赤き魔女の封印 2

 ザックは愛用の長剣を腰に差し、靴のつま先を叩いた。
「じゃあ、行って来るよ」
「いってらっしゃーい」
 グィンが手を振る。フレイムは魔術書から顔を上げて、同じように手を振った。
「交渉、上手くいくといいね」
「ああ」
 頷いて出て行くザックとそれについていく闇音を見送っていると、ネフェイルが現れた。食事のときの話は彼も聞いていたはずである。二人の背を見て、ネフェイルはぽつりと呟いた。
「出掛けたのか」
「うん。何か買い物でも頼むことあった?」
 問うと、ネフェイルは首を振った。
「いや、最近、どうも力のある者がリルコに来ているようでな。少し気になっているんだが……。まあ、シヤンまで行ってしまえば、聖域だ。問題はないだろう」
「……力のある者?」
 フレイムが首を傾げる。ネフェイルは窓の外を見やった。
「ああ、イルタシアの政治犯がリルコに逃亡して来たらしくてな。それを捕らえる為に金獅子が出張ってきていると聞いている」
「金獅子……それってウィルベルトさんじゃ……」
「ウィルベルト?」
 思い当たって口元に手をやる弟子に、ネフェイルが聞き返す。フレイムは顔を上げた。
「あ、うん。ウィルベルト・スフォーツハッド。関所のところでお世話になった人なんだけど、ザックの剣の師匠なんだって」
「……そうか」
 ネフェイルはそう言って視線を下げた。
(スフォーツハッドか。どおりで強い力を感じるはずだ)
 スフォーツハッドといえばイルタシアでも地位のある貴族だ。代々、金獅子に剣士を輩出している剣術の名門である。
(それがマリー嬢の息子の師匠とは……何の因果だろうな……)
 ジル・オーシャンはウィルベルトの先輩に当たるだろう。
 それが「運命」というものか。
 たわいもない悪戯だ。
 ネフェイルは目を閉じると、気持ちを切り替えるために首を振った。それから再び顔を上げ、フレイムを見る。
「では、テストを始めようか。その本を閉じなさい」
「あう……はい」

     *     *     *

 両端に小さな草花の茂る田舎道を歩きながら、闇音がしみじみと呟く。
「魔法剣士なんて、まだ早すぎると思いますけどねえ。ガンズだってぎりぎりで倒したようなものなのに」
「煩いな。分かってるよ、そんなことは」
 ザックは唇を尖らせて、精霊を見やった。
「でも、うずうずするんだよ。強い奴がいると分かってるとな」
 闇音は薄く笑う。
「剣士はそう思い込むものです。どこまででも強くなれると」
「言ってろ。人間はそういう生き物だ。上を見上げりゃどこまでも登りたくなるし、下を見ちまえば座り込みたくもなる」
「ええ、なんとも愛しい生き物ですよ」
 思わず唇を曲げる主人に、闇音は微笑んで見せた。
「負けるのも、よい経験、なんですよね?」
 ザックは双眸を細める。それからにやりと笑った。
「そうだよ」
 二人はシヤンを目指して歩いていたが、闇音が何かに気づいて足を止めた。
「どうした?」
 肩越しに問うてくる主人に、闇音は声を潜めて返事をした。
「近くに魔術師がいます」
「……強いのか?」
 闇音は漆黒の双眸を探るように左右に動かす。
「おそらく」
 ザックもあたりの気配を探った。そして前方に、石に腰を下ろしている人物を見つける。
「って、あれ?」
 気の抜けたような声を上げるザックの視線を追って、闇音もその人物を見つけた。
 白いマントが陽光に眩しい。そして緑の中にくっきりと浮かぶ赤い髪。
「ウィルベルトじゃん」
 ザックは笑った。
「剣士って言っても、貴族は魔術もたしなむからな。なんだ、ウィルベルトなら平気じゃないか」
 気楽に言って再び歩き出す主人とは裏腹に、闇音は眉を寄せた。
(なぜ、ここにいる?)
 彼は仕事があると言って別れた。そう、仕事の目的地がシヤンでもスウェイズでもなかったから、別れたのだ。
(仕事を終えて、帰る前に弟子に会いにきた?)
 疑問と不安を覚えながら、闇音はさくさくと歩いていく主人の後を追った。
 ザックからはウィルベルトは斜め後ろから見えるだけだったが、彼が遠くをぼーっと見るような表情でいることは窺えた。俗世と切り離されたなにか桃源郷のようなものを求めるようなそんな顔だ。
 近づきながら、怪訝に思いながらも、ザックは彼を呼ぶため口を開こうとした。
「止まれ」
 が、先に口を開いた少年に、制されてしまう。側の茂みから現れた金髪の少年は、鮮やかな水色の瞳をザックに向けた。
「引き返すことを進める」
 少年の言葉は突拍子もないものであった。ザックは片眉を上げた。
「なんだ、お前は?」
「私はディルム・フォゾット。金獅子候補生だ」
 簡潔に答えて、目を瞬く青年に、ディルムはさらに突拍子もないことを言い出した。
「私は占いに凝っている。今日の占いの結果はこうだ。ここを黒髪の青年が通る。それはとてもよくない事だ。私の運気は大幅に減少する。君が、ここを通るせいでだ」
 ザックは訳が分からないと頬を引き攣らせた。あとからきた闇音も眉を寄せている。
「お前、頭大丈夫か? ん?」
 上半身を斜めにして尋ねてくるザックに、ディルムは冷たい視線を返した。
「いたって正常健全だ。自分がどういう現状におかれているのか、分かっていない君の何倍もな!」
 闇音ははっと息を呑んだ。
 金獅子はエリートの剣士集団である。賞金首リストは頭に入っていて当然――候補生も例外ではないだろう。
「ザック!」
 主人の名を呼ぶと、ザックも気づいた様子だった。彼は不愉快そうに顔をしかめる。
「だからなんだ。それがどうした。俺がお前を倒してそこを通る。お前は運がなかった、そういう占いの結果か?」
 ディルムはちっと舌打ちをした。
「なんて単純な思考だ。君がスフォーツハッド様に師事したなんて信じられない。よほど不出来なんだな」
 ザックはますます渋面を酷くした。
 この会話はウィルベルトの耳にも届いているはずだ。しかし、彼は微動だにしない。
 ザックは声を上げようと息を吸った。ディルムが叫ぶ。
「愚かな! 分からないのか!」
「ウィルベルト!」
「私は逃げろと言っているのだ!!」
 悲痛ささえ帯びたディルムの声に、ザックは動きを止めた。目の前の少年を見下ろす。
「……なんだって?」
 呟くと同時にさらりと布擦れの音がした。
 ウィルベルトが立ち上がったのだ。ザック達から彼の表情は窺えない。
「ディルム」
 彼は静かに弟子の名を呼んだ。
「はい」
 ディルムもまた落ち込んだ声で答える。
「ありがとう」
「……はい」
 どういう意味だ。ザックが分からずに眉を寄せると、ウィルベルトが振り返った。
 深海だ。
 ザックは思わず気持ちを後ろへ引いた。
 冷たく底流する青い双眸が彼の前にあった。
「ザック・オーシャンだな?」
 今更、確かめるように問う。
 厳しい顔をして闇音が否定した。
「人違いです」
「いや、その顔は今朝見たばかりだよ」
 数日前に聞いた優しい声で、ウィルベルトは言う。
「王室からの手配書で、ね」
 闇音がザックの前に立つ。ザックは呆然と師の声を聞いた。
「私は剣士団金獅子の副団長、ウィルベルト・スフォーツハッドである。ザック・オーシャン、我が君の命により、貴殿を捕縛する」