翠の証 7

 フレイム達がザックがいなくなった事に気づいたのは、それからしばらくした後だった。雨がぽつぽつと落ちてきたので、彼らは木の下に戻ってきた。
 しかし彼らを待っていたのは水筒一つだけで、いるべき病人の姿がない。
 雨が降り出す前に家へ戻ったのだろうか。ザックの性格を考えれば、みんなを置いて一人で帰ることはないだろうが、なにぶん今の彼は熱がある。濡れることを避けても無理はない。
 しかしフレイムは眉を寄せた。辺りに残る、わずかな気配。
「魔力……」
 闇音がぽつりと呟く。彼女もフレイムと同じ事に気づいたようで、その瞳には険しい光が浮かんでいる。
 辺りに気配が残るほど、ザックに魔力はない。彼の他に魔力を持つ者がここへ来たのだ。
 二人は顔を見合わせ、うなずいた。
「シギルさん、グィンと一緒に家へ戻っておいてください」
 フレイムの声に、辺りを見まわしていたシギルが顔を上げる。
「しかし……」
 彼の顔にも不安の色がある。
「ザックは家に戻っているかもしれないし、いなくてもそのうち戻ってくるかもしれません。誰かが家にいないと……」
 フレイムがそう言うと、彼は仕方なくうなずいた。水筒を抱えると、ドワーフの入った籠を持ち、家へと足を向ける。
「グィン、ザックが戻っていたり、戻ってきたら知らせて。それまでは家にいるんだ。いいね?」
 グィンは主人の命令に従い、シギルの後に続いた。
 フレイムは空を見上げた。雨はこれから激しさを増すだろう事が窺える。もしザックが雨に濡れれば、ただではすまない。不安に胃の辺りがきりりと痛む。
「フレイム様、行きましょう。雨で気配が消される前に」
 闇音が沈痛な面持ちで、フレイムを待っている。フレイムはうなずき、魔力の気配がする方へと二人で駆け出した。

     *     *     *

 熱のせいで頭が痛む。
 ザックは太い木に背を預けていた。手には剣が握られているが、力なく切っ先は地面についている。
 飛竜と戦い始めてすぐ、彼は森の中に駆け込んだのだ。元より、こんな体調で闘うつもりなどなかったのだ。不意をつかれた飛竜を振り切り、木の陰にこうして隠れているわけでいる。
 汗があごを伝って地面に落ちる。まるでそれが合図だったかのように、ぽつぽつと雨が降り出した。
 ザックは眉をしかめ、空を見上げた。
 あんなに輝いていた太陽は隠れ、どんよりと厚い雲が空を覆っている。首筋に雨が落ち、思わず身震いをした。
(……寒い……)
 汗もかいているし、まだ残暑の名残もあるのに、全身総毛立つ程の悪寒が背を駆け上がる。また熱が高くなり始めているのだと知らされる。
(闇音が来ないだろうか……)
 普段は主人に向かって毒も吐くし、扱いも丁重なものではない。だが彼がザックを見放したりすることはない。事実、彼は何よりも先にザックの安全を優先すると宣言している。
 しかしザックは闇音に何も言わずにここまで来た。闇音は自分が森にいるなど思いつくだろうか。
 胃がひっくり返りそうな吐き気が断続的に突き上げてくる。たまらず膝をついて、奥歯を噛み締めた。忌々しい事に雨は強くなるばかりで、しばらく止みそうにもない。頭の芯から冷やされているような感覚に、こめかみの辺りから意識が奪われていくようだった。
 雨音に紛れて、足音が近づいて来る。
(――最悪だ……)
 緊張に、胸が気持ち悪く焼ける。目を瞑り、苦しく、息を吐いた。
「見つけた……」
 ぞっとするほど、穏やかな声音。赤い瞳がこっちを見ている。
「鬼ごっこは終わりだ」
 ザックはゆっくりと立ち上がった。ずきんと頭が痛む。
 しかし、動きは遅くともザックは剣を構えた。飛竜の唇がにやりと歪む。
「俺はそんなに青い顔をされて手を出せないほど、優しい人間ではないぞ」
 ザックの鋭い瞳に臆することなく、飛竜は彼に近づいた。
「……寄るな。間合いに入れば、斬る」
 唸るように声を絞り出す。
 はったりではない。体調は悪くとも、間合い内で太刀筋を違えたりはしない。
 二人の身長はたいして変わらなかったが、木に背を預けている分、ザックの目線のほうが低かった。飛竜は自分を睨み据えるザックを見下ろした。
「いい目をしている。ますます、気に入ったぞ」
「……変態が」
 ザックは眉を寄せて、吐き捨てた。飛竜が片眉を上げて笑う。
「よく言われるな。何が悪いのか、俺はわからんのだが?」
 ザックが鼻で笑う。
「いらないことを口にするからだ」
 薄い笑みを浮かべて、飛竜はザックの元に足を進めた。
 息を呑み、目を細める。
 ぱきんと、枝を踏む音が響いた瞬間。
 ザックは剣の柄を握り締めた。銀の切っ先が弧を描いて、振り下ろされる。
 金属同士のぶつかる音が重く響いて、雨の中に消えた。

「――見事な一振りだ」
 ザックは目を見開いた。
 飛竜は袖から引き出した小刀で、彼の剣を受け止めていた。小刀の白い刃はわずかに欠けている。
「とても熱にやられているとは思えん」
 言いながら、小刀でザックの剣をさばく。普段ならそんなことは出来ないのだろうが、熱に冒されながらも放った渾身の一撃を防がれたザックの腕に、力は入っていなかった。支える物を失った剣の切っ先が地面に落ちる。
「俺は本来、魔術の方を得手としているが……。武芸は学んでおくものだな。おかげで一命をとりとめた」
 放心したように自分を見つめるザックを見、唇の端を吊り上げる。
「まあ、おまえが本調子なら、今ごろ俺の体は真っ二つだったんだろうな」
 飛竜はザックがもたれ掛っている、木に片腕をついた。もう一方の手でザックのあごを捕らえ、自分のほうに目線を向けさせる。
 そうして間近に捉えたザックの瞳が、淡い翠を含んだ黒であることに気づいた。その意外な美しさに、満足げな笑みを浮かべる。
 突如、雨足が激しさを増した。けたたましいまでの雨音に森中が包まれる。
 ザックは身震いし、たまらない嘔吐感に襲われた。頭の奥をえぐ抉られているような、痛みががんがん響く。脳みそが溶けてしまうんじゃないかというほど、熱があるのを感じるのに全身が寒さに震えた。
 飛竜の赤い目が真っ直ぐに自分を見下ろしている。だが、もう目を開けていることも辛い。頭がぼんやりして、自分が何をしていいのか、わからない。
 身体から力が抜け、握られていた剣が水を跳ねて地面に転がる。
 ずるりと滑ったザックを、飛竜は抱きとめた。見上げる黒い双眸は朦朧としている。
 飛竜は血のような瞳を細め、冷たい水の滴るザックの髪に指を差し込んだ。
「――これで、おまえをどうしようと、俺の勝手だな」
 雨音の中、耳元で囁かれた言葉に、ザックは抗うことが出来なかった。