翠の証 11

 シギルの家に戻ってからもザックの熱は依然、高かった。
 闇音が彼の傍に付きっきりで看病している。
 フレイムも傍にいたかったが、雨に冷やされた体を温めるよう、シギルに風呂を進められた。確かに自分まで、ザック同様に寝込むわけにはいかない。彼は不承不承、風呂に足を向けたのだった。
「飛竜……」
 フレイムはお湯に浸かり、湯気で曇った天井を見つめながら、その名を呟いた。
 不気味なくらい赤い瞳をした男だった。そして信じられないほどの魔力を持っていた。それこそ神通力の使い手であるような。
 湯の中から、自分の右腕を上げる。
(――宝の持ち腐れ……か)
 自分で制御しきれない神の力。シェシェンの街でも暴走させてしまった。
 フレイムも神腕がなくともいくらかの魔術は使える。だから神腕は出来るだけ、使わないようにしていた。
 しかしザックにまで賞金が掛かった以上、これまでのようにはいかない。悔しいが、飛竜の言うことには正しい。
 だが神腕をうまく使いこなすための修行なんて、知らない。
(ザックみたいに早朝練習しなきゃかな……)
 フレイムは自嘲を浮かべた。それから背を浴槽の壁に預けると、深く息をついた。
(ネフェイル……。彼を訪ねてみようか)
 三年前、自分を救ってくれた人物。そして彼は偉大な魔術師でもあった。
(ただ……リルコのどこかの街にいる、としか知らないんだよね)
 リルコはここコウシュウの東に位置する州である。ガルバラで二つしかない州のうちの一つで、広大な大地には山脈が横たわり、わずかな街が点在するだけの土地である。リルコの南には巨大な森があり、その向こうは砂漠である。人間の踏みこまない魔境の砂漠。そこでは魔物も原始の姿をとどめていると言う。
 眉を寄せ、ちゃぷんと音を立てて、フレイムはお湯に沈んだ。

 雨足は幾分弱まってきたようだった。風が吹き、不気味な闇が窓の向こうに広がっている。時折、室内の光を受けた木の影が闇に浮かんだ。
 フレイムは窓の前で足を止め、外を睨んだ。

 食事を終え、フレイムが客室に戻ると、闇音が疲弊しきった面持ちでザックの傍にいた。その横顔に鈍い胸の痛みを覚える。
 出来るだけ足音をたてないようにしながら歩み寄り、フレイムは囁くように声を掛けた。
「闇音さん、少し休んだほうが……」
 心配する少年を振り返り、闇音は弱々しい笑みを浮かべてみせた。
「いいえ、これくらい」
 シギルも彼女を心配して温かいスープを持ってきたのだが、闇音はそれを丁重に断わった。彼女の体は食事を受けつけないのだ。そのことでザックに人生の楽しみの半分を知らないようなものだと言われたこともあった。
 フレイムは静かに自分のベッドに腰を下ろした。
「でも、ザックが起きた時にそんな顔してたら、ザックは心配するよ」
 闇音は首を振った。
「それでも……こうして傍にいないと。飛竜の言った事を思い出すと……」
 そう言って、横に眠るザックを見下ろす。
 雨の森で見たときは今よりも蒼白だった。熱にうなされ、寒さに震えていた。
「不安になります」
 ザックが反逆罪を負った。
 フレイムがうつむくのを闇音は横目に見た。少年が自分を責めている事は分かっていたが、慰めの言葉も思いつかない。頭の中はザックの事だけで精一杯だった。
 鮮烈な赤い瞳を思い出し、闇音は目を伏せた。ひとつため息をつく。
「飛竜には……なんといっていいのか……嫌悪、を覚えます」
 フレイムは顔を上げて闇音の横顔を見つめた。
「彼の持つ力……あれは単なる魔力だとは思えません。神通力とはどこか違う……けれど、それと似た感じはしました」
 そこまで言って、フレイムの方を見やる。フレイムは首を振った。
「俺には分かりません。神通力は神腕以外のものを見た事がないから。……それに俺、魔術に関する知識は中級魔術師並みだし」
「……大火災の罪を犯してから学校に通われていないんですから、それは仕方のない事です」
 闇音はわずかに笑みをつくって見せた。
 自分は役に立てない。力不足だ。その瞬間、そう悟ってフレイムは目を閉じた。頭の中をネフェイルの事が過ぎる。
「……闇音さん」
 口を開きかけた少年を闇音の声が遮る。
「フレイム様こそ、今日は神腕を使ったから、もうお休みにならないといけませんよ」
 闇音は静かに睫毛を伏せ、そう言った。話ははぐらかされたがフレイムはうなずいた。
「……うん」
 自分の右腕を見下ろし、それから闇音の方にその腕を伸ばした。
「――ごめんなさい、闇音さん」
「フレイム様?」
 フレイムの声に闇音は振り返ろうとしたが、それを阻むかのように目の前に鋭い光が閃いた。そのまま少年の方へ倒れこむ。
 受けとめた影の精霊を見下ろし、フレイムは呟いた。
「だって、やっぱり休まないといけないよ」
 フレイムは気を失った闇音を抱えると自分のベッドに横たえた。軽い羽布団を掛け、窓の方を見つめる。それから左手をこめかみにあてると、煩わしげにため息をついた。
 立ち上がり、フレイムは窓を開けた。
「何の用? さっきから家の周りをうろうろして……」
 冷たい声を外に投げかける。その窓に一番近い木の枝が揺れた。
「なんだ、気づいてたのか。面白くないな」
 白っぽい茶色の髪が暗闇に浮かぶ。
「折角の夜這い計画がおじゃんだ」
 からからと喉の奥で笑いながら、声の主は窓の桟に飛び移った。部屋の中に水が滴るのを見て、フレイムは顔をしかめた。傍にあったタオルをとり、相手に投げやる。
「床を濡らさないでよ、飛竜」
 飛竜は言われるがまま、ぐっしょりと濡れた髪をタオルで掻き回した。フレイムはその様子を見ながら、壁に背をもたれさせ、腕を組んだ。
「何をしに来たの? ザックにまた害を成すようなら、この場で始末するから」
 あながち冗談とも言えないような口調で言い放ったフレイムに、飛竜は肩をすくめた。
「だから、夜這いだって」
「……誰に?」
 フレイムはあまり健全でない言葉に眉を寄せながら、飛竜を睨んだ。彼は奥の方のベッドを指差した。
「ザック」
 フレイムは思わず、目を見開いた。飛竜は口元に薄い笑みを浮かべて、少年の方を見た。
「その影の精霊や、あんたみたいなのは好みじゃないんだ。ザックみたいに可愛げのある奴がいい。苛めがいがある」
 フレイムはこともなげに吐かれた言葉に絶句した。どうやら自分はとんでもない男を部屋に入れてしまったらしい。
 闇音が彼を嫌う理由のひとつが分かった気がした。
「……出ていけ」
 苦々しく呟く。飛竜は両手を上げて笑った。
「すまん。冗談だ」
 その言葉にフレイムの眉間の皺を消すような効力は、なかった。飛竜は続けて謝罪した。
「分かった、悪かったよ。すまん。――夜這いは相手が元気な時にするべきだな」
 フレイムはげんなりと肩を落とした。ザックが元気な時にそんな事を仕出かしたら、剣で微塵切りにされてしまうだろう。自分の想像に首を振りながら、あっちへいけと飛竜に向かって手を振る。
「帰れ。二度と来るな」
「まあまあ、待てよ。俺もさ、疲労は癒せないが……」
 もったいぶるように一度区切り、相手を上目使いに見て続ける。
「熱を取り除いてやることくらいは、出来るぞ」
 フレイムは驚いて、飛竜を見つめた。赤目の魔術師は片目を閉じて、笑った。
「追い返す気、なくなったか?」