正月 2

 売り子の格好のまま、黒刀は鳥居の上に立っていた。背中には黒い翼。今の彼は人間の瞳では捉えることは出来ない。
 腕を組んで紫がかった黒い双眸を細める。
(ようするに、近くで怪しい奴を探せばいいんだろ)
 沖は店番をしている。さすがに二人して抜け出せば、高嶺からの制裁は計り知れない。そこで店番に慣れている沖が神社に残ることになったのだ。一応ユキも呼び出している。不機嫌な沖を避けていた彼女であるが、その原因を始末するための呼び出しであるならばと思ったのか、素直に出てきた。
(……というか、なぜ俺がこんなことをしなければならないんだ?)
 揺草山の山神によって生み出されて六百年余り。自分なりに山を守ってきたつもりだ。
 しかし、四百年前に沖が高嶺神社にやってきた。高嶺が「御狐様」を祀るようになってから、山の天狗としての威厳は失われている。そのうえ、小間使いのような真似をしているとあっては、己のありようにため息が零れる。
 神社のお守り売りに座っている天狗など聞いたことがない。少なくとも、自分は聞いたことがない。
(高嶺は人使いが荒い)
 高嶺――松壱のことは彼が生まれたときから知っている。
 何があって、ああいう性格になったのかは。
(分からないでもない)
 黒刀は組んでいた腕を外すと、ゆっくりと下界を見渡した。
 灰色の居住区とせわしなく動く車、地平線はかすんでいる。都会とまでは言わないが、間違いなく人間達によって開発されてきた町だ。
 そのなかで揺草山だけは遥か昔から変わっていない。
 自分と、そう、自分だけではなく、高嶺一族もまた山を守ってきたからだ。
 黒刀は息をついて、頭を掻いた。
(不審人物……ね)
 鳥居を蹴り、宙に舞う。
 沖は揺草山及びその周辺に放火魔がいるはずだと言った。気配がする、と。
 もともと玄狐の一族は高い妖力を誇る妖狐の一族だ。そのうえ沖は高嶺神社のご神体として祀られたことにより、飛躍的にその能力を伸ばしている。
 特に神社を中心とする揺草山一帯は沖の妖力で覆われているのだ。何か異変が分かればすぐに彼に伝わる。
(だからと言って、放火魔かどうかまでは分からない……と)
 主従揃って人使いが荒い。そう思いながら、黒刀は山肌に沿って滑空していった。

「黒刀はどうした?」
 先ほどまで黒髪の青年が座っていた場所に銀狐を見つけて松壱が眉を寄せた。参拝者はピークを過ぎ、ひと段落着いたところだが、まだ暇だというには無理のある状況である。
「ああ、ちょっと用事だって」
 沖は笑う。その笑みに胡散臭さを覚えて松壱は眉間のしわを深くした。
「用事か。で、どんな用事を頼んだんだ?」
 ぎくり、と動きを止めた狐を冷ややかな双眸が見下ろす。
「くだらない用事で労働力を手放したんじゃないだろうな?」
「く、くだらなくなんかないよ!」
 沖は声を大きくして松壱のほうに身を乗り出した。
「山の周辺でおかしな気配を感じるから、それを確認しに行ってもらったんだ」
「……おかしな気配?」
 表情を変えた松壱に、沖は頷いてみせる。
「悪意に近いんだ……」
 二人のやり取りを見ていたユキが口を挟んだ。
「……もしかして、噂の放火魔ですか?」
 沖はユキのほうを振り返って、首を縦に振った。
「確信は出来ないけど、そういう可能性もあると思ってる」
 そして背筋に冷気を感じて肩をすくめる。ユキもぴたりと動きを止めた。沖は恐る恐る背後を振り返ってみた。そして後悔した。
 松壱が笑んでいる。
 商売用の笑みでも、沖たちをバカにした笑いでもない。凄絶、そんな表現のあう笑みだった。
「……揺草山(うち)に火をつけようとは、随分と豪気な放火魔だな……」
 その言葉に足がすくむ自分に、沖は気づいた。
 この山で一番恐ろしいのは、風と雷を操る烏天狗でも、大鬼すらも打ち倒す妖狐でもない。信じがたいほどに高い霊力を有する、この宮司である。
「……あー、マツイチ、放火魔じゃないかも……しれないから、ね」
 沖は両手で押さえるようなポーズをしながら、なんとか笑顔を作ってみた。
「……そうだな」
 頷きながらも、ブラウンの瞳に浮かんだ光は冷え冷えとしている。沖は貼り付いた笑顔に冷や汗を浮かべた。
(火に油を注いだのかも……)
 松壱には高嶺神社の宮司として、揺草山を守ろうとする意思がある。自分の進みたい道を選んでいい、そう言った先々代に彼は首を横に振って見せた。進みたい道は祖父の歩んできた道だ、と。
 そんな松壱がとりわけ不機嫌だった日に、山に火を放とうとする者がいるのだと聞けば、どう考えるかは想像に容易(たやす)い。
 沖は松壱を見た。
(……なんで宮司を継ごうなんて思ったんだろう)
 高嶺神社の宮司になるということは、すなわち沖の主人になるということである。人外の領域との交わりとなるのだ。もちろん霊力の低い者には務まらない職である。
(自分の力を自分が一番疎(うと)んでるくせに)
 それでも、守りたいものを守るためならば――。
(それがマツイチの強さ、かな)
 黒刀は放火魔を見つけたら、すぐに対処してくれるだろうか。沖は空を見上げて、天狗の気を探ってみた。変化が見られないことからすると、彼はまだ山を探索しているのだろう。
「ありがとうございまーす」
 嬉々とした高い声に沖ははっと我に返った。横に視線を転じると、ユキが若い女性に紙袋を渡しているところだった。
「ぼけっとしてないで、沖様も手を動かしてくださいよー」
 こちらを振り向いて、ユキは唇を尖らせた。沖が思わず苦笑する。
「正月ばかりはさすがのユキもマツイチの味方をするんだな」
「仕方ないじゃないですか。ユキはお蕎麦もお雑煮も食べちゃったんですからー」
 働かざる者喰うべからず。雑煮を頬張っていた子狐と天狗に発した松壱の一言である。二人は箸を持ったまま固まっていた。
 毎年繰り返されるその一場面を思い出し、沖は眉を下げた。
(学習能力がないと言うかなんと言うか……)
 それとも、それでも食べずにはおれない松壱の手料理のなせるわざか。
 沖の表情を見てユキは頬を膨らませた。
「あ、沖様、ユキのことしょうがないなーって思ってるでしょ。沖様なんかお蕎麦の油揚げ二枚も食べちゃったくせにー」
 沖は両手を上げて降参の意を示した。
 そして松壱を視界の端に入れながら、笑顔で答える。
「分かったよ。しっかり働かせていただきますとも」