翠の証 8

 森の入り口までやってきたフレイムと闇音は、そこで足を止めた。確かに木の下で感じた魔力のそれと同じ気配がする。
 地面から――雨が瞳に入るので顔をしかめながら――空へと視線を移す。
「結界……?」
 呟いたのはフレイム。闇音は厳しい顔でそれを凝視した。
 それは一見、赤い鳥篭だった。細い魔力の線が地面に魔術陣を描き、森をぐるりと囲む位置から天へと伸びている。まっすぐに伸びた線は途中から緩やかに曲がり、頂上で結ばれていた。
 これほど美しい姿をした結界を見たのは、フレイムは初めてだった。
(これは……、俺には破れないかも知れない。力はあっても技術が足りない)
 結界を造ることは簡単な事ではない。いちばん簡単で粗っぽいものは、紙状に伸ばした魔力で空間を包む事である。ただ、もちろん大きな容積を包む事は難しい。
 結界の精度を上げるのならば、魔力を紙ではなく糸状に伸ばしそれで「編む」のだ。糸状に伸びた魔力を魔力線といい、それらは互いの距離が近いほど反発力を強める。反発が強くなりすぎて互いを弾きあうギリギリ一歩手前で、結界を造るのである。
 その距離は魔術師の力量で変わる。ただしそれは魔力の許容量ではない。精度だ。
 集中力と持って生まれた抽象を具現する力。それを活かし、極細い魔力線を紡ぎ、精密な模様の結界を編む。それが出来ないなら紙状結界のほうがまだ役に立つだろう。
 今、目の前にそびえる結界は、それまでに見た誰のものよりも緻密であった。そう、つまりは自分のものよりも。
「破れそう?」
 フレイムは隣りの精霊に目をやった。
「……素晴らしい精度ですね」
 闇音は感情の表われない声で答えた。
「しかもこれほどの大きさのものを造るとなれば、持っている魔力も半端ではないでしょう」
 頭ではそう分かっていても、実際他人の口から聞くと、息を飲まずに入られない。
「――破れない事はありません」
 闇音はじっと森の奥を見据えて続けた。
「ただし、開けられる穴は一人分。それも三秒ほどです」
 言い終えてフレイムを見つめる。
 暗い瞳は沈痛だ。こんな目は見たことがない。
「ザックをお願いします。フレイム様」
 雨音が大きくなる。
 濡れた白い肌の精霊。その美しい顔を、フレイムは凝視した。
「え?」
 思わずうめく。闇音はうつむいた。
「結界を破るのにかなりの集中力と魔力を使います。その後にこの結果の持ち主と対峙しても、私は勝てないかもしれません」
 淡々と並べられる言葉。その声がどこか叫びだしそうな響きを持っていることを、フレイムは感じた。
 本当は、闇音は自分が行きたいのだ。
「……私では助けられないかもしれません……」
 声が震えた。
 思わずフレイムは闇音の手をとった。
「結界に入ったら中から破るから。待ってて」
 確かに結界は外よりも内の方が脆い事が多い。それでも闇音は首を振った。
「いいえ。ザックを早く……」
 フレイムはぐっと喉が痛むのを感じた。
「ザックは闇音さんを待ってるよ」
 そう言うと、影の精霊の顔が大きく歪んだ。一瞬泣き出すかと思えるほどに。
 それを見て言葉を継ぐ。
「一緒に行こう」
 長い睫毛を伏せて、闇音は黙った。
 雨に濡れて頬に張り付いた髪。それから滴が流れ落ちるのをフレイムは見つめた。
 しばらくしてから、闇音は彼の手をそっと解いた。
「無理はなさらないで下さい。ダメだと思ったらそのままザックを探してください」
 落ち着いた声音で言いながら、赤い結界へと手を触れる。その動作に一瞬どきっとしたが、幸いにも――闇音は分かっていたようだが――、結界に他者を攻撃するような機能はなかった。
 ふぅ、と小さく息を整える気配がした。
 続いて凛とした声が紡がれる。
 フレイムは胸の奥に澄んだ空気が流れ込むような心地でその声を聞いた。
 グィンとは違う。影の精霊の呪文。それをまともに聞いたのは初めてだ。
 やがて結界に触れた手に光が宿る。青紫の夜光虫のような輝き。それが彼女の手の中で揺らめき、力を増していくのが分かる。
「開け」
 最後の一言だけが、人間の言葉だった。そして同時に、それまでの神聖な雰囲気は一転し、木が引き裂かれるような音がけたたましく響いた。思わず耳を塞ぐ。
 赤い鳥篭に亀裂が走る。闇音の手を中心に。
「フレイム様!」
 叫び声が耳を打つやいなや、フレイムはその裂け目へと飛び込んだ。結界を通り抜ける瞬間、例の空調の変化による痛みに似たものが鼓膜を襲った。
 とん、と濡れた地面に着地し、振り返る。
 と、そこには森が広がっていた。
「鏡?」
 フレイムは目を細めた。そこにいるはずの闇音の姿がなかった。かわりに背後とまるで同じの風景がある。
(こういう事をする必要ってあるのかな?)
 疑問ではあったが、考えたところで術者の真意などわからない。会った事すらないのだから。
 凝るのが趣味なのかもしれない。こんな鳥篭のような結界を編み出すのだから。そう思いながら右手を掲げる。
 神腕。呪文を唱える必要などない。思うだけで未曾有の力が溢れ出す。
 目を閉じて、見えない結界に触れる。その構成を感じて、フレイムは賭けに勝った気分になった。結界は対外敵用でひたすら外からの侵入だけを拒むものであった。これなら破れる。
 そう確信して、触れた手に力を込めた。
 わずかだったが、抵抗はあった。が、されるがまま、すぐに結界は緩んだ。くしゃりと紙を丸めるような感覚。数秒後には目の前に闇音の姿が見えた。
 安堵ともとれるその表情を目にして、フレイムは我知らず微笑んだ。

 飛竜は天を仰いだ。
「ふむ」
 結界に誰かが侵入した。それを理解するのは容易いことだ。
「問題はそれが神通力の持ち主である、ということだ」
 何かに説明でもするかのように、呟く。先ほどまで対峙していた人物が気を失っているので、完全に独り言ではあるが。
 ちなみにその人物は現在自分が抱えている。目を覚ましたら、まずはじめに拳が飛んできそうな気もするが、いわゆるお姫様抱っこである。
 その顔を見下ろして、飛竜は苦笑した。熱を出して倒れる賞金首を相手にしたのは初めての事だった。
(しかも非常に興味深い、ときた)
 それは見たことのない事例であった。
(さて、ちょっとした実験でもするかね。……怖い賞金首が来る前に)
 遊び半分に造った結界が破られるのを感じながら、飛竜はザックを草の上に降ろした。