翠の証 9

 シギルは窓から激しくなる雨を見つめていた。丘陵のない広大な平野。遥かは雨にかすんでいる。
 家に養子は帰ってきていなかった。この雨の中にいるのだ。
 不安が彼の心臓を鷲掴みしている。
 一緒に帰ってきた妖精はフレイムと闇音が行ったんだから大丈夫だと言った。
「ザック……」
 外に出て、彼を捜しに行きたい衝動に駆られる。しかし少年が言ったように、ザックはいつ帰ってくるか分からない。家にいなければ。
(なぜ、こんな事に……。いや、分かる気がする。これが私の罪か……。見捨てたあの子といることを神が許さない……)
 この罪悪感は、豊穣の雨にさえ流す事はできない。それでも、それでも彼が帰ってくることを祈っている。温かく迎えてやりたいと思っている。
 シギルは風呂を沸かして、三人が揃って帰ってくるのを待った。

(……近い……? こちらが当りだったか……?)
 濡れた小枝を掻き分けながら、闇音は進んでいた。
 森が意外と深かったために、フレイムと二手に分かれて少し経つ。はじめは何も感じられなかったが、今や自分の目指す先に主人の気配を感じる事ができた。
 しかし、はっきりと感じられるものは、あとひとつあった。
 ――もう一人、いる。
 闇音は我知らず、唇を噛み締めていた。
 こんな事になるなんて。ほんのわずかばかり目を離したばかりに。
 まだ熱があったのに。まだ傷が癒えていないのに。
(どうして私は彼から目を離した!?)
 自分を罵り、はたと闇音は足を止めた。
 漂う魔力の気配が濃い。それはザックの気配までも覆うほどで。闇音は焦燥に駆られながら、左右を見回した。
 集中しようと目を閉じると、雨の音が耳障りだった。葉を叩き、地面を打つその音。
 呼吸を整えながら、闇音は落ち着くように自分に言い聞かせた。
(命をかけても守ると誓ったのだ……)
 目を開き、闇音は真っ直ぐに足を踏み出した。そのまま走り出す。
 その数秒後だった。離れたところで爆音が轟いたのは。

 爆煙が上がって間もなく、それは雨にかき消された。炎はもとより上がっていない。
 飛竜はくすりと笑って、首を傾げた。
「これはこれは……」
 目の前の地面にはぽっかりと穴があいている。直径十メートル、深さは三メートルほどあるだろうか。つい先ほど、自分であけたものだ。
 その中心にザックはいた。相変わらず意識はない。
 ただ、彼の横たわる大地だけはまるで傷ついていない。何かに守られたように、彼の周りだけが飛竜の攻撃を防いだ。
「凄いな、ザック。こんな鳥肌立つ思いは久し振りだ」
 明るい声で言いながら、地面を蹴る。魔術を使う彼の体は、たった一度の軽い跳躍でザックの側に到達した。
「お前を守っているのは誰だ?」
 返事をしようはずもない青年の側に腰を下ろし、飛竜はあごを手に乗せた。
「いや、“守っている”と表現していいものかな。これじゃあ、治癒魔術も受けつけないだろうに」
 雨に濡れた相手の頬に触れる。冷えているかとも思ったが、熱に侵されているせいで存外に熱かった。
 赤い瞳を細める。
「ザック……、ザック・オーシャン……。本当にただの賞金首なのか」
 否。
 飛竜は自分の中でそう答えた。
(……他の誰に見えなくても、俺には見る事ができるはずだ)
 魔力を眼に集中させる。血の色の瞳が光を帯びる。
 ――魔眼。
 それは神通力にも劣らぬ魔力を引き出す、媒介。
 沸き溢れる魔力を、飛竜は完璧に御した。
 それは誰のものでもない、彼の天性の力だった。何の訓練も受けず、飛竜は魔力を制御する術(すべ)を心得ていた。生まれた仔馬が誰に言われるまでもなく、立ち上がるように。

「なるほど……」
 しばらくして、飛竜は小さく微笑んだ。
 それから再びザックを抱き上げた。その頬に顔を近づけて、囁く。
「ザック……、おまえが欲しいな。――おまえの」
 言いかけて、飛竜は口をつぐんだ。顔を上げて見据える。
「いいところを……。無粋な輩だな」
「これは……」
 驚きの声を漏らしたのは、闇音だった。
 木々を掻き分け、辿り着いた場所には大穴があいていた。しかも爆薬などではなく、魔力であけられたものだ。魔力のほどは今の自分と互角か。
(いや、その上か……? 結界を破るのにかなり消費した。そしてその結界を編んだ男だ……)
 目の前の男に視線を向ける。ザックはその男に抱えられ、こちらから顔色を窺うことはできなかった。ただ外傷はないように見える。
(この男が……)
 口を引き結んで、闇音はザックを抱える男を見つめた。
 白くけぶるような茶髪。見慣れぬ異国の衣服。そして、血の滴ったような赤い瞳。
 粒の細かい雨のせいで、視界がぼやけるなか、彼の瞳だけが鮮烈な光彩を帯びている。
 闇音は息を呑んだ。
 外見だけではない。この男が纏う空気は異質で冷たく、他者を寄せ付けないものがあった。
「……ザックを、その人を返して下さい」
 ゆっくりと声を絞り出す。飛竜は冗談めかしく肩をすくめて見せた。
「そう怖い顔をするな。なに、まだ何もしちゃいないさ」
 と、飛竜はほんのわずかだが目を見開いた。
「何だ、おまえ精霊か。ザックの女かと思えば」
 闇音は眉を寄せた。自分を見て、これほど短時間で精霊だと見抜いたのは彼が初めてだった。上級精霊は極めて人間に近い姿を持つというのに。
 警戒もあらわな闇音に、飛竜は気楽に笑って見せた。
「ザックを返して欲しいのか」
「……ええ」
 静かに闇音は答えた。できるだけ、相手の神経を逆撫でしたくはない。
 どこに武器を持っているとも知れないのだ。彼がその気になれば、針一本でザックの首を切り裂くこともできる。
「断る」
 飛竜はあっさりと言って、ザックを抱き寄せた。
「俺はこいつに勝った。これは俺のものだ」
 闇音は奥歯を噛み締めた。嫌悪を感じる。
「ザックは熱があったでしょう。そんな人を倒して、よくもそういう事が言えますね」
「なぜ? 戦いに応じたのはザックだ。熱なんて関係ない」
 全く通じ合わない。
 闇音と飛竜はじっと相手を睨んだ。
 雨は止まない。冷たい雨。それは騒々しさを含む静けさで森を包んでいる。
 沈黙を破ったのは、闇音でも飛竜でもなかった。
 空気が震え、次いで閃光が天を目指した。