第五章 赤き魔女の封印

赤き魔女の封印 1

 マクスウェルは古くより栄えた一族で、特に魔術を得意としていた。遺伝子的なものによるのか、数代に一人は神器の一つ「神臓」を持って生まれる者もいる。
 かつての大戦でも建国のために良く働き、築いた功績は大きかった。王宮での地位も決して低くはない。由緒ある名門の貴族ということだ。
 だが、今となってはマクスウェル家は議会で大きな発言をすることはなくなっていた。静かに役割を果たすばかりとなっている。
 ――事の起こりは二十二年前に遡る。先代国王の妻に気に入られ、寵愛を受けていた公爵令嬢があろうことか一介の剣士と駆け落ちしてしまったのだ。王妃の悲しみは深かかったが、マクスウェル家を責めることはなかった。だが、公爵は負い目を感じ、目立つことを控えるようになったというわけである。
 その公爵が爵位を孫に譲って、今年の秋で三年になろうとしていた。
 駆け落ちした令嬢の甥に当たるその若き当主は、名をアーネスト・マクスウェルといった。美しい金髪と深く澄んだ翠の瞳は、かの令嬢を髣髴とさせると影で囁かれている。
 ゆっくりと沈む夕日を、私室のソファにうなだれて見つめながら、アーネストはぽつりと呟いた。
「……ザック・オーシャン」
 それは近頃、配られてきた賞金首新規リストの中でも最高金額の犯罪者の名である。なんでも重犯罪者の少年を庇ったらしく、反逆罪が適用されたらしい。
 そしてその名はここしばらくのアーネストの悩みの種でもあった。
 アーネストの伯母が消息を経ったとき、彼はまだほんの幼子だった。その当時は何が起こったのかも知らなかったが、成長した今では内容を把握できている。そして彼は、伯母が駆け落ちした相手の名前も掴んでいた。
(……ジル・オーシャン……)
 アーネストはもう今月に入って何度目になるかも分からないため息を零した。

 従弟との感動的な邂逅はありえないようだ。

     *     *     *

 リルコ州にて金鷹と共同任務。その通達がウィルベルトの元に届いたのは、荷物を全部まとめてからのことだった。
 王室直属の魔道師団《金鷹》と剣士団《金獅子》がともに任務に付くことはさほど珍しいことではない。だが、副団長の地位についてからは初めてのことにウィルベルトは書類に目を通しながら頭を掻いた。
 早く帰って来いと言っていた団長の不機嫌そうな文字が並んでいる。もう間もなくのはずだった片腕の帰還が延びるのは心外だったらしい。
 ウィルベルトは共同任務の相手の名を目にして、思い切り顔をしかめた。苦手な相手だ。直接喋ったことはないが、目つきが蛇のようで嫌だと思った覚えがある。
 そして、任務内容を読み、彼は愕然とした。
 手が震える。
 眉を寄せて書類を読んでいた上司の突然の変化を、ディルムは怪訝に思った。
「スフォーツハッド様……?」
 呼びかけるが、返事はない。顔を真っ青にしてウィルベルトは紙片を凝視しているばかりだ。
 不吉に思って、ディルムは立ち上がり、不躾だとは承知しつつも書類を覗き込んだ。そうしてやっと彼は理解した。
 その任務内容はウィルベルトには辛いものだった。

     *     *     *

 飛竜は面白そうな顔つきで窓の外を眺めていた。しなびた山小屋のその窓からはイルタシアの王城ホワイトパレスが見える。
「楽しそうだな」
 部屋の奥の男からそう声をかけられて、飛竜は嬉しそうに振り返った。
「ああ、こんなに楽しいのは久しぶりだ。絡んだ糸がすっかり解けたというのは気分がいい」
 両手を広げてそう答えて、飛竜は日の差し込まない場所で影と同化してしまっている男に笑いかけた。
「年中不景気そうな顔をしているあんたには悪いけどね」
 おどけた口調でそう言われ、男は唇の端をわずかに上げた。飛竜は灰色に重く垂れ込んだ空を見上げる。浮かれている心には暗い空も明るく見えた。
「さて、と。そろそろ行こうかな」
 立ち上がって、衣服を正す。
「ガルバラ……リルコか」
「ああ」
 頷いて、飛竜は床に転移の魔術陣を描いた。そして男を振り返る。
「あんたも楽しいことを探したらどうだい? なあ、ルード」
 男は答えなかった。

     *     *     *

「よっと」
 ザックは器用にフライパンを振って卵とベーコンを裏返した。いいかげん、いつまでも家主にばかり料理をさせていては申し訳が立たないという話になったのだ。横ではフレイムが難しい顔つきでスープをかき混ぜている。
 その顔があまりに真剣なので、ザックは逆に不安になった。
「フレイム、それ大丈夫なんだろうな?」
「うん」
 フレイムは鍋を注視したまま答える。
「ただ、久しぶりだし。それにザックもだけど、ネフェイルもさ料理が上手いからさ。俺、ちょっと自信ないんだ」
 ザックは笑った。
「気にするなよ。この前飲んだお前のスープは十分美味かったぜ」
「そうかな?」
 やっとこちらを見上げた少年に頷いて見せ、ザックはフライパンを返して皿の上に移した。
「そうだよ。――料理ってのはさ、やっぱり作る奴の性格が出るよな。ナキアは大雑把で計量をちゃんとしないからケーキが膨らまない」
 くくくと笑う青年を見上げ、フレイムは眉を下げた。それでも彼はその萎(しぼ)んだケーキを食べてしまうのだろう。そういう男だ。
(食べる人の性格も分かるよ)
 フレイムは心の中でそう呟いて、スープ皿を手に取った。

 クロワッサン、ハムエッグ、スープ、そして各々の選んだ飲み物。軽めの朝食が並ぶ。
 ハムを切り分けながら、ネフェイルが静かに口を開いた。
「フレイム、食事を終えたら、昨日教えた防御魔術に関する問題を出すからな」
「ああ、うん……っえ!?」
 頷いてから、フレイムは目を見開いた。ネフェイルが目線を上げて薄く笑う。
「何だ?」
「あー……なんでもない」
 フレイムは冷や汗まじりにうつむいた。昨日は疲れて、風呂に入ったらそのまま寝てしまったのだ。抜打ちテストのことなど考えもしていなかった。
 横でザックが小さく笑う。
「まあ、頑張れよ」
 ネフェイルに師事して数日、彼がなかなかのスパルタであったことはザックもすでに分かっている。
 フレイムは唇を曲げてザックを見た。
「ザックこそ、いつシヤンの魔法剣士に試合を申し込むのさ?」
 ザックはスプーンを持ったまま、指を立ててみせた。
「今日行く」
 フレイムは目を瞬いた。
「え、本当?」
 ああ、とザックは頷く。
「今日、申し込んで……日は相手に会わせるから……まあ、遅くとも一ヶ月以内には試合できると思ってる」

赤き魔女の封印 2

 ザックは愛用の長剣を腰に差し、靴のつま先を叩いた。
「じゃあ、行って来るよ」
「いってらっしゃーい」
 グィンが手を振る。フレイムは魔術書から顔を上げて、同じように手を振った。
「交渉、上手くいくといいね」
「ああ」
 頷いて出て行くザックとそれについていく闇音を見送っていると、ネフェイルが現れた。食事のときの話は彼も聞いていたはずである。二人の背を見て、ネフェイルはぽつりと呟いた。
「出掛けたのか」
「うん。何か買い物でも頼むことあった?」
 問うと、ネフェイルは首を振った。
「いや、最近、どうも力のある者がリルコに来ているようでな。少し気になっているんだが……。まあ、シヤンまで行ってしまえば、聖域だ。問題はないだろう」
「……力のある者?」
 フレイムが首を傾げる。ネフェイルは窓の外を見やった。
「ああ、イルタシアの政治犯がリルコに逃亡して来たらしくてな。それを捕らえる為に金獅子が出張ってきていると聞いている」
「金獅子……それってウィルベルトさんじゃ……」
「ウィルベルト?」
 思い当たって口元に手をやる弟子に、ネフェイルが聞き返す。フレイムは顔を上げた。
「あ、うん。ウィルベルト・スフォーツハッド。関所のところでお世話になった人なんだけど、ザックの剣の師匠なんだって」
「……そうか」
 ネフェイルはそう言って視線を下げた。
(スフォーツハッドか。どおりで強い力を感じるはずだ)
 スフォーツハッドといえばイルタシアでも地位のある貴族だ。代々、金獅子に剣士を輩出している剣術の名門である。
(それがマリー嬢の息子の師匠とは……何の因果だろうな……)
 ジル・オーシャンはウィルベルトの先輩に当たるだろう。
 それが「運命」というものか。
 たわいもない悪戯だ。
 ネフェイルは目を閉じると、気持ちを切り替えるために首を振った。それから再び顔を上げ、フレイムを見る。
「では、テストを始めようか。その本を閉じなさい」
「あう……はい」

     *     *     *

 両端に小さな草花の茂る田舎道を歩きながら、闇音がしみじみと呟く。
「魔法剣士なんて、まだ早すぎると思いますけどねえ。ガンズだってぎりぎりで倒したようなものなのに」
「煩いな。分かってるよ、そんなことは」
 ザックは唇を尖らせて、精霊を見やった。
「でも、うずうずするんだよ。強い奴がいると分かってるとな」
 闇音は薄く笑う。
「剣士はそう思い込むものです。どこまででも強くなれると」
「言ってろ。人間はそういう生き物だ。上を見上げりゃどこまでも登りたくなるし、下を見ちまえば座り込みたくもなる」
「ええ、なんとも愛しい生き物ですよ」
 思わず唇を曲げる主人に、闇音は微笑んで見せた。
「負けるのも、よい経験、なんですよね?」
 ザックは双眸を細める。それからにやりと笑った。
「そうだよ」
 二人はシヤンを目指して歩いていたが、闇音が何かに気づいて足を止めた。
「どうした?」
 肩越しに問うてくる主人に、闇音は声を潜めて返事をした。
「近くに魔術師がいます」
「……強いのか?」
 闇音は漆黒の双眸を探るように左右に動かす。
「おそらく」
 ザックもあたりの気配を探った。そして前方に、石に腰を下ろしている人物を見つける。
「って、あれ?」
 気の抜けたような声を上げるザックの視線を追って、闇音もその人物を見つけた。
 白いマントが陽光に眩しい。そして緑の中にくっきりと浮かぶ赤い髪。
「ウィルベルトじゃん」
 ザックは笑った。
「剣士って言っても、貴族は魔術もたしなむからな。なんだ、ウィルベルトなら平気じゃないか」
 気楽に言って再び歩き出す主人とは裏腹に、闇音は眉を寄せた。
(なぜ、ここにいる?)
 彼は仕事があると言って別れた。そう、仕事の目的地がシヤンでもスウェイズでもなかったから、別れたのだ。
(仕事を終えて、帰る前に弟子に会いにきた?)
 疑問と不安を覚えながら、闇音はさくさくと歩いていく主人の後を追った。
 ザックからはウィルベルトは斜め後ろから見えるだけだったが、彼が遠くをぼーっと見るような表情でいることは窺えた。俗世と切り離されたなにか桃源郷のようなものを求めるようなそんな顔だ。
 近づきながら、怪訝に思いながらも、ザックは彼を呼ぶため口を開こうとした。
「止まれ」
 が、先に口を開いた少年に、制されてしまう。側の茂みから現れた金髪の少年は、鮮やかな水色の瞳をザックに向けた。
「引き返すことを進める」
 少年の言葉は突拍子もないものであった。ザックは片眉を上げた。
「なんだ、お前は?」
「私はディルム・フォゾット。金獅子候補生だ」
 簡潔に答えて、目を瞬く青年に、ディルムはさらに突拍子もないことを言い出した。
「私は占いに凝っている。今日の占いの結果はこうだ。ここを黒髪の青年が通る。それはとてもよくない事だ。私の運気は大幅に減少する。君が、ここを通るせいでだ」
 ザックは訳が分からないと頬を引き攣らせた。あとからきた闇音も眉を寄せている。
「お前、頭大丈夫か? ん?」
 上半身を斜めにして尋ねてくるザックに、ディルムは冷たい視線を返した。
「いたって正常健全だ。自分がどういう現状におかれているのか、分かっていない君の何倍もな!」
 闇音ははっと息を呑んだ。
 金獅子はエリートの剣士集団である。賞金首リストは頭に入っていて当然――候補生も例外ではないだろう。
「ザック!」
 主人の名を呼ぶと、ザックも気づいた様子だった。彼は不愉快そうに顔をしかめる。
「だからなんだ。それがどうした。俺がお前を倒してそこを通る。お前は運がなかった、そういう占いの結果か?」
 ディルムはちっと舌打ちをした。
「なんて単純な思考だ。君がスフォーツハッド様に師事したなんて信じられない。よほど不出来なんだな」
 ザックはますます渋面を酷くした。
 この会話はウィルベルトの耳にも届いているはずだ。しかし、彼は微動だにしない。
 ザックは声を上げようと息を吸った。ディルムが叫ぶ。
「愚かな! 分からないのか!」
「ウィルベルト!」
「私は逃げろと言っているのだ!!」
 悲痛ささえ帯びたディルムの声に、ザックは動きを止めた。目の前の少年を見下ろす。
「……なんだって?」
 呟くと同時にさらりと布擦れの音がした。
 ウィルベルトが立ち上がったのだ。ザック達から彼の表情は窺えない。
「ディルム」
 彼は静かに弟子の名を呼んだ。
「はい」
 ディルムもまた落ち込んだ声で答える。
「ありがとう」
「……はい」
 どういう意味だ。ザックが分からずに眉を寄せると、ウィルベルトが振り返った。
 深海だ。
 ザックは思わず気持ちを後ろへ引いた。
 冷たく底流する青い双眸が彼の前にあった。
「ザック・オーシャンだな?」
 今更、確かめるように問う。
 厳しい顔をして闇音が否定した。
「人違いです」
「いや、その顔は今朝見たばかりだよ」
 数日前に聞いた優しい声で、ウィルベルトは言う。
「王室からの手配書で、ね」
 闇音がザックの前に立つ。ザックは呆然と師の声を聞いた。
「私は剣士団金獅子の副団長、ウィルベルト・スフォーツハッドである。ザック・オーシャン、我が君の命により、貴殿を捕縛する」

赤き魔女の封印 3

 唖然とする黒髪の弟子に、ウィルベルトは悲しげに微笑む。
「二度と会いたくなかったよ」
 ディルムはその背後に下がった。
「だが、陛下から直々に命が下った。ザック・オーシャンを捕らえて来いと。……見逃してやるつもりだったが、そうもいかなくなってしまったらしい」
 ウィルベルトは腰の剣を指先で撫でた。
「逆らわなければ、無傷ですむ。王都に帰ってからは、私も王に慈悲を乞う。おとなしくしてくれ」
 それまでただ聞いているだけだったザックは、眼差しを鋭くした。
「偉そうに……見逃して、やる、だと?」
 闇音はザックの心情はよく分かった。彼は関所で師に「見逃してもらっていた」のだ。
 そんなことを甘んじて受け入れる青年ではない。
 瞳を剣呑に輝かせる弟子に、ウィルベルトは変わらず静かに告げる。
「おとなしくした方が身のためだ。私も一度は弟子にした者を傷つけたくはない」
 ザックは腰を低くした。
「俺は捕まるわけにはいかない。……あんたを倒してでも」
 ここで捕まれば、おそらくイルタス王はフレイムを捕まえに乗り出すだろう。彼を庇う忌々しい剣士がいなくなるのだから。ただ、今は、ネフェイルがいるから、自分がいなくともフレイムは平気だろう。
(逃げるべきか……?)
 捕まらずにすむなら、それが一番いい。
 だが――、だがしかし、目の前に凄腕の剣士がいる――!
 戦いたい。
 一種の高揚感が意志を制する。ザックは剣を抜いた。
 戦う意志を見せる青年に、深海の双眸が細められる。ウィルベルトは自分の剣に手をかけた。
「自惚れるな。お前の剣では私は倒せない」
 ザックは奥歯を噛んで言い返す。
「そんなの分からないだろう。あんたと最後に手合わせしたのはもう十年も前だ」
「たった十年だ」
 静かに、しかし鋭く吐かれた一言にザックが息を呑む。ウィルベルトは続けた。
「十年でその差が縮まるほど、スフォーツハッド家の剣技は惰弱ではない」
 音もなく、金の鞘から一本の剣が抜かれる。
 何の変哲もない無感情な刃。
 だが、ザックはその刀身に身震いがするほどの恐怖を覚えた。
「……なんだ、その剣……」
 思わず問う。
 片手でその白い剣を持ち、金獅子の剣士は答える。
「魔法剣アレス」
 ザックは目を見開いた。
「……魔法剣……」
 剣と魔術が支配するこの世界で、最も強力な戦闘力を誇り、また最も使い手の少ない武器。刀身に宿した精霊に寄り、様々な奇跡を起こす剣である。そして、今からその使い手に試合を申し込みに行くところだった。
「抵抗するな、ザック。傷を負わせたくはない」
 抜き身の剣を手にしてなお、ウィルベルトは忠告する。
 ザックは思わず笑った。
「そんなに嫌なら、あんたが諦めろ。俺は引かない」
 ウィルベルトは目を閉じた。
「残念だ」
「……お互いにな」
 神経を研ぎ澄ませて集中する。ザックは相手の武器をじっと見つめた。
 勝てるだろうか。
 金獅子の剣士に。魔法剣士に。かつての師に。
 炎のような赤い髪を風が撫でた。青い双眸が開かれる。
「来い」
 ザックは地面を蹴った。
 手抜きは出来ない。初手から全力でいく。
 あっという間に間合いが詰まる。ザックは剣を振り上げた。
 青い青い瞳。二対の海が異様なほど静かにこちらを見返す。
 視界の端でウィルベルトの手が軽く剣を振った。
「……っ!?」
「ザック!」
 闇音の声が耳を打ち、凄まじい衝撃が身体を打つ。ザックは後方に吹き飛ばされた。
 地面で背中が擦れ、やっと止まってからザックは目を瞬いた。あれほどの衝撃にもかかわらず、たいした痛みはない。
 自分の身体を見下ろすと、血が出ていなかった。切れていないのだ。
 ウィルベルトは青白く輝く剣を構えなおした。
「アレスは衝撃波を生む魔法剣だ。それで切ることも出来る。だが、今は必要ない」
 生け捕りにせよ、ウィルベルトは指令の内容を口にした。
 また、「生け捕り」か。ザックは顔をしかめた。シェシェンの街でもガンズにそう言われたのだ。
 だが、そのガンズにはかろうじて勝つことができた。
(勝てなくても、逃げ延びるくらいはしないとな)
 ナキアに帰ると約束したのだ。
 ザックは立ち上がり、しっかりと剣を構えた。
 ――なんて美しい剣だろうか。
 ディルムは戦いの横で、じっとアレスを見つめた。
 その射程距離はゆうに五十メートルにも及ぶ。一対多数を得意とする魔法剣だ。先の大戦で敵の軍勢を薙ぎ払い、使い手を初代金獅子団長にした剣である。
 衝撃波を生むとき、剣は最も青く輝く。剣に宿る軍神の覇気だ。
「いい剣だねえ」
 背後からねっとりと響いた声に、ディルムはぞっとして振り返った。
 蛇のような目つきの男がそこにいた。確かに最初から近くにいたはずだが、いつ側まで来たのかディルムは気づかなかった。エルズ・キセット。金鷹の副団長補佐を務める男である。
 ウィルベルトが魔法剣を使えば、その魔力の波動により、スウェイズにいるという大魔道師を引きずり出してしまう可能性がある。そこで魔力の波動を漏らさないようにする結界を張るのが、エルズの仕事であった。
「僕はあの剣が大好きだ。炎の剣士が扱う軍神……」
 うっとりとエルズは呟く。
 ウィルベルトがそうであるように、ディルムもこの男が苦手であった。
「そうです。スフォーツハッド様があの剣を抜かれたからには、あなたがお手を煩わせる必要はありません」
 手を出すな、そう言外に言う少年に、エルズは細い目をさらに細くした。
「ふむ、あの黒髪の剣士についてはそうだろう」
 そう言って、枯れ木のような指をザック、その横に向ける。
「あの黒い男……あれは精霊だね。影の上級精霊だ。ご覧よ、あの眼差し」
 ディルムも闇音を見やる。そして息を呑んだ。エルズはくつくつと笑った。
「怖い目だ。彼は主人を守るためなら、スフォーツハッド君を殺そうとするだろう」
 ディルムは拳を握った。
「スフォーツハッド様がたった二人に負けるはずがありません」
「そうだろう、そうだろうねえ」
 エルズは笑みを絶やさない。ただその笑みは変化する。可笑しがる様なものから、ひやりとしたものに。
 ディルムはエルズから離れるように横にずれた。彼の笑みは気味が悪い。獲物を一飲みにしてしまう、そんな深さを持っている。
「問題はない」
 彼は白いローブを揺すって一歩前に出た。
「彼は僕が処分しよう」

赤き魔女の封印 4

 いつの間にそこにいたのか、しかし確かにそこに現れた魔術師を闇音は見据えた。
(強い……)
 ウィルベルトのマントと同じ真っ白のローブ。それを留める金の飾り具。
(これが金鷹か)
 そしてこの男によって音もなく、気圧の変化もなく、結界が張られたことを闇音は悟った。静寂の結界はおそらく魔力の波動を遮断するものだろう。この結界内では魔術を使ってもネフェイルには気づかれない。
 ゆらりと前線に出てきた男を、ウィルベルトは横目に睨んだ。
「キセット殿、手出しは無用だ。これは剣士の戦いだ」
 剣と魔術を重んじる世界。貴族は一対一の試合を邪魔されることを忌み嫌う。
 エルズは笑って頷いた。
「もちろんだとも、スフォーツハッド君。私の相手はあちらだ」
 そう言って目線で闇音を示す。
 ウィルベルトは不愉快げに眉を寄せた。
「彼女は無関係だ」
「そうでもない」
 エルズは肩を揺すって見せた。
「ザック・オーシャンが精霊持ちであった場合、それを処分せよ」
 目を見開く金獅子副団長に、金鷹副団長補佐は残忍そうな笑みを向けた。
「僕にはそう命が下っている」
 何か言おうとするウィルベルトを制すように、エルズは先に口を開いた。
「手出しは無用だよ、スフォーツハッド君」
 そしてローブから腕を出す。その手には魔術具。銀色の錫杖は対精霊魔術を強化する補助器具だ。
 エルズは闇音に向けて声をあげた。
「僕はイルタシア王室直属魔術師団金鷹の副団長補佐、エルズ・キセットだ。我が君の命により、貴殿を処分する」
 ぴくりと闇音は眉を動かす。
「ご丁寧な……死刑宣告ですね」
 漆黒の双眸に浮かぶ光は凄絶だ。ディルムが気圧される中、エルズはその射るような眼差しをさらりと受け止めた。
「決められた文句を読み上げるだけさ。だが」
 赤みを帯びた茶色の瞳をエルズは細く光らせる。
「その意味に相違はない」
 かっと魔術具が輝く。ぎらぎらと強烈な光は忌まわしくさえあった。
 闇音は両手を前方に水平に構えた。
「夜の帳よ。底無き闇よ。落ちゆく深淵よ……」
 闇音の足元に紫に輝く魔術陣が描かれる。
「声無き女神よ」
 魔術陣から溢れた光が闇音の輪郭を覆い、そして消える。身体中に魔力が満ちた。
 肌にプレッシャーを感じるほどのその魔力に、ザックは手の平を汗で湿らせた。ウィルベルトは苦しそうな眼差しを向けている。
「素晴らしい」
 エルズは感嘆の声を送る。
「このような上級精霊と闘えることを僕は嬉しく思うよ」
 そして錫杖を構える。
「嘶(いなな)け! 嘶け、雷よ!」
 大気を揺らし、落雷が闇音を目指す。闇音は片腕を振って天を指した。
「愚かな空駆ける者よ、落ちよ!」
 一本の紫雷がエルズの雷を打ち砕く。どっと白い蒸気が四方に走った。足元をすり抜けていく風に、ザックは上級の魔術師同士の戦いの凄まじさを知った。
(闇音……)
 セルクと戦ったときでさえこれほどではなかった。
 心臓がぞくぞくと慄(おのの)くのを感じる。
 闇音とエルズの戦いに気を取られているザックの耳に、ウィルベルトの静かな声が響いた。
「危険な戦いだ。どちらかが――」
 語尾は再び響いた雷鳴に掻き消された。
 だが、ザックには分かった。歯を食いしばる。
「あんたを倒して、闇音を加勢する」
 ウィルベルトは首を振った。
「今すぐに投降して、私に二人を止めさせるほうが賢明だろう」
「黙れ。あんたは結局、王の言いなりだ」
 ザックは剣を握り締め、声を絞った。
「イルタス王は強欲だ。自国の領土を広げるために、フレイムの力を利用しようとしている」
 その言葉にウィルベルトが不快の色を示す。
「お前は王を勘違いしている。陛下はそのような方ではない」
「どう違うって言うんだ! 神通力は万の兵にも匹敵する、だから――」
「お前にエイルバートの何が分かるというのだ!?」
 自分の声を遮ったウィルベルトの叫びにザックは目を瞬いた。
「え? ……エイルバート?」
 王はイルタス六世ではないのか。
 ウィルベルトは表情を泣きそうな予感のするものに変えていた。
「彼は強欲などではない。……優しくて……強い……」
 震える声に、本当に泣き出すのではないかとザックは心配した。しかし、そんなことはなく、ウィルベルトは剣を構えなおした。
「私は金獅子の副団長だ。陛下の命に従う」
 奥深く澄んだ青い双眸に、ザックは囚われたように動けなくなった。
(なんだ……? 何か、おかしくないか?)
 ザックの知るイルタス王と、ウィルベルトの言う王は“一致していない”のではないか。
(俺は……本当に、イルタス王を知っているのか……?)
 突如と胸に湧いた不安は、そのまま隙になった。
 ザックが我に帰ったときには既に眼前にウィルベルトの剣があった。
「……っこの!」
 慌てて、剣を立てる。
 空気を劈(つんざ)く音が刃の上を駆けた。
(折られる!)
 力を受け流さねば、剣が折られてしまう。ザックは体を引き、くんっと手首を柔らかく曲げた。一瞬の火花を散らして、相手の剣が滑る。
 ウィルベルトは間を与えず刃を返し、そのままザックの剣の柄を切り上げた。同時にアレスが衝撃波を放つ。
 ザックの長剣は宙に舞った。どっと重い感触を耳に残して、地面に突き立る。
 青い光が視界の端に映り、闇音はそちらを見た――見てしまった。
「余所見、か。いいのかい?」
 エルズのねっとりとした声が耳を撫でる。
 はっとして防御の魔術を展開しようとしたが、遅かった。人間の上限にも近いほどの魔力を乗せた声が響く。
「冥王の嘆きを聞け!」
 放たれた魔術は恐ろしく速い。
 夜空を切り裂く雷の色をした光が、闇音を打った。
「ああ……っ!!」
 四肢を引き裂かれるような激痛が全身を襲う。魔術の効力を悟り、闇音は絶望した。
 はじめて聞くかもしれない闇音の悲鳴を耳にして、ザックは彼を振り返った。
 エルズが肩で息をしながら、笑う。
「霊子分解だよ。これで、おしまいだ」

赤き魔女の封印 5

 ウィルベルトはエルズの放った魔術がなんなのか瞬時に理解した。
「やめろ!」
 思わず叫ぶ。
 だが、エルズはウィルベルトのほうを見やり、唇を愉快そうに歪めただけだった。
「任務遂行だ。黙っていたまえ、スフォーツハッド君」
 ウィルベルトは剣柄を握り締めた。
「殺す必要はないはずだ!」
 その叫びにザックはびくりと肩を跳ねさせた。
「……殺す?」
 エルズの魔術がなんなのか分かっていない様子の剣士に、ディルムは憚(はばか)るような声で囁いた。
「霊子分解だ。精霊を……消滅させる魔術だ」
「……なんだって……」
 白く輝く紫の魔術陣の上に立つ闇音の姿が目に入る。ザックは地面を蹴った。剣を拾う。
「ザック!」
「魔術を解け!」
 ウィルベルトの制止を振り切り、剣を構えて、エルズのもとに駆ける。
「赤き騎士よ!」
 エルズはザック目掛けて炎を放った。
「ぅらああ!」
 ザックは片腕を振って、炎を払った。袖が焦げることなどどうでもよい。
 止まらない剣士に、エルズは笑みを深くした。さらに呪文を唱える。
「穿て、赤き砲弾よ!」
 先ほどの比ではない、矢のごとき炎がザックを目指した。
 ウィルベルトが跳び、ザックに体当たりをする。二人で地面に倒れこみながら、ウィルベルトは剣で空を切った。
「アレス!」
 主人の声に反応して、魔法剣が唸る。衝撃波が炎を掻き消した。
 ザックを庇うように自分の陰に隠し、ウィルベルトはエルズを睨んだ。
「キセット! ザックを殺す気か!」
 金獅子の副団長の怒声に、エルズは頬を引き攣らせた。
「まさか! 君が助けると分かっていたからさ」
 答えて、エルズは姿勢を正した。涼やかに二人の剣士を見下ろす。
「そこでおとなしく見ているといい。影の精霊の最期をね」
 ザックはウィルベルトを押しのけて立ち上がった。
「てめえ!」
「ザック!」
 ザックは動きを止めた。
 呼んだのは闇音だった。
「闇音?」
 ザックは闇音のほうを見た。
 指先を霊子分解の光に巻き込まれながら、闇音は手を伸ばしていた。
「ザック……」
 主人を求めて呼ぶ。
「闇音!」
 ザックは闇音のもとに走った。
 駆けていく弟子の後姿を見て、ウィルベルトは立ち上がってエルズを向いた。
「……霊子分解をやめろ」
 低く漏らすと、エルズはわざとらしく目を見開いた。
「精霊を殺さなければ命令違反だよ?」
「私は聞いていない! 今すぐやめろ!」
 叫ぶ、がエルズは怯みもしない。
「何度も言うように、僕へは命令が下っている。金鷹へ金獅子が口を出すのは越権行為だ。規約に反故するんじゃないかな?」
 落ち着いた声が逆上を煽る。ウィルベルトはエルズの襟首を掴んで詰め寄った。
「戦いも知らない文官の作った、阿呆のような規約など知ったことか」
「……スフォーツハッド君、規約違反は反逆罪だよ」
 満足げなエルズの声。
 その言葉がすべて耳に届くと同時に、後頭部に衝撃を感じる。
 打たれた。
 そのことを理解する意識もろとも深く沈む。ウィルベルトはエルズの襟を掴んだまま、気絶した。
 割り込むことも出来ずに二人を見守っていたディルムは、突如起こった事態に体を強張らせた。
「まさか、こんなところまで来るとは思ってなかったよ」
 エルズはウィルベルトを昏倒させた男を見上げて、笑って見せた。男は答えず、その銀に近い極薄い水色の双眸でエルズを一瞥するだけで終わる。
「噂に勝る無愛想ぶりだね。金獅子の団長様」
 イルフォード・ヴァンドリー。エルズの結界内に空間移動してきたその男は金獅子の若き長だ。
 見上げるほどに背が高く、淡い色の金髪は短く揃えられている。冷たい瞳はそのまま彼の沈着さを表しているようだった。
 崩れ落ちる部下の身体を片手で支え、イルフォードはウィルベルトの手から落ちた剣をもう一方の手で拾い上げた。そのままディルムに渡す。
 そして、イルフォードは消えていく精霊の腕を掴んでいる青年を見つめた。
 魔術陣より立ち上がる紫の光は、彼らを分かつ壁だ。
 ――永遠に分かつ、壁だ。
「闇音!」
 ザックは自分には全く影響を及ぼす様子のない魔術を忌々しく思った。闇音の身体だけが光の渦に巻き込まれていこうとしている。
「どうしたらいい? どうしたら、お前を助けられるんだ?!」
 闇音はうつむいて首を振る。痛みはもうなくなっていた。
「私はもう助かりません」
 あとはただ消えるに任せるだけなのだ。
 ザックは闇音の腕を掴んでいる。なのに、すでに形無き者を掴んでいるような錯覚に襲われた。
 足元から、何かが這い上がってくる。凄まじい速さで、不吉に笑いながら。
「なに、言ってるんだよ……」
 声が震える。
 闇音は顔を上げて笑った。
「精霊は人間とは違います。私は腐敗することなく霊子に分解され、人の言うあの世というところには行くことなく、この世で次の生を待ちます。だから、あなたが悲しむ必要はないのです」
「なんだよ、それ。お前がいなくなるなら同じだ!」
 声を荒げて、ザックは闇音の腕を握る力を強くした。
「どこにも行かない。お前はどこにも行かないんだ!」
 闇音は目を伏せた。
 もう、彼の命令に答えることは出来ない。痛みが消えてから、更にすべての感覚が失われつつある。
「ザック、逃げてください」
「お前も一緒に逃げるんだよ!」
 腕を引く主人を闇音は突き飛ばした。しりもちをついて、唖然とするザックを見下ろして叫ぶ。
「逃げなさい! 馬鹿でないなら分かるでしょう!」
「馬鹿で構うか!!」
 怒鳴り返して、ザックは立ち上がった。
「俺は馬鹿だ! 怒ってるお前が、泣いてるようにしか見えないんだからな!」
 闇音は口を噤んだ。光に包まれた体が震える。
 この主人はどうしようもない馬鹿だ。
「……ザック……」
 顔を覆う精霊の肩をザックは揺すった。
「お前、どこにも行かないって言ったんだぞ! 嘘をついたら許さないからな!」
 ずっと側にいると約束した。
 闇音は頷いて顔を上げた。ザックの顔に手を伸ばす。
「……ええ。霊子になっても、私はあなたの側にいます」
 黒い髪、日に焼けた肌、翠を含んだ美しい瞳、張りのある笑い声、ころころと変わる表情。人を信じることを忘れず、人を助けるために迷うことなく駆け出す。
 ――その魂すべてが、愛しい。
「あなたは私が愛した唯一の人だから……」

 光が。

 ザックは闇音の手を掴み返そうとしたが、手はするりと宙を掴んだだけだった。手の平に輝く粒子が残る。
「……闇音……?」
 きらきらと。
「闇音!」
 光の渦が空へと舞い上がる。竜巻のように柱となって。
「闇音! 闇音!!」
 喉が裂けるほどに叫ぶ。
 ――霊子ってなんだ。そんなものは知らない。そんなものは。
 そんな――
「うわあああああ!!」

 音を残すこともなく、光は風の中に消えた。

赤き魔女の封印 6

 影の精霊は、剣士に逃げろと言っていた。だが、剣士は地面に膝をついて動こうとしない。
 ディルムはやはり彼は愚か者なのだと思った。
(ああ……馬鹿野郎、だ……)
 結局、自分は傍観することしか出来なかった。このことで師が苦しむことになるであろうことは分かりきっていたのに。
 沈痛な気持ちでイルフォードを見上げると、彼は感情を見せない顔で剣士を見つめていた。やがて口を開く。
「あれが、ザック・オーシャンだな」
「……はい」
 問うというよりは、確かめる口調にディルムは頷いた。イルフォードはエルズを振り返る。
「キセット君、彼を城まで運びたまえ。それで任務完了だ」
「そうですね」
 気楽に答えて、エルズはザックの側に歩み寄った。
 微動だにしない青年の肩に手を置く。
「眠りの籠に」
 短い呪文はあっという間に効力を発揮し、ザックはそのまま地面に倒れた。エルズは嘲笑を浮かべた。
「なかなか楽しかったよ」
 聞こえるはずもないのにそう囁いて、エルズはイルフォードのほうを向いた。
「一緒に飛びますか?」
「いや、いい。リルコに少々用がある。こちらに来たのはそのついでだ」
 イルフォードは淡々と答える。
 「ついで」で上級魔術師の結界内に空間移動してくるというのか。エルズは片眉を上げてその意を伝えた。イルフォードはそれを当然のように無視する。
 エルズは肩をすくめると、錫杖を振って魔術陣を敷いた。
「さあ、目が覚めたらイルタシアだよ」
 聞く者のいない言葉を呟いて、エルズはザックとともに転移した。
 金鷹の魔術師と剣士が消えるのを見届けて、イルフォードはウィルベルトを抱えなおした。肩に担ぎ上げて、先ほどまでエルズとザックがいた場所へと歩む。
 怪訝に思いながら、ディルムはその後を追った。
 イルフォードは上半身を屈めて、地面に手を伸ばしていた。
「団長?」
 首を傾げて覗き込むと、彼の手に青い石の付いたネックレスが輝いていた。
「それは?」
 問うと、身体を起こしたイルフォードは目を眇めてそれを見つめた。
「……必要なものだな」
「え?」
 ぽつりと呟いた団長に、ディルムは目を瞬いて見せるしか出来ない。イルフォードは候補生の疑問には答えず、石を懐にしまった。
「帰るぞ」
「え、あ、リルコの役所ですか?」
「イルタシアだ」
 思わずディルムは唇を曲げた。団長は金鷹の副団長補佐にリルコに用があると言わなかったか。
 イルフォードは小さく笑った。
「あいつは好かん」
 その一言にディルムは目を丸くした。「あいつ」とはやはりエルズのことだろう。
 イルフォードは候補生の背を叩いた。
「さあ、まずはスフォーツハッド家だ。この荷物を奥方にお届けしよう」
 ウィルベルトのことを目線で示す。それからヴァンドリーは片腕を上げた。
「リュエン」
 ふわりと赤い髪の精霊が現れる。ディルムは団長の火の精霊を見つめた。美しい女性の姿をしたリュエンは先ほどの影の精霊とは似ていないが、それでも彷彿とさせるだけの雰囲気がある。
「イルフォードときたら、あいかわらず人が悪い。候補生殿が目を白黒させている」
 リュエンは切れ長の目を細めて笑いながら、主の手をとった。イルフォードは唇の端を上げる。
「なんだ。お前は主人にそんなことを言うのか」
「そこが好きです」
 耳元で囁いて、リュエンは三人を空間移動の魔術陣で包んだ。
 そしてスウェイズからシヤンへと向かう道からは、一つの人影もなくなった。

「ふうむ……、気づかなかったのか、見逃してもらったのか」
 一人でそう零して、飛竜は葉を茂らせた広葉樹から顔を出した。
 ザックはイルタシアに連れて行かれ、闇音は消えてしまった。彼はその一部始終を黙って見ていたわけである。
「さて、これからどうしようか」
 どうにも――面白いことになってしまったものだ。

     *     *     *

 ネフェイルが突然椅子を蹴って立ち上がり、フレイムはぎょっとして顔を上げた。緻密な制御を目指すべく、手に溜めていた魔力は集中力の途切れと同時に飛散してしまった。
「ネフェイル?」
 ネフェイルは窓辺に駆け寄り、外を眺めている。彼は苦虫を噛み潰したような顔で呻いた。
「……魔術だ」
 場所はシヤンではない。もっと手前だ。
「この気配は火の精霊か……」
(なぜだ。先ほどまでは何の気配もなかった。なぜ、突然……)
 心当たりはすぐに浮かぶ。結界だ。魔力の気配を消す結界を張れば、ネフェイルにも知れずに魔術を使うことが出来る。
 そしてそれはつまり、それほどの使い手がいたことを示している。
「フレイム……」
「何?」
 ネフェイルはしばらく思案する顔を見せてから、弟子のほうを向いた。
「いや、いい。少し出掛けてくる。お前はそのまま制御の修行を続けなさい。ただし、疲れたら休むことだ。集中力を欠けば、どうやっても制御は上手くいかない」
「……はい」
 なぜ急に出掛けるのだろうかと不審に思いながらも、フレイムは頷いた。ネフェイルがそうした方がいいと判断したのなら、自分は従う方が賢明だろう。経験も何も彼のほうが上なのだから。
 ネフェイルはそのまま部屋から出て行った。
 出際にグィンに声を掛ける。
「君はフレイムと一緒にいなさい」
「あ、うん」
 修行中は邪魔をしないように普段は別の部屋にいる。グィンは不思議に思いながら、それでも素直にフレイムのところへ飛んだ。

     *     *     *

 ネフェイルは細い道で足を止めた。大量の残留魔力が辺りを覆っている。
(……一体何があったと言うのだ)
 ネフェイルは左腕の袖を捲くると、魔力を抑える封印布を解いた。神腕――呪文は要らず、思うだけで神界の魔力を導くことが出来る。
 その腕で静かに地面を撫でる。
 水の溢れるように魔力は溢れ広がり、絵の具のように大地の記憶を鮮明に描いた。
 ネフェイルはすべてを知った。
「なんということだ……」
 彼は素早く立ち上がると、辺りを見渡した。そして一方向を見定め、声を張り上げる。
「出てきなさい、そこにいるだろう」
 間もなく、一人の青年が茂みから姿を現した。白っぽい、色の淡い茶髪をした青年だ。
「さすがだ」
 年老いた魔術師に飛竜は微笑んでみせた。
 ネフェイルは飛竜を注意深く見つめながら、口を開いた。
「なぜ、ここにいる。お前は何かを企んでいるのか?」
 油断のない相手に飛竜は腕を組んだ。空を仰いで考えながら、同時に言葉を並べる。
「いや、俺さ、ザックを気に入ってるんだよね。それを横取りされてちょっと滅入ってるわけ。できれば、彼をイルタス王から取り返したいんだけどな」
 ネフェイルは双眸を細める。
「それは、つまりザックを救出する際には手を貸すと、そういうことか」
「好意的に取れば」
 飛竜は意味ありげに笑う。
 どうにもはかり難い男だ。ネフェイルはそう思った。
「では、悪意を持って言えば?」
 飛竜は肩をすくめる。
「そうだな。俺はザックを助けたい、そのためにあなたたちを利用しようとしている。そんなとこかな」
 言葉を意地悪くしただけで、結果的に得られるものは同じだろう。ネフェイルは顎を撫でた。
「君は面白い人間だな」
 飛竜は少しばかり驚いた顔をして、それからすぐに相好を崩した。
「俺のことをそういうふうに形容する人間は、なぜだか頭がいい奴ばかりなんだよね」

赤き魔女の封印 7

 スフォーツハッド家はホワイトパレスに程近いところに館を構えている。
 現当主ウィルベルト・スフォーツハッドの妻であるイリーナは突然の来訪客に驚いた。妻の護衛として常に館にいるウィルベルトの精霊サラも、同様に虚を突かれた様子で現れた男を見上げた。
「ヴァンドリー様、どうかいたしましたか?」
「うむ、突然すまない」
 黄色がかった緑の髪を持つ少女の姿をした風の精霊を見下ろして、イルフォードは軽く頭を下げた。
 その肩に主人の姿を見つけて、サラが驚きの声を上げる。
「ウィル!? 何かあったのですか?」
「少々……」
 イルフォードは言葉を濁し、視線を屋敷の奥へと滑らせた。
「スフォーツハッド君の部屋は二階でしたな。このまま運びましょう」
「あ……はい、申し訳ありません」
「いいえ。フォゾット君、アレスを」
 イルフォードはディルムに魔法剣アレスをイリーナに渡すように示した。はい、と返事をしてディルムは魔法剣をイリーナに手渡す。
 受け取った魔法剣をサラに渡し、青いドレスを翻してイリーナはイルフォードを先導するように歩き出した。
「フォゾット様はこちらでお待ちください」
 剣を抱えたままサラはディルムを応接間に通した。団長たちのことが気になるが、しゃしゃり出るわけにもいかず、ディルムはおとなしく席に着いた。
 サラは執事にディルムの相手をするよう伝えると、そのまま主人の後を追っていってしまった。

「ヴァンドリー様、あの……主人は……」
 イリーナは背後を振り返りながら、夫の上司を窺う。ヴァンドリーはうつむき加減に答えた。
「……少々、問題を」
「どのような……お聞きしてもよろしいですか?」
 イルフォードは間を置いて、首を横に振った。
「スフォーツハッド君に直接聞いてください」
「……分かりました」
 やがてウィルベルトの寝室に辿りつき、イリーナは鍵を開けた。
 ふと、イルフォードの背中でウィルベルトは目を覚ました。頭が酷く痛み、自分がどんな体勢になっているのか把握できない。
「ここは……」
「起きたか。お前の家だ」
 上司の声を聞き、ウィルベルトは起き上がろうとして、やっとその肩に担がれているのだと悟った。
「イっ、団長! 下ろしてください!」
「ああ」
 答えて、イルフォードはウィルベルトをベッドの上に放り投げた。
「……っ」
 最高級の柔らかいベッドに沈み、ウィルベルトはシーツに絡まれながら起き上がった。
「団長! 彼女は、あの精霊は!?」
 身を乗り出してくる部下をイルフォードは片手で振り払った。一言答える。
「死んだ」
 海だと形容されることの多い青い瞳が、見開かれて失望を映すのをイルフォードは静かに見つめた。
 相手の唇が震えるのを見て取り、先んじて口を開く。
「ザック・オーシャンの捕縛は終えた。任務完了だ。そしてお前の越権行為は許されない」
 一歩下がったところで、夫とその上司を見守っていたイリーナは片手で口を覆った。
「一週間の謹慎を命じる。家から出るな」
 団長の声は厳しい。
 ウィルベルトは立ち上がって、イルフォードを見据えた。肩を怒らせて問う。
「ザック・オーシャンの精霊を処分する件を、あなたは知っていたのですか?」
 イルフォードは視線を逸らす。ウィルベルトは息を呑んだ。
「イルフォード!」
 思わず、名を呼んで掴みかかる。
「あなた!」
 イリーナは声を上げて、ウィルベルトの袖を掴もうとした。が、それよりも先にウィルベルトはイルフォードに突き飛ばされてしまった。再びベッドに沈む。
「馬鹿者が!」
 怒声を浴びて、ウィルベルトは目を瞬いた。イルフォードに怒鳴られるなど何年ぶりだろうか。
「お前は自分が何をしでかしたのか分かっているのか! ただの越権行為ではない! お前は規約を踏みにじろうとしたのだぞ!」
 イルフォードは指を突きつけて、続ける。
「反逆罪だ!」
 イリーナは今度こそ眩暈を覚えた。倒れるかもしれないと思ったが、すっと横から腕が差し出される。見下ろすと、緑髪の少女が自分を支えていた。
「ああ、サラ……」
 サラはイリーナを見上げると、大丈夫ですか、と囁いて微笑んだ。夫の精霊であるこの少女は、子のない自分たちにとっては娘のような存在でもある。イリーナは息をついて、しっかりと足を踏んだ。
「いいか、しばらくは行動を慎め。お前の失言を聞いていたのはキセットだけだ。お前さえ失敗しなければなかったことにできる」
 イルフォードの諭しにウィルベルトはうつむいた。声を震わせる。
「そんな……地位のために……あの、精霊を……」
 イルフォードは舌打ちをする。
「泣くな。お前は自分の年を分かっているのか?」
 赤い髪――炎の剣士と謳われるこの魔法剣士は、しかしどうしようもない甘ったれであった。
 部下である前に、後輩でもあるこの男の、その性格にどれだけ振り回されたことだろうか。イルフォードは頭を掻いた。
「まったく。イリーナ殿はお前のどこが気に入ったというんだ」
 イルフォードは懐に手を入れた。青い石の付いたネックレスを引っ張り出し、ウィルベルトに投げつける。
「なんだ……? これは……」
 片手で受け止め、ウィルベルトは訝しげに石を見る。まさかプレゼントではあるまい。
「影の精霊のものだ」
「え?」
 ウィルベルトは目を見開いてイルフォードを見上げた。
「……私には必要ない。お前の好きにすればよい」
 そして、ウィルベルトを見下ろして、口調を変えて告げる。
「とにかく、一週間の謹慎だ」
 反論したいことがあるのか唇を歪める部下に、イルフォードは更に言った。
「これ以上、王の心労を増やしたくないならおとなしくしていろ」
 仕えるべき者の名を出されて、ウィルベルトは押し黙った。
 そうだ、もう久しく顔を見ていない。
「陛下は……近頃のお加減は……」
「悪くない。執務に励んでおられる」
 忠実に答えてやれば、案の定沈んだ顔をする。ウィルベルトは目線を彷徨わせて呟いた。
「……少し、休んだ方が……」
 イルフォードはため息をついた。
「そんなに心配するなら、休養をとるよう進言すればよい。ただし、一週間後にだが」
 一週間も後に、と不満そうな顔をする後輩に背を向けながらイルフォードは言葉を紡ぐ。
「友人として人目を忍んで会いに行けばよいだろう。ウィル、エイルバートはお前に会いたがっていた」
 イルフォードはそのまま出て行く。
 ネックレスを握り締めて、ウィルベルトは静かに頭を下げた。
「ヴァンドリー様をお送りしてきますね」
 夫にそう言うと、イリーナはサラを残してイルフォードを追っていった。
 サラは主人に近づいた。そしてネックレスを持つ手をとって、己の白い手で包む。
「……大丈夫?」
「え?」
「泣いていたでしょう?」
 大きな黄緑色の瞳に見つめられて、ウィルベルトは眉を下げた。
「あ、ああ……」
 ザックは闇音を失った。
 自分はサラを失うことに耐えられるだろうか――そう考えると、また目頭が熱くなってくる。
「あら……、ウィルは泣き虫ねえ」
 優しい笑いを含んだ声にウィルベルトは涙をとめることが出来なかった。
 王はなぜ、精霊を殺してしまう命令を下したのだろうか。否――彼がそんな命令を出すはずがない。
(エイルバート……)

     *     *     *

「陛下、ザック・オーシャンを捕らえました」
 エルズは片膝をついて、目の前の人物にそう告げた。相手は窓際に立ち、外を眺めている。高所を舞う強い風が銀糸の髪を攫った。
「そう……」
 パスティア王妃は髪を押さえて、金鷹副団長補佐を振り返った。
「……ようやく、この手に……」
 そう呟く唇は相も変わらず麗しい。そして。
 エルズは頭を下げる。床を見つめたまま、彼は嘲笑を浮かべた。
 縹深き瞳は相も変わらず――狂気的な美しさだ。

赤き魔女の封印 8

「ザックがイルタシアに捕らわれた」
 ネフェイルの一言に、フレイムは動くことが出来なかった。
「……え?」
 長い間を置いて、やっとそれだけの音が発せられた。
「闇音は?」
 グィンがすかさず問う。
 ネフェイルは眉を寄せ、厳しい顔つきで声を低くした。
「死んだ」
 その言葉の意味を理解することはできなかった。
 なんと言ったのか、もう一度尋ねようとしたところ、ネフェイルがまた口を開く。
「霊子に分解された。それは精霊にとっては『死』と言うだろう?」
 グィンに向けて問う。
 グィンは真っ青になって、ふらりと机の上で座り込んだ。そしてぽろぽろと、あっという間に大粒の涙が溢れてその頬を伝う。
 透明な滴が小さな膝を濡らすのを見て、フレイムはわずかに我に帰った。
「冗談、じゃないよね? ……だって、たちが悪すぎる……」
「残念ながら……たちの悪い、事実だ」
 ネフェイルは重く答える。
 フレイムは机に頼って立ち上がった。
「……ごめん……ちょっと……歩いてくる」
 ぼんやりした口調でそう言って、ふらふらと部屋を出て行く。ネフェイルは何も言わず、黙ってそれを見送った。
 外はいい天気だった。
 自分の目の動きに従って、視界に映るものが変わる。
 地面から草が生え、木が伸び、風がその間を舞う。
 そして、空はどうしようもないほどに静かだった。

     *     *     *

 手を伸ばして掴んだものは、空気だった。
 涙に溺れながら、ザックは目を覚ました。
 視界の先には青い壁。浮き彫りで巻き蔓が描かれた重厚な――ああ、壁ではなくて天井だ。
 自分は仰向けに寝ている。そう悟って、ザックは息を吐き出した。
 手の甲に触れる滑らかな感触は絹だ。
「……?」
 装飾の凝った室内に上等のシーツ。
(ここは……どこだ?)
 鈍い痛みの走る頭を押さえながら、起き上がる。
「イルタシア国ホワイトガーデン、王城ホワイトパレスの一室だよ」
 不意に響いた声に驚いて、ザックは声の出所を振り返った。
 扉の近くに丸椅子を添え、そこに腰掛けている男がいた。三十歳前後か、痩せ気味の目の細い男だ。白いローブが印象深い。
「僕はエルズ・キセット。もうしばらくは君の世話をする」
 ザックはしばらく男の言葉を反芻した。訳が分からない。
「なんで……?」
 自分は罪人として捕らえられたのではなかったのか。これではまるで客の扱いだ。
 エルズはザックの疑問には答えず、背後を振り返る。その仕草で、まだ他に人がいるのだとザックは悟った。
「陛下」
「……え!?」
 エルズの言葉にザックは驚愕した。国王がそこにいるのかと思ったのだ。
 しかしそれは間違いだとすぐに気づく。さらりと銀のドレスが絨毯の上を滑る。
(陛下は陛下でも、王后陛下の方だ)
 それにしても王后陛下がわざわざ罪人に会いにきたというのか。ザックは不安を感じて、シーツを握り締めた。
 それは美しい女だった。
 輝く銀糸の髪。深い紺碧の瞳とそれを縁取る長い睫毛。唇は血色が良く、優美な笑みを浮かべている。
 パスティア・ユンセイ・イルタス。イルタシア国の国主イルタス六世の妻――現イルタシア王后である。彼女はふわりと微笑んだ。それはどのように見ても、罪人に向けるものではなく、ザックは大いに困惑した。
「臣下が手荒な真似をしなかったかしら?」
 声までも美しい。
 ザックは答えられず王妃を見つめた。
 王妃は静かに歩み寄ると、わずかに背を傾けた。ザックに目線を合わせる。
「疲れているようね。だめよ」
 その聞き惚れる声が紡いだ次の言葉に、ザックはぞっと総毛立った。
「あなたは大切な人なのだから……。マリー」
「……な、なにを……言って……」
 渇いた喉から必死に声を絞る。
 マリー・マクスウェル。二十年近く前に死んだザックの母だ。
 パスティアが頬に触れてくる。優しい手つきだが、ザックはナイフの刃で撫でられている気分だった。
「マリー、あなたは私のもの。もう二度とどこへ行くことも許さないわ」
 澄んだ青い瞳、そこに浮かぶ光が狂信的なものであることにザックはやっと気がついた。
 彼女の背後で、エルズが小さく笑みを浮かべているのが目の端に映る。嘲笑のような薄い笑み。彼は知っていたのだ。この類まれな美貌を持つ王妃の、異常を。
「……い、嫌だ」
 首を振りながら、ザックは以前もそのように感じたことがあるのを思い出した。
 この王妃は嫌だ。
 一年前、大陸に来て間もない頃、偶然にも王族の馬車を見かけた。そのときに垣間見たパスティアに吐き気がするほどの嫌悪を覚えたのだ。
「……う……っ」
 ザックは思わずベッドに突っ伏した。
 喉に熱いものがこみ上げてくる。
「まあ、大丈夫?」
 あいかわらず気持ち悪いほどの優しい手が背を撫でる。
 その手に心臓が飛び上がるほど怯えながら、ザックは吐き気を堪えたながらも声を絞った。
「なんで……フレイムのことは……?」
「フレイム?」
 王妃は記憶を探る表情をして、すぐに、ああ、と言った。
「神腕の子どもね。罪人ですもの、捕らえなくては。あなたとは違うのよ」
 ザックは困惑した。自分はフレイムを庇ったために反逆罪を負わされたのではないのか。
「あなたがフレイムと一緒にいると知ったときには、驚いたわ。でもそうね。神器の持ち主さえいれば、あなたを探し出せるとは思っていたわ」
 それではフレイムが生け捕りとされていたのは、自分を探させるためだったのか。ザックは吐き気も落ち着いてきたので、さらに尋ねてみた。
「……イルタス王もそのつもりで、フレイムを?」
 王妃は長い睫毛を瞬かせ、笑う。
「王が? なぜ?」
 ぞくりと、背筋が冷えるのをザックは覚えた。
「あなたを必要なのは私よ」
 白く細い指が頬に触れる。ザックは息を呑んだ。
「マリー、ずっとここにいてね」
「お、俺は……」
 言い淀むザックを抱きしめ、王妃は相手の耳元で囁いた。あやすような柔らかい声音で。
「だって、あなたは独りになってしまったのに。私がいなければどうするの?」
 意識が落下する。
「……あっ」
 ザックは頭を両手で押さえた。
 光の渦が――を呑み込んでいく。消えていく!
「俺は……」
「あなたは私のものよ」
 青い青い瞳、海よりも深い。この海が自分を呑み込む。
 王妃の腕の中でザックは気を失った。

赤き魔女の封印 9

 この頃、宮中はさわさわとさざめいていた。金獅子の副団長が問題を起こし、謹慎しているという噂だ。
 緑の庭園を横に、長い大理石の廊下を歩みながら、アーネストは彼らの小声を耳に掠めさせていた。
(金獅子……か)
 ジル・オーシャンもかつては金獅子の団員だった。
 もう一つの噂とあわせて、奇妙な符号を思わせる。アーネストは翠の双眸を細めて、王宮の奥、王のいる内殿のほうを見つめた。
(ザック・オーシャンが捕らえられた……)
 次に発行される賞金首リストからはその剣士の名は消えるだろう。それがもう一つの噂だった。

     *     *     *

「俺、イルタシアに戻るよ」
 ザックが姿を消してから二日後、フレイムはそう言った。
 側にいるグィンもだいぶ落ち着いたように見える。ネフェイルは向かいの席に座った弟子を見つめた。
「それがイルタス王の狙いだとしてもか」
 フレイムと親密にしている者を捕らえ、それを利用してフレイム自身を誘い出す。
 フレイムは頷いた。
「だって、俺が強くなりたいと思ったのはザックたちのためなんだから」
 ――また、めそめそするのか。
 そう言われた昨日のことを、フレイムは思い出す。

「飛竜……」
 木々の並ぶ小道を歩いていたフレイムは、声をかけてくる男を木陰に見つけた。
「ザックが捕らえられたらしいじゃないか。また、コウシュウのときのように、めそめそするのか?」
 意地悪そうに笑いながら、飛竜は道に上がってくる。フレイムは赤い双眸の男に首を横に振ってみせた。
「ううん」
 飛竜が片眉を上げる。
「だって、ザックは生きてるだろう? 彼のことだから、きっと簡単には諦めないだろうし、俺だって彼を見捨てたりはしない。助けに行くよ」
 相手が黙って聞いているので、フレイムはそのまま続けた。
「ただ……闇音さんは……」
 涙は昨晩使い果たしてしまった。
 風は木の葉にするように、フレイムにも優しく触れる。色の淡い瞳で空を見上げて、息を吐く。
「もう少し……落ち着く時間が……欲しいんだ」
 闇音のためにもザックを助け出さなければならない。
 彼女が命を落としたのだとしたら、それはきっとザックを庇ってのことだろうから。
「なるほどな」
 飛竜は頭の後ろで手を組んで笑った。
「安心した。一度ついた決心がまた揺らいだのでは話にならないからな」
「決心?」
 フレイムが問い返す。
「『こんなところでもたついているわけにはいかない』」
 飛竜はそう答える。
 聞き覚えのある台詞にフレイムは目を瞬いた。
「お前がそう言っただろう。お前は『大切な者』とやらのために、戦うんだろう?」
「……ああ」
 思い出して、フレイムは頷いた。コウシュウで飛竜にネフェイルの居場所を聞いた時に言った言葉だ。
「戦うって表現……でいいのかな」
 目線を下げる少年に、飛竜は肩をすくめた。
「逃げてないなら戦ってるんだろう?」
「でも、飛竜は逃げてないけど、戦ってもいないだろう?」
 切り返されて、飛竜は目を丸くした。すぐに笑い声を上げる。
「確かに! 俺は疲れるのはごめんだからな。俺は逃げてもいないし戦ってもいない」
 笑い声をおさめると、飛竜はまた木の陰に消えていこうと道から外れた。
 フレイムはそれを追うように声を上げた。
「じゃあ、何をしてるのさ?」
 緑と緑の狭間で、飛竜は鮮血の双眸を輝かせて笑った。
「楽しんでいるのさ」

 ネフェイルはテーブルの上で手を組んだ。
「では……出発はいつ?」
 フレイムは考えながら答える。
「……今日、準備をして明日にでも」
「ふむ」
 ネフェイルは組んだ手を撫で合わせた。しばらく考え込み、おもむろに口を開く。
「私が王都まで行って手を貸すのでは、目立ってしまうな」
「うん。……そうかもしれない」
 分かっていた様子でフレイムは頷く。
 ネフェイルは以前は王都で魔術の研究をしていた者なのだ。彼を知る魔術師は王都には多い。もちろんその中には王宮に関係の深い者もいる。
「そうだな。――少し待っていてくれ」
 ネフェイルは立ち上がると、部屋から出て行った。間もなく、手に手帳を持って現れる。
 席についてぱらぱらと捲りながら、あるページで手を止める。
「マクスウェル家に連絡を取ろう」
「……えっ」
 フレイムが驚きの声を上げる。ネフェイルは開いたページを見せる。イルタシアの地図だった。何ヶ所か赤い印が付いており、その一つが指差される。
「王都ホワイトガーデン、その西区にマクスウェル家はある。当主はザックの祖父から次の者に代替わりしているはずだ」
 フレイムは地図を覗き込みながら問う。
「ザックのお母さんは家を出たんだよね? 他に兄弟が?」
「ああ。確か弟がいたはずだが、足が悪いと聞いている。彼に子がいれば、既にその子が継いでいるかもしれない」
「ということは、ザックの従兄弟……?」
 ネフェイルは頷いて、手帳を閉じた。
「マクスウェル家がマリー嬢を絶縁していなければ、協力してくれるかもしれないな」

 祖父からの帰ってこいとの連絡を受け、アーネストは王宮での執務を早めに切り上げ帰宅した。
「お爺様、今帰りました。何用ですか?」
 先代当主の部屋にノックして入り、アーネストは早速本題に入る。赤い生地の張られた椅子に体をうずめ、白髪のだいぶ混じった老人はいまだ衰えぬ眼光を孫に向けた。
「ネフェイル・ホライゾを知っているか」
 突拍子もなく大魔道師の名を出され、アーネストは目を瞬きながらも頷いた。
「ええ。一時は王宮にも足を運んだことのあるという、名のある魔道師ですよね?」
「うむ。その彼から連絡があった」
 祖父の言葉にアーネストはさらに目を大きくした。
「なんと?」
 先代マクスウェル公爵は憚るように声を潜めた。
「お前の伯母であるマリーの息子のことだ」
 ザック・オーシャンだ。アーネストはすぐに思い当たった。彼が今王宮に罪人として捕らわれている。話があるとすれば彼のことだろう。
 しかし、なぜネフェイルからなのか。
 アーネストが疑問を表情に出すと、祖父は頷いて話を続けた。
「ホライゾ殿の弟子が、マリーの息子に世話になったらしい。それでその者が我が孫を助けたいと言っていると言うのだ」
 なんという繋がりだろう。
 アーネストは己の動悸がわずかばかり速くなるのを感じた。
「捕まっておるのがマリーの息子なら私は助けてやりたい」
 祖父は、しかし、と言葉を繋ぐ。
「その者が確かな悪人を庇い、その咎で捕らわれているというのならば、王室が正しい」
 祖父の眼差しは言葉なくとも語っている。アーネストは即座に頷いた。
「私が見極めてまいりましょう」

赤き魔女の封印 10

「食事は……またいらないと?」
 ほとんど手をつけられていないテーブルの上の料理を見て、エルズはベッドに寝転んでいるザックに視線を移した。
 仰向けに天井を見つめながら、ザックは答える。
「ああ、いい」
「ハンストのつもりかい?」
 エルズが問うと、ザックはそのままの姿勢で首を振った。
「……そんなつもりはない……ただ」
 食べる気がしない、そう呟いて片腕で視界を覆う。エルズはため息をついて、使用人に食事を下げさせた。
 青い天井を見つめる黒い瞳はどこか虚ろだ。
(あの影の精霊のことだな)
 目の前で消滅する瞬間を見たのだから、気持ちは分からないでもない。
 しかし、エルズは別段ザックのことを心配しているわけではなかった。食事を取っていないといっても、まだ捕らえて三日目の朝――食事数で言えば二日分にもならない。ハンガーストライキでないというのら、気持ちが落ち着けば食事はするだろうし。体力もありそうな男だ。今は放っておいた方が静かでよいかもしれない。
 エルズはふと嘲笑を浮かべた。
 それにまるで人形のようなこの状態が、王妃にとっては喜ばしいことなのかもしれない。
「では、私は職務に戻るから。何かあったら、そこのベルを鳴らしなさい。どこにいても聞こえるから」
 そう言って、ベッドサイドのテーブルの上にあるベルを指差す。
 ザックの瞳が横に動き、また元に戻る。それだけで返事はなかったが、理解はしているようだ。エルズは他に言うこともないので、そのまま部屋を出た。
 廊下に出て、茶髪の壮年の男とすれ違う。エルズは軽く会釈をした。相手も返してくる。
(フェルビッツだ)
 エルズは頭の中で相手の名を呟いた。
 ファーストネームなどは知らないが、確か数年前まで金獅子にいたはずだ。前団長が今の団長に地位を譲った時に、まださして年というわけでもないのに一緒に辞めた男である。
(金獅子のことなど興味はない)
 エルズはさして気にすることもなく、その場を後にした。
 去っていく金鷹の副団長補佐を、元金獅子の男は肩越しに見つめた。
(あちらの宮から渡ってきたようだな)
 エルズが出てきた渡り廊下の向こうの建物を見やる。
(……噂のザック・オーシャンとやらはあそこか)
 茶髪の男は場所を確認し、そのまま空を仰いだ。秋の高い青空が広がっている。
「いい天気だ」
 一人で呟き、彼は再び歩き始めたのだった。

     *     *     *

 グィンはフレイムに許可を得て、シヤンの森に来ていた。
 光り輝く神の森の前に立ち、深く息を吸う。マクスウェル家からの返事が届き次第、出発するというから急がねばならない。
(敵は……闇音を倒すほどの……)
 きっと顔を上げると、グィンは森の中へと入っていった。
 この森の奥に神の住む泉があるという。グィンが生まれたのもそこだ。大地の女神――森を守る一族はシヤニィと呼んでいる――がいるところなのだ。
 朧な記憶を頼って、進んでいく。深い緑の大気は濃く、零れる陽光が美しかった。今日は巫女は現れる様子がない。グィンに気づいており、しかし正体は知れているので気にしていないのかもしれない。
(女神様……)
 森の奥に進むに連れて、辺りを覆う神気が強まっていくのを肌が感じ取る。
(女神様、僕に力をください)
 飛んでいくうちに、ばっと視界が開けた。
 さらさらと輝く水面(みなも)。岸辺には白い花が咲いている。緑の影が落ち、降り注ぐ光の柱を描いていた。
「……女神様」
 呆然と呟き、グィンは湖の側まで寄った。
「僕に力を……」
 フレイムを守れるだけの力を。
 水面を覗き込みながら呟くと、耳にふわりと気配が感じられた。すうっと体を静寂が包む。
『時は来ぬ――……』
 それは生き物の声ではなかった。いや、声ですらない。
 漠然とした気配が、グィンの頭の中で言葉という形で処理されていく。
『まだ、お待ちなさい』
「そんな!」
 グィンは両手を広げて叫んだ。
「今じゃないと! 力のないまま付いて行っても、僕は足手まといになってしまう!」
『時はいつか必ず来る』
 声ならぬ声は変わらぬ単調なトーンで続ける。
『水はとどまらず、高きより落つ。雲は流れ、空の色は変わり、光は闇にもなる』
 分かっている。待てば、いつかはグィンも中級精霊になり、上級精霊になることも出来るだろう。
 だが、今はそれを待てる状況ではないのだ。
 グィンは震える手を握り締めて、その声を聞いた。
『小さき者よ、時はまだ来ぬ。――だが、遠くはない』
 最後の一言にグィンは目を見開いた。
「本当ですか!?」
 返事はなかった。
 光と影の間をしらしらと小さな蝶が飛んでいく。
 女神は口を閉ざしたのか、先ほどまで静かだったのが、途端に音に目覚める。小鳥の鳴き声が甦り、風が葉を鳴らした。
「ありがとうございます!」
 グィンは思い切り頭を下げた。
 そのまま意気揚々と振り返り、帰路を辿る。
(時は来る)
 グィンは葉の上を飛び跳ねた。
(僕はフレイムを守る!)
 そして――
(闇音のために、フレイムと一緒にザックを助けるんだ!)
 どういった戦いがあったのかは知らない。だが、闇音はザックを守るために戦って死んだはずだ。
 いや、精霊に死の概念はない。彼女が真にザックに仕えていたなら、彼女の霊子はいまだ次の生へと形取る事はなく、ザックの側にあるだろう。
 主人のために戦い、身を滅ぼす。
 それは精霊にとっては、一つの最高の形でもあった。そうなることに憧れている精霊も、決して少なくはない。
 だが、グィンは思う。
(ザックは死んでまで守ってもらいたいなんて思ってない。闇音だって分かってたんだ)
 だが、そうはできなかった。
 闇音はあのザックの笑顔をいつまでも見ていたかった筈だ。母のように、見守っていたかった筈だ。
 彼女は感情を露わにすることは少なかったが、それでもグィンには彼女はいつも微笑んでいるように見えていた。同じ精霊だから、分かったのかもしれない。
 グィンは零れてきた涙を拭いながら、飛んだ。
(闇音……)

赤き魔女の封印 11

 静かだった。ドアの開く音も、閉まる音もしなかった。
 ただ、気づいたら人の気配が増えていて、ザックは目を見開いた。
「だっ」
「静かに」
 白い指先が宙を切る。
 ぴたり、と、口を縫い付けられたかのように声が出ない。
 ザックは無言で相手を見詰めた。
 二人。茶髪の壮年の男と、白い指の――ドッペルゲンガーである。白い肌、翠の瞳と肩の下まで伸ばした金髪、相違はそれだけで、相手は自分と同じ顔をしていた。
「ジオルド様」
 茶髪の男が、金髪のドッペルゲンガーを振り返る。
「一目瞭然、とはこのことですね」
 ジオルドと呼ばれたドッペルゲンガーは、神妙、というよりは不機嫌そうな顔でうなずいた。ベッドに腰掛けているザックを見つめる。
「確かに。だが、どうにも……間抜けそうですね」
 失礼なことを呟いて、ジオルドは最初と同じように、指で宙に何かを描いた。
「ザック・オーシャンだな」
 確信を持った問いにザックは頷いた。
「……そうだ」
 声が出た。
 喉を撫でながら、警戒気味に問う。
「あんた達は誰だ?」
 ジオルドは茶髪の男と顔を見合わせた。それから語り出す。
「君の敵ではない。しかしまあ、まだ味方といえるわけでもない。君が愚か者ではないと判断できたら、改めて味方であると宣言しよう」
「……意味が分からないんだが……」
 ジオルドはにやりと笑った。冷たい刃を感じさせる笑みだ。
 思わず怯むザックに、ジオルドは威圧的に命じる。
「素早く理解しろ。考えない人間は嫌いだ」
 ザックは息を呑んで、うなずいた。そして目の前の男を見つめる。
 ジオルドの翠の瞳は光を豊富に含んで美しい。母の瞳もこうだったのだろうかと思う。
 それに艶やかな金の髪――
 ザックは目を見開いた。
 金髪、翠の瞳、自分とよく似た顔。まさか、と思う。
「……あんた、何者なんだ」
 ジオルドは今度は満足そうに笑った。
「お前の考えはおそらく八割方は正解だろう」
 あえて答えは言わない。
「さて、一つ聞きたいのだが」
 ジオルドはそう言って、部屋に一つだけ置かれているソファに優雅に腰掛けた。茶髪の男はドアの側に立っている。外に注意を払っているようにも見える。
「お前は悪人か?」
 ザックはどきりとして自分の胸元を掴んだ。
「俺は……」
「お前はフレイム・ゲヘナを庇うに値する人間だと判断したのか?」
 村を焼いた悪魔の子、そう言われる少年を。
「フレイムは……」
 ザックは目を閉じた。
 泣いていた。人に裏切られて、人を信じたいのに信じられなくて、泣いていた少年。
「あいつは人を殺せるような奴じゃないんだ」
「しかし、事実は」
「事実は村が焼けたことだ。火をつけたのは確かにあいつだ。だが、火を広げたのもあいつか?」
 ジオルドの言葉を遮って、ザックは顔を上げた。不思議と頭が冴え渡る。
「もう一人いたんだ。火が燃え上がったとき、フレイムと同じ場所にもう一人いた」
 フレイムの恋人を殺した男が。
 そうだ、なぜ気が付かなかったんだ。フレイムじゃない。そう思うなら、もう一人必要だったんだ。
(ああ……、でもフレイムは犯人のことを忘れてて……)
 眩暈がした。思考の失速が始まる。
(ネフェイルは最初から知っていたんだ。フレイムじゃないと……。だから、助けたんだ)
 それでも、そうだと教えてやらなかったのは、フレイムが火をつけたという事実があるからか。少年は確かに、すべてを燃やしてしまいたいほどに、憎しみを抱いていた――。
 そして完全に思考は止まる。
「……ふむ」
 ベッドに倒れこんだ青年を見下ろして、ジオルドは顎を撫でた。顔色の悪さから、おそらく食事を取っていないのか、そんなことだろうとは思っていた。興奮して喋るには体力が持たなかったようだ。
 ジオルドはドアの側の男を振り返った。双眸を細めて笑う。
「なかなか面白い話でしたね。アシール村で確認された残留魔力は一つ。さて、『もうひとりいた』とはどういうことでしょう?」
 それまで黙っていた男がぽつりと呟く。
「……『犬』」
 それはいまだ一般には知られていないこと。
「極秘情報ですね……、魔力以外の力を持つ存在」
 翠の瞳はその頭脳の明晰さを表すかのように冴え冴えと輝いている。ジオルド――アーネスト・マクスウェルはソファから立ち上がった。
「フェルビッツ様、どうやら私の仕事は終わらないようです」
 ザークフォード・フェルビッツは頷いた。
「ザック・オーシャンとフレイム・ゲヘナは力を貸すに値するでしょう」
「そんなことは最初から分かっていましたよ」
 ザークフォードは答えて笑った。歩み寄ってきて、ザックを見下ろす。
「私の親友の子ですからね」

「起きろ」
 揺さぶられて、瞼を持ち上げる。目の前は人影で暗かった。
「飲め」
「っぶ、ぐ」
 無遠慮にコップがあてがわれ、冷たい水が喉を刺激する。ザックは耐え切れずにむせ込んだ。
「げほっ、……ひでえ」
「何が酷いか。水を飲んで体内を整えろ。そのままでは食事を受けつけないだろう」
 高慢な声でそう言うのは、金髪のドッペルゲンガーだった。その背後には水差しを片手に持った、茶髪の男がいる。
「お前、ジオルドったっけ……?」
 ザックの問いに、アーネストは首を横に振った。
「それは私の名ではない。まだ味方ではないお前に、実の名を明かしたくはなかったのでな」
 きょとんとする従弟にアーネストは、自分とザークフォードをそれぞれ指し示した。
「私はアーネスト・マクスウェル。察しのとおり、お前の従兄に当たる。こちらはザークフォード・フェルビッツ様。縁あって我々に力を貸してくださる」
「ザークフォード?」
 どこかで聞いた名だ。ザークフォードは肩を竦めて見せる。
「愛称はザックだ」
「ああ!」
「馬鹿者、大声を出すな」
 ぽかりと殴られながらも、ザックはザークフォードを凝視した。
 父の親友だ。「ザック」という名はその愛称をそのままつけたらしいと、シギルが言っていた。
「すげえ」
「なんという緊張感のない男だ。愚弟ならば、今後お前との血のつながりは否定するぞ」
 邂逅に感動するザックを横目に、アーネストは呆れた口調でごちた。ザークフォードがフォローを入れてやる。
「それは可哀想ですよ。現に彼は食事も取れないほどに弱っている」
 アーネストはそれでも不満だというようにザックを睨んだ。
「今のお前に要求されるのは意志の強靭さだ。覚えておけ。体力もないまま、敵に勝てるとは思うな」
 ザックは自分と同じ顔の従兄を見た。
「敵って?」
「……これではっきりした。お前はやはり愚弟だ」
 頭を抱えるアーネストにむっとしてザックは言い返した。
「悪かったね。どうせ俺は熟考には向かないんだ。腹が減って頭も回らないしな!」
 そしてふんと顔を背けると、ザークフォードがくつくつと笑うのが耳に届く。思わず赤面する従弟にアーネストはため息を零した。
「しょうがないな……。この状況で敵といったら、お前をここに閉じ込めている者たちだろう」
 両手を広げて説明する。その言葉にザックは、王妃の冷たい双眸を思い出した。思わず、自分の腕を握り締める。
 その様子を見ながら、アーネストはその腕を掴んだ。顔を上げた相手の、翠の入り混じった黒い瞳を真っ直ぐに見据える。
「だが、お前の当面の敵は、お前自身だろう。お前はこのまま自分を飢え死ににするつもりか?」
「……あ」
 ザックは今更驚いたように、目を見開いた。
「一番の敵は己の心の弱さと知れ」
 アーネストはそう言う。
 いかにも高級そうな、手触りのよい美しい衣服に身を包んだ従兄を見上げて、ザックは笑った。アーネストの手は白くて綺麗で、剣だこのある自分のものとはだいぶ違う。
「あんた、剣も持たないのに強そうだ」
 アーネストは一瞬黙り、それからふふんと笑った。プライドの高い猫のようだ。
「お前は戦うのが剣士だけだと思っているのか。私は一族を代表する魔術師だぞ。お前なぞ、剣を持っていても私には敵うまい」
 そうかもしれない。ザックは肩の力が抜けるのを感じた。
 もっと気をしっかり持たなくてはならない。
 アーネストは手に持ったままだったグラスをサイドテーブルに置くと、ベッドから立ち上がった。
「ジオルド」
 仮の名を呟いた男の後姿を、ザックは見上げた。アーネストはそのまま続ける。
「これはお爺様が愛する娘に子が出来たら、その子に与えてやろうと思っていたものだ」
 どくんと、心臓が深く脈打った。
「お前の名だ」
 振り返って、アーネストは翠の双眸を細めた。はじめて会ったはずなのにも関わらず、懐旧さえ滲ませて。
 ザックは魂が震えるような錯覚を覚えた。
 海に囲まれた島で眠っていた自分の、身の内に流れるもう一つの血が、目を覚ます。大地によろよろと立っていた足が、しっかりと土を掴んだ気がした。
 アーネストは体ごと振り返る。
「これからお前のことはジオルドと呼ぶ。これは一つの暗号だ。お前の事をジオルドと呼ぶ者がいれば、それは味方だと思え」
 ゆっくりと、ザックは頷いた。

赤き魔女の封印 12

「返事が来た」
 ネフェイルはフレイムの部屋に訪れた。フレイムは椅子に座ったまま、緊張して彼の言葉を待つ。
「協力する、だそうだ」
 ネフェイルは満足げに、そう言った。片手に持った紙片を振ってみせる。
「本当?」
 フレイムは顔を綻ばせて立ち上がった。
「ああ。それに、今のマクスウェル家当主はザックの従兄に当たるそうだ」
 ネフェイルは頷いて、持っていた一枚の紙を広げて見せた。
 ネフェイルの手元にある紙に、魔術で直接文字を書き込む――そうして届いたアーネストからの手紙である。
「その当主からの伝言がある」
「何?」
 覗きこむフレイムに手紙を渡し、ネフェイルはその要旨を伝えた。
「王都に着いたならば、すぐにマクスウェル家に来ること、あとは、そのときの合言葉についてしたためてある」
 フレイムはその手紙を左から右に読んで頷いた。顔を上げて、ネフェイルに笑みを見せる。
「ありがとう」
 グィンも嬉しそうに笑っている。
「だが、私に出来ることはもう少ない」
 緑の双眸から笑みを消し、ネフェイルは静かに告げる。
 フレイムは頷いた。
「はい」
 彼を頼ってばかりいられない。
「さあ、準備をしなさい。イルタシアの貴族の屋敷は、侵入者を防ぐために結界があるから、家人がいなければ入れない。マクスウェル家のすぐ側まで送ってやろう」

 ネフェイルの家の庭に立ち、フレイムはリュックを背負った。グインも彼に寄り添う。
「ネフェイル」
 振り返った先には、杖を持ったネフェイル。その杖は精度向上の魔術具である。
「イルタシアは剣と魔術の国だ。王室の誇る金獅子、金鷹はそれだけで軍隊と呼べる」
 皺の刻まれた彫の深い顔に影を落とし、ネフェイルは続ける。
「覚えておきなさい。二つをまとめているのは王室であることを」
 フレイムは彼の言わんとするところを悟った。神妙に頷く。
 王室は、それらを上回る力を持つ。現国王が剣の名手であることは、近隣諸国にも知れていることだ。
(それほどの力があって、どうしてまだ望むんだろう)
 イルタス王がフレイムに莫大な賞金を掛けているのは、それを生け捕らせ戦力にするためだと考えられている。領土拡大のためだという。
 フレイムは空を仰いだ。
 この空よりも深い、海の色の双眸を持った剣士を思い出す。澄んだ眼差しを持つ彼が忠誠を誓う相手は、そんな私欲に燃える男なのだろうか。
(それとも、本当に……罪人を放っておかないために……?)
 すべては憶測だった。徐々に、聞き知った事柄と、目の前に現れる存在が、その噛み合せの悪さを物語り始めている。フレイムもそれを感じ取り始めていた。
 まだ、王の声すら聞いたことがない。
(イルタシアに行けば分かる)
 イルタシアには国王がいる。ウィルベルトがいる。アーネストがいる。
 そして、ザックがいる。
 フレイムはもう一度、しっかりとネフェイルを見つめた。
「ネフェイル、じゃあ」
「うむ」
 ネフェイルが杖を振る。色鮮やかな魔術陣が地面に描かれていく。曲線を描いて伸び、更に伸びて絡まる。編み出されていく、魔術陣は遠くイルタシアに繋がる道だ。
 二度と踏むことはないだろうと思っていた地。
(アーシア……)
 彼の地で、彼女に出会って、人を愛することを知った。
 彼女を失って、人を愛することを忘れた。
 ザックが思い出させてくれた。心を偽ることを知らない真摯な眼差しが、氷を溶かした。
(俺は、イルタシアに行く……)

 フレイムは、今後を暗示するかのようにその色を変化させ続ける魔術陣に、足を踏み入れた。

     *     *     *

(暗雲を見るようだ)
 ネフェイルは静かになった庭で、西の空を見つめた。
 イルタシアから吹いてくる風は、不穏を孕んでいる。
(……マリー嬢はこうなることを知っていただろうか)
 息子が大陸の地を踏み、そしてイルタシア王室に捕らわれる。
 マリー・マクスウェルはその世代を代表する類まれな魔術師――「赤き魔女」と呼ばれた女性だ。体内を駆ける血潮は無限の魔力を紡ぎ出し、彼女は圧倒的な存在感を持って、かの魔術の国の王宮で強く輝いていたのだ。
 その魔女の封印は、彼女の死後、今もなお息子を守っている。
 ネフェイルは流れる雲を注視した。
 魔力を封じて、息子の何を守ろうとしたのか。魔術こそ、身を守る術にもなるというのに。
(……赤き魔女の、封印……)

 守ろうとしたものは――?

赤き魔女の封印 13

 目を開けると、そこにザックが立っていた。
(違う……)
 ザックにそっくりな男だ。金色の髪がザックとは違う。
(ザックのお母さんの血筋……)
 金の髪、銀の髪はイルタシアの貴族には多い色である。
 背後に黒い鉄格子の門を背負う相手の、翠の瞳をフレイムは見つめた。
「君がフレイム・ゲヘナだね。合言葉は聞いているよね?」
 アーネスト・マクスウェルがそう問うてくる。フレイムは頷いた。
「はい。ジオルド、と」
「ふむ。とりあえず、屋敷に入ろう。君のような有名人を誰かに見られでもしたら大変だからね」
 アーネストは手を振って、フレイムとグィンを門内に招き入れた。
 門をくぐって、フレイムはそびえ立つ屋敷を見上げた。白い外観はイルタシアではポピュラーなものである。
 だが、確かな技術を持って美しく剪定された庭木や、玄関上に掲げられた国旗は一般家庭ではあまり見かけない。
(貴族の白い家……)
 ここは確かにイルタシアの王都なのだ。
「どうかしたかい?」
 玄関の前で、アーネストが立ち止まっているフレイムを振り返る。
「あ、いえ……ホワイトガーデンだなあって……」
 そう答えると、アーネストは一瞬きょとんとして、すぐに笑った。
「時差ボケなんてなしにしてくれたまえよ? ここは、そう、王都だよ。少し歩けば王城も見える」
 フレイムは息を呑んだ。
 国王がいるのだ。
 緊張した面持ちの少年に対し、アーネストは剣呑な笑みを見せる。
「君の敵がいる」

 赤い布地が張られた壁には、大きなタペストリーも下げられている。本格的な冬が来れば、その数は増えるだろう。床もまた赤い絨毯で、白で模様が描かれている。
 広い部屋に置かれたテーブルに一人でちょこんと腰掛けて、フレイムは室内を見渡した。グィンも所在なさげにテーブルの上に座っている。
(凄い部屋……家具のことなんか分からないけど、やっぱり俺の家にあったのとは雰囲気から違うよね)
 我が家の家具は、こんなにもきらきらしてなどいなかった。フレイムの記憶にあるのは、四角で小さいダイニングテーブルだ。
「すまない、待たせたね」
 謝ってアーネストが部屋に入ってくる。その後から、ティーポットとカップが載ったお盆を抱えた女性も現れる。
「こちらは私の細君になる」
 アーネストはポットから紅茶を注ぐ妻を指して、そう紹介した。
「どうぞ」
 微笑んでマクスウェル夫人はフレイムにカップを差し出した。
「あ、ありがとうございます」
 フレイムはぺこりと頭を下げた。
 そう目立つ美人ではないが、目鼻立ちは整っており、何よりもその笑顔は柔らかく優しげだ。蜂蜜色の髪からは甘い香りが漂ってきそうで、フレイムは思わず頬を染めてうつむいた。
 夫人はにっこりと微笑むと、夫に軽く会釈をして部屋から出て行った。
 扉が閉まるのを確認して、アーネストはフレイムの向かいの席に腰を下ろした。
「見た目はああだが、怒らせると怖いぞ」
 呟かれた言葉に、フレイムは目を瞬いた。アーネストは意地悪げに笑う。
「私もあの微笑にだまされたのだよ。初めて喧嘩した夜には詐欺だと思ったね」
 グィンがころころと笑う。
「でも、そんな所まで好きになっちゃったんでしょう?」
 人の感情に敏感に反応する緑の精霊に、アーネストは目元を緩めて、肩をすくめた。
「これはこれは、精霊相手では惚気(のろけ)になってしまったかな?」
 自分の紅茶に口をつけて、アーネストは息をついた。
「さて、早速本題に入ってもいいかな?」
 翠の双眸が鋭さを帯びる。フレイムは緊張した面持ちで頷いた。
「まず、君はどの程度の魔術が扱えるのかな?」
 相手はフレイムが神腕の持ち主だと知っている。その上、マクスウェル家は魔術に長けた一族だとネフェイルにも聞いた。
 フレイムはこの時になって、自分の魔術の心許なさを悔いた。
「……中級魔術師の程度なら、問題なく」
 白い指がテーブルの上で組まれる。
「ふむ」
 アーネストは失望しただろうか。フレイムは顔を上げることが出来なかった。
「城で魔術師として仕えている魔術師は、候補生を除いてすべて上級だ。金鷹はその中でもさらに抜きん出いている。言うなれば、上の上」
 淀みなく語る声からは感情を汲み取ることが出来ない。
「金獅子は剣が専門だが、もちろん魔術も使う。正団員は中級魔術師免許の取得が必須だ」
(……俺は魔術であっても、金獅子に劣るのか……)
 神腕、それがどれほどの役に立つというのか。
 落ち込む様を見せる少年に、アーネストは微笑んで見せた。
「つまり、君は金獅子とならば、対等に戦えるわけだ」
 その言葉を脳内で反芻して、フレイムは顔を上げた。
 アーネストは力強く言う。
「戦力としては十分だよ、フレイム君」
 フレイムは頬がほてるのを感じた。
「君は神腕の引き出すことの出来る魔力が凄まじすぎるゆえに、それと比べてしまって、自分を過小評価しがちのようだね。中級魔術師なんてそう簡単になれるものではないよ」
 グィンが嬉しそうに繋ぐ。
「だよね。僕、フレイムは謙遜しすぎだと思ってたんだよ。金獅子と同じ中級だってことは、魔力切れにならないフレイムのほうが有利なんだからね」
「……そう、かな」
 フレイムはそれでも自信なさげに呟く。
「しっかりしたまえ。味方は多くないんだ。君も戦うんだよ」
 アーネストはきっぱりと言い放って、フレイムの双眸を真っ直ぐに見つめた。
 味方が少ない。
 そう、この場で望めるのは目の前の青年の助力だけなのだ。ホワイトパレスには金鷹も金獅子もいるのに。
(金獅子……)
 フレイムはふと思い当たった。
「あの、例えば、ザックの先生……スフォーツハッドさんには協力を頼めないんですか……?」
「スフォーツハッド!?」
 アーネストが驚愕の声をあげ、椅子から腰を浮かす。フレイムはびくんと肩をすくめた。
 テーブルに乗り出し、困惑の入り混じった声で、アーネストがもう一度繰り返す。
「スフォーツハッドと言ったか……?」
「……は、はい」
 なぜこんなに驚かれるのだろうと、疑問に思いながらもフレイムはとりあえず頷く。
「ザックは……ウィルベルト・スフォーツハッドさんに、剣を教えてもらったって言ってました、けど」
 椅子に腰を下ろし、アーネストは顔を覆ってふらりと天を仰いだ。しばらくそうしていたかと思うと、おもむろに姿勢をただし、少年に向き直る。アネスは人差指を立てて見せた。
「……スフォーツハッドは……フレイム君、スフォーツハッド家は魔法剣士を輩出する名門だ」
 魔法剣士、その言葉に息を呑みつつフレイムは続きを待った。
「金獅子へ何人も送り出してるし、王家への忠誠は特に厚い。……たとえウィルベルトが、そう、よりによってスフォーツハッド家当主が、ザックの剣の師匠だとしても……」
 息をつく。
「助力は期待できない。城内を騒がしてでもザックを救出しなければならない、そんな我々に力を貸してくれるとは到底思えない」
「……でも、スフォーツハッドさんは……」
 ザックととても親しそうで……、そう言い募るフレイムに、アーネストは首を振った。
「無理だ」
 フレイムはアーネストがきっぱりと言い切る根拠が気になった。
「どうして、そうはっきり言えるんですか……?」
 痛みすら感じさせるような眼差しで、アーネストは答えた。
「ウィルベルト・スフォーツハッドは、イルタス六世の金獅子時代の同輩で、そして親友だ」
 見開かれるガラス玉の瞳を見つめながら、アーネストは嘆息する。
「……スフォーツハッドは王家を、いや、イルタス六世を裏切らない。絶対にだ」
 フレイムは目を閉じて、椅子に全体重を預けて沈み込んだ。
 脳裏に笑みを浮かべた赤い髪の男が描かれる。腰に佩いた金の剣は王家より授かるもの。
(親友……か)
 自分がザックを助けたいと思うのと同じように、ウィルベルトはイルタス六世を庇うのだろう。

赤き魔女の封印 14

 ――パスティア皇女と婚約することになった。
 王城の裏庭、白薔薇の咲き誇る美しい庭で、エイルバートは静かにそう言った。

「副団長」
 白いマントがふわりと広がる。
 応接用の長椅子に腰掛けたまま、ウィルベルトは名を呼んだ相手を気だるそうに見上げた。
「申し訳ございません。国王陛下はただいま、ガルバラの外交官とご面会中でして……今しばらく」
 ブラウンの髪を揺らして、金獅子副団長補佐はそう言った。
「……そうか」
 頷いて、ウィルベルトはおもむろに立ち上がる。謹慎中に人目を忍んで王宮まで出てきた彼は、白マントも金の剣も身につけてはいない。
「じゃあ、私は帰るよ」
「そんな」
 もう少し待っては、そう言う部下にウィルベルトは首を振った。
「いいんだ。もう三日もすれば私の謹慎も解ける。それからでも遅くはあるまい」
「せっかくおいでになったのに。陛下も残念に思われます」
「……私が来たことは陛下には伝えないでくれ。ただ、謹慎明けの面会をしたいと」
 ウィルベルトは小さく笑って、眉を寄せる部下の肩を叩いた。
「団長の世話は大変だろうが、もうしばらく頼むぞ」
「……かしこまりました」
 神妙に頷く副団長補佐に、片手を上げてみせ、ウィルベルトは内殿を後にした。

 ウィルベルトが王城から出てくると、裏門の側で一人の男が待っていた。風に揺れる髪の青と、夜空を走る雷光の双眸は人外の色だ。
「早かったな。お目通りは叶わなかったか」
 黒い服に身を包んだ男は皮肉げな笑みを浮かべて、ウィルベルトを迎えた。
「それなら、あいつにでも会ってくればよかったのに。ほら、あのチビ、黒髪の」
 一人で勝手に喋る青毛の男を一瞥して、ウィルベルトは不機嫌そうに答える。
「アレス、ザックはもう『チビ』ではない。それに彼は罪人として拘束中だ。会えるはずがない」
 魔法剣に宿る精霊アレスは主人を見下ろして、笑顔を絶やさない。
「チビはチビさ。十年前のあいつは俺の腰の高さしかなかった」
 ウィルベルトはため息を零す。
「アレス」
 たしなめる主人の肩に手を回し、アレスはもう一方の手でウィルベルトの頬をつついた。
「ウィールー、お前は頭が固すぎるのさ。エイルバートも陛下呼ばわりだし、拘束中だろうとお前が言えば、チビにも会うことは出来るだろうに。しかも謹慎中だからと、生真面目に俺は置いていくし」
 ウィルベルトはアレスを睨んで、その手を振り払った。
「なんだ、連れて行かなかったことがそんなに不満か」
「ふふ、そのとおりだ。いいか、俺はお前が気に入ってるから、お前に使われてやってるんだぜ。選ぶのは俺だ。俺はどこにでも連れて行け。俺を手放すな」
 ウィルベルトは心の中でもう一度ため息をついた。
 この高慢な精霊は、初代からスフォーツハッドの当主に仕えている。純粋にウィルベルトを慕っているサラとは違うのだ。
「次にエイルバートを訪ねるのは、謹慎明けか?」
「……そうだな」
 ウィルベルトは陽光を眩しく弾く内殿を見上げた。
「……王には、聞かなければならないことがある」
「それなら、エイルバートの仕事が終わるまで待てばいいのに」
 アレスは目を細めて、酷薄な笑みを主人に向ける。
「待たずに帰ってきたのは、本当は、聞くのが怖いからだろ?」
 ウィルベルトは精霊の青い瞳を見つめ、そのまま何も言わずに逸らした。歩き出す。
 無言で足早に歩く主人を追いかけ、アレスは背後から小さな声で囁いた。
「白い庭に彼(か)の腕が来てるぞ」
 途端に、ウィルベルトは足を止めた。驚きを隠せない顔で振り返る。
「緑の精を連れていたあの子が?」
 二人は特定の単語を遠まわしに表現して言葉を交わす。
「俺が感じたのは力の気配だけ。どこの誰かは知らないね」
 アレスは肩をすくめる。ウィルベルトは渋面で地面を睨んだ。
「まさか、助けに……?」
「気配はすぐに消えた。おそらくどこかの結界内――貴族の屋敷にいるな」
 ウィルベルトは青い瞳を鋭く細めた。
「貴族の協力者か。……赤き館だな」
 アレスはさも楽しそうにくつくつと笑った。
「ウィル、王に反する者に協力する貴族がいるみたいだな」
「赤き館は危険だ」
 ウィルベルトは顔を上げ、きっぱりと言った。
「王に手出しはさせない」
 声に迷いは聞こえない。
 そして、再び歩き出すウィルベルトの背中を、アレスは満足そうに見つめた。
(それでいい。信じてないお前はお前らしくない)
 エイルバートが、それでも裏切ったときは――。
(俺が自らの腕を振り下ろす)

「恐れ入ります、陛下」
 金獅子の剣士に呼び止められて、面会を終えたイルタス六世は顔を上げた。
「なんだ」
「スフォーツハッド公爵より、謹慎の明けた後に面会の申し入れが入っております」
 王は一瞬だけきょとんとした表情を見せた。
「ウィル……あ、いや、スフォーツハッド公が? ガルバラとの面会中に使者が来たのか?」
「あ、……はい。どうなさいますか?」
 王はマントを翻して、息だけで笑った。
「断る理由もあるまい」
 金獅子の副団長補佐を務める剣士は、表情を明るいものに変える。
「はい。では、そのように」
「ああ、頼む」
「かしこまりました」
 頭を下げる剣士に頷いて、王は側に控えていた従者から書状を受け取った。小さくため息をつき、彼は書状を従者に返すと、「案内してくれ」と言う。
 副団長補佐はその様子に眉をひそめた。
「まだご公務ですか? 恐れながら、お休みになられた方が良いかと……」
 早い星は既に輝いている。風も冷たくなり始めたこの時季、無理をするのは良くない。
「平気だよ」
 王は微笑む。
 副団長補佐は思わず息を呑んだ。こんな笑い方をする人だっただろうか。
「ありがとう」
 こんな、儚い――。
「い、いいえ」
 副団長補佐は深々と頭を下げた。
(これが……あの好戦的な王だと、言われた人か)
 夜風が冷たく彼らを撫でた。

赤き魔女の封印 15

 日も暮れた頃に舞い込んだ仕事を片付け、イルタス六世は片手を額に当て深く息をついた。執務机に突っ伏して、そのまま寝てしまいたい気持ちに駆られる――それが一国の王にあるまじき不躾だとしても――。
(いや、まだだ)
 鉄色の瞳を開き、国王は何もない空間を睨んだ。今日はもう一箇所行かねばならないところがある。
 それは長らく忘れていた存在だ。しかし、あの頃は確かに憧れていた。
(……ジル・オーシャン……、その息子……)
 ジル・オーシャンは候補生としての経験もないまま、あっという間に金獅子の正団員になった男である。そして、あっという間に王都を去った。
 遠い緑の島からやってきた剣聖は、白い庭で運命の女性(ひと)と出会い、彼女を伴って島に戻ったのだ。
 当時、十歳ほどだったイルタス六世であるが、茶髪、金髪の多い貴族に混じった黒髪の、肌の色の濃い男がいたことは記憶にある。その後、彼がどうなったのかも、聞き及んでいる。
(しかし、禁句だったのだ)
 「ジル・オーシャン」も、「グルゼ島」も、そして赤き魔女「マリー・マクスウェル」も。
 イルタス王の友人が前王后の命を受けて、グルゼに渡ったのは十年前のことである。彼は一人の剣士を育み、しかし同時に酷く傷ついて帰って来た。彼と共にグルゼを目指した同胞十数名が嵐の海に沈んだのだ。
 それ以来、イルタス六世はグルゼ島の話には触れずにいた。だが――
 ――“運命”とは確かに存在するものなのか。
 それは何者だ。
 イルタス王は立ち上がり、背後に広がる王都を振り返った。ほのかな灯りが広がっている。
「団長」
 外を見たまま、イルタス王は広い部屋の入り口に控えていた金獅子団長を呼んだ。
「御前に」
 無音の足運びで王の背後まで近寄り、金獅子団長イルフォードは両手を組んで頭を下げた。イルタス王は団長の方に向き直り、「生真面目な奴め」と小さく笑った。
「イルフォード、二人のときは無用だ」
「王」
 片眉を寄せてたしなめる、かつての上司にイルタス王は首を横に振った。
「頼む」
「……ご命令とあらば、従うまでです」
 イルフォードはため息をつく。そして片手を腰に当て、怒っている様子で口を開いた。
「エイルバート、疲れているなら休め。本当に体を壊すぞ」
「そこまで脆弱ではない。私は今でもウィルと対等に闘える自信があるぞ」
 王――イルタシアを治める者たる証をその頭上に戴く前は、エイルバート・グリツェデンという名だった――は、そう答えて歩き出す。
「行きたいところがある。案内してくれ」
 イルフォードはエイルバートの後を追いながら問うた。
「どこに?」
 エイルバートは悪戯っ子のような笑みを浮かべ、豪奢な扉の取っ手を撫でた。
「ザック・オーシャンに会いたい」

     *     *     *

「お前はここで待っていてくれ」
 部屋の前まで案内され、エイルバートはイルフォードにそう言った。イルフォードは顔をしかめる。
「相手は一般人ではない。剣士だ」
「私は一般剣士ではない。かつては金獅子にいた剣士だ」
 エイルバートは言い返す。
「国王命令だ。ここで控えていろ」
「……お前は昔から卑怯だ」
 舌打ちをするイルフォードをエイルバートは笑った。白いマントを羽織る逞しい肩を叩く。
「大丈夫だから」
 そして、扉に手をかける。
 扉を押し開くと、ベッドの上で、黒髪の青年が目を丸くしてこちらを見ていた。
「ザック・オーシャンか」
 背後からイルフォードの刺すような視線を感じながら、エイルバートは扉を閉めた。
「……そう、だけど、あんたは?」
 青年は警戒している様子で、ベッドの上で姿勢を変える。下手をすると殴りかかられるかもしれない。
 エイルバートは面白がるように笑みを浮かべた。
「お前は私を知らないのか」
 ザックは眉を寄せた。相手をじろじろと見つめる。
「……あいにくと知らん」
 憮然と答える。エイルバートは笑い声が漏れそうになるのを、手の甲で遮った。
(面白い。私を国王扱いしない者がここにいる)
 エイルバートは遠慮もなくザックに近づいた。ベッド脇にある椅子に腰掛ける。
「私はエイルバート」
 名乗る。もちろん、エイルバートの名を知る庶民はもう存在しないだろう。彼らが知っているのは国王イルタス六世なのだ。
 ザックもその例からは漏れず、不思議そうに目を瞬くだけだった。エイルバートは内心で自嘲を浮かべ、質問を投げる。
「お前は剣を扱うらしいな?」
「そうだけど。……なあ、あんた本当に何者なんだ? ここにはさ、このしばらくで、金鷹の男と王妃様しか来てないんだぜ」
 そんな所に来るなんて、と言う。エイルバートは顎を撫でて、考えを巡らせた。ここで王だと答えるのでは面白くない。
「私は……、そうだな。銀の竜だ」
 銀の竜はイルタス王室の象徴である。紋章はもちろん竜だし、エイルバートが腰に下げる剣の柄にも刻まれている。
「そんなの聞いたこともない」
 唇を曲げる青年に、エイルバートは灰色の双眸を細めて笑ってみせた。
「ふふ。銀の竜とは王宮の奥深くに住む、闇の生き物だ。こうして夜になると話し相手を求めて、王宮の奥から出てくる。お前は暇そうではないか。私の話し相手になれ」
「闇の……? 影の精霊か?」
 ザックが声を震わせる。
 エイルバートは青年の精霊が死んだことを思い出した。おもむろに、相手の頭を撫でる。
「その仲間だ。どうだ、私の話し相手にならぬか」
 温かい手で、頭を撫でられる感覚は酷く懐かしくて、ザックは涙を堪えた。
「いいよ」

赤き魔女の封印 16

 「銀の竜」だと名乗った男はたびたび部屋を訪れるようになった。それも決まって夜半過ぎ になってから。
 しかし、精霊と人間の見分けが出来るようになったザックは、相手が自ら主張する類のものではないことに気づいていた。
(でもまあ、嫌な奴じゃないんだよなあ)
 銀の竜ことエイルバートは「私は長く城に住み着いてきた竜の化身だ」と嘯(うそぶ)くだけあり、確かに物知りな男だった。話も上手いし、たまに気障(きざ)なことを言うが、嫌味ではない。
 本来は饒舌なのであろう金鷹の男は必要以上にザックとは喋ろうとしないし、王妃などは顔を見ただけで寒気がする。そんなものだから、ザックは平常であるとき以上にエイルバートに好感を覚えていた。
 テーブルの上にエイルバートが持ってきてくれた本を広げて、頬杖をつく。
(しかし)
 気になることが一つある。
(エイルバートって名前、どっかで聞いたことがある気がするんだよなあ……)
 以前にもこういうことがあった。ネフェイルが「マクスウェル」の名を出したときだ。その時は思い出せなかったのだが、今は分かる。ウィルベルトがリルコの関所を通過するときに、ザックの偽名として出したのだ。
 やはり、ウィルベルトはこちらのことをすべて知っていたのだ。
(俺が公爵の血筋だから、剣を教えたのかな……)
 そんなつまらないことで。
(いやいやいや)
 ザックは頬杖を外して首を振った。
(今はそれより、エイルバートの正体……いや、ここからどうやって抜け出すかだ)
 部屋にはバルコニーがついている。しかし、バルコニーの手すりには魔術がかけられており、どうにも手すりから先には指一本出すことが出来ないようだ。
 扉はもちろん鍵と魔術の二重施錠――エイルバートにどうやって入って来るんだと尋ねたら、「偉大な竜はフリーパスだ」とはぐらかされてしまった。
「ちぇっ、俺も魔術が使えれば話が早いんだけどな」
 一人でごちて、背伸びをする。横を見やれば空は鮮やかに赤く染まっていた。
 そして、そのままザックの思考は停止した。
 夕日を背に、バルコニーの手すりの上で手を振っている男がいる。にこやかに。
 ザックは無言で目を擦った。もう一度見る。
 やはり、手すりの上で男がさもおかしそうに笑っていた。
「…………馬鹿がいる」
 思わず口から零れたのはそんな言葉だった。
 ――飛竜がいる。
 夕日よりもなお鮮やかな赤い瞳を楽しそうに細めて、こちらを見ている。
「久しぶり」
 一言そう言うと、手すりを蹴って飛竜はそのまま室内に降り立った。
「何が久しぶりだ。神出鬼没の変態魔術師め。さっさと帰れ。でなけりゃ人を呼ぶぞ、この不法侵入者」
「素敵なお迎えの言葉をありがとう」
 ザックの毒舌をものともせず、飛竜は笑顔で応じ、更に言う。
「なんだ、つまらないな。もっと落ち込んでいるかと思ったのに」
 ザックは不愉快げに片目を細めた。
「そりゃあ、悪かったな」
「この城で友人でも出来たか?」
 間髪入れずに帰って来た問いに、ザックは息を呑んだ。飛竜は赤い瞳を真っ直ぐに相手に向ける。
「危険なことだ」
 きっぱりとそう言う。
「ここは敵地だ。お前は何を期待している?」
 いつもの飄々としたものとは違う口調に、ザックはいささか違和感を覚えた。
「……飛竜には関係ないだろう」
 試しに言い返してみる。飛竜は一瞬目を見開き、それから唇の端を吊り上げた。
「馬鹿だな」
 その一言からあと、彼はあっさり調子を戻した。
「お前は俺に負けたことを忘れたのか。本来ならお前をこの城に突き出すのは俺であるはずだったのだ。金鷹なんぞが手出しをしたせいで懸賞金もパアだ。それもこれもお前が弱いからだぞ。その上、捕えられた後もそんな体たらくでどうする気だ」
 べらべらと、一気に喋る。要するに、不機嫌だったと言うことだろうか。ザックは呆れ顔で口を開いた。
「なんなんだ。お前は愚痴を言うためにわざわざここまで来たのか」
「もちろん」
 飛竜は優雅に笑うとベッドに腰掛けた。絹のシーツを撫で、眉を下げてもう一度笑みを浮かべる。
「お前、油断するなよ」
 静かに漏らされた言葉に、ザックは小さく首を傾げた。飛竜はそのまま続ける。
「そうだ、愚痴と忠告のために来たんだ。お前の中の魔力……、それ俺が狙ってるんだよね」
 知ってたのか、ザックがそう呟くと飛竜は笑みを嘲笑に変えた。
「生憎と」
 赤き魔女の遺産。それは二十年もの間、緑の島に封印されていた。
 しかし、第一の封印は解けた。遺産を抱えた器は青い海を渡り、大陸を踏んだ。
「俺はすべてを自由にするだけの力が欲しい」
 既にそれに近しい力を持っていながら、そんなことを口にする魔術師。悪魔のような赤い瞳にその真意が映ることはない。
「なんで?」
 臆した様子もなく、極単純な疑問のようにザックは問う。
 飛竜は笑った。
「それは俺にも分からん。だが、欲するものを我慢するほど、俺は理性的には出来てはいないらしい」
 分からん、と一言で片付けられてザックは唇の端を引き攣らせた。
「お前って変だな」
「よく言われる」
 飛竜は立ち上がる。
(でも、お前みたいに俺の視線を受け止める奴は、そんなにいない)
 血塗れた双眸だと言われるこの両眼にまともに目線を合わせてくる者など、滅多にいない。ザックを合わせても片手で余る。
「それだけで、俺に気に入られるには十分だ」
 飛竜はそう言って、ザックの肩を叩いた。しかし、ザックにその言葉の意味が分かるはずもなく、彼はまた首を傾げるだけだった。
「さて、そろそろ、帰るかな」
 沈みかけた太陽が沈まないうちに、飛竜はそう言った。
「結局……油断するな、と、それだけを言いに来たのか」
 バルコニーに立って、ザックはこめかみを押さえながらそう言った。
「何? このままここから助けて欲しかった?」
 手すりの上の飛竜は意地悪に聞く。ザックは悔しそうに口を開いた。
「まあ、恥を耐えて言えば、そういうことだ」
「あっはっは。素直、素直。でも、だめだ。面白くないからな」
 膝を叩いて――何がそんなにおかしいのかはザックには理解できなかった――、飛竜は笑った。兵に見つかるとか、そんな発想はこの男にはないらしい。
「面白くないとかそういう話じゃないんだがな」
 苦虫を噛み潰したような顔で零す男に、飛竜はからっと答えた。
「俺にとってはそういう話だ」
 そして、手すりを蹴り、眩暈がするほどの高さから宙に踊る。ザックはそのまま急降下する飛竜を追って、結界に額を擦りつけながら下を見下ろした。
 地面に達するよりも早く、赤い魔術陣が煌き、あっという間にその中に飛竜が消える。
「……どういう仕組みなんだ」
 何度見ても理解しがたい魔術の超常現象に、ザックはため息を零した。

赤き魔女の封印 17

 長かった。
 二十年以上もの月日が流れてしまった。
 だが、とうとう「彼女」はこの手に戻ってきた。

「王后陛下がお呼びだ」
 エルズは部屋に来るなりそう言った。
 飛竜がザックのところを訪れた翌日の夜のことである。明日には隙があれば来るとアーネストも言っていた。
「……何の用で?」
 今まで王妃がこの部屋を訪れることはあっても、呼び出されることはなかった。
 警戒心を見せるザックに、エルズは小さく笑った。
「お呼びだ」

 グレー調の自分の姿が廊下に映っている。丁寧に磨き上げられた長い廊下を、ザックはエルズの後について進んだ。
 壁は高く伸び、頭上で弧を描いている。一定間隔置きに埋め込まれた天井画は、その視線までも感じられそうな写実性があった。
(見られているみたいだ)
 実体の自分も、鏡像の自分も。
 嫌な気分だった。
(こんな所で生きていかなきゃいけないんじゃあ、……俺は貴族向きじゃないな)
 緑豊かな島を選んでくれた両親に感謝しようとザックは思った。
 やがて、エルズの足が止まった。
(銀の扉……)
 小さな蔓薔薇が浮き彫りに施された美しい扉。まるで秘密の花園への入り口のような印象を与えられる。
「ここ……、王妃様の部屋?」
 ザックが問う。
「普段お使いになっている部屋ではないよ。ただ、王后陛下が作らせた部屋ではある」
 エルズはそう言うと、一歩下がった。怪訝な顔をするザックに笑いかける。
「私には入室許可が下りていない。王后陛下は魔術をお使いになられる。君が扉に触れれば開くはずだ」
「……え」
 それは一人でこの部屋に入れということか。
 エルズはいつもの含みを持った笑みを顔に貼り付けた。
「王后陛下がお呼びだよ」
 ザックは息を呑んだ。
 鏡のような床から、冷気を感じたような気がした。

     *     *     *

 賓客用の部屋でありながら反逆者の軟禁用に使用されている部屋に忍び込み、ザークフォードは眉を寄せた。
「いない……」
 その言葉にあとから入ってきたアーネストも怪訝な顔をする。
「おかしいですね。今までこんなことはなかったのに」
 部屋はもぬけの殻だった。
 ザークフォードはバルコニーにも出てみたが、結界は張られたままである。ここからザックが外に出たわけではなさそうだ。
(そうだ、素養はあれど、彼は魔術は使えないのだ)
 室内に戻ると、アーネストはフードを深く被って、外に出る格好をしていた。
「一度、家に戻ります。フレイム君に状況の変化を伝えた方がいいでしょう」
 ザークフォードは首を傾げた。
「部屋が移動になっただけかもしれないのに? 余計な不安を与えてしまいはしないだろうか?」
 少年を気遣う壮年の男に、アーネストはかぶりを振って見せた。
「……嫌な、予感がするのです」
 アーネストは唇を歪めた。
「嫌な予感とは……」
 魔力の強い者は予見の能力に似たものを極たまに発揮することがあるらしい。
 何か見えたのかと問うザークフォードに、アーネストは視線を向けた。
「フェルビッツ様、ここまでありがとうございました。おかげでジオルドともいつもスムーズに会うことが出来ました」
 何を思ったのか、急に礼を言う青年にザークフォードは目を瞬いた。
「……そして、もし、今後……我々が王室に歯向かうことになったら……」
 アーネストの金の睫毛が、翠の双眸を覆い、そしてすぐにまた双眸がこちらを見据えた。
「目を瞑っていてくださいますか?」
「それは……」
 ザークフォードは言い淀んだ。
 今は退団したとはいえ、もとは金獅子だった自分である。王室への忠誠は失われていない。ここまでアーネストに手を貸したのは、ザック・オーシャンが罪人だとは思えなかったし、そうでなくても親族が面会も出来ないのはおかしいと感じていたからである。
 だが、アーネストたちが罪人に面会する以上のことをしでかすのであれば、場合によっては反逆罪が適用される。
「私は……」
 アーネストが言葉を待って、こちらをじっと見つめている。
 宝玉のような翠と輝く金と――ああ、そして黒髪の。
(……私は……弱いんだ)
 くるくる表情を変える愛らしい公爵嬢にも、ダンスステップの一つも知らなかった黒の剣士にも。
 彼らが逃避行すると相談してきたときも、駄目だと諌めることは出来ず、結局――
(目を瞑っていた)
 そして、そのツケが今に回ってきている。
「目は瞑れない」
 低い声でそう応じると、アーネストの肩がわずかに揺れた。
 この年若い公爵は、敵だと判断すれば即座にその血の力を振るうのだろう。
「手を貸したい」
 ザークフォードの紡いだ言葉にアーネストは目をぱちくりと瞬いた。滅多に見ない赤き館の当主の呆けた顔に、ザークフォードは微笑んだ。
「東方の国では、乗りかかった船だ、と言うらしいが?」
 おどけた調子で言うと、アーネストはすぐに口元ににやりと笑みを刷いた。
「毒を喰らわば皿まで、とも」
「そういうことだ」
 そうだ、手を貸したいと思いつつも貸せなかった、二十二年前のツケを払わなければいけない。自分さえ、しっかりとジルに味方して、公爵令嬢との仲も公に認めてやれば、彼らが密かに王宮を去る必要もなかったのかもしれないのだ。
 そして、あんなに早く、島よりもなお遠すぎる国に行くことはなかったのかもしれない。
「では、急いで戻ろう。状況は変わった」
 ザークフォードが力強い声で促すと、アーネストもしっかりと頷いた。
「そうですね。このままジオルドに何かあっては困ります」
「うん? いつの間にそんなに愛情が湧いたんだ?」
 扉へと歩を進めながら、問う。
「愛情なんて。これで彼がはっきりとどうしようもない愚弟だと分かったんで、一発殴らなければ気がすまないことになったというだけですよ」
 私が殴る前に他の者に手を出されては、殴りにくくなるでしょう――そう、アーネストはさらりと答える。ザークフォードは眉を下げるしかなかった。
 そうして、二人は足早に純白の王宮を後にしたのだった。

赤き魔女の封印 18

 銀の取っ手はとても冷たく感じられた。ひやりと指先から凍るような錯覚すら覚える。
 ザックは意を決して、ゆっくりと静寂色の扉を押し開いた。
 中を覗き、思わず息を呑む。
 正面に人が佇んでいた。自分と同じく目を見開いた顔で。
「鏡……」
 室内は鏡で仕切られていた。迷路のように鏡の壁があり、そのせいで照明の光が隅々まで行き届かず、ぼんやりと薄暗い。
 右を見れば怪訝そうな自分が、左を見れば不安げな自分が、振り返れば、エルズの薄い笑みが、あった。
「なんだよ、この変な部屋は」
 頬に力を入れて笑みを作ろうとしたが、できたのかどうかザックは自覚できなかった。
「陽が差し込むとね、とても綺麗な部屋なんだよ。しかし、今日は曇りで、そのうえ今は夜だ」
 エルズは笑いながら言う。
「君、ついてないね」
 今度こそ、ザックは唇の端を吊り上げた。
「お前と会った日から俺はついてないぜ。疫病神か何かか、お前?」
「神だなんて大それたものになった覚えはないよ。……さあ、陛下がお待ちだよ。こんな所で立ち止まっていないで進みたまえ」
 ザックは剣呑に双眸を細めた。
(食えない奴だな。だが……)
 煽ってくれたおかげで、体内の温度が上がったような気がする。
(『一番の敵は己の心の弱さと知れ』)
 過去に血を分けた者はそう言った。
 右を見ればやる気の出た自分が、左を見れば強気そうな自分が、真っ直ぐに見据えると、じっと見つめ返す自分が、いた。
 大丈夫だ、小さく呟いて、ザックは薄暗い室内へと一歩を踏み入れた。

 先へ進もうとしない剣士を促し、薄闇に消える背中を見送って、エルズは笑みを消した。
(意志を砕くのは簡単なことだよ)
 人は不安定な生き物だ。一本の綱の上を歩くのは難しい。精神的に圧力を感じていればなおさらだろう。
(君に綱を渡るのはまだ無理だろう……)
 あの王妃はザックを――マリーとして――溺愛しているのだから、具合が悪いので起きられないとでも言えば、また日を改めることも許してくれただろうに。
(そうだよ、せめてあと一日待てば、君の師匠が王宮に帰ってきたのにね)
 剣精を従えたかの剣士は、例え友と弟子との板ばさみになろうとも、どちらも守ろうとするだろう。
(自分で大丈夫だなんて言って、どこにも繋がっていない命綱を頼ってどうするんだい)
 それでも、ザックがなぜ勇気を出したのかは知っている。
 赤き魔女の館と繋がる二人の存在があったからだろう。たびたび、あの客室に出入りしていたことは気づいていた。だが、自分に与えられた使命は「ザック・オーシャンが外へ出ないように、また、彼が自らを傷つけないように、見張っていろ」というものだった。侵入者に関しては何も言われていない。だから、知らない。
「それにしても」
 エルズはため息を零した。
「君は本当についてないね」
 それだけを言うと、踵を返し、元の持ち場へと帰っていった。

     *     *     *

 陰で「赤き館」と呼ばれる自宅に帰ってきて、アーネストはザークフォードを招き入れた。
「せっかくですので、フレイム・ゲヘナを紹介しましょう」
 彼はそう言って、客間へと赴く途中で、細君にフレイムを呼んでくるよう言付けた。
「神腕の持ち主か。さすがに少々緊張するな」
 通された品のいい客間でザークフォードは胸元を撫でた。
「何、外見は極普通の、いや、普通よりもおとなしそうな少年ですよ」
 客人の緊張をほぐすかのように、アーネストは笑う。
「どうぞ、椅子におかけになってください」
「いや、ゲヘナもすぐ来るだろうから、このまま待つよ」
「そうですか」
 と、アーネストが頷くと同時に、扉がノックされた。
「本当ですね。――どうぞ」
 入ってくるように促すと、マクスウェル夫人が扉を開け、フレイムとグィンを中へ通した。ザークフォードに微笑んで会釈をすると、夫人は扉を閉めて去っていった。
「噂にたがわず美しい奥方だな」
「しかし、美しい花には棘があるものです」
 こそりと言ってくるザークフォードにアーネストはそう笑って、見知らぬ相手を不安げに見つめるフレイムの肩を叩いた。
「こちらがフレイム・ゲヘナ。親友のためにかの大魔術師を小間使いにする大物ですよ」
「こ、小間使いだなんて……」
 アーネストとの接触をネフェイルに任せたことを言われているのだと悟り、フレイムは首をすくめた。
「はじめまして。私はザークフォード・フェルビッツという。聞いているだろう? 影の協力者のことは」
 微笑んで、ザークフォードが右手を差し出す。フレイムはそれを握り返した。
「はい。王宮でご協力いただいている方ですね。フレイム・ゲヘナです」
 グィンがフレイムの横で興味深そうにザークフォードを見上げる。
「僕はグィン。ねえ、ザークフォードって名前、ザックと何か関係あるの?」
「おや、緑の精か。ああ、ザックという名前は私の愛称をジルが勝手につけたんだよ」
 グィンの身分など気にしない無遠慮な質問にもザークフォードは優しく応じる。
(ザックのお父さんの知り合いなんだ……)
 フレイムは茶髪の男を見上げた。甘い緑の双眸はネフェイルを髣髴とさせる。
 それは信用に値する眼差しだ。
「あの、それで、今日はどうして? お会いするのはもっと先だと聞いていたのですけど……」
 接触する人間を多くすると、王室側に不穏を察知される可能性があるということで、アーネストを介して、フレイムは王宮の情報を得ていた。ザークフォードがマクスウェル家を訪れることは予定になかったはずである。
 問うと、アーネストは言いにくそうに唇を歪めた。
「状況が変わったのだ」
「状況?」
 ザークフォードが答える。
「ザックがいなかった」
 不安を掻き立てるには十分な台詞だった。
 少年の顔色が青褪めるのを見て、アーネストは首を振った。
「部屋が変わったのかもしれない。私たちの事は……あの副団長補佐に知れていた感があるし」
「だが、彼はいたって無関心だった。無関心を装っているのではなく、本当に関心がないのだ」
 ザークフォードが肩をすくめる。
「彼はそういう男なのだ」
 他に形容しようがないと言った様子だ。アーネストは同意を示すかのように小さく溜息をつく。
「おかげで動きやすかったですけどね」
 フレイムとグィンは首を傾げることしかできない。
 アーネストは苦笑する。
「ともあれ、このまま立ち話ではなんでしょう。二人とも掛けてください」
 彼は手で指し、フレイムとザークフォードを席へと促した。

赤き魔女の封印 19

 歩くたびにカツンと硬い音が響く。旅をしている間も石畳の上を歩けば、硬質な音がしていた。だが、あの時は他の人間が歩く音も多分に混じっていた。今はとても静かだ。
 ザックは角を曲がるたびに正面に現れる自分の影に息を呑みつつ進んだ。一瞬だが、誰かが立っているのかと思ってしまうのだ。
 そして、もし次の角の先、映っている物が自分でなかったら――そう考えると、少し嫌な気分だった。
(そういえば、国王には会ってないな)
 気を紛らわそうと、別のことを考える。
(どんなヤツなんだろう……。新聞とかでは特に酷いという記事は見たことないけど)
 フレイムのことがあったから、我欲の強い男だと思い込んでいた。
 だが、「彼は強欲などではない」――そう言ったウィルベルトのあの眼差し。
 彼は王と親しいのだろうか。仕えているのだから顔見知りであることは当然だ。
(あの目は……知ってる人を、友人を、侮辱されて怒って……そんな目だった)
 国王イルタス六世は、外交問題に関して強気な発言が多く、また蔓延(はびこ)る魔物の駆逐や犯罪者の追捕にも余念がない。さらに、武学芸を推奨し――学問が軽視されがちなこの国では珍しい王だ――、街道の整備などに国庫を割いている。
(ただ、金獅子や金鷹や、必要以上にも見える兵を揃えて……それが和平主義の奴らにとっては鼻持ちならないんだよな)
 ザックは天井を仰いだ。
 白い天井では目立たないが、確かに白銀の竜が描かれている。薄闇の中、塗料の盛り上がりでほんのりと浮かび上がっている。その竜に勇ましさはなく、雲の合間を優雅に泳いでいる。
 剣と魔術が支配するこの国において、それは平和すぎる情景にも思えた。
(国王……)
 イルタシアの国王は力の象徴。
 だから、一部の反感を得てでも武力にこだわるのだろうか。
 ――大戦でイルタシアを率いた魔法剣士こそがイルタス一世なのですから。
 耳に静かな声が甦る。
(そうだ。国王は力で国を切り開いて、力で国を守って……あれ、誰がそう言ったんだっけ?)
 冷水のような声。しかし、落ち着きのある低音。
 記憶の再生はこめかみに痛みを伴った。
「なんっ……」
 ザックは頭を押さえて、側の鏡に寄りかかった。
(思い出したくない。辛い……辛いんだ)
 涙が出る。
 忘れようとする自分が憎らしく思えた。
「違う……俺は」
『――酷い』
 背後から。
 響いた声に、ザックは全身を凍らせた。
『酷い。私の事を忘れてしまったんですか』
 幻聴だ。思い出そうとしたから、こんな声が聞こえるんだ。
 自分のために命を賭した者を忘れるなど、きっと許されないのだ。
『ザック……』
 名を呼ばれて、ばっとザックは振り返った。
 長くたなびく黒髪。黒い印象の中に浮かぶ白い肌。
『ザック、私はあなたのために……』
「闇音!」
 ザックは薄暗い空間に佇む影の精霊に飛び掛った。鏡に激突する。
 それでもなお、鏡に縋りつき、相手の輪郭をなぞる。
「闇音! 違うんだ! 俺は、お前が……」
 お前が――んだと思ったから。
『酷い』
 鏡の中の闇音は聞く耳持たず、うつむいた。
『私は』
 ザックは瞠目する。
『私は』
 白い白い、銀色にも見える白い頬を涙が伝う。

『私はあなたのせいで、死んだのに』

 肺が、心臓が、喉が、潰れた――潰れたような錯覚に襲われる。
 ずるずると、ザックは座り込んだ。
『私たちは』
 また、背後から別の声が響く。しかし、それは知らない声だった。
 表情をなくしたまま、ザックは声の方を振り返る。
 金の髪をした夢のように美しい女性と、静かな眼差しを持った黒髪の青年が立っていた。まだ少女の幼さを残した女性は、愛らしい唇で言葉を紡ぐ。
『私たちはあなたのために死んだ』
 もう声も出せなかった。
(俺のせいなのか)
 喉は枯れ、眦の水さえ乾くような、絶望感。彼らは皆自分と関わったばかりに死んだのか。
 しかし、それを否定する声が上がった。
 ――違う。
 声は体の内側から響いている。シェシェンの街、極彩色の嵐の中で聞いた、あの声だった。
 ――違う、彼らは本当は――
 懸命に慰めようとする女の声は、太い男の声に邪魔をされた。
『私は』
 顔を上げなくても分かる。
 シギルだ。
『私はお前といると死と暮らしているようで恐ろしかった』
 ――違う、こんなのは違う!
 女は――顔も何も分からないが、きっと泣いている――声を張り上げて叫ぶ。
 だが、ザックにはもう彼女の声は届いていない。
(俺がいなければ誰も死ななかったのか)
 父も母も闇音も……これからの誰かも。
 四方を囲む鏡にはたくさんの自分が映っている。すべてが不吉の姿。
(……俺が、いなければ)
 ――否定しないで。
(……俺は……)
 ――あなたが否定したら……。
(俺は)
 ザックはふらりと立ち上がった。
 いつの間にか手に剣を持っていた。いつ持っただろう、軟禁室を出る際にエルズから渡されただろうか。記憶にはない。
 だが、これは使える。
 これで、斬ろう。
 目の前には自分がいる。
(俺は)
 ――やめて!
 身の内で誰かが泣いている。
 いや、そんなことは気に留めるべきことではない。今はしなければいけないことがある。
(俺はいらない!)
 手にした剣を高く掲げ、勢いに任せて振り下ろす。白銀の軌跡が鈍い闇の中に舞った。
 耳障りな破壊音、続いて金属が崩れ落ちる音が室内にこだまする。鏡はひび割れ、恐怖と絶望に歪んだ己の姿は裂けた。
 息をつき、肩を落とす。ふいに頬に生暖かい滴が触れた。
 無心のまま手で触れると、ぬるりと滑る。触れた手を見ると赤く汚れていた。
 目を瞬く。思考回路は未だに正常ではない。考えようとしても頭は鈍く痛んだ。
「……俺は……何を……?」
 首を傾げるよりも先に、雨のように赤い滴が全身を打った。頬を、髪を、手を、赤く染めていく。
 何を斬ったのか。
 剣を手にしたまま、ザックは小刻みに震えた。
 さっきまで泣いていた女の気配がない。
 誰を斬ったのか。
(死んだ)
 泣いていた。
(俺のせいで)
 ふつりと意識は途絶え、ザックはそのまま、赤い床に倒れこんだ。
 彼は赤い迸(ほとばし)りが床に鏡に、複雑な文様を伴った円弧と魔術文字を描いて散ったことを知らない。
 彼が斬ったのは、彼を守り続けていた「封印」だった。

赤き魔女の封印 20

 鏡の迷宮。映るのは真実でも幻でもない、ただの光の反射だ。それでも人は、そこに虚構の世界を見る。
 ふわりと銀色のドレスが暗銀色の床の上を滑る。
 パスティアは倒れた青年を静かに見下ろした。
 内側から破られた封印は、魔力を持たないただの文様に戻り、床面に散っている。封印が解けた瞬間の鮮烈なまでの赤は、徐々に変色し、今はどす黒い。神臓を使った「赤き魔女」の封印はもはや効力を失ったのだ。
 マリー・マクスウェルは身の内に、大量の魔力を抱えていた。その魔力の波動は緩やかで、寄せる波のような静けさがあった。神に与えられた美しい姿、思い出すだけでも心が震える崇高な存在。
 彼女を蝕んでいた封印は解かれた。そう感じて、パスティアは満足げな笑みを浮かべた。
「マリー、お帰りなさい」

     *     *     *

「明日から金獅子の副団長が復帰する」
 そう言うのはザークフォード。
「どうもしゃきっとしない男だが、剣の腕は団長と伯仲。彼がいると金獅子の空気が変わるのだ。動きにくくなる」
 アーネストは元金獅子の男を見つめた。現副団長は先代団長、つまりザークフォードが現役だった頃の団長の息子である。
 その視線に気づいて、ザークフォードは笑った。
「金獅子と私の仲については心配はいらない。若い者との手合わせの機会かと思うと、むしろ楽しいくらいだよ」
 本当に心から楽しみにしている様子を見せるザークフォードに、フレイムは小さく笑った。
(性格もザックみたいだ)
「そういえば、フレイム君は彼と顔見知りだったね。見つかるのはまずいな」
 アーネストの言葉に、ザークフォードは目を大きくする。
「スフォーツハッド公と知り合いなのか?」
 フレイムは慌てて手を振った。
「知り合いは知り合いですけど、話もほとんどしてません。彼はザックの剣の師匠だったんです」
「それは本当か?」
 ザークフォードは驚き覚めやらぬ表情で、さらに問う。
「彼がスウェイズでの任務で規約違反をしたというのは、ザックが関わっているのか?」
 フレイムは分からないと首を振った。アーネストが代わりに答える。
「ネフェイル・ホライゾ殿の過去視魔術では、『魔術師に掴みかかかった赤い髪の剣士が、背の高い男に倒された』という結果だったそうです。過去視では音声まで得ることはできませんから、詳細は不明なのです」
 説明すると、ザークフォードは視線を宙にとどめ、黙り込んでしまった。スウェイズでの様子を想像しているのだろう。
「赤い髪は間違いなく、スフォーツハッド公。背の高い男……いや、その男はさておき、スフォーツハッド公がザックのために規約違反をしたとなれば、あるいは」
 そう言いかけた時、前触れもなく、アーネストの影がゆらりと揺れた。同時にグィンが身を震わせるのが、フレイムの視界の端に映る。
 突然のことにフレイムは身動きもできず、男が仰け反って後方へと倒れるのを見た。一方、ザークフォードの反応はさすがのもので、咄嗟に隣の席から腕を伸ばし、アーネストを支える。
「どうした!?」
 ぐったりと目を閉じたアーネストにザークフォードが声をかける。そして、やっとフレイムは青褪めて立ち上がった。
「グィン!」
「う、うん!」
 呆然としていたグィンも主人の声を聞くや、アーネストの側に駆け寄る。彼女は小さな手でそっとアーネストの頬に触れた。
「……やっぱり」
 分かっていたと言うような顔で頷き、グィンは続けて呪文を唱えた。ふわりと両手に光が宿る。彼女は、その白い光でアーネストの額をそっと撫でた。
「強い魔力の波に当たったんだ。気付けだけで目を覚ますと思うよ」
 グィンが振り返って、フレイムに言う。
「僕もちょっとだけ感じた。アーネストは相性かな? 強く響いたみたい」
「それって、どういう……?」
 眉を寄せるフレイムに、瞼を持ち上げたアーネストが応じる。
「魔力の波動が私の一族のものと似ていたから……振動を増幅させてしまったんだ」
「大丈夫か?」
 背を支えたまま、ザークフォードが窺う。
 アーネストは頷いて、礼を言った。頭が痛むのか、額を押さえながら言葉を紡ぐ。
「魔力の波動……封印が解けたかのような強い衝撃でした」
 グィンはフレイムを見上げたまま、首を振った。
「僕にはそこまで分からなかった。あ、揺れたなーってくらい。でも、少なくともこの都にいた精霊はみんな振動に気づいたと思うよ」
「精霊の霊的知覚は人間の数倍に及ぶというからな」
 ザークフォードが頷く。
「場合によっては、上級魔術師も気づいたかもしれない」
 アーネストは唇を歪めて、震える自分の手を見下ろした。
「気づいても、異常だとは考えていない……と思います。魔術を使えば、波動が起こるのは当たり前のこと。確かに強い振動でしたが、ほんの一瞬でした。あの程度なら、金鷹の候補生でなくても起こせます。誰かが少し強い魔術を使った、その程度の認識でしょう」
 ただ、と続ける。
「私には分かった。あれは確かに、封印のような最上級の魔術を使った波動です……」
 ザークフォードは腕を組んだ。
「この国に上級魔術を使える者は少なくない。だが、封印となれば数は限られるな」
「あの……、封印って結界のひとつ上の魔術ですよね?」
 フレイムが遠慮がちに問う。学院で封印について学ぶのは中級免許取得以後である。その授業を受ける前に、学院から除籍されたフレイムは首を傾げた。ザークフォードは封印についての知識はある。アーネストはフレイムに向けて説明をした。
「そう、封印は結界の高等応用だ。誰にでも使えるものではない。自己保持機能を持った擬似封印である結界ならばともかく、『半永久持続』の封印となれば、ネフェイル・ホライゾ、シヤンの巫女、金鷹の団長、バルタ港の占星術師……指折りの魔術師、設置には彼らと同等の力量が必要とされる」
「設置と解除は同一人物でなければ不可能ですか?」
「そうとも限らない。もちろん容易くはないが、封印も結界と変わらず、内側からは幾分解きやすい」
 フレイムは頷き、説明されたことを覚えようと頭の中で繰り返した。それを見ながら、アーネストは付け加えるように投げやりに首を振った。
「先ほどの波動が、擬似封印か封印かまでは分からないがね。本当に一瞬だった」
「場所は分かるのか?」
 ザークフォードの問いに、アーネストは双眸を揺らし、天井をぐるりと追った。そして首を左右に振る。
「波動は一瞬でした。方角はあちらだとしか……」
 アーネストは腕を伸ばして、その方向を示した。グィンも同意して頷く。
 腕の先に目線を投げ、ザークフォードが立ち上がる。彼は席から離れ、アーネストが指し示した方角にある窓辺へと寄った。時は夜、カーテンは閉められている。
 彼はカーテンを開け、フレイムたちを振り返った。
 闇に点々と浮かぶ貴族、商家の館の光。その向こう――
「城がある」
 白くそびえる城がある。
 フレイムはぞくりと背筋が冷えるのを自覚した。
 アーネストも双眸を細める。
「しかし、城内での許可のない最上級魔術の使用は禁止されている。もとより、金鷹の拘束結界によって、魔術は行使できない」
 ザークフォードは淡々と述べる。
「確かに最上級魔術師ならば、拘束結界も打ち破るだろう。だが、そうであれば、もっと巨大な波動が生まれていたはずだ」
「そうですね。それに私の魔力に似ていたとはいえ、ザックは魔術を使えないので、関係ないと思います」
 アーネストは同意しながら、自分の手の甲を撫でる。震えが止まっているのを確認しているようだ。フレイムは彼の気持ちが分かるような気がした。
 ザックとは関係ない、そう考えながらも、なぜか胸がざわつく。
「ですが、どうにも嫌な気配を感じますね」
 夜の闇が見えるせいか、アーネストの声は不吉な予言のようにも聞こえた。

赤き魔女の封印 21

 ウィルベルトの書斎には二人の精霊が来ていた。
 明日の復帰準備をしていたところ、同時に飛び込んできたのだ。
「ウィル! どこかの弾けたバカが最上魔術を使ったぜ!」
「ウィル! 大変、お城で強い魔術が使われたみたい!」

 今はソファに腰掛けているアレスとサラ、どちらもウィルベルトの精霊ではあるが、どうも気のあう仲ではないらしい。何かあると、いつも我先にと、しかし同時に押しかけてくる。
 アレスは上級精霊、サラは中級精霊だが、級に区別なく、主人に気に入られたいという気持ちは隠せないようだ。
「それで詳しくは?」
 ウィルベルトは机に体重を預け、立ったまま二人に問う。
 サラはぐっと手を握り締め、アレスが溜息をこぼした。
「グルゼ島の封印」
 その言葉にウィルベルトの顔色が変わる。それを見ながら、アレスは続けた。
「感じた魔力の波動は、そう、あの島で触れたものとよく似ていた」
 緑の島には魔力を封じられた子供がいた。
「なぜ、ここで?」
 青い海の記憶を視界の端に漂わせながら、ウィルベルトは静かに呟いた。
 雷光の眼差しで見上げながら、アレスが言う。
「分かっているのに聞くな。城で何かあったからだろう」
 ウィルベルトはかぶりを振る。
「確証もないのに、自分で不安を煽ってどうするんだ。『似て』いたと言ったのはお前だろう。それとも、間違いなく、あの封印と同じものだったのか?」
 アレスは視線を逸らし、腕組みをした。
「ほぼ間違いないと思うね、俺は」
 断言するその横で、サラが眉を下げる。気遣うように笑みを浮かべて首を傾げる。
「でも、魔力の波動が伝わったのは一瞬だったわ。もしかすると、違うかもしれない」
 ウィルベルトは天井を仰いだ。
 どうやらサラも間違いないと思っているようだ。
(確定だな)
 瞼を閉じる。
 赤き魔女の封印。それに触れたのはもう十年も前になるだろうか。
 剣と魔術とが支配するこの世界で、その両方の類稀なる才を受け継いだ子供。しかし、長閑(のどか)な島と封印がそれらをないものとしていた。
 ――なぜだ?
 若い自分はそう思いながら、子供に身を守るすべを教えた。
(……この事態ではその気持ちも分かる)
 魔女は王室からの追っ手を恐れていたのだ。
 見つかれば、ザックの中の神臓が利用されてしまう。そう考えたのだろう。
(だが、疑問もある)
 マリー・マクスウェルが消息を絶ったとき、王妃も王もまだ子供だったのだ。ウィルベルト自身も、マクスウェル令嬢の記憶は薄い。
 なぜ彼らを恐れる必要があったのだろうか。
(当時、エイルバートはまだ王ではなかった。魔女が恐れていたのは……王妃なのか?)
 銀色の神の華。パスティア・ユンセイ・イルタスはいつも美しい。
 マリー・マクスウェルを寵愛していたのは、その母親だ。関係があるとすれば、こちらかもしれないが、彼女はすでに病で他界している。
(いや、深く考えすぎだ。王だ、王妃だは関係ない。誰であれ、力を求める者にとって、神器の魅力は大きすぎる)
 ザックと一緒にいたあの子供、フレイム・ゲヘナも苦しんだのだろう。
 壊れそうな色をした双眸が印象的だった。
「アレス」
 ウィルベルトは姿勢を戻して、剣精を見つめた。
「明日から城での任務に戻る。金鷹の拘束結界の中で、ザックの気配を探れるか」
 アレスはにやりと笑った。立ち上がって腰に手を当てる。
「侮るなよ。チビには一度触ったことがある。楽勝だ」
 二人を見比べながら、サラが遠慮がちに口を開く。
「いいの? エイルバートを裏切ることにはならない?」
 アレスは首を振って、サラに顔を近づけた。
「気にしない、気にしない。エイルバートとこれは関係ないんだよ」
「そんな、がさつな……」
 思わず眉をひそめるサラに、ウィルベルトも肩をすくめるしかできない。
「しょうがない。今は他に出来ることもないしね。エイルバートには内緒だよ、サラ」
 そう言って、片目を閉じてみせる。
 お約束の合図だが、サラとて実際にはもう慣れたものである。
「本当に……しょうがないわね」
 溜息とともに吐き出して、サラも立ち上がった。
「何かあったら呼んでちょうだい。すぐにあなたの元に向かうわ」
「頼りにしているよ」
 そう言って、互いに頬への接吻を交わす。
「さあ、明日も早いし、もう寝よう」
 ウィルベルトが促し、スフォーツハッド家の明かりは順次落とされていった。

     *     *     *

 闇の中、ホワイトパレスからの魔力の波動を感じ取った者はもう一人いた。
 城下の宿で休んでいた飛竜である。
「封印が解けた……のか? さすがに、あれだけでは確信が持てないな」
 ベッドから抜け出し、窓辺に立つ。
「出入りのコツは掴んだとはいえ、拘束結界は存外にやっかいだな。上手く気配が読めん」
 城の明かりを遠くに見つめながら、一人でごちる。
(フレイムたちはそろそろ動くんだろうか。協力してやると言っておいたが、今のところ接触はないな)
 こちらを頼るつもりはないかもしれない。
(それでもちょっかいは出させてもらうぞ)
 飛竜は自分の手のひらを見つめた。握り締める。
 最初に見つけたのは自分だ。手に入れる権利がある。
「赤き魔女の遺産……。いや、ネフェイルは封印と呼んでいたな」
 欲しいのは力だ。
 何をも恐れない、振り返らない、ただ、それだけの力が欲しい。
 そして――
 そんな傲慢な自分を、真っ直ぐに見返したあの眼差しを失いたくない。
「あーあ、楽しまなきゃ」
 ぼやく。
「明日は何をして楽しもうかねえ」
 飛竜は窓の桟で頬杖をつき、純白の城を挑戦的に睨みつけた。

赤き魔女の封印 22

 青というよりも白に近い空を見上げながら、フレイムは眩しさに目を細めた。
 アーネストとグィンが魔術の波動を感じた夜の翌朝である。あてがわれている客室の窓から、フレイムはマクスウェル家の庭を見ていた。
 屋敷の正面からは見えない位置にある部屋をアーネストは用意してくれた。おかげでフレイムはさほど人目を気にせずに窓から顔を出すことが可能なのである。
(庭は広いから、窓からちょっと顔を出しても、マクスウェル家の人以外に見つかるとは思えないけど……)
 だが、来客もあるので用心に越したことはない。フレイム静かに窓を閉めた。
 窓の桟に体重を預けて、溜息をつく。
(手持ちぶさただな……)
 今日は王の御前に臣下が集い、一週間の報告を行う集会があるそうだ。そのため、アーネストはいつもより少し早く城へと出向いて行った。
 ザックも探してみる――そう言って。
 俺も行かせてください、とは、フレイムは言えなかった。今の段階で言えるはずもない。
 “手持ちぶさた”ではなく、“歯がゆい”のだと気づいたのは、二度目の溜息をついてからだった。

    *     *     *

 ホワイトパレスの大広間は、磨き上げられて黒光りする石の床に、白い絨毯が敷かれている。
(赤のほうが映えるだろうに)
 アーネストは常々そう思っていた。
 だが、そんな自分も白い色は好きだ。白はイルタシアの高貴色である。清く美しい色だという刷り込みもあるだろう。
(白い国……)
 顔を上げ、広間の奥にある壇上を見る。王はまだ来ていない。
 小さく息を吐き、違う方向を見やる。
 広間の両端を陣取る白い集団。右に金鷹、左に金獅子。整然性に欠けた貴族たちとは違い、王室直属の護衛団に列の乱れはない。
 だが、先ほどまではいつもと違い、金獅子の方は大きな輪になっていた。
 副団長であるウィルベルト・スフォーツハッドが復帰したのだ。
(規則違反で謹慎していた人間だというのに、人気者だな)
 味方にできないだろうかというフレイムの言葉を思い出し、アーネストは改めて首を振った。
 やがて、さざめいていた集団がしんと静まり返り、貴族たちもぴたりと決められた位置に立つ。赤い髪の垂れ下がる背中から、アーネストは視線を外した。
 剣を掲げ持つ少年に続き、国王と王妃が現れ、壇上に上がっていく。
(そして、白い王妃か)
 そっと控えめに王の背後に立つ王妃。華美な装飾を好まないのか、すっきりしたドレスを身に着けている。だが、美しい銀の髪が輝いて、彼女を華やかに見せた。
「皆、元気そうで何よりだ。いささか元気すぎる者もいるようだがな」
 王は金獅子副団長への意地悪を添えながら、気さくに挨拶をする。小さな笑いが起こり、アーネストもまた眉を下げた。
 当のウィルベルトは首を振っている。怒っているのか、恥ずかしがっているのか、さして親しくもないアーネストには分からない。
 王は続ける。
「来月はアルディアの豊穣祭だな。一週間ほど城を空けることになるが、皆頼むぞ」
 応えて、護衛団の両団長が一礼する。
 金鷹の団長が「恐れながら」と、口を開いた。
「随従の者についてご確認を頂いてよろしいでしょうか」
 この場で尋ねるのは、護衛団以外の貴族たちへ知らせるためでもある。
「うむ。金鷹の団長、金獅子の副団長を」
 王は淀みなく答える。国外任務を終えたばかりの金獅子副団長を連れて行くのは、名誉挽回の機会を与えるということだろう。イルタス六世は臣下に対してそういったチャンスを与えることが多かった。
「それからもう一人。急で申し訳ないが、妃の希望する者を加えたい」
 二人の団長がみじろぎする。どうやら知らされていなかったようだ。
 王が王妃を振り返る。王妃は頷き、背後を見やった。
 そのとき、アーネストは自分が愕然とするのを他人のように感じとった。
 見覚えのある黒い髪、背の高いシルエット。
 つい先日見た、疲れ気味ながらも明るさを取り戻していた双眸は、再び暗い淵へと沈んでいる。
(馬鹿な……どういうことだ)
 罪人である彼を王の従者になど出来るはずがない。
 ザック・オーシャンの登場に驚いたのはほんの数名だったようだ。貴族たちは彼を知らないし、知っているはずの護衛団の多くもまさかこの場にいるとは想像もしていないだろう。思い込みは視界と思考を曇らせる。
 王妃が微笑んだ。
「かつて、この国の誉れ高き剣士団に、黒の剣士と呼ばれる者がいたことを皆様ご存知でしょうか」
 天上の笑みと声で彼女は続ける。
「彼は素晴らしい剣才を持ちながらも城を去り、不名誉だけが残りました」
 一体王妃は何を言っているのだ。アーネストは眩暈さえ覚えた。
「ですが、彼は汚名を雪(そそ)ぐために、遺志を継ぐ者を残しました。私は彼の息子であるこの者を、王室の護衛団の一員として迎え入れたいと思います」
 甚だ不条理である。
 こんなことが認められるはずがない。
 金獅子の団長が声を上げる。
「大変恐れながら申し上げます。陛下のお望みであっても、試験もなしに新団員を受け入れることは出来かねます」
「ならば、試験を」
 こともなげに王妃は応える。
 団長であるイルフォードは逡巡してから頭を下げた。
「では、試験の用意をさせていただきます。ご了承置きください」
「ええ、問題ありません」
 それで終わりだった。
 それ以上、問いただそうとする者はいなかった。

赤き魔女の封印 23

 応接室をひとつ借り切って、アーネストとザークフォードは沈黙していた。センターテーブルの上には、二つのティーカップ。紅い液面に花瓶の花を映している。
 ――どういうことだろうか。
 アーネストはじっと紅茶に浮かぶ白い花を見つめた。
 なぜ、ザックはあの場に現れたのだろうか。なぜ、王妃が彼を従えているのだろうか。考えても思考はまとまらず、宙を回って霧散するばかりだった。
 どれほどの時間が経ったのか分からなくなった頃、ザークフォードが口を開いた。
「マクスウェル殿、あれは」
 話しかけても微動だにしないアーネストを前に、それでもザークフォードは続けた。その思考を断つことで、アーネストが我に戻るのではないかと思ったのだ。
「操作系の魔術だろうか? ジオルドには彼自身の意思がないように見えた」
 王妃の横に立つ彼の暗く沈んだ双眸は誰をも見ていなかった。
「操作……」
 顔こそ上げないものの、アーネストがやっと口を開く。
「それは……誰がやったことなのでしょうか?」
 彼の脳裏に広間での光景が鮮明に蘇り始めた。
 金鷹、金獅子の団長はザックの登場に驚いていた。操作系の魔術は容易くはない。王は元金獅子。剣術を本分とする彼はそのような魔術は使えないだろう。ならば――。
 翠の双眸は瞠目したまま、一つの疑惑に辿り着いた。ザークフォードはそれを察する。
「それは危険な憶測だ。まだ口にしてはいけない」
 厳しい口調でたしなめられて、アーネストは顔を上げた。
「そう……ですね」
 肩を落として、息をつく。
「大丈夫か?」
「大丈夫です。すみません。……さすがに、驚きました」
「私もだよ」
 ザークフォードは同意して肩をすくめた。
 まさかザックが王妃に従うことになるとは想像もしていなかった。彼らは“ザックはフレイムをおびき寄せるための餌として捕らわれた”のだと考えていたのだ。
「やっかいなことになった」
「様子を見るべきか、まずはそこからですね。焦りは失敗への近道ですが、だからと言って待つことに徹するわけにも行きません」
 いつものように語り始めたアーネストに、ザークフォードは笑みを浮かべた。状況がなんら好転したわけではないが、この冷静な態度には頼りがいを感じる。
「一度、屋敷に戻ってフレイム君に伝えようか」
「そうですね」
 そう言って二人は立ち上がる。扉へと向かうザークフォードにアーネストが声を掛けた。
「フェルビッツ殿」
 呼びかけて、相手が振り向くのを待って告げる。
「人の意思を曲げる行為を、私は許しません」
 その言葉にザークフォードも無言で頷いた。

 金獅子団長イルフォード、彼の心境もまた穏やかではなかった。足早に執務室まで戻ってきた彼は、机の前で立ち止まった。
 ――予想はしていたことだ。
 イルフォードは王妃の様子がおかしいことには気づいていたし、逆に王はまっとうすぎるくらいまっとうであることも知っていた。
(ただ、だからこそ)
 ザック・オーシャンに何かあったとしても、それが公に知れ渡ることはまずないだろうと踏んでいたのだ。王が堤防になるだろう、どうしようもできなくなれば自分への相談もあるだろう、そう考えていたのである。
(何かあったのか、エイルバート……)
 眉根を寄せ、どかりと椅子に腰を下ろす。そうしてやっと、真っ先に声を上げるはずの副団長が沈黙を守っていることに気づいた。深海の双眸はじっと床を見つめている。
 その背後で所在なく立ち尽くしている部下たちに、イルフォードは手振りで部屋から出るように指示する。皆、当然のように下がり、副団長だけがその場に残った。
「ウィルベルト」
 呼びかけると、意外なことに、すぐに顔を上げた。
「何か?」
「……副団長に問う。先ほどの者は金獅子の団員としてふさわしいだろうか」
 ウィルベルトは首をかしげる。
「試験を行えば、分かることでは?」
 その返事にイルフォードは片眉を上げた。さらに問う。
「急なことだが、試験は通常のものでよいだろうか?」
「そうですね。いかんせん、人となりは一目で分かるものではありませんし、筆記試験、実技試験の後、王が出発するまでの間を試用期間とするのが良いかと」
 らしくないほど、淀みなく答える。
「ふむ。通常は候補生の間にその人柄を見るものだからな」
「そうです。そして、出発前日にでも合否を下してはいかがでしょうか」
 そこまで言って、ウィルベルトは机を叩いた。
「って、馬鹿か! 誰が認めるか!」
 突然の怒号にさすがのイルフォードも目を見開く。
「どう見ても操作魔術ではないか。神の華だかなんだか知らんが」
「おい」
 反逆罪の次は侮辱罪か、たまらず声を掛ける。ウィルベルトは皆までは言わず言葉を切った。
 溜息を零して、イルフォードは腕を組む。
「この件、どう思う?」
 問いかけに、ウィルベルトは双眸を細めた。普段は穏やかな彼が不愉快げな表情を見せるのは、相当に悪い予感を覚えさせる。
 イルフォードは水色の瞳でその顔を見つめた。柔らかな雰囲気を失った、冷たいだけの端正な顔。海の青はなお深く、揺らめいて一つの感情を覗かせる。
「私を怒らせた」

赤き魔女の封印 24

「お前が怒るのは勝手だが」
 イルフォードは釘をさす。
「一人で先走るんじゃないぞ」

「度し難いことだと思うんだがねえ」
 無言で団長の執務室を退出した主人を見上げて、アレスは笑う。むっつりとした顔で、それに応えてウィルベルトが呟いた。
「……私のことか?」
「他に誰を指すってんだ。よもや話の流れを見失うほど、逆上してるんじゃなかろうな」
「いや」
 否定する主人をまた笑い、アレスは剣から抜け出して人型をとった。他に人影のない廊下に並んで立ち、相手を覗き込むように首を傾げる。
「イルフォードの忠告はちゃんと聞いたか? これからエイルバートと面会の予定だが、暴れたりしないか?」
 からかう口調で尋ねてくる剣精を、ウィルベルトは不満げに見上げた。
「エイルバートには会わない」
「なぬ」
「王妃に会う」
「おいおいおいおい」
 アレスは相手の視界を遮るように、眼前で手のひらを振った。
「正気か?」
 その手を払いのけながら、ウィルベルトは言う。
「無論、正気ではない」
 アレスは動きを止めた。海色の双眸は険しい色をしている。
「ウィル」
 ウィルベルトは視線を逸らし、そのまま歩き出す。アレスはすぐにあとを追った。横に並び、囁く。
「付き合うぜ」

 パスティア・ユンセイ・イルタスは先王の一人娘。輝く銀の髪と海の双眸で、幼い頃から王城の人々を虜にしていた。
 彼女とエイルバートの婚約は突然のことで、当時ひどく驚いたことを覚えている。金獅子の正団員になったエイルバートをパスティアが見初めたのだと聞いた。
「婚礼の式では白い花びらがたくさん撒かれて……綺麗だったな」
 白い廊下を進みながら、ウィルベルトは呟く。鞘の中で、アレスはそれを黙って聞いた。
「私は王妃のことを疑ったことはなかった」
 王家の血を継ぐ、美しい王女――ウィルベルトにとっては、言ってしまえば、ただそれだけの女性だった。
「今日までは」
 王妃は普段は内殿の奥深くで過ごす。だが、今日は月例会のために、外殿に滞在していた。部屋の前には三人の警護。突然現れた金獅子の副団長に一人が向き直る。
「副団長殿、何かご用ですか」
「ああ、急なことで申し訳ないのだが、王后陛下と面会することは可能だろうか」
 警護の者は他の二人と顔を見合わせる。事前の申し入れがなくとも、無下には追い払われない。ウィルベルトは珍しく自分の地位が役立つことを実感した。
「少々お待ちください」
 一人がそう言い、扉を開けて中を覗う。それを待ちながら、ウィルベルトはぎゅっと拳を握り締めた。
(無理に押し入ってもよいが、本題を問う前に邪魔されては意味がない……)
 イルフォードが来るだろう。金鷹もやって来るに違いない。
(怪我人が出る。……アレスは屋内で使うには危険すぎる)
「副団長殿、よろしいです。お入りください」
 心臓が強く脈打つ。目の前の扉がやけに遠く感じられた。
 一礼して、踏み入れる。正面の椅子に王妃は腰掛けていた。
 白い石を磨いた床、王妃の斜め後ろにはソファがある。奥には東洋風の意匠を取り入れた衝立。窓は開いているようだが、カーテンが閉められている。
 そして、長い銀の髪が薔薇模様の壁紙を背景に、ふわりと広がっていた。二対の青い瞳が対峙する。
「扉を閉めてちょうだい」
 椅子に腰掛けたまま、王妃が指示する。ウィルベルトの背後で、扉が閉められた。
「突然、申し訳ありません」
「構いません」
 頭を下げる男に優しい声で王妃は応じる。
「いらっしゃると思っていたから」
 ウィルベルトが顔を上げると、王妃はいつもの静かな笑みをたたえていた。
「ウィルベルト・スフォーツハッド、いつもそうなのですね。大切な人が傷つけられるのが怖いのかしら」
「……何のことでしょうか」
 自身の質問を切り出すタイミングを失って、ウィルベルトは眉を寄せた。
「グルゼ島でのこと、黙っていましたね」
 風が吹いて、レースのカーテンがさらりと揺れる。潮の香りがするかと思ったが、それは錯覚だった。
「十年前、マリー・マクスウェルの消息を追って、グルゼ島へとあなたは向かいました。嵐に遭い、部下をすべて失い、……帰っていらしたのは数ヶ月も経ってから」
「……夏のグルゼは嵐が多く、船で渡ることは容易ではありません」
 十年前もそう答えた。ウィルベルトは呆然と王妃を見詰めた。
 桜色の唇が優雅にさえずる。
「『マリー・マクスウェルとジル・オーシャンはすでに死亡しており、身内も残っておりませんでした』と、そう嘘をつきましたね」
「嘘ではありません。島の者にそう聞いたのです」
「あら、では、ザック・オーシャンは何者なのでしょうか。あなたは島で彼にお会いしなかったのですか?」
 いいえ――、答えようとしたが声にならなかった。
 王妃が背後を振り返る。二人きりだと思っていたが、そうではなかった。衝立の奥から、長身の影が伸びる。
「ザッ……」
 思わず呼びかけようとして、口を閉じる。
 動揺する公爵を横目に、王妃はくすりと笑って立ち上がった。ザックに寄り添ってその手をとる。
「会ったことがないのならば、あなたとは無関係ではなくて?」
「陛下、何をおっしゃるのですか」
 ウィルベルトは声を絞った。虚ろな眼差しを前に動悸が早くなる。
「その者の意識は確かなのですか。国民の上に立つ者が、人の心を弄ぶような真似をしてはなりません」
「まあ、かまびすしいこと。たかが公爵の分際でそのようなことを言うのですか」
 王妃の語気が強くなる。だが、ウィルベルトも引かない。
「これも陛下のためであればこそ。私は不興を買うことも厭(いと)いません」
「黙りなさい」
 わずらわしそうに己の髪を手の甲で払う。苛立ちを隠さず、王妃は憎らしげにウィルベルトを睨んだ。
「ああ、嫌だ。なぜ、あなたはそうなのかしら。私の邪魔ばかりして。消えてしまえばいいのに」
「……陛下?」
「消えてしまえばいいのに。私からマリーを奪うものなんて、消えてしまえばいいのに」
 呪詛のようにも聞こえる声。
 思わず、ウィルベルトは一歩足を引いた。
 確信する。
 この部屋の中に正気の者などいないのだと。

赤き魔女の封印 25

 様子のおかしい王妃に対して、どう応じるべきか判断しかねて、ウィルベルトは視線を巡らせた。揺れるカーテンの隙間からのぞく空は白い。
(……マリー・マクスウェル)
 脳裏に金髪の女性が過ぎるが、記憶は遠く、像は曖昧だ。
「ウィル、下がれ」
 不意に手元から声が響いた。アレスだ。
「魔力密度が高まっている」
 魔術を使う前には魔力を溜めるため、術者の周囲の魔力密度が高くなる。それを悟ったならば、応じる手段を取るべきだ。
 剣の状態のアレスが発する声は使用者以外には聞こえない。ウィルベルトはそっと後ず去った。
(魔力? ザックは使えない。王妃か?)
 眼前の二人を見比べる主の疑問を察して、アレスが答える。
「二人が近くてどちらか分からん。とにかく、もっと下がれ。でなければ俺を抜け」
 ウィルベルトは剣の柄に手をかけた。だが、「敵」のいないこの場では、王族を前にして無許可の抜剣は出来ない。
(……敵?)
 ウィルベルトが双眸を細めたその時、王妃の繊細な指が「敵」を指した。
「マリー、この男を消してちょうだい」
 二人に対峙する赤い髪の男を指した。
「何を」
 ウィルベルトの言葉は続かなかった。
 考えるよりも先に手がアレスを抜く。肌は一気に高まった魔力の気配で粟立っていた。
 目の前で火花が散る。遅れて金属同士がぶつかりある音が耳を劈(つんざ)いた。
「アーステイル!」
 叫んだのはアレスだった。
 その声を聞いて、ウィルベルトはやっと相手を見た。
 相対するはザック。そして、その手には一本の剣が握られていた。
「馬鹿な」
 初代イルタシア国王の愛剣「アーステイル」。今は国宝として内殿の宝物庫に納められているはずの品である。細身の剣でありながら常軌を逸した強度を誇り、上級程度の魔術防御をも貫く雷撃を持つ。
 アレスがそれと認めなければ、おそらく信じることは出来なかったであろう。使い手の失われた、魔法剣だ。
「ザック!」
 呼びかけるも返事はない。
 ウィルベルトは力に任せて相手の剣をさばいた。ザックは表情を変えることなく、床を蹴って間合いを取る。
 魔法剣を扱うには程度に差はあれ、魔力は必須である。リルコで彼を見たとき、マリー・マクスウェルの封印は確かに効力を発揮していた。
「……昨日の夜か」
 昨晩、アレスとサラが感じた魔力の波動。あのとき封印が解かれたのだ。
 だが、例え封印が解かれたのだとしても、すでに幼くはないザックが魔力を扱えるはずがない。あるとすれば、それは他者が彼を彼の魔力ごと魔術で操っているときだ。
 誰が――考えるまでもない。
「陛下」
 ウィルベルトは王妃を見た。
「ザックに何をしたのですか」
 被術者の感情を殺した支配の術。ザックの双眸は昏(くら)い。
 王妃は場違いに微笑んでみせる。相手の表情の歪んだ様が楽しくてならないというようにも見えた。
「マリーが帰ってきたのです」
 その声の軽やかさに、ウィルベルトは瞼の裏側が焼けるような錯覚を覚えた。
「遠い過酷な地から私の元に」
「陛下!」
 怒号に王妃が口を噤む。
「何を仰っているのですか!」
 ウィルベルトは首を振って訴えかけた。
「ここにいるのはマリー殿ではありません!」
 王妃の眼差しは冷たい。
「あなたはまた嘘をつくのですね」
「嘘では」
「いいえ、あなたの言うことは嘘ばかり! マリー!」
 王妃が腕を振るのと同時に、ザックは間合いを詰める。ウィルベルトは歯噛みして構えた。
「ザック!」
「呼びかけても無駄です! ウィルベルト・スフォーツハッドの声は届かない!」
 王妃の放つ言葉は魔力を帯びていた。その声がザックを支配している。
「ザック!」
 剣を交え、間近に翠の混じる黒い双眸を捉えてウィルベルトはその名を呼んだ。
「ザック! 目を覚ませ!」
 ザックは眉目を歪めた。苦痛を堪えるように、歯を食いしばる。
 操作魔術の効果と本来の意志が反発しているのだろう。上手くいけばザックの意識は戻るが、精神崩壊の危険も伴う。ウィルベルトはそれ以上呼べなかった。
「マリー! アーステイルを!」
 王妃の声にザックはぴくりと反応する。
 アーステイルの刃が魔力を帯びた。神臓の神通力だ。ウィルベルトもまたアレスを持つ手に魔力を込めた。二本の魔法剣の間に火花が散る。溢れた魔力がぶつかり合い、生まれた気流が二人の髪を撫でた。
 ウィルベルトが飛び退(すさ)る。その後を追って、アーステイルから雷撃が放たれた。アレスが青い軌跡を残して宙を切る。
 神臓の力を持って放たれた雷撃は、しかし使い手が正統の持ち主ではなかったために、本来の力を発揮していなかった。衝撃波は容易く雷撃を掻き消し、空気を激震させ、室内を走り抜けた。
 瀟洒な壁に亀裂が走る。王城ホワイトパレスの尖塔の一角が崩れた。叩き込むようにして風が吹き込んでくる。遠くでどよめきがあがった。
 瓦礫の崩れる音を背景に、魔力と煙と風が室内で踊る。カーテンとタペストリーは翻り、三人の間を遮った。
「ザック!」
 ウィルベルトはザックの影を見失った。雷撃を防ぐために確認は出来なかったが、衝撃波を受けたのなら気絶しているかもしれない。
「……ウィルベルト・スフォーツハッド」
 王妃の声が耳を打つ。
 室内の魔力密度が上昇していた。戦闘の相手とみなしていなかったが、王妃は確かに魔術を扱うのだ。ウィルベルトが振り返って構えようとしたとき、扉が打ち破られた。
 硬い足音が石の床を踏む。裂けたカーテンが舞う中、誰がその扉を開けたのか、ウィルベルトの位置からはつかめなかった。
 扉のほうへ目を凝らした瞬間、魔術による閃光に打たれた。視界が白く明滅する。
「っ……あ」
 ウィルベルトは片手で顔を抑えた。よろめきながらも、アレスを支えにして踏みとどまる。痛みはなかったが、眩暈がした。考えようとする端から思考が消えていく。
 一点に定まらない視界にぐるりと床が映る。端に黒髪が見えた。霞む瞳で必死にザックの姿を捉える。
 彼は床に倒れていた。目を伏せたその顔は、十年前に見た幼い寝顔を髣髴とさせる。
「ザック……」
 そのままウィルベルトの意識は暗い淵に沈んだ。

赤き魔女の封印 26

「ウィル、剣を教えてくれ!」
 ザックがそう言って、木の棒を掲げる。期待に満ちた眼差しに、しかしウィルベルトは眉を下げた。
「でも……」
 呟いて、シギルを見やる。彼はザックのほうを見ていた。少年の養父であるその男は自分のことを良くは思っていないようだった。彼はウィルベルトが剣士だと聞いた時、眉根を寄せてしばらく黙り込んでいた。
 当たり前だろうとウィルベルトは思う。この静かな島で、人を傷つける道具を持つなど、場違いにも程がある。まして、その武器でシギルの友人の命は奪われたのだ。
 だが、一方で、やはり何か戦う術(すべ)を与えたほうがよいのではないかと言う考えがあった。
 ウィルベルトはマリー・マクスウェルの消息を追ってこの島へ来たのだ。彼女の血を引くザック・オーシャンを王都へ連れ帰らなければならない。
(私がやらなくても、また別の追っ手が差し向けられるかもしれない)
 ウィルベルトがザックに答えられずにうつむいていると、シギルが口を開いた。
「まあ、男の子だからなあ。よければ、相手をしてやってくれないかな」
 ウィルベルトは驚いて顔を上げた。
「いいんですか?」
 シギルは頷く。ザックは喜んで、家の外へ飛び出した。ウィルベルトは席を立ちながら、もう一度シギルを振り返る。
「あの」
 その言葉を遮って、シギルが呟く。
「必要になるかもしれない」
 そのまま視線を窓の外に投げる。小さな島は森の中でなければ、どこからでも海が見えた。遠い水平線の向こうにはイルタシアの王都がある。
 シギルはザックの両親と王宮の因縁についてどれほど知っているのだろうか。気になったが、尋ねることは出来なかった。シギルもまたウィルベルトに対して、グルゼへ何をしに来たのか聞いてこない。聞いてしまえば「知らない」と言えなくなるからだ。
 ウィルベルトは頭(かぶり)を振ると、黙ってその場を後にした。

 剣など教えなければ良かった。
 そうしたら、今頃ザックは島で友人達と笑って過ごしていたかもしれない。
 頭上の光から顔を逸らすように、ウィルベルトは首を傾(かし)いだ。
「……ウィル?」
 遠くで名を呼ぶ声がした。だが、瞼が重くて、目を開けられない。喉も重かった。腕も足も、体のすべてが重く、もう自分の意思ではどうにもならないように思えた。
 声の主は溜息を零し、それからそっとウィルベルトの額の髪を撫でた。熱がないか確かめるように手を当てる。腕の動きにあわせて、袖から香の香りが漂った。深い森を思わせる落ち着いた香り。
 手を離すと、もう一度、名を呼んだ。
「ウィル」
 この声。普段は硬めで高慢そうな雰囲気さえ感じさせるのに、囁くと、甘く、痺れるような声になる。
 ウィルベルトはやっと瞼を持ち上げた。
「……エイルバート」
 ぼやけた視界に、痩せた相貌が映る。涙が出そうだった。
「ウィル……」
 エイルバートは驚いたような安堵したような声を上げると、もう一度ウィルベルトの髪を撫でた。
「気分はどうだ?」
「……ここは?」
 天上と壁の一部しか見えないが、スフォーツハッドの館でも王城の一室でもないことは分かった。
 こちらの問いに答えない友人に、エイルバートは何も言わずに答える。
「郊外にある私の別宅だ。執務が煩わしくなった時の隠れ家とも言うがな」
「なに、なんで……」
「馬鹿者が。最初に来たのが私でなければ、今頃お前は牢獄だったぞ」
 あのとき、扉を破ったのはエイルバートだったのだ。謁見の予定だったのにウィルベルトが来なかったから、その時点で彼は事態を予想して動いていた。
「この私との約束を破るとはいい度胸だな」
 エイルバートはにやりと笑う。
 ウィルベルトも笑おうとしたが、眉が歪んだだけだった。
「ウィル」
 思わず身を乗り出したエイルバートの袖を掴む。重い腕はそれだけで震えた。
「ザックは……」
 エイルバートの表情が強張る。あいた手でウィルベルトの腕を引き剥がすと、相手の間近に顔を寄せた。
「他の者を心配している場合か。食らった魔術をただの目眩ましだと思っているんじゃないだろうな。ここまで何度吐いたか覚えているか」
 脅すような低い声で問う。憔悴した相手はそれでも引かなかった。
「そんなことはどうでもいい」
「馬鹿を言うのもたいがいにしろ。そんなに知りたいなら教えてやる。奴は無事だ。相変わらず意志はないがな」
 海色の双眸が僅かに伏せられる。エイルバートは苛立たしげに短く息を吐いた。立ち上がって両手を広げる。
「すぐ感傷に浸るその癖をどうにかしろ。そんなに泣きたいのなら、いくらでも詰(なじ)ってやるぞ。もう嫌だと言わせてやろうか。お前もザック・オーシャンも無事で何が悪い。助かって良かったと、そう思えばいいだろうが。だいたい、お前のほうが重症なんだぞ。医者も簡単には呼べないから、夜中にヴァンドリー家の者が来てくれたんだ。イルフォードに感謝しろ。お前が案じてならないザック・オーシャンは打撲だけでピンピンしている。パスティアなんてお前のことなど忘れて、奴と一緒に観劇に行ったぞ。滅入るだけ時間の無駄だと悟れ」
 弾幕のように言葉を放ち、エイルバートは唖然としている男の赤い髪を引っ張った。
「こら、聞いているのか」
 ウィルベルトは目を瞬く。
「『こら』なんて久しぶりに言われた」
「……聞いてなかったな」
「エイルバートの説教は長い」
 言い返して、ウィルベルトは笑った。それから立っている相手を見上げて、眉を下げる。
「ごめん」
 エイルバートは腕を組んで、唇を曲げた。
「ごめんじゃない」
「うん、ありがとう」
「素直に礼など言うな。気持ち悪い奴だな」
 言いながら、後ろを向いて座っていた椅子の位置を直す。照れているのだ。ウィルベルトは声には出さずにまた笑った。
 首を反対に向けると窓から白い空が見えた。何も変わっていないように見える。
「あれからどれくらい経った?」
「今日で三日目だ」
 三日も経つのか。ウィルベルトは息をついて、目を伏せた。まだ起き上がれそうにもない。
 テーブルの上にあったティーポットからお茶を注ぎながら、エイルバートが続ける。
「……パスティアのこと、いつから疑っていた?」
 ウィルベルトは息を呑んだ。何も考えず、エイルバートに助けられたことを当たり前のように受け止めていた。だが、彼はパスティアの夫なのだ。
 本来なら気安く名で呼んではいけない友人の、その背中を見つめる。国を背負う広い背中だ。
「三日前。定例会でザックを見て」
 正直に答える。
 エイルバートはポットを置くと、カップを手に持って振り返った。
「そうか。……飲めるか?」
 差し出された紅茶にウィルベルトは軽く首を振る。椅子に腰を下ろして、エイルバートは自分でカップに口をつけた。
「そういえば、金鷹のケルダム団長が嘆いていたぞ。お前が拘束結界をものともせずにアレスを使うから」
 ウィルベルトは記憶を辿るように視線を巡らせ、最後に睫毛を伏せて答えた。
「……あの部屋ははじめから結界の外だったよ」
 だからアレスも魔力密度の小さな変化に気づいたのだ。操作魔術は拘束結界の外で施術してしまえば、結界内でも効力はある。しかし、それだけではザックがアーステイルを使えない。魔法剣まで扱わせるのは容易なことではないのだ。
「だが、そうは言えまい。拘束結界はお前が破ったことになっている。と言っても、今回のこと、お前が関わっていると知っているのは、衛兵と私とイルフォード、ケルダムだけだがな」
 干したカップをサイドテーブルに置き、指を組む。考え事をしているときの双眸は鋭い。
「誰もパスティアについては言及しない。できない」
 ウィルベルトはもう一度視線を外に向けた。窓が開いていないので風は感じないが、雲は流れている。
「……他人みたいだ」
「ん?」
 首を傾げて、しかし、エイルバートはすぐに苦笑した。
「ああ。まあ、その程度だということだ」
 彼の王妃に対する言葉は、ウィルベルトと同じ立ち位置から見たものだ。
「最近はむしろ彼女を恐ろしいと思うこともある。お前が無事でよかった」
 ウィルベルトは視線を戻し、エイルバートの灰色の双眸を見上げた。陽光を反射して、金色に輝いている。
 白い城の主、その妻。
「あの人は……」
 銀色の髪、青い瞳――もう一人知っている。
 十年前にその失望の眼差しを見た。

赤き魔女の封印 27

 王都は久しぶりの雨だった。数日続いた白い空には黒い雲が重く垂れ込み、雨は朝から途絶えることなく静かに振り続けている。
 時は夕刻を指していたが、街はすでに暗く静まり返っていた。人影も少ない。
 そんな中、雨と人目の間を縫うようにして、足早に進む者があった。雨具を兼ねる黒いコート、そのフードを目深に被っている。足音も静かだが、これは意図したのではなく、癖なのだろう。
 しかし、その肩を掴む者がいた。はっとして振り返る。
「誰だ」
「はじめまして、先生」
 気さくに挨拶するその男は白っぽい茶色の髪をしていた。瞳が異様に赤い。
 黒コートは警戒心も露(あらわ)に後ずさる。
「先生などと呼ばれる覚えはないぞ」
 フードから漏れる声は低い。赤眼の男――飛竜はにやりと笑った。相手の腕を掴んで逃げられないようにする。
「ちょっと話があるんだけど、いいかな?」
「急いでいる」
 黒コートは腕を振り払おうとしたが、出来なかった。体だけ一歩下がる。
 掴んだ腕から緊張と僅かな不安を感じ取りながら、飛竜は相手の顔近くで囁いた。
「ザック・オーシャンのことで」
 フードの奥で目が見開かれる。それを覗き見て、飛竜は満足そうに双眸を細めた。

     *     *     *

 夜になり、フレイムはカーテンを閉めようと窓に近づいた。遠くに光る街灯を見つめながら、冷たい窓をそっと撫でる。
 月例会でのザックのことはアーネストに聞いた。初めこそショックを受けたが、無事であるという事に安堵もした。操作魔術は決して解けない魔術ではない。生きているなら大丈夫だ。
(でも、どうして……)
 イルタス六世は犯罪者としてフレイムとザックを捕らえようとしていた。フレイムを捕らえて神腕の力を利用しようと考えていると言うのはあくまで部外者の想像である。実際そうではなかったとしても、なぜ王妃がザックを従えるのだろうか。
 フレイムは息をついて振り返ると、窓の桟に体重を預けた。
(俺に出来ることはないのかな)
 月例会からすでに五日が経つ。城へは入れない。外もそうそう出歩くわけには行かない。フレイムはネフェイルに言われたとおり、神通力を制御する練習を重ねる毎日だった。
 首を傾げて窓の下を見下ろす。室内の明かりでぼんやりと裏庭の様子が浮かび上がっていた。白い花が凍えるように咲いている。雨に打たれて葉が震えていた。
 見るともなしに見つめているうちに、フレイムは葉が揺れるのが雨のせいだけではないことに気づいた。
 葉々の間に動くものがある。
 息を詰め、カーテンに隠れるようにして目を凝らす。
「……人だ」
 黒いコートに身を包んだ人間が一人、花の間を進んでいた。真っ当な客には見えない。
 侵入者だろうか。
「グィン、来て」
 グィンを呼ぶと、フレイムは部屋を出た。慌てる主人を不思議に思いながらもグィンは一緒についてきた。
 アーネストの執務室へ向かう。廊下を曲がると、ちょうど彼が部屋を出たところだった。
「おや、フレイム君。どうかしたのかい?」
 フレイムは裏庭の方向を指差した。
「あ、あの……ヘンな人が」
「変?」
 アーネストとグィンが目を瞬く。フレイムは手振りでフードを表現した。
「裏庭に顔を隠した人がいます」
 それを聞くと、アーネストは返事もせずに身を翻した。フレイムたちも追う。
 館には結界が張られている。城のものには劣るが、侵入者に気づかないはずがない。相応の手練だとうことだ。
「敵なの?」
 グィンがフレイムの顔の横で囁いた。フレイムは緊張して胸元を掴んだ。
 マクスウェル家はフレイムを匿い、ザックを救出しようと動いているのだ。注意を払っていても、外部に漏れ、敵が現れる可能性はなくならない。
 裏庭にはピロティから出られる。アーネストはそちらへ周った。すぐにフードを被った人間を見つける。
(結界を破っておきながら……隠れるという言葉を知らんのか)
「誰だ!」
 叫ぶと、黒コートはこちらを見た。
「やあ」
 気安く手を挙げる。予想外の反応にアーネストは立ち止まった。雨の中、ぱさりとフードがとられる。
 あとから追いついたフレイムとグィンが驚きの声を上げる。
「ウィルベルトさん!」
 少年に覚えてもらっていたことを喜ぶ様子で、赤い髪の男が微笑む。
 フレイムがピロティから出ようとすると、アーネストがそれを制した。見上げると、彼はウィルベルトを厳しい眼差しで見つめていた。重い調子で口を開く。
「……スフォーツハッド公爵、我が家になんのご用ですか。そのような格好で裏庭に入って、盗人と間違われても文句は言えませんよ」
 ウィルベルト・スフォーツハッドは金獅子の副団長だ。王の命を聞く、フレイムたちの敵である。アーネストの反応は当然だろう。
「そうだね」
 頷いてウィルベルトは腰に手を回した。剣をベルトから外し、差し出す。
「話を聞いて欲しい。決して君達を傷つけに来たのではない。アレスは君に預けよう」
 アレスはスフォーツハッド家の家宝である。イルタシア国内に二振りしかない魔法剣。アーネストは目を見張った。
 暗闇の中、光を受けた雨筋が輝いている。フレイムは同様に屋内の光でやっと判別できるウィルベルトの顔を見つめた。リルコでも見たその顔。ずっと穏やかで、優しい笑みを浮かべていた。そして、意を決すると、アーネストに向かう。
「あの、せめて屋根の下でお話しませんか。ウィルベルトさん、具合が悪いんじゃないですか?」
 アーネストはフレイムを見やり、それからもう一度ウィルベルトに視線を戻した。雨に打たれながら、微苦笑を浮かべている。
「フレイム君、無用の気遣いだよ」
「でも」
 言い募る少年の肩をアーネストが掴む。
「駄目だ。アレスで攻撃されたら、私は君を守りきれない」
 ザックと同じ顔で窘(たしな)められ、フレイムは躊躇してしまった。うつむいて口を噤む。きっと自分が喋る分だけ、ウィルベルトが外にいる時間が長くなるだけなのだ。
 アーネストはウィルベルトに向き直った。
「行方不明だと聞いていましたが、今までどこに?」
 フレイムは驚いて顔を上げた。ウィルベルトが失踪していたとは聞いていない。答えを求めてアーネストを見つめるが、彼はこちらを見なかった。侵入者だけを注視している。
「それは受け入れてもらえなければ話せない」
「潜伏して我が家を探っていたとも考えられる」
 アーネストが反発すると、ウィルベルトは目線を下げた。
「……他のことなら答えられる」
 アーネストは溜息をつく。フレイムの言うとおり、見ていればウィルベルトの息が上がってきていることが知れた。剣を掲げる手がわずかに震えている。熱でもあるのだろう。
「話とは、我々に味方してくれると、そういったものでしょうか?」
「……そうだ」
 神妙な面持ちで頷く。
「ただし、王には手を出さないと約束してもらわねばならない」
 アーネストは片眉を持ち上げ、笑いを含んだ。
「これは驚いた。この場でさらにあなたから条件が出せるとお考えですか」
 ウィルベルトは首を振る。赤い髪から雫が落ちた。
「分かっている。だが、これだけは譲れない」
 彼はどうあっても王のことでは引かないだろう。アーネストは腕を組んでさらに続けた。
「では、もし、拘束結界の解除と金獅子の足止めをお願いした場合、あなたにはそれができますか?」
「できる」
 即答だった。
「仲間を裏切ると?」
 アーネストが見下ろした視線を投げると、ウィルベルトは笑った。似つかわしくないシニカルな笑みだ。
「そのほうが誰も失わなくてすむ」
 一理ある。彼自身で金獅子の相手をすれば、その力の及ぶ限り、誰も死なせずに足止めできるのだ。アーネスト達ではその保証がない。
 フレイムはアーネストの袖を引いた。
「アーネストさん、もう……」
 言いさしたその時、それまで黙っていたグィンが前に出た。
「闇音を殺した奴を教えて!」
「グィン?」
 フレイムもアーネストも驚いて、緑の精の後姿を見つめた。
 雨を受ける男の眼差しに苦痛が過ぎる。
「……私にも咎がある」
 返ってきた答えに、グィンは首を振った。
「君が『そいつ』を止めようとしたのは知ってるんだよ! だから、もういいんだ!」
 悲痛な響きにウィルベルトの顔が歪んだ。フレイムは手を伸ばして、グィンの体を包み込むようにした。
「……グィン」
「答えて!」
 雨を遮る主の手の中で、グィンは喚いた。ウィルベルトが剣を下ろす。
「どちらだ?」
「え?」
 問い返されて、グィンは眉を寄せた。
「殺した者と殺せと言った者、どちらを知りたい?」
 空色の瞳は悲しみと怒りをない交ぜにし、赤い髪の男を映して、夕焼けのようだった。
 その眼差しに、フレイムは動悸が速くなるのを自覚した。彼女がこんな思いを抱えていたことに気づいていなかった。
「両方」
 短い返事。しとしとと雨が葉と花を打つ音が四人を包み込む。
 おもむろにウィルベルトが口を開いた。
「緑の精は豊穣と癒しの象徴だ。君は、知らないほうがいい」
 グィンが息を呑む。フレイムは手の中の温もりを胸元に抱き寄せた。手の平が涙で濡れる。
 その様子を見ていたウィルベルトがふいに片膝をついた。限界だ。アーネストはピロティを掛け降りた。
「スフォーツハッド公爵」
 濡れた泥に自らも膝をつき、肩を支えるべく腕を差し出す。ウィルベルトは隣に屈んだ男の顔を見つめた。ザック・オーシャンとよく似た顔。翠の瞳は彼との血の繋がりを示している。
「マクスウェル公爵、君に従兄弟(いとこ)がいること、十年前に私が隠匿した」
 熱で掠れた声で告げ、睫毛を伏せる。
「すまない」
 アーネストはウィルベルトを抱えて、立ち上がった。
「従弟(いとこ)を守ってくださったこと、感謝しています」

赤き魔女の封印 28

 フレイムはお茶のセットがのったトレーを手に、扉の前に突っ立った。
(えーと、どうやって開ければ……)
 グィンは泣き疲れて眠っている。彼女とは明日また話をしようと思う。アーネストは家人に事情を説明してくると言って、フレイムに使用人が用意したお茶だけを渡すと、どこかに行ってしまった。
 トレーには四人分――使用人はグィンも数に入れたのだろうか――のお湯とカップ、ティーバッグが積まれている。重い上にバランスが悪い。トレーを片手に持ち換えるべきか否か悩んでいると、内側から扉が開けられた。
「あ、わ、す、すみません」
 相手が通れるように、扉の前をあける。そんな少年を見下ろして、扉を開けたウィルベルトが微笑んだ。
「いや、君のために開けたんだよ」
 そう言う男を見上げて、フレイムはぽかんとした。それからはたと気づいて、礼を言う。
「あ、ありがとうございます」
「持とうか?」
「いいえ、大丈夫です」
 首を振り、フレイムはトレーを持って室内に入る。背後でウィルベルトが扉を閉めた。
 部屋の中は暖かい。暖炉に火が入っていた。時季的には少し早いが、雨に濡れた来訪者のために用意されたのである。
 暖炉の前のテーブルにトレーを下ろしながら、フレイムは男を振り返った。
「……あの、お休みにならなくて大丈夫ですか?」
「一眠りしたから大丈夫だよ」
 マクスウェル家に迎え入れられてから、熱のあったウィルベルトは一度眠りについた。今日はこれで終わりかと思ったが、彼は存外に早く起きたのだった。二時間も寝ていないだろう。現在、時計は真夜中の四時間前を指している。
「無理は駄目ですよ」
 そう言ってみると、ウィルベルトは小さく笑んだだけで、ソファに腰を下ろした。眉を下げて、フレイムもその向かいに座る。
 そういえば、ザックも無理をする人だった。困った師弟だ。そう思いながら睫毛を伏せた白い顔を見つめる。と、ふいに青い瞳がこちらを見た。
「フレイム君」
「うあっ、あ、はい?」
 変な声をあげる少年にウィルベルトは苦笑しながら問う。
「あの……グィン君、だっけ? あの子は?」
 フレイムはティーカップを並べながら、遠慮がちに答えた。
「今日はもう眠っちゃいました。ちょっと……疲れてるみたいです」
「……そう」
 呟いて、再び目を閉じる。
(やっぱり、辛そうなんだけど。大丈夫なのかな、精霊もそばにいなくて)
 ウィルベルトの精霊は彼が差し出した魔法剣に宿っているのだと聞いた。その剣は今はアーネストがどこか別の場所にしまってある。その人の体調に一番聡いのは常からそばにいる精霊なのだ。この状態でそれを引き離してしまうのは少し酷なようにも思えた。さらに、ウィルベルト自身の右手首にも魔力封じの極細い銀の鎖が二重に巻かれている。
 アーネストはウィルベルトが十年前にザックを守ったことについては認めているようだが、それでも彼が金獅子の団員であり、王の親友だという点が引っかかっているらしい。
 だが、アーネストを責める事は出来ない。万が一の場合、彼はこの館に住む人間の安全を守らなければならないのだ。慎重にならざるをえないことは、フレイムも、またウィルベルトも承知している。
 二人分のカップに湯を注ぎ終えて、フレイムはもう一度ウィルベルトを見つめた。自分も聞きたいことがある。
 胸元を撫で息をつく。そして意を決して、口を開いた。
「ウィルベルトさんは……どうしてザックを捕まえようとしたんですか」
 リルコの関所では見逃してくれたのに、わざわざザックを追ってやってきたのはなぜだったのか。
 ウィルベルトは一瞬眼を見開き、それから決まり悪そうに視線を下げた。
「陛下から命令が下って」
「……陛下って国王陛下ですか?」
 頷いて、ウィルベルトは肘掛に頬杖をつく。そのときのことを思い出しているのか、視線はどこか遠い。
「でも、実際はそうではなかった。彼とほとんど変わらない権限を持つ者がもう一人いることを、私は失念していたんだ。今思えば、指令が突然のことで動揺していたんだな」
 情けない、と小さく零す。フレイムは眉を寄せた。
「王と同じ?」
「そう。でもそれはマクスウェル公爵がいるときにまとめて話すよ。彼にも知ってもらわなければ」
 確かにそのほうが効率がいいだろう。喋るだけでも体力は消耗される。フレイムは頷いた。素直な反応を示す少年に、ウィルベルトは微笑を浮かべて続ける。
「それより、私は君の王に対する誤解を解きたい」
「誤解?」
「……神腕を利用しようとしている、と」
 フレイムはびくりと肩を跳ねさせ、自分の右腕を押さえた。手が震える。
「王陛下は神腕を利用しようとは考えていない。彼の頭にあるのはアシール火災の犯人だと言われている君を捕らえて、事件の真相を明らかにすることだけだ」
 ずっと恐れていたイルタス六世の話。早鐘を打ち始めたフレイムの心音とは裏腹に、ウィルベルトの声は淡々としている。
「陛下は優しい方だよ。自信家で誤解を与えることもあるかもしれないが、身を削って働いておられる」
 今更のように思えた。王を恐れてイルタシアを逃亡し、ザックと出会ったのだ。フレイム自身からすべてを奪った神腕を、利用されることが恐ろしくて逃げていた。
 なのに、違うと言う。王はただ職務に忠実なだけだったと。それ以上のことは人々の邪推に過ぎなかったと言う。
 耳に遠く雨音がざわつき、フレイムの心を乱した。
「そんなこと言われても……俺は」
 声を絞って、膝の上で手を握り締める。
 確かに、イルタス六世がウィルベルトの親友なのだと知ったときから、これまでの考えを疑い始めていた。それでも、すべてを受け入れるには唐突過ぎるようにも思えた。
「陛下はね」
 静かな声が雨音を覆って響く。
「あろうことか、ザックの友人の座に納まっているらしい」
 その言葉を理解するのには数瞬を要した。
「……え?」
 目を白黒させて、唖然呆然といったふうの少年に、ウィルベルトは笑って頷いてみせる。
「私も驚いたんだ。王城に軟禁されていたザックに、王ではなく個人として知り合ったらしい。ザックが彼を王だと知らなかったので、儀礼抜きで話せて楽しかったと仰っていたよ」
 ザックが誰かと容易く打ち解ける様はすぐに想像できた。だが、その向かいに座る人物を思い描けない。
 きっとその人物も笑顔でザックを見ているはずなのに。
 フレイムは涙が出そうになるのを堪えて、笑った。
「国王様って見た目はどんな感じですか?」
 少年の笑顔に、ウィルベルトは安堵した様子で目元を緩ませる。
「髪は金に近い茶髪で、短い。目は鉄色でちょっと釣り目。睨まれると怖いよ。背は私と同じくらいだけど、彼は痩せてるんだ。働きすぎなのに、休めと言っても聞かない強情者だよ」
「それって類友ってやつなんじゃないですか?」
 フレイムが口を挟む。きょとんとするウィルベルトに、湯気のたつティーカップを差し出す。
「ウィルベルトさんだって休んでって言ってるのに聞いてくれません」
「……いや、それはだね」
 ウィルベルトが反論しようとしたその時、扉がノックされた。
 アーネストとザークフォードが入ってくる。遅いと思っていたら、ザークフォード・フェルビッツにも連絡を取っていたらしい。
「談笑中でしたかな」
 アーネストはそう言いながら近寄ってくる。が、扉から入ったばかりのところでザークフォードは硬直していた。赤い髪の男を凝視して、頬を引き攣らせている。
「な、なんで、ここに、ウィルベルトがいるんだ」
「新しい協力者が見つかった“かもしれない”と言ったでしょう」
 アーネストは感慨もなさげに返事をする。ウィルベルトは笑ってソファから腰を浮かせた。
「驚かせてしまって申し訳ありません。お久しぶりです、ザックさん」
 その声に打たれたようにはっと目を瞬くと、ザークフォードは大股で近寄ってきた。握手のために差し出された手には目もくれず、相手の肩を掴む。その勢いに気圧され、ウィルベルトは背筋を逸らした。
「いいのか!? お父上に知られでもしたら、大変なことに……うわ、だめだ、恐ろし過ぎる」
 何を想像したのか、ザークフォードは首を振る。一体どういうことなのか、混乱して何も言えないフレイムに、傍らに立ったアーネストがこそりと囁く。
「スフォーツハッド公爵の父親は前の金獅子団長で、フェルビッツ様の上司だったお方だ」
 ああ、とフレイムは呟く。ザークフォードの様子を見る限りはその前団長とやらはおそらくとても厳しい人なのだろう。
 しかし、ウィルベルはにこやかに答える。
「大丈夫ですよ。どうせ、あの人は私についてはもう諦めてますから。今更反逆罪を被ったところで呆れるだけだと思いますよ」
 まるで緊張感のないかつての上司の息子に、ザークフォードはがっくりと肩を落とす。
「お父上はさぞかしお嘆きになるだろう」
「あの人はこれくらいじゃ微動だにしないと思いますけど……。まあ、それはさておき、座って話しましょう。フレイム君が淹れてくれたお茶が冷めてしまいます」
 遅れてきた二人分の紅茶をせっせと準備し始めた少年を目線で指して、ウィルベルトはやはり朗らかに笑う。ザークフォードは顔を覆った。
「やっぱり話し合いは暢気(のんき)なものになるんだろうか……」
「別にまだ仲間と認めたわけではありませんよ」
 先に腰掛けたアーネストはしれっと口を挟んだ。優雅に足を組んで、偽とも真ともつかない笑みを浮かべる男を挑戦的に見上げる。
「さて、話をお聞きましょうか」

赤き魔女の封印 29

「どこから話したらいいだろうか?」
 そう言ってウィルベルトが小首を傾げる。
 真正面にはアーネスト、その両隣にフレイムとザークフォードが座っている。これからウィルベルトの話を聞こうというのだ。
 フレイムはつられて首を傾げた。そもそも自分はウィルベルトが失踪していたという話も聞いていないのだから、いっそはじめから全部話してくれると助かる――と思いつつ、年少の身では、何も言えないのがフレイムだった。
「では、とりあえず」
 アーネストが応じる。
「あなたは誰を敵だと想定していますか?」
「おや、いきなり重い話でいいのかい?」
 ウィルベルトが問い返すと、アーネストは唇の端を持ち上げる。
「軽いところからいくと、あなたのペースになりそうなので」
 一見は優美な笑みを受けて、ウィルベルトもまた笑う。
「マクスウェル公爵は怖い」
「お褒めに預かり光栄です」
 フレイムは肩をすくめた。最後までこの調子で進みませんようにと内心で祈る。
 ウィルベルトはふっと息をつくと、海色の双眸でアーネストを見据えた。
「パスティア・ユンセイ・イルタス」
 それはイルタシア王室の直系、王家に咲く神の華と謳われる者。
 ザークフォードが身じろぎするのが、視界の端に映る。ウィルベルトはそのまま続けた。
「ザック・オーシャンに操作魔術をかけたのは彼女で間違いない。ケルダム団長の反応からして、金鷹の助力はないと考えてよい。ただし、個人で行動している者がいるかは未確認だ。まあ、いたとして、キセットだろうな」
「エルズ・キセット?」
 アーネストが口を挟むと、ウィルベルトは頷く。
「ザック・オーシャンの精霊処分の件を任されたのは彼だ」
 フレイムは瞠目した。
 エルズ・キセット――ザックから闇音を奪った魔術師の名前。
 少年の変化を見てとり、ウィルベルトがそちらを向く。
「彼とまともに戦おうなどとは考えないことだ。金鷹の副団長補佐、影の上級精霊を打ち倒す実力者だ。神器を制御しきれていないのなら、負ける」
 きっぱりと告げられて、フレイムは赤い髪の男を見た。予想外に厳しい双眸とぶつかる。
「中級魔術では話にならないだろう。――君が殺すつもりで挑むと言うならまた別だが」
 フレイムは息を詰め、身体を強張らせた。
 神腕は人を傷つけるためには使わない。守るために使う。そう決めたのだ。
 ザックとグィン、闇音の顔が次々に頭を過ぎった。その大切さをもう一度胸に刻む。そうして、衝動的に湧き上がったエルズに対する怒りを抑え付けると、息を震わせて吐き出した。
「意外と、手厳しいですね」
 アーネストがそう言うと、ウィルベルトはフレイムから視線を逸らした。笑みを消した横顔は一目で憔悴していることが見てとれる。
「失うよりいい」
 小さく漏らされた言葉は、正面にいたアーネストだけに聞こえ、彼はうつむいてしまった男の右手首を見つめた。銀の鎖は冷たく肌に噛み付いている。
(……必要ない、か……)
 アーネストは嘆息する。
 もとより、信じるに値する人となりの持ち主だとは分かっていたのだ。ただ、その男の忠誠心を疑わずにはいられなかったのである。
「しかし、なぜ王妃が?」
 続けて問うと、ウィルベルトは下を向いたまま口を開いた。
「……『あれ』はパスティア様ではないのだ」
 アーネストは訝しげに眉を寄せた。ザークフォードもじっと聞き入っている。
 雨音はだいぶ遠くなっていた。今は軒から落ちる雨粒の壊れる音のほうが耳に残る。
「私は今でもあの目を覚えている。夏は危険だというのを行けと言い放った、女の、目を」
 青い、青い青い青い目。思い出すたびに意識が遠のく。
 馬鹿なとザークフォードが声を絞った。
「正気で言っているのか」
 ウィルベルトがのろのろと顔を上げる。
「……フェリーチェ・ユンセイ・イルタス……」
 静かな声でゆっくりと並べられたその名前は、何かの呪文のようにも聞こえた。
「誰……?」
 聞いたこともない名前なのに、寒気すら感じながら、フレイムが問う。
 アーネストが目を見開いたまま答える。
「前王后」
 暖炉の中で薪が爆(は)ぜたが、その音さえも耳に冷たく響いた。
「九年前に、お亡くなりに」
 アーネストの言葉にフレイムは息を呑む。
「それってどういう……」
 どういうこと――頭の中で繰り返し、フレイムは真相を握っているはずの男を見やった。
 手を組んで額に押し当てている。祈っているのか、懺悔しているのか、そういった姿勢だ。
「ウィルベルト」
 ザークフォードが声を掛ける。
「お前はもう休め。酷い顔色だ」
 弾かれたようにウィルベルトが顔を上げる。
「いや、まだ……」
「いいから。前王后のことは私でも説明できる」
 有無を言わせぬ口調で告げると、ザークフォードは立ち上がって、アーネストを振り返った。
「構わないだろう?」
 短く思案し、アーネストは頷く。
「ええ」
「アレスもつけてやってくれ。このまま一人にしたら朝まで祈り倒しそうだ」
 溜息交じりに肩をすくめる男に、アーネストは苦笑を浮かべて席を立った。
「分かりました。ええ、いいでしょう」
 そして、不満げな顔をしている男の腕をザークフォードが掴んで立たせる。
「じゃあ、こいつを休ませてくるから、ちょっと待っていてくれ」
「あ、はい」
 何か手伝おうと立ち上がったフレイムはソファに座り直した。それをウィルベルトが見下ろす。
「さっきはすまなかった。きついことを言って」
 フレイムは力いっぱい首を横に振った。謝られるようなことではなかったはずだ。
 ウィルベルトは疲弊した面持ちで、それでも優しく笑った。
「キセットと戦うことではなく、君にはもっと他にやってもらいたいことがあるんだ」

     *     *     *

 ウィルベルトを休ませてから、再び三人でテーブルを囲む。
「なんでしょう? フレイム君にやってもらいたいことって。私には出来ないのかな?」
「ずるいな、君だけ頼りにされてみるみたいだ」
 アーネストとザークフォードは好き勝手に言って、フレイムに注目する。
「俺にはなんとも……」
 居心地悪そうに身じろいで、フレイムはうつむいた。目元を赤らめる少年に大人二人は笑いながらも、温かい眼差しを向ける。
 ザークフォードは紅茶を一口飲むと、「さて」と口を切った。
「先ほどの話の続きだが、フェリーチェというのは現王妃の母君でな。病があって九年前に崩ぜられた」
 当時はまだ学院生だったアーネストもその程度のことならば知っている。白い王都が喪服で埋まった日は子どもの目にも印象的だった。
「……二人とも、ウィルベルトとザックがどうやって出会ったかは知っているか?」
「あ、はい。船が難破したところをザックに助けられたとウィルベルトさんが言ってました」
 ザークフォードはフレイムの答えに頷く。
「その事故で生き残ったのはウィルベルトだけなんだ」
 フレイムは絶句した。アーネストも口を噤んでいる。
 一呼吸おいてさらに話は続けられる。
「グルゼへ渡るには船で二日かかる。大海原で嵐に遭い、乗員全員が荒れた海に投げ出された」
 泳いで岸に辿り着ける距離ではなく、無論、泳げるような波でもなかった。
「ウィルベルトが助かったのは、従っていた風の精霊が死力を尽くして彼をグルゼ島の入り江まで運んだからだ」
 胸に重いものが詰まるような感覚。フレイムは眉根を寄せて、端に片付けられたティーカップを見下ろした。こんな話を彼は自らするつもりだったのか。
 一人だけ助かってどんな思いをしただろう。
「もとより季節は晩春。嵐は近かった」
 それでも慎重に行けば、そう判断された。だが、予想は裏切られ、突然の嵐に船はなすすべもなかった。
「秋まで待つという選択は?」
 秋や冬、春でも嵐が全くないわけではない。だが、夏よりもその発生がはるかに少ないのは事実だ。
 アーネストの問いにザークフォードは首を振る。
「もちろん提案はあった。だが、『行きなさい』、その鶴の一声で出発が決まった」
 ウィルベルトが言ったのはことのことか。フェリーチェ前王后の顔を知らないアーネストは、パスティア王妃の青い双眸を思い浮かべた。美しい、だが、奥の見えない眼差し。
「つまり臣下の安否も意に介さないほど、フェリーチェのマリー・マクスウェルに対する執着は強かったというわけだ」
 ザークフォードは深く息を吐くと、ゆっくりと目を伏せた。
 指先を組んで、アーネストは宙を睨む。
「しかし、それでも亡者が敵だと言う話はにわかには受け入れがたい」
「……まあな」
 同意して、ザークフォードは紅茶を口に含む。
 フレイムは両手で包み込んだティーカップの持ち手を撫でた。確かに信じがたいし、本物のパスティア王妃はどうしたのかという疑問もある。だが、ウィルベルトの言葉から嘘や冗談は聞き取れなかった。
 ふいにザークフォードが視線を上方に移す。フレイムも上を見上げたが、アラベスク模様の天井があるだけだった。ウィルベルトが休んでいる部屋は、その上である。
「あ、あの……ウィルベルトさんが行方不明だったっていうのは……」
「うん? グルゼでの数ヶ月のことか?」
 首をかしげるザークフォードの横で、アーネストがああと頷く。
「すまない、ここ五日間のことだね。ザックのこともあったし、心労を増やすのも忍びなくてね。君には話してなかったんだ」
「ああ、話してなかったのか。あべこべになってしまったな」
 目を眇めて笑い、ザークフォードはティーカップを置いた。
「月例会のあとからウィルベルトは行方不明だった。同時に城の一室が破壊されて、侵入した賊に攫われたんじゃないかという噂もあるが、そんな目撃情報はないし……」
「ホワイトパレスを破壊できる人間なんて、魔術師でなければスフォーツハッド公爵本人くらいでしょう」
 アーネストがつまらなそうに言葉を繋ぐ。目線を上方に向けながら。
「攫われたのでなくて、誰かが匿っていた、そういうことじゃないですかね。真相は本人に聞くよりありませんが」
「まあ、それが妥当なところかな。……ところで君はウィルベルトのことが嫌いなのか?」
 ザークフォードの単刀直入の質問に、フレイムは唇を曲げた。そろそろと視線をアーネストに移す。確かに彼のウィルベルトに対する態度はそっけない。
 アーネストは指の腹でこめかみを押さえるようにしてため息をついた。
「嫌いじゃあないですよ。ええ、いい人じゃないですか。ですが、それ以上に」
 らしくもなくふてくされて。
「悔しいじゃないですか」
 魔法剣を扱うウィルベルトは国内有数の剣士でありながら、魔術師にも劣らない魔力制御の技を持つ。無論、魔術で勝負すれば、アーネストが上をいくはずである。だが、そのプライドの高さゆえにそんなことでは彼は納得しないのだろう。
 ザークフォードは膝を叩いた。
「ははは、素直だな。ウィルベルトにも言ってやるといい。照れるところを見られるぞ」
「そういうのは私の趣味ではありません」
 腕を組んで顔を背けるアーネストに、フレイムも眉を下げて笑った。
 雨ももう止んでいる。明日はきっと晴れるだろう。

赤き魔女の封印 30

 雨上がりの朝、食事を終えてしばらく経った頃、フレイムはグィンとともにウィルベルトに呼び出された。
 陽を浴びるマクスウェル邸の庭は廊下から見下ろすだけでも、目に潤いを与えてくれる。歩きながら景色を楽しむフレイムの耳に、緑の精の声が響いた。
「用があるなら、向こうから訪ねてくるべきだと思うんだけど」
 グィンが唇を尖らせる。ウィルベルトは朝食の席にいなかった。彼らを呼びにきたのはマクスウェル家の使用人である。
 グィンの普段どおりの態度にひとまず安堵しつつ、フレイムは眉を下げた。
「そうは言っても、相手は貴族だし。俺はそっちのほうが恐縮して困っちゃうよ」
「スフォーツハッド様はまだお加減が悪いのですよ」
 口を挟んだのは、彼らを案内する初老の使用人だった。口元に微苦笑をはいて、彼は続ける。
「だのに、朝も早くから動き回ろうとなさるんで、主人が怒ってしまって」
 主人というのはアーネストのことだろう。使用人は頬をかく。
「ああ、部屋から出るなと?」
 フレイムが笑って尋ねると、彼は目尻にしわを刻んだ。
「ええ、熱が下がるまでは」
 ということは、危惧したとおり、ウィルベルトは自らフレイムの元を訪ねる気だったのだろう。アーネストが客人であろうと我侭を許さない人間でよかったと、内心でほっと息をつく。
 話をしているうちに、目的の部屋についた。使用人がノックをするとすぐに返事がある。
 ウィルベルトはシャツの上にカーディガンを羽織っただけの簡単な格好をしていた。緩やかな線の印象が、彼を凄腕の剣士であることを忘れさせる。フレイムは無意識に緊張していた肩の力を抜いた。
 ウィルベルトが使用人に礼を言ってもとの仕事に戻らせる。フレイムたちは部屋の中央、テーブルの傍まで招き入れられた。
「おはよう。わざわざすまないね」
「おはようございます」
 だいぶ顔色の良くなった男を見上げて、フレイムは微笑んだ。
「アーネストさんに怒られたそうですね?」
 ウィルベルトは苦笑して答える。
「大丈夫だというのに許してくれなかった」
「俺はアーネストが正しいと思うぞ」
 部屋の奥から聞き慣れない声が響いて、フレイムはぎょっとしてそちらを見やった。青い髪の男が優雅にベッドに腰掛けている。
「あれがアレスだよ」
 ウィルベルトが剣の銘を口にする。驚いた顔でこちらを見つめる少年に、アレスはにやりと笑みを浮かべた。立ち上がって、歩み寄ってくる。
「フレイム・ゲヘナ」
 ウィルベルトより背が高く、切れ長の紫がかった青い目はどこか意地悪そうに見える。フレイムは思わず一歩足を引いた。
「リルコで見たときも思ったが、なんてえか、弱そうな」
「アレス」
 たしなめる口調の主人を一瞥して、笑みの形に曲げた唇で溜息を零す。何も言わずに、アレスはソファに腰を下ろした。
 ウィルベルトは眉を下げて、フレイムに向き直る。
「すまない」
「いえ」
 フレイムは首を振る。神腕の力を賞賛されることが苦手な彼にとって、アレスの言葉はたいして苦痛でもなかった。むしろ、買いかぶりではない評価が得られてほっとする部分がある。
 ただ、強くなろうとしているのだから、こんなことで安堵していては駄目なのだと、胸中で自分に言い聞かせておく。
「まあ、とりあえずかけて」
 促されて、フレイムはソファに腰を下ろした。ウィルベルトはかけてあった上着の内ポケットから何かを取り出し、その向かいに座る。
 そして、手の中のものをそっとテーブルの上に置いた。
「もっと早く渡せたらよかったんだけど」
 青い石が黒い盤面にこぼれる。それはネックレスのように見えた。細長い皮製のひもに青い石がひとつ輝いてる。しかし、これがどうしたのか分からない。綺麗だという感想しか持ちようがなかった。
「これって……?」
 ウィルベルトが差し出した品を見つめ、フレイムは目を瞬いた。グィンが息を呑む。
「闇音の」
「え?」
 フレイムはグィンを見やった。唇を震わせて、その石を凝視している。
「……ザックが、闇音にプレゼントしたのに……なんで」
 ウィルベルトはその声を聞きながら石を見つめた。
「ザックが……そうか、これはグルゼの海の色だな」
 彼を育んだ青い海。
 記憶に甦るのはザックを呼ぶ影の精霊の表情。悲しみに泣きそうな、それでいて愛おしむような――。彼女は失われてはならない存在だと、そう感じた。
 だが、救えなかった。
「影の精霊が消えたから、これだけが残ったのだと思う」
 グィンはぺたりとテーブルの上に膝をついた。ぽろぽろと涙が落ちる。
「闇音……」
 うつむいて、両手で顔を覆う。
 フレイムはつられて泣きそうになるのを堪えた。グィンの小さな後姿は自分がしっかりしなければいけないという気持ちにさせる。以前はこんなふうに感じることはなかった。彼女はいつもフレイムを先導するように前に立ち、手を伸ばして笑っていた。
 これまでどれだけ支えられただろうか。
 フレイムはグィンの頭を撫で、ウィルベルトを見据える。
「どうして、ウィルベルトさんがこれを?」
 ウィルベルトは視線を青い石に向けたまま、口を開く。
「これは金獅子のヴァンドリー団長がスウェイズで拾得したものなんだ」
 イルフォードはどんな意図でこれを持ち帰ったのだろうか。彼が捨て置いていたら、この石は今もスウェイズの道端に転がっていたのかもしれない。
 ウィルベルトは唇の端を持ち上げた。敵わない。あの男はいつもそ知らぬ顔で周囲の上を行く。
「そう、彼が拾ったものだが、私の好きにしてよいと言われている」
 ガラス玉の双眸は変わらず、まっすぐにこちらを見ている。その眼差しの真摯さに、ウィルベルトは嘆息を零した。
「私は君に預けたい」
 フレイムは目を瞬いた。驚きと疑問の混じった色を顔に浮かべながらも、相手に手で遮られて黙る。
「あげるんじゃないよ。預けるんだ」
 念を押して、ウィルベルトはさらに続ける。
「ザックに返してほしい」
 その一言にフレイムは目を見開いて、息を吸った。
 昨晩、彼がやってほしいと言っていたことがなんだったのかを悟る。
「ザックを元に戻せるのは、きっと闇音君しかいないんだ」
 ウィルベルトはネックレスを手に取る。
「君にはこの石をもって、ザックにかけられた操作魔術を解いてもらいたい」
 青い石を手のひらの上で撫で、遠くを見やり。
「……私ではダメなんだ。ザックにとって、私は闇音君を奪った一端だから……」
 息をついてうつむく。しかし、すぐに顔を上げて、フレイムを見つめた。
 皮の紐を指に絡めて、石を掲げてみせる。天上灯の光に青い輝きが揺れた。
「できるかい?」
 男の双眸が石と同じように光を反射する。
 グィンも涙を拭って、主人を見上げた。
「お、れは」
 声が震えた。
 周りの視線が自分に集中している。期待を向けられるということをフレイムは初めて知った。
 答えは是しかないはずだ。
「半端なものなんて役には立たないぜ」
 アレスが笑う。ソファに崩れるように腰掛けているにもかかわらず、目線はフレイムより上にある。
「さっさと覚悟を決めろよ」
 高慢な声。だが、馬鹿にしているわけでないことは分かる。彼は煽ることで背を押しているのだ。
 膝の上で握り締めているフレイムの手に、グィンが自分の手を重ねる。小さな、でも確かな温もり。
「フレイム」
 できるよと言外に含んだ声。
 フレイムは緑の精霊を見下ろして、しっかりと頷いた。
 闇音も一緒だ。できないはずがない。
「やります」
 手を差し出す。
 ウィルベルトは微笑んで、同じように腕を伸ばした。
「頼むよ」
 少年の手にネックレスを握らせ、さらに自分の手で包む。
 その手は温かく、フレイムを安堵させた。
「助力は惜しまない」
 病み上がりの人間だということを忘れさせる力強い声。フレイムの顔に自然と笑みが浮かぶ。
「ありがとうございます」
 礼を言って、頭を下げると目に光が差し込んだ。天井灯ではない、その光の方向、窓の外を見やる。
 青空が輝いていた。
「いい天気だね」
 フレイムの視線に気づいたのか、ウィルベルトがそう呟いた。眩しそうに双眸を細めている。
 その横でアレスが頭の後ろで手を組んで、ふんぞり返るようにして外を見やる。
「しかしまあ、見事に晴れたな。ウィル、マクスウェルに来るのは一日ずらしたほうが良かったんじゃないか?」
「言うな」
 剣精の指摘にウィルベルトは視線を逸らす。
 フレイムは苦笑を浮かべた。確かに、雨でさえなければ、彼の体調も悪化はしなかっただろう。
「気分転換に外にでも行きませんか。庭の花が綺麗でしたよ」
 アーネストはウィルベルトに「部屋にいろ」と言ったようだが、少々の散歩くらいは大目に見てくれるだろう。叱られたら、自分が謝ればいい。家の中でじっとしているにはもったいない天気だ。
 場を和ませようという少年に、アレスが笑った。からかうような、呆れるような口調で問う。
「お前はお尋ね者の自覚はないのか?」
 フレイムは頭をかいた。
 実際のところ、背が高くない自分は、花木の多い庭では簡単には見つからないだろう。だが、ウィルベルトとアレスは目立つ。
 困ったような笑みを浮かべて、別の提案をする。
「えーっと、じゃあ、ピロティでお茶でも」
 アレスは笑みを浮かべたまま、主人のほうに視線を投げた。ウィルベルトは慣れた様子で首を傾げて応える。
「アーネスト君に怒られないかな」
 そう言いながらも、ウィルベルトは立ち上がる。誘いを受けてくれるらしい。さらに、アーネストに対する呼称が変わっていることに気づいて、フレイムは嬉しさに目元を緩めた。
「こっそりやると怒られると思うんで、アーネストさんも誘っちゃいましょう」
 グィンがわざとらしく自分の頬を両手で押さえる。
「フレイムって怖いもの知らずー」
「怖くないよ」
 フレイムは微笑む。
 一瞬きょとんとしたグインは、すぐに相好を崩した。
「仲間だもんねえ」
 そう言って、くるくると宙に舞い上がる。
「僕、お菓子も食べたいな。アーネスト、用意してくれるかなあ」
「茶会なら茶菓子は必須だろう」
 歩み寄ってきながら、アレスがそう言った。そして親指で、背後――上着を準備しているウィルベルトがいる――を指す。
「ウィルは甘いもの食べないから俺がもらう」
「えー、ジャンケンでしょー?」
 上級精霊相手にも物怖じしないグィンこそ、怖いもの知らずだとフレイムは思った。
 他より遅れてウィルベルトが会話に混じってくる。
「半分に分ければいいじゃないか」
 至極当然のことのように、彼は笑った。
 しかし、アレスとグィンはあからさまに顔をしかめる。
「だめだ、こいつは何も分かってねえ」
「ロマンがないよね」
 口々に言う。
 意味が分からないといった様子で、ウィルベルトは腕を組んで、首を傾げた。
「フレイム君はどう思う?」
 フレイムは扉を開けながら、三人に最上の笑みを向けた。不安げな表情を浮かべていることが多いだけに、屈託のない笑みは花が綻ぶ様にも似て、見惚れずにはいられない。
「甘さを控えたお菓子にすれば良いと思います」
 そして、行きましょうと外へと促す。
 三人は視線を交わし、そして一様に顔を笑みで染めた。
 問題はたくさん残っているけど、それでも着実に前へと進んでいる。良い方向を向いていると感じるのは、きっと気のせいではないはずだ。
(だって、こんなにたくさんの笑顔に囲まれるのは久しぶりだから)
 そして、ここにはいないあの人の笑顔も、必ず取り戻す。改めて決心して、フレイムは軽く睫毛を伏せた。
 今はしばしの休息を。
 たわいない会話さえ幸せに思わせてくれる、そんな陽光に包まれた庭を片手に。
 束の間の、緩やかな時間を楽しむのも悪くない。