翠の証 3

 農夫の家は本人の言う通り、近くにあった。小さな庭があり、白い壁の二階建ての家だ。庭には物置だろう小屋があり、その前に植木鉢が逆さに二、三個置かれていた。彼以外に住人はいないらしい。
 農夫ははじめ二階へ上がり、客室のベッドにザックを寝かせてくれた。フローリングの客間は特に目立つ装飾はなかったが広く、ベッドが二つ置かれている。
「うん、ひとまずはこれでいいだろう。明日になっても熱が高かったら、医者に来てもらおう」
 農夫は洗面器に水を汲み、ザックの額に湿らせたタオルを置いた。
「何から何まで……、本当にありがとうございました」
 フレイムが深く頭を下げると、農夫は腕を振った。
「ああ、よしてくれ。そんな風に礼を言われると、くすぐったいよ」
 くだけた話し振りを初めて聞いたフレイムが、やや驚いたように眉を上げた。
「あなた……イルタシアの人ですか?」
 農夫のほうも驚いて、フレイムの顔をじっと見つめた。フレイムが思わず後ずさる。
「確かに私はイルタシア人だが、八年も前に国は捨てたよ。今はここに暮らすただの農民だ。なんで、君分かったんだい?」
 フレイムはほっと安堵の息をついた。八年前にイルタシアを出たのなら、フレイムの事は知らないだろう。
「訛りが少し……」
「ああ、そうか」
 農夫は納得がいったように笑い、フレイムたちを一階の部屋に招き入れた。フレイムと闇音はすすめられた席に腰を下ろした。板張りのダイニングキッチンで、男の一人暮しにしてはきれいに片付けられている。
 農夫は二人にお茶を出し、向かいの席に着いた。グィンにはエルフィンベリーを差し出す。
「自己紹介がまだだったな。私はシギル・マリン。君たちは?」
「……フレイム」
 フレイムはためらい、フルネームは言わないことにした。続けて、闇音とグィンもそれぞれの名をシギルに教えた。
「上の人は?」
 シギルは、指で天井を指した。フレイムが口を開いた。
「ザックです」
 その瞬間、シギルは凍りついたように固まった。三人が怪訝に思い、顔を見合わせる。
「……どうかしましたか?」
 フレイムがおずおずと尋ねると、シギルは弾かれたようにフレイムの顔を見た。
「あ、ああ、すまない。その……私はイルタシアの……グルゼ島の出身なんだ」
 シギルの口から漏らされた言葉に今度はフレイム達が驚かされる。グルゼ島はザックの出身地である。
「ザックって、ザック・オーシャンのことかい?」
 シギルの口調は夢のようだっと言っているようだった。フレイムは慌てて首を縦に振る。
「はい。ザック・オーシャンです」
「なんという……なんという巡り合わせだ……」
 低い男の声は祈りにも似ていた。片手で顔を覆い、天を仰いで首を振る姿にフレイム達は息を呑みこんだ。
 シギルはゆっくりと息を吸い、落ち着こうとしたが、その声は震えていた。
「私がザックを……彼を……育てたんだ」
 フレイムが勢いよく立ち上がり、座っていた椅子が倒れる。机に両手をつき、フレイムはまっすぐに男の目を見つめた。ザックと同じ黒い瞳。
「ザックの……お父さん?」
 フレイムの呟きに、シギルが慌てて首を振る。
「いいや、あの子は、ジルの……私の友人の子だよ」
 シギルは天井を見つめて言った。
「ジルが死んで、ほかに親戚のなかったザックの母とザックを私が養ったんだ。……そうか、あの子が……」
 シギルの目には涙が浮かんでいた。フレイムはもちろん、闇音もグィンもただ呆然とその涙を見つめていた。

 シギルの話によれば、ザックの両親は父がジル、母がマリーといった。父はザックが生まれて間もなく病に倒れ、母もその三年後に天に召されたと言う。その後ザックが十三歳になるまでの十年間、シギルが一人で彼を育てたということらしい。
 闇音もはじめて聞くことだったらしく、いくらかショックを受けたようで、何も言わず黙っていた。今は、フレイムの横に身を小さくして眠っているグィンの影に入っている。おそらくグィン同様、眠っているのだろう。
 フレイムは隣りで眠る黒髪の青年を見つめた。シギルの事をザックに教えようと三人は言ったのだが、シギルは首を振って、こう断わった。
「私は彼が一人で暮らせるようになると、彼をおいて島を出たんだ。捨てたようなものだ。今すぐには、会えない。せめて彼が目を覚ますまで、時間をくれないか……」
 彼の声には罪の意識があった。
 フレイムはベッドから出て、ザックの額のタオルを取り替えた。幾分伸びてきた前髪のかかる額はまだ熱い。
(ザックの育ての親……か)
 月の青い光が南向きの窓から差し込んでいる。
 夕食はシギルの手料理で、大変おいしかった。彼はとても親切で、明るい性格の男だった。ザックを育てたのは彼だと言われれば、確かに納得のいくところである。
 フレイムはザックの髪を撫でた。
(ザックは喜ぶかな……。それとも自分を置いて行ってしまった、あの人のことを怒っているのかな……)
 シギルはザックをおいて島を出た理由は話さなかった。フレイムもあえて追及しようとはしなかったが、胸が痛んだ。身よりもない状態で一人にされたザックはどうしたのだろうか。一人で生活できる基盤は出来ていたとはいえ、十三の子どもだ。少なからず、寂しい思いをしただろう。
 静かな寝息をたてるザックをフレイムは見つめた。思えば、眠っているザックをこんなふうにじっと観察するのははじめてだ。
 瞼を縁取る黒い睫毛は、普段の記憶よりもずっと長く感じる。無意識にフレイムはその目元に触れた。日に焼けた彼の肌は熱を帯びて、微かに汗ばんでいる。
 フレイムは傍にあった、シギルが予備にくれたタオルを濡らして、ザックの顔を拭こうとした。タオルを彼の頬に押し当てると、厚手の布から水が滲んだ。
「……ん」
 冷たい水が肌をのろのろと伝う感触に、ずっと閉じられていた瞼が重そうに持ち上げられる。
「……ザック?」
 フレイムは起こしてしまった罪悪感と、やっと目を覚ましてくれた喜びの入り混じった声で、その名を呼んだ。
「フレイム?」
 寝起きの掠れた声が、耳を撫でる。まだはっきりと覚醒していない様子で、ザックはフレイムを見上げた。それから、自分が目を覚ますきっかけとなった、頬を濡らした水を煩わしそうに拭った。
「……お前、もうちょっと……ちゃんと絞れよ」
 フレイムが手にしているタオルに目をやり、ザックはいくらか呆れた様子で呟いた。
 熱で潤んだ黒い瞳を見とめ、フレイムは思わず泣きたいような衝動に駆られた。しかし息を呑みこんで、堪える。
「ここは……宿か?」
 ザックはそんなフレイムの様子には気づかず、首を捻って部屋を見まわそうとした。フレイムは首を振った。
「近くを通り掛った農夫に助けてもらったんだ。その人の家だよ」
「そうか……。礼を言わなきゃな……」
 フレイムはじっと、ザックを見つめた。ザックはまだきつそうに息を吐いたが、フレイムの視線に気づき眉を寄せた。
「……何だ?」
 フレイムは口を引き結ぶと、声を落としてザックに囁いた。
「この家の持ち主はね、シギル・マリンさん」
 ザックは睫毛を瞬かせた。
「え?」
「……呼んでくるね」
 フレイムは立ち上がり、身を翻すと部屋から出ていった。
 ザックは閉められた扉を見つめた。
(シギル……?)
 その名は親しみのないものだった。