赤き魔女の封印 3

 唖然とする黒髪の弟子に、ウィルベルトは悲しげに微笑む。
「二度と会いたくなかったよ」
 ディルムはその背後に下がった。
「だが、陛下から直々に命が下った。ザック・オーシャンを捕らえて来いと。……見逃してやるつもりだったが、そうもいかなくなってしまったらしい」
 ウィルベルトは腰の剣を指先で撫でた。
「逆らわなければ、無傷ですむ。王都に帰ってからは、私も王に慈悲を乞う。おとなしくしてくれ」
 それまでただ聞いているだけだったザックは、眼差しを鋭くした。
「偉そうに……見逃して、やる、だと?」
 闇音はザックの心情はよく分かった。彼は関所で師に「見逃してもらっていた」のだ。
 そんなことを甘んじて受け入れる青年ではない。
 瞳を剣呑に輝かせる弟子に、ウィルベルトは変わらず静かに告げる。
「おとなしくした方が身のためだ。私も一度は弟子にした者を傷つけたくはない」
 ザックは腰を低くした。
「俺は捕まるわけにはいかない。……あんたを倒してでも」
 ここで捕まれば、おそらくイルタス王はフレイムを捕まえに乗り出すだろう。彼を庇う忌々しい剣士がいなくなるのだから。ただ、今は、ネフェイルがいるから、自分がいなくともフレイムは平気だろう。
(逃げるべきか……?)
 捕まらずにすむなら、それが一番いい。
 だが――、だがしかし、目の前に凄腕の剣士がいる――!
 戦いたい。
 一種の高揚感が意志を制する。ザックは剣を抜いた。
 戦う意志を見せる青年に、深海の双眸が細められる。ウィルベルトは自分の剣に手をかけた。
「自惚れるな。お前の剣では私は倒せない」
 ザックは奥歯を噛んで言い返す。
「そんなの分からないだろう。あんたと最後に手合わせしたのはもう十年も前だ」
「たった十年だ」
 静かに、しかし鋭く吐かれた一言にザックが息を呑む。ウィルベルトは続けた。
「十年でその差が縮まるほど、スフォーツハッド家の剣技は惰弱ではない」
 音もなく、金の鞘から一本の剣が抜かれる。
 何の変哲もない無感情な刃。
 だが、ザックはその刀身に身震いがするほどの恐怖を覚えた。
「……なんだ、その剣……」
 思わず問う。
 片手でその白い剣を持ち、金獅子の剣士は答える。
「魔法剣アレス」
 ザックは目を見開いた。
「……魔法剣……」
 剣と魔術が支配するこの世界で、最も強力な戦闘力を誇り、また最も使い手の少ない武器。刀身に宿した精霊に寄り、様々な奇跡を起こす剣である。そして、今からその使い手に試合を申し込みに行くところだった。
「抵抗するな、ザック。傷を負わせたくはない」
 抜き身の剣を手にしてなお、ウィルベルトは忠告する。
 ザックは思わず笑った。
「そんなに嫌なら、あんたが諦めろ。俺は引かない」
 ウィルベルトは目を閉じた。
「残念だ」
「……お互いにな」
 神経を研ぎ澄ませて集中する。ザックは相手の武器をじっと見つめた。
 勝てるだろうか。
 金獅子の剣士に。魔法剣士に。かつての師に。
 炎のような赤い髪を風が撫でた。青い双眸が開かれる。
「来い」
 ザックは地面を蹴った。
 手抜きは出来ない。初手から全力でいく。
 あっという間に間合いが詰まる。ザックは剣を振り上げた。
 青い青い瞳。二対の海が異様なほど静かにこちらを見返す。
 視界の端でウィルベルトの手が軽く剣を振った。
「……っ!?」
「ザック!」
 闇音の声が耳を打ち、凄まじい衝撃が身体を打つ。ザックは後方に吹き飛ばされた。
 地面で背中が擦れ、やっと止まってからザックは目を瞬いた。あれほどの衝撃にもかかわらず、たいした痛みはない。
 自分の身体を見下ろすと、血が出ていなかった。切れていないのだ。
 ウィルベルトは青白く輝く剣を構えなおした。
「アレスは衝撃波を生む魔法剣だ。それで切ることも出来る。だが、今は必要ない」
 生け捕りにせよ、ウィルベルトは指令の内容を口にした。
 また、「生け捕り」か。ザックは顔をしかめた。シェシェンの街でもガンズにそう言われたのだ。
 だが、そのガンズにはかろうじて勝つことができた。
(勝てなくても、逃げ延びるくらいはしないとな)
 ナキアに帰ると約束したのだ。
 ザックは立ち上がり、しっかりと剣を構えた。
 ――なんて美しい剣だろうか。
 ディルムは戦いの横で、じっとアレスを見つめた。
 その射程距離はゆうに五十メートルにも及ぶ。一対多数を得意とする魔法剣だ。先の大戦で敵の軍勢を薙ぎ払い、使い手を初代金獅子団長にした剣である。
 衝撃波を生むとき、剣は最も青く輝く。剣に宿る軍神の覇気だ。
「いい剣だねえ」
 背後からねっとりと響いた声に、ディルムはぞっとして振り返った。
 蛇のような目つきの男がそこにいた。確かに最初から近くにいたはずだが、いつ側まで来たのかディルムは気づかなかった。エルズ・キセット。金鷹の副団長補佐を務める男である。
 ウィルベルトが魔法剣を使えば、その魔力の波動により、スウェイズにいるという大魔道師を引きずり出してしまう可能性がある。そこで魔力の波動を漏らさないようにする結界を張るのが、エルズの仕事であった。
「僕はあの剣が大好きだ。炎の剣士が扱う軍神……」
 うっとりとエルズは呟く。
 ウィルベルトがそうであるように、ディルムもこの男が苦手であった。
「そうです。スフォーツハッド様があの剣を抜かれたからには、あなたがお手を煩わせる必要はありません」
 手を出すな、そう言外に言う少年に、エルズは細い目をさらに細くした。
「ふむ、あの黒髪の剣士についてはそうだろう」
 そう言って、枯れ木のような指をザック、その横に向ける。
「あの黒い男……あれは精霊だね。影の上級精霊だ。ご覧よ、あの眼差し」
 ディルムも闇音を見やる。そして息を呑んだ。エルズはくつくつと笑った。
「怖い目だ。彼は主人を守るためなら、スフォーツハッド君を殺そうとするだろう」
 ディルムは拳を握った。
「スフォーツハッド様がたった二人に負けるはずがありません」
「そうだろう、そうだろうねえ」
 エルズは笑みを絶やさない。ただその笑みは変化する。可笑しがる様なものから、ひやりとしたものに。
 ディルムはエルズから離れるように横にずれた。彼の笑みは気味が悪い。獲物を一飲みにしてしまう、そんな深さを持っている。
「問題はない」
 彼は白いローブを揺すって一歩前に出た。
「彼は僕が処分しよう」