一条の銀の光 16

 深い青の海が陽光を眩しく弾く。空とつながる水平線からは白い雲が湧き出ている。
 美しい海。小さな港に座り込んで、ザックはきらめく海面に目を細めた。
 ふと、背後から足音が聞こえてくる。軽快でリズミカルなそれは少女のものだ。ザックは振り返らず、駆けてくる足音を待った。
 誰なのかは分かっている。
「ザーック!!」
 涼やかな声の主はそのままザックの背中を突き飛ばした。

「どわあっ!!?」
 体が宙に放り出された感覚に、ザックは思わず悲鳴を上げた。
 しかし続いて彼を襲ったのは塩辛い海水ではなく、抱きしめてくる少年の腕だった。
「ナ……いや、フレイム……?」
 夢に現れた少女と混同しかけながらも、ザックは少年の名を呼んだ。
 少年は答えない。ただザックの首にしがみついて離れようとしないだけだった。
「おはようございます。気分はどうですか」
 頭上から聞きなれた低いトーンの声が降ってくる。ザックは首をかしげてそちらを見やった。
 朝の彼らしくない穏やかな表情を浮かべた闇音がこちらを見下ろしている。
「ん……、苦しい」
 相変わらずのフレイムをザックは目線で示してそう訴えた。闇音が笑みを浮かべる。
 変だ。直感的にザックはそう思った。闇音も、フレイムも変だ。
 自分はまだ、夢の中に居るのだろうか?
 そう思い、現実のことを反芻しようとして。
「いっ……てぇー」
 起きてからずっと腕に鈍い痛みがあったことを、今更ながら理解した。
 青年が痛みを訴えてはじめて、フレイムは驚いたように腕を放した。
「ご、ごめん」
 そう言って顔を上げた少年は、泣いていた。ザックはぎょっとして、起き上がり――何故かひどい眩暈がしたが――、フレイムの腕を掴んだ。
「どうしたんだよ?」
 するとフレイムの方こそ驚いた顔をして、青年を押し倒そうとした。
「だめだよ、起きちゃ。まだ寝てないと」
「え? な……?」
 疑問を発しようとして、頭の奥がぐらりと揺らいだ。目の前が白くなる。
 気づいた時には、また仰向けに寝転んでいた。
「血が足りないんですよ」
 闇音が冷めた声で、ザックに告げる。
「……なんで?」
「あなたが秘密主義だからです」
 訳のわからない返答と、ついでに少し離れたところでくすくすと笑う声が聞こえた。
 見ると、茶髪の知らない男が立っていた。真っ白い長衣を羽織ったその人物は、一見して誰でもわかる「回復系魔術師」、いわゆる「医者」である。手には白い紙――誰かしらのカルテ――を持っている。
 柔らかい笑みを浮かべたその人物がザックの傍に歩み寄ると、闇音もフレイムも一歩離れた。
「気分はどうですか?」
 医者が話し掛けてくる。
 これは。この構図は、まるで自分は患者ではないか。
 ザックはじっと茶髪の男を見上げた。
 訝しい表情で自分を見つめる青年に、暁は優しい笑みを浮かべた。
「私は医者です。見てのとおり。そして患者はあなたです。自覚はありますか?」
「ない」
 即答であった。
 フレイムと闇音が顔を見合わせる。若い医者はかまわず続けた。
「でも腕は痛むし、眩暈がするでしょう?」
「でも……」
 眉をしかめるザックの額に暁が手を添える。
「熱もあります」
 触れた手がひんやりとして感じられ、ザックはわずかに睫毛を伏せた。
 自分は本当に患者なのか。昨日何があったのか。思い出そうとしたが、思考することがだるくてうっとおしい。
「……なんだっけ? 思い出すのがきつい」
 ゆっくりとため息をつくような口調で訴える。暁は首を振った。
「無理をしてはいけませんよ」
 穏やかな青い瞳。
 ザックは夢で見たきらめく海を思い出した。
(相当……、まいってるよな。あんな夢を見るなんて)
「ああ……」
 睫毛を伏せてうなずく。
「疲れましたか?」
 暁がたずねるとザックは目を開けた。黒い瞳はしばらく宙を泳いでいたが、やがて医者の前で静止した。
「疲れて……、何もしたくない気分だ」
「いいですよ、眠っても」
 ザックはフレイムと闇音に目をやったが、しかし何も言わずに瞼を落とした。
 暁はもう一度ザックの額に触れ、それから残りの二人を振り返った。
「出ましょうか」
 手にしていたカルテをわきの下に挟みながら首を軽く傾げて見せる。闇音はしばらくザックを見つめていたが、やがてうなずいた。
 フレイムはうつむいたまま、服の裾を握り締めた。
「何もしないから……、傍にいてもいいですか?」
 闇音はその手が震えていることを見とめ、暁のほうを見やった。暁が小さく肩をすくめる。
「あとできちんと朝食を食べに来てくださいね」
 そう言うと、フレイムは表情を明るくして顔を上げた。
「はい!」
 年長者二人は顔を見合わせ、お互いに微笑むと部屋をあとにした。その扉が閉まるのを見届けて、フレイムはベッドの横に置かれているいすに腰を下ろした。
 目の前にまるで人形のように動かない青年の寝顔がある。フレイムはわずかに眉を歪めた。
 気を抜けば、また泣いてしまいそうだった。
 息を深く吸い込んで吐き出し、落ち着いてまたザックを見下ろすと、黒い双眸がこちらを見ていた。
「あ、え? 寝てたんじゃないの?」
「寝ていいとは言われたが、寝るなんて誰も言ってねぇよ」
 思いがけない返答にフレイムは小さく動揺して、肩を緊張させた。
 まさか二人っきりになるとは思っていなかった。これからその心の準備をする予定だったのに。
 困ってうつむいていると、やがてザックが小さくため息をついた。
 怪我をしていないほうの左手を自分の額に乗せる。
「ああ〜、なんていうか本当に血が足りないんだな。実感」
 相手はまたっく緊張していないことを悟り、フレイムはいくらか気後れした。
「貧血とか、なった事なかったんだけどな」
「……すごい出血だったって、闇音さん言ってたけど? 貧血どころの問題じゃないんじゃない?」
 フレイムはやっと口を開くことができた。
 ザックがそのガラス玉の瞳を見上げる。綺麗な翠を刷いた黒い瞳に真っ直ぐに見つめられて、フレイムは思わず目をそらした。
 それを拒絶だと判断したのか、ザックは顔をそむけた。
「……まだ、怒ってるのか?」
 やがて苦い口調で漏らす。
 フレイムは唐突な問いに目を瞬(しばた)いた。
「え?」
(怒ってる? 誰が?)