翠の証 4

 シギルは眠っていたが、フレイムのドアを叩く音にすぐに目を覚まし、客室に赴いた。闇音もグィンも起きている。
 ザックは目を見開き、ゆっくりと体を起こした。現れた背の高い男に上から下へと目をやる。
「……シィ?」
 疑問形で呟かれた呼び名。フレイム達は直感的にそれがシギルの愛称なのだと悟った。シギルが涙を浮かべて、うなずく。熱でまだ動きが鈍い青年に近づき、その肩を抱きしめた。
「ザック」
 シギルの震えた呼びかけに、ザックは睫毛を震わせた。シギルの首に腕を回す。
「シィ……」
 透明な雫がザックの頬を流れる。
 フレイムも、闇音もグィンも声を出せず、黙って、その光景を見つめていた。闇音がフレイムの袖の肩口を握り締める。フレイムは闇音を見上げたが、その瞳はザックの涙を凝視している。無意識にフレイムの袖を掴んだのだろう。
 だがフレイムにもその気持ちはわかった。ザックがこんなふうに泣く人間だとは知らなかった。養父の厚い胸に額をあて、声もなくすすり泣いている。
 シギルが重く口を開いた。
「ザック……、私を許してくれるのか?」
 ザックは顔を上げ、真摯な面持ちで彼を見つめるシギルを見つめ返した。
「許すって……何を?」
 軽く首を傾げる。シギルは唇を震わせて、みるみるうちに涙を溢れさせた。
 他人の子とはいえ、十年間育てた子どもは、自分が彼をおいていったことを責めてはいなかったのだ。
 シギルはザックをきつく抱きしめた。首を捻りながらも、ザックはその抱擁を受け入れた。

 シギルが部屋を出ていったのは、ザックの熱がまた高くなり始めた頃だった。彼はこれ以上、負担を掛けるわけにはいかないと、ザックの額に接吻して、自室へ戻って行った。
 ザックはまた布団の中に寝かされた。だが彼はすっかり目を覚ましてしまったらしく、闇音が横に座って話し相手になっている。フレイムはベッドに横になってはいたが、二人のやりとりを聞いていた。グィンも起きていようと頑張ったが、今は一人で夢の中だ。
「シィは、俺と母さんと一緒に暮らしはしなかったが、生活費やら何やら全部、世話してくれた。母さんが死んでからは、俺を引きとって、面倒見てくれたんだ。読み書きも、家事も、なんでも彼に習った」
 闇音が柔らかい笑みを湛えて彼の話を聞いている。フレイムがためらいがちに口を開いた。
「ねぇ、ザックのお母さんてどんな人?」
 ザックは眉を下げて笑ってみせた。
「悪いが、覚えてない。父さんもな。どっちも俺の小さいうちにいなくなったからな」
 フレイムの瞳が罪悪感を覚えるを見て、ザックは優しい笑みを浮かべた。
「でも、すごい美人だったとは聞いている。島の人間じゃなくて、大陸の女だって。父さんもなかなか、色男だったようだな。海の向こうから嫁を連れてきたんだ」
 ザックはにやりと笑ったが、その額を闇音が軽く叩いた。
「父上に向かって、失礼なことを言うものじゃありません」
「褒めたんじゃないか」
 ザックが不服そうに訴える。フレイムがくすくすと笑うのを聞きとめ、ザックはわずかに眉をしかめた。
「……でも、その父さんも病気で死んだんだよな。生前は健康で、とてもそんなふうに死ぬ男には見えなかったって……。世の中、何が起きるかわかんないよな……」
 天井を見つめながら、ザックは静かに呟いた。
「あなたが寝込んでいるだけでも……。本当に、世の中何が起きるかわからないものです」
 闇音が嫌味に言うと、ザックがそうかもなと笑った。
 ザックは、あまり父母の死を悼んでいるようには見えない。人の死を理解するには、彼は幼すぎたのだ。
「母上はどうして……?」
 闇音が尋ねると、ザックはわずかに首を捻った。
「多分、母さんも病気で……」
 その様子に、闇音とフレイムが顔を見合わせる。
「よくわからないんだ。三歳の時の事なんてろくに覚えてないし。いちいち確かめるのも、なんだか気が咎めてさ……」
 ザックは笑みを浮かべて、続けた。
「でも俺、シィが優しくしてくれたから、もうそれだけでいいと思った。シィに、嫌なことは思い出してほしくないと思ったんだ」
 闇音が目を細めて、彼の髪を撫でた。
「幼い時は随分と素直で可愛らしかったんでしょうね。ザックは……」
「……どういう意味だよ」
「人は年をとるごとに純真さを失っていくんですよ」
 闇音は悟った者のように胸に手を当てて天井を見つめた。ザックが片眉を上げる。
「それは精霊にも言えるんじゃないか」
「失礼な」
 闇音が心外だと言うように、眉を寄せる。それから小さく息をついたザックの布団を、彼の肩まで掛けなおした。
「さあ、もう寝なさい。疲れたでしょう」
 そう言いながらザックの額に、熱を計るように手をあてた。闇音は目を伏せると、洗面器の中に放置されていたタオルを絞り、彼の額の上に置く。 
  「ああ、疲れた。もう、ぶっ倒れるのはご免だ……」
 気だるそうに答え、ザックは睫毛を落とした。静かな寝息が聞こえる。
「もう寝ちゃったの……?」
 ほんの数秒の事に驚いて、フレイムが小さな声で闇音を尋ねた。闇音が片目を閉じて、いたずらそうに笑う。
「ええ。さすがのザックも熱には勝てないようで……」
 フレイムは笑みを浮かべ、しばらくして寝息をたてはじめた。

 闇音はザックの寝顔を黙って見つめていた。
 白く長い指で、彼の唇に触れる。
 その様子を見ているのは青い月だけだった。
 背をかがめ、そっと唇を重ねた。

 マリーはジルが連れて来た、美しい女性だった。島の者は誰も持たない、金の髪。綺麗な声。優しい笑顔。
 島の男はみな一目で彼女に恋をした。しかし、彼女の瞳にジル以外が映ることはなかった。
 もう二十年も昔のことだ。
 シギルは眠れず、自室の椅子に腰掛けていた。脚の上で手を組み、窓から月を眺めている。
 ザックが、自分の前に現れた。彼は十三歳のときより、更に母親に似て育っていた。
 神を恨むべきか、それとも悪魔に感謝すべきか。
 シギルは深いため息をついた。何の為に彼の傍から離れたのか。
 月は死んだ女の横顔のように蒼白で、美しい。今も、目に焼き付いて離れないあの死に顔。白い花の様に、清楚で儚かった。
 シギルは片手で目を多い、きつく目を瞑った。
 彼女はあっけなく死んだ。たった一人の息子を残して。三年前に死んだ夫を追うように。
 ――いや、無理やり追わされたのか。