翠の証 10

「神腕の結界か、これが」
 天を目指した光を飛竜は見上げた。
 勢いよく駆け上った光は空中で弾け、森中に降り注いだ。落下する過程で長い光の尾を帯び、それが結界を形成する。
「編む、と言うには及ばない。稚拙な結界だな」
 飛竜はからかうように笑いながら分析した。
「けれど、あなたの魔力は封じられたでしょう」
 冷たい口調で闇音が告げる。指摘されて、飛竜は自分の手を見つめた。淡く光が宿り、しかしすぐに消える。
「ほう。さすがだな」
「私の方はそうでもないみたいですけど?」
 小さく笑って闇音は右腕を振って見せた。紫暗の光がたなびく。
「仲間の魔力だけは制限しなかったのか。なるほど。神腕の使い手も伊達ではないと言う事か。見た目よりも機能的な結界だな」
 さほどの動揺も感嘆もなく飛竜は淡々と告げる。
(だが、やはり未熟だな。機能重視で強度は低い結界だ)
「つまらないな。この場は引くか」
 あっさりと言う。一瞬闇音は言葉を失った。
 飛竜は笑みを浮かべ、抱え上げていたザックの足を地面に下ろした。
「受け取れ」
 その背をとんと突き飛ばす。気を失っているザックは為す術もなくその衝撃に身を任せた。のけぞるように倒れこむ。闇音が慌てて腕を伸ばした。
「ザック!」
「もちろん、タダではないぞ」
 闇音の声に重ねるように飛竜は囁いた。
 倒れてくるザックを受けとめながら、その向こう、飛竜の手に光が宿っているのを見て、闇音は驚愕した。
(馬鹿な!)
 見開いた闇音の視界に光が閃いた。

「消えろ!!」
 濡れた空気を震わせて、少年の声が響き渡った。
 瞬間、飛竜の放った直線の衝撃波は不可視の壁にぶつかったように弾け、消滅した。
 赤い瞳が面白そうに細められる。
「フレイム・ゲヘナ……」
「……そうだ」
 赤目の魔術師に右腕を掲げたまま、フレイムが答える。木々の間から現われた彼は、細い肩を上下させていた。走ってきたためか、神通力を引き出したためか。もしくは両方が原因か。
「フレイム様……」
 ザックを支えたまま闇音は少年を呼んだ。明らかに疲労している。
 フレイムはこちらを見ない。色の薄い瞳は神腕の光を受け、凄絶な輝きを浮かべていた。
「君はだれだ?」
「飛竜」
 淀みのない低い声。年はザックと同じくらいだろうか。
「何が目的でザックに近づいた?」
 その一言で、闇音は自分が怒りに我を忘れていたことに気がついた。ザックを取り返す事にばかりに躍起になっていて、相手の目的は考えもしなかった。
「そうだな。目的はついさっきすり替わったばかりだ」
 静かに飛竜は答えた。彼自身思案しながら。やがておもむろに指差す。ザックを。
「それが欲しい。その見えざる向こうにあるもの全てを」
「見えざる向こう? 何を言って……?」
 フレイムが眉を寄せる。
 それを見て飛竜は目を見開き、それから笑った。嘲笑だ。
「はっ。なんだ、おまえは気がついてないのか? まさかおまえもか?」
 笑いながら闇音の方を見やる。
「馬鹿な! 神腕の持ち主と上級精霊の両方が!? あははっ、はははははは!」
 叫び声のような笑いが森の中に響き渡る。
 不快感を覚え、フレイムは口を引き結んだ。顔を覆い、狂ったように笑う男。これがあの鳥篭の結界を編んだ男なのか。
 繊細で美しかったあの結界を編むには、この男はあまりにも軽薄そうに見えた。
 ひとしきり笑った後、飛竜はそばの木に背を預けた。
「……なんてこった。なんて滑稽譚だ」
 独り言のように早口に呟く。それから彼は黙った。手で顔を覆ったまま。
 ――ぞっと、背筋に悪寒が走る。思わず、闇音はザックを抱きしめる手に力を入れた。
 血の瞳が指の間からこちらを見ている。飢えた瞳。まるで闇の深淵で底光る魔物のそれだ。
「たまらないね……」
 小さな声だったが、闇音の耳には届いた。
「俺が手に入れる。俺のモノだ」
「ザックはあなたのものではありません!」
 射るような眼差しで相手を牽制する。しかし飛竜は怯まなかった。
「その心意気で大事にお守してくれよ? 俺だけじゃあないんだ、これからは。なんと言っても五億の賞金首だ」
「なっ」
 驚きの声を上げたのはフレイムだった。
 なんと言った? 賞金首? 誰が?
「そう、賞金首だ。お前を庇ったからな」
 笑みを浮かべたまま、飛竜はフレイムを見つめた。
 少年の瞳に自責の色が浮かぶ。
(俺のせい……)
 それを見て飛竜の顔から笑みが消えた。その顔に「馬鹿馬鹿しい」と書いてあるように、闇音には見えた。
「後悔する暇があったら、せめて魔術を上手く使えるように訓練したらどうだ」
 腕を組んで、遠くからフレイムを見下ろす。
「その腕、宝の持ち腐れと言うものだ」
 指摘されてフレイムはさっと顔を上げた。青褪めている。
「魔術の制御がへたくそ過ぎて話にならん。それでは魔術を使うたびに疲労して仕方がないだろう」
 全てが事実だった。言い返す事もできず、フレイムは飛竜の冷たく整った顔を見つめた。
 飛竜は軽く肩をすくめて笑みを浮かべた。
「そうだ。話にならん」
 赤い双眸が細められた。前触れもなく、飛竜の前方の空間で一気に魔力密度が高まる。
(神通力の結界の中で!?)
 闇音は信じられない思いで、渦巻く魔力の波を見つめた。
「っあ!」
 フレイムが頭を抱えて、悲鳴を上げる。
 一瞬だった。飛竜の放った極細の鋭い魔力の針が四散する。フレイムが、神通力を持つ者が造った結界が音もなく――崩れた。
 支えていた糸が切れたように、少年が膝をつく。しかし、その瞳はしっかりと飛竜を捉えていた。
「待て……」
「待たない。止めたかったら、止めてみろ。その腕で」
 フレイムは右腕を伸ばした。飛竜に向けて、集中する。しかし視界は霞み、焦点はぶれていた。
 飛竜は鼻で笑い、背を向けるとそのまま歩き出した。振りかえる事もなく、その後ろ姿は森の奥へと消えていった。
 それはフレイムにとって既視感のある光景だった。くたびれたコートに身を包んだ男が音もなく去っていく。燃え盛る炎をものともせずに。
「……ッ」
 歯を食いしばって、フレイムは拳で地面を打ちつけた。濡れた前髪から水が滴る。
(なんで俺は……)
 沈黙が雨音を際立たせていた。
(いつだって……守りたい人を守れるだけの力がない)
 最強無比と言われる力を携えていながら、自分は無力だった。
 天から降ってくる水滴が打ち出す音。その音はまるで自分を嘲笑っているようだった。
 頭の中で響くそれは、飛竜の狂った笑い声だった。