正月 4

 青白い炎が矢のように飛んでくる。
 黒刀は呼び出した錫杖でその炎を横薙ぎに消し払った。
「おおー、やるねー! さっすが天狗様だ」
 手の平に新たに炎を作り出しながら、坊主の姿をした妖怪――火餓坊(ひがぼう)というらしい――は笑う。手裏剣を飛ばすようにして、火玉を黒刀に向けて撃つ。
「狐に山を取られても、さすがは山神の従者だ。強いねえ!」
 嘲りに黒刀は眉根を寄せた。怒りを錫杖を握る手に込め、一閃で炎を消す。
「取られてねえよ。貸してるだけだ」
 反論する黒刀の上を風が走る。静かな声が彼の耳を撫でた。
「借りてなどいないぞ」
 暗い山道にはっきりと見える狩衣が宙で舞い、放たれた蹴りが火餓坊の頭を直撃した。
「ぐうっ」
 一瞬白目をむいて、火餓坊がよろめく。
「高嶺!?」
 地面に降り立つ宮司に驚いて、黒刀が声を上げる。
「何をしに来たんだ!」
 叱り付ける天狗に、立ち上がった松壱は冷めた視線を向けた。そしてしれっと言い放つ。
「ストレス発散」
「なっ!」
 松壱はうるさいとでも言うように明るい色の双眸を細めた。黒刀がぐっと押し黙る。
 その横で立ちくらみから脱した火餓坊が歯を剥いた。死人色の体が陽炎のように揺れている。
「人間ごときが……」
 体の小さな坊主を松壱が見下ろす。
「どうにも傲慢なくせに狡賢そうな、卑屈を背負ったような顔だな。――醜い」
「きさまっ!」
 青いはずの妖怪の顔が赤黒く染まったように黒刀には見えた。
(それにしても、やはり口が悪い)
 ちらりと松壱に視線を移す。なまじ端正な顔の持ち主だけに、彼に嫌味を言われると腹が立つことこの上ない。
「その格好、神社の神主か」
 火餓坊は茶髪の青年を睨み上げながら、片手に炎を宿した。
「人間が妖怪の戦いに手を出せば、火傷だけではすまんぞ。それを、教えてやろう」
 松壱は口元に薄い笑みを浮かべた。
「俺を凡人と同じにすると、自分の火で身を焼くことになるぞ。懇切丁寧とは言わないが、授業料がもらえる程度には教えてやろう」
 火餓坊がかっと目を見開く。まさに火に油を注ぐとはこのことだ。
 黒刀はため息をついて、頭を掻いた。
「高嶺、あんまり煽るなよ」
「分かってる」
(分かってない)
 振り返らずに答える松壱にもう一度ため息をつく。そして銀色に燃え上がる霊力が黒刀の目に映った。
(大したものだ)
 思い出すのは初代高嶺、名は松韻(しょういん)といった。黒刀の覚える限り、松韻は人間の中では最高の術者であった。四百余年、その力は衰えることなく脈々と受け継がれている。
(まあ、使い物にならない奴もいたりしたけど……)
 先代高嶺は十分に力を持っていた。松壱はその力をしっかり受け継いだようだ。
 その先代高嶺のことを思い出し、唇を歪める。
「食らえ!」
 火餓坊のしゃがれた声が耳を打ち、黒刀は顔を上げた。
 複数の妖火が松壱を襲う。松壱は袂を翻しながら、宙に何か描くかのように腕を振った。パパッとその軌跡が光り、浮かび上がった陣が飛んでくる炎を打ち消す。
 ぎょっと目を丸くする火餓坊を一瞥し、松壱は指先でその陣を撫でた。明るい瞳は更に輝きを増し、内側で光を弾いているようにも見える。
「反拍」
 ぐるりと円が右に半回転し、先ほど自身に放たれたものと同じ炎を吐き出す。ゆらゆらと青い火玉。
 ついに火餓坊は声を上げた。
「なっ、ちょ、ちょっと待てー! お前、人間のくせに術を使うのか?!」
 きょとんと、松壱は両手をこちらに向けて待ての姿勢をしている妖怪を見た。
「お前も元人間だろう?」
「今は妖怪だ!」
 さらに松壱は答える。
「俺は人間だ」
 火餓坊は唾を飛ばしながら声を荒げる。
「だから! なんなんだ、お前! 人間で術を使える奴なんか今はもうほとんどいないんだぞ! それを見るからにまだ人生の半分も生きてないようなお前が、なんで使えるんだ!」
 松壱が眉間に皺を刻むのを見て、黒刀は小さく苦笑した。
 確かこの高嶺神社宮司は今年二十一を数えるはずだ。現在の日本人の平均寿命を考えれば、半分というのは明らかに多すぎる。
(火餓坊から見れば、童だということなんだろうが)
 どちらにしろ、松壱にとっては癇に障る言葉だっただろう。
「……飛拍」
 ぽつりと。
 宮司の呟きが漏らされた瞬間、それまで宙で静止していた火玉が火餓坊を目指した。
 ぎゃっと悲鳴を上げて火餓坊が飛び上がる。が、火の妖怪だけあってそこは無様に焼かれたりすることはない。
 彼が悲鳴を上げたのは松壱に対してだった。人差し指を突きつけ、叫ぶ。
「滅茶苦茶だ! ああもう、おまえ滅茶苦茶だよ! こんな人間がいるなんて聞いてない!」
 松壱は腰に手を当てて、大仰にため息をついた。
「これくらいで慌てるな。せっかく遊びに来たのに興が醒めるじゃないか」
 火餓坊は両の拳を震わせた。
「だーっ、俺は遊びに来たんじゃないぞ! 火の妖怪としてのアイデンティティを行動に表しに来たんだ!」
(火付けは楽しいという発言をしていた気がするんだが……)
 黒刀は内心でそうツッコミを入れつつも、二人を静観しようと思った。この不毛な言い争いにあえて身を投じる気はない。
 が、その望みは断ち切られた。相手の言葉に興味を持ったらしい松壱が首を傾げる。
「今どき妖怪もアイデンティティを気にするのか。黒刀はどうだ?」
 話を振られて黒刀は組んでいた腕を緩めた。
「……えーと」
 表情を曇らせた黒刀に、思わず火餓坊が助け舟を出す。
「ああ、だんなあ、アイデンティティは自己同一性って言ってな。自分の存在を自覚……まあ、自分はこのために生きてるんだって言う気持ちのことだよ」
「そんなことは知っている」
 格下の妖怪に丁寧に、しかもなぜか親しげに説明されて、黒刀はむっとして言い返した。そして呆れている松壱を睨む。
「白い目で見るな。だいたい俺の存在意義はお前が食いつぶしてるだろうが」
 黒刀の役割、それはこの揺草山を守ることだ。
 そもそもアイデンティティについてすぐに返事が出来なかったのは、下手な言葉では松壱に揚げ足を取られると思ったからである。
 松壱は不本意だというように唇を曲げた。
「お前の存在意義を脅かしてるのは俺じゃなくて、沖だろう」
 しゃあしゃあと自分が奉るべきご神体に責任転嫁をする宮司に、黒刀も火餓坊も思わず口を閉じた。