一条の銀の光 15

 闇音は夜空を見上げた。青い月が、無表情に見下ろしている。
「……どうして……」
 自問するような、詰るような呟きが漏された。

「まだ会うのは待ってちょうだい」
 フレイムが目を覚ましたのは、月が天頂に昇ったころだった。すべてを聞いて彼はすぐにザックに会いたいと訴えた。それに対する回答がこれだった。
「どうしてですか?」
 半ば泣き出しそうな声で、フレイムは雪に詰め寄った。雪が困ったように眉を下げる。
 返り血だと笑ったザックは、今は雪の後ろの扉の向こうだった。腕に重傷を負いながらも、それを隠し、神通力の結界を破ろうとした結果、出血はひどくなっていた。
「治癒魔術を使うのは集中力がいるの。お医者様が一人にしてくれというのだから、仕方がないわ」
 雪はできるだけ声音を優しくして、少年を諭した。フレイムのガラス玉の瞳が翳(かげ)る。
「……ザックは大丈夫なんですか……?」
 うつむいて、小さな声でたずねる。雪はそっと少年の肩に手を置いた。
「信じて」

 フレイムは一人、部屋に戻った。
 ベッドに身を投げてつっぷする。
 けんかしたままだったのに。謝らなくてはいけないと思っていたのに。
「……なんで」
 溢れてくる涙は生ぬるいばかりで、何も癒してはくれない。
 外は静かだった。風もない。無口な月だけが空にある。
 そんな絶対的な静寂の中で、フレイムは咽喉(のど)をあえがせた。また自分のせいでザックが傷を負ったかと思うと、胸が張り裂けそうだった。
 自分は彼の枷でしかないのか。
 誰もいない部屋で、フレイムはただ自分を責めた。

「暁(シャオ)……」
 雪はその医者の名を呼んだ。淡い茶髪の青年が振り返る。勤務時刻を過ぎていながらも、話を聞くと飛んできてくれた医者だ。
 彼の前にはベッドがあり、そこに黒髪の青年が横たわっていた。
「終わった?」
 自分の恋人でもある、その茶髪の青年に雪は静かに歩み寄った。
 青年の表情は戸惑いと不安が浮かんでいた。
「暁?」
 雪は首をかしげた。暁は医師免許を持つ上級の回復系魔術師である。彼に癒せない傷はほとんどないはずだ。
「……雪、この人は一体……?」
 暁のその微妙な表情には畏怖の念がこめられていることを雪は悟った。
「……彼は癒せない」
「どういうこと?」
 思わず雪は声を大きくした。暁が眠ったままの青年を見下ろす。
「もともと竜や天馬のような高次魔力を持つ生物には、人間の魔力は効かないんだ」
 何の話を始めたのか、雪は訝しげに眉を寄せた。
「だから、そういった生物を専門に治療する医者は魔術は使わない。古代の魔術がなかったころの技が用いられる。僕はそういう医者じゃないけど、その技も一通り修学しておかなければならない」
 青年はそっとザックの右腕に巻かれた包帯に触れた。
「まさか人間相手に使う日が来るとは思ってなかった……」
 雪はすがるように暁の顔を覗き込んだ。
「どういうことなの?」
 暁はその青い瞳を曇らせた。
「彼には治癒魔術が効かなかった。彼は本当に『人間』なのかい?」
 雪は瞳を大きく開いたまま、暁の顔を凝視した。

 雪に呼ばれたのは闇音だった。
 フレイムより先に伝えたい事があると言われ、闇音はザックが運び込まれた部屋に招き入れられた。
 寝台の上、腕に白い包帯を巻いた主人の姿があった。未だに顔色は良くないが、きちんと処置を施された姿は意外と大丈夫そうにも見えた。
「話とは?」
 少しの安堵を覚え、闇音は医者を振り返った。雪は部屋の隅の椅子に腰掛けてうつむいている。彼女は話をする気はないらしい。もとより、日も傾きかけたころから、彼女は闇音たちのためにせわしなく動いてまわっていた。うつむいて見えるのは、案外眠りかけているのかもしれない。
 茶髪の医者は闇音の横に並んでザックを見下ろした。
「僕にできる範囲での処置は済ませました。明日の朝にでも目が覚めれば、もう何も心配はないでしょう」
 その言葉を聞いて闇音は今度こそほっとした。
 しかし暁の表情は険しかった。ザックの右腕をじっと見つめている。
「……失礼なことを言うかもしれません」
 ためらいがちにそう口を開く。
 唐突な台詞に闇音は眉を寄せた。雪の親しい者だという、その青年の横顔を見やる。
 ゆっくりと暁は闇音のほうを向いた。
 ゆっくりと紡がれた言葉に、闇音は目を見開いた。

 無慈悲な月が夜とともに自分の塒(ねぐら)へと帰り、かわりにまばゆい太陽が大地を照らし始めたころ、フレイムは闇音に起こされた。グィンも疲れきった表情ながら闇音の傍にいた。
「ザックに会いますか?」
 闇音は静かな口調でそう言った。
 ガラス玉の瞳が大きく揺れる。
「まだ意識は戻っていませんが、それもじきでしょう」
 フレイムは言葉の途中で闇音の腕を掴んで答えた。
「会いたいです」
 闇音が静かにうなずく。
「では、あちらへ」
 促す闇音について、フレイムは部屋を出た。
 昨日は立ち入ることを拒まれた扉が、彼の目の前で開かれる。
 フレイムははやる動悸を抑え、一歩踏み入れた。