正月 3

 中空でぴたりと止まって、黒刀は目を凝らした。
(まさか、あたりか?)
 よれよれのコートを着て、マスクをつけた男が、山の裏手側にあるもう一本の道の辺りを歩き回っていた。何かを探しているのか、きょろきょろと周りを見回している。髪はぼさぼさでもう何日も櫛を通していないように見えた。
 男は山に入ろうとするわけでもなく、かと言って草むらを掻き分けて探し物をするわけでもない。はっきり言って挙動不審だ。
(見てる奴がいないかを探してるんだな)
 ほぼ確信して、黒刀は男に近づいた。そして哀れな男は背後に天狗がいることにも気づかない。
 誰もいないことを確認すると、男はコートのポケットからごそごそとライターとしわくちゃの広告紙を取り出す。それを見て、黒刀は姿を現した。もはやこの男が放火魔だということで間違いない。
「おっさん、寒い日にする焚き火にしちゃ、ちょっとばかり場所が悪いんじゃないか?」
 背後から声をかけられて、ぎょっとして男は振り返った。あきらかに神社の関係者だと分かる格好の黒刀を見るなり、更なる驚愕で顔を染める。
「なっ!? いつの間に!?」
「さっきからいたんだけどな。まあ、お前には見えてなかっただろうな」
 訳が分からないと言った様子で、男は眉を寄せる。黒刀は構わず男の手の中のライターを蹴り上げた。
「うあ!」
 男は悲鳴を上げ、ライターがその手から離れる。くるくると宙を舞ったライターを黒刀は片手で掴んだ
 蹴られた手を庇って背を丸める男を見下ろして、黒刀は腕を組むと、冷たい声で告げた。
「お前のせいで、俺は高嶺に八つ当たりされたんだよ」
 八つ当たりなどと言えば、松壱はそれこそ機嫌を損ねるだろうが、この場にいないならば問題ない。そして自分がしているのも八つ当たりと大して変わらないということは棚に上げて、黒刀はそのまま続けた。
「だいたい何だって火付けなんかやるんだ。どうせ付けるなら、コンロに付けて鍋でもしてろよ」
「……楽しいんだよ」
 男がぼそりと呟く。眉を寄せる黒刀に、男は濁った双眸を向けた。
「炎はいいよ。すべてに対して絶対的強者だ」
 生ぬるい風が足に絡んでくる。風は男のほうから吹いていた。
「お前……」
 相手の正体を悟った黒刀の妖気がゆらりと濃くなる。
「なあ、天狗だって例外じゃないんだぞ。炎には勝てないだろう?」
 男の声が二重にぶれる。黒刀は冷ややかに告げた。
「雑魚が何を偉そうに……。その体から出ろ」
 にやりと笑った男の顔が歪んだかと思うと、次の瞬間には地面に倒れている。
 代わりに陽炎のように揺らめく青白い坊主が立っていた。白と黒の簡素な服は僧特有のものだが、ひげを生やして下卑た笑みを浮かべるその男は破戒僧にしか見えない。
 まとう炎は地獄の炎だ。罰を受けながらなお、現世へ執着する男が妖怪へと変じたのだろう。
「やだねえ、火付けの楽しさが分からない妖怪は」
 しわがれた声でそう言って笑う妖怪を、黒刀は睨みつけた。

 神社の店番をしていた沖とユキは客足が途絶えて休憩しているところだった。
 茶を啜っていた沖が突然立ち上がる。側のユキがびくりと跳ねた。松壱もそれを見て、表情を険しくする。
 狐耳を生やして、気配を探る様子を見せた沖の青い双眸が山の裏手を睨んで止まる。
「どうした、沖」
 宮司の声に振り返り、沖はためらいがちに答えた。
「……妖気だ」
「何?」
 松壱が片眉を上げる。彼は霊力が高いながらも、霊的知覚能力の方はさほど高くない。妖気だと言われても、それがどの方向に感じられるのかが分からないのだ。それなりに近づかない限りは、松壱は妖怪を察知することが出来ない。
 沖は側頭部を撫でて耳を人間のものに戻した。目線を上げて松壱を見つめる。
「放火魔は妖怪に取り憑かれていただけだったんだ」
「……黒刀が見つけたのか、場所はどこだ?」
 問いながら、松壱は頭につけていた烏帽子を外した。
(行くなと言っても聞かないだろうな……)
 沖はため息をついた。
「……山の裏手道。言っとくけど、黒刀が応戦してるからね」
 だから行ってもムダだと言外に含めるが、松壱は意に介さなかった。
「構うか。そろそろ参拝客の相手も飽きてきたところだ」
「あ、それずるい。マツイチ!」
 宮司の思惑に気づいて沖もあとを追おうするが、松壱は極上の笑みでそれを制した。陽光に淡い色の髪が美しく輝く。
「あとは頼んだぞ、御狐様」
 唖然とする沖にじゃあなと告げて、松壱は狩衣姿のまま駆け出す。
 その姿が見えなくなって、沖はやっと我に返った。
「ああ、もう。俺だって……」
 と、走り出そうとした沖の袴を、小さな手が捕まえる。
 振り返って見下ろすと、今度は銀狐が小悪魔的な笑みを浮かべた。
「沖様は店番ですよ」
「そ、そんな……」
 訴えるまなざしを向けるが、ふるふると頭を横に振られ、沖はがっくりと肩を落とした。