋ねる。闇音は頷いた。
「いいですよ」
 そしていつも縛っている部分だけが他よりも伸びてしまった主人の髪を手に取りながら、窺うように首を傾げる。
「変な伸び方してきてますけど、切ったらどうですか?」
「だって、伸びかけの時期が暑くてさ。もう、このままでいいよ」
 ザックは面倒くさそうに答えると、睫毛を伏せた。闇音は器用に髪を結い、ザックの頭をぺチンと叩いた。
「終わりましたよ」
「サンキュ」
 ザックは頭にくっついた尻尾に触れながら礼を言った。
「なんか二人って、そうしてると恋人みたいだよね」
 フレイムが唐突に呟いた。闇音が目を見開き、ザックが絶句する。フレイムは二人の過剰な反応に思わず目を見開き、それからおずおずと口を開いた。
「だって、闇音さん綺麗だし……。女の人に見えるから」
「きつい冗談だな……」
 闇音の事を男としてみているザックがうんざりと肩を落とす。飛竜の事を思い出したらしい。
「まったくです。私だって冗談じゃありません」
 闇音がため息混じりに言う。ザックが横目に影の精霊を見やる。
「おまえは俺の事を獣か何かだと思ってるからな」
「人間の男性はみんなそんなものだと思いますけどね」
 闇音が冷ややかにザックを一瞥する。フレイムは自分もそんな風に見られているのだろうかと、内心どきりとした。
「男がみんな同じだって見るのは、差別だぞ。現にあいつは、いつまでも一人の女を想ってるじゃないか」
 ザックがフレイムを指差す。
「え?」
 自分に矛先が向けられたフレイムは、あっという間に真っ赤になってしまった。グィンがくすくすと笑うのが聞こえ、フレイムは眉を困らせたままながらそちらを睨んだ。
 闇音はというと、話にならないとザックに首を振っている。
「私が言ったのは一般論ですよ。フレイム様は純情な方です。そう言うあなたはどうなんですか? 美人と見れば、すぐ声をかけて」
 ザックはむっつりと顔をしかめた。窓に目をやり、青い空を睨む。
「――俺だって……」
 ふて腐れたような声。翠を刷いた黒い瞳に、甘く寂しげな光が浮かぶ。フレイムは喉の辺りがひやりとするのを感じた。この続きは聞いてはいけないような気がする。
 闇音の気持ちには、うすうす気が付いていた。色恋沙汰に詳しいわけではない。第三者の勘である。しかしフレイムには、ザックが誰か一人を特別に見ているようには、見えなかった。
「ザック……」
「腹減った」
 フレイムの呼びかけは無視され、かわりに気の抜けた言葉が漏らされる。
「俺、一昨日から何も食べてねぇよ」
 伸びをしながらザックはぼやいた。
「飯にしようぜ。空腹でぶっ倒れるなんて、同情の引ける話でもないしな」
「ああ、うん。そうだね……」
 フレイムはしどろもどろに答え、立ち上がる。ザックはドアノブに手をかけながら、闇音を振り返った。
「おまえは来ないのか?」
「どうせ、食べれませんから。この部屋で待ってますよ」
 闇音がいつもと変わらない感情の表れない瞳で主人のほうを見る。ザックはうなずくと部屋を出た。
「じゃあ、僕今から髪を結ってもらうね。朝ご飯はいいや」
 ザックの後に続こうとするフレイムに、グィンが言う。
「いらない? なんで?」
「へへへ。昨日さ、二人でフレイム達のこと待ている間にシギルさんがアルムの実をいっぱいくれたんだ。それがまだ残ってるの」
 そう告げると身を返し、闇音の傍へ飛んでいく。
 フレイムは闇音の方を見た。彼女は静かにベッドに腰掛けている。
(闇音さんは気が付いたのかな……?)
 ザックの短い言葉の端に滲んだ、感情。