「アーシア!」
夢の中で少年は叫んだ。
美しい亜麻色の髪が宙をなびいて視界から消える。
その先にこちらに黒い武器を向ける男がいる。険しく、感情が殺された瞳が亜麻色の髪を追っているのが見えた。
自分の口から漏れる以外は何者も音を生み出さない。この夢はいつもそうだった。
少年は床に座りこんで、倒れた女性を抱き上げた。女性の胸は赤く滲んでいる。
「アーシア! ……どうしてっ」
女性は涙に濡れた蒼い瞳をかすかに開き、わずかに唇を動かした。
「ごめん……、ごめんね、フレイム……」
「っ!?」
ありえないはずだった声。フレイムははっと目を覚ました。
心臓がどくどくと脈打っている。冷たい汗が首筋を伝って、フレイムはゆっくりと息を吐き出した。
(……声、聞いたの初めてだ……)
声はもちろんだが、この夢自体、見るのが久しぶりだった。そう、ザックとともに旅をはじめてから久しく見ていない。
落ち着いて視線を動かすと、まだ明けそうにない暗い空と、規則正しい呼吸を繰り返すザックの背中が見えた。
(俺……ネフェイルに会うのが、怖いんだろうか……)
彼の瞳に浮かぶ優しい光を覚えている。だが、その瞳はあまりにも深く澄んでいて、全てを見透かしているようで怖かった。
物思いにふけっているとザックがころんと寝返りをうった。毛布を抱きしめている。それを見て、フレイムは一人苦笑した。以前、その毛布の役目を担ったことがある。
(もう会うって決めたのに、悩むのも馬鹿みたいだよね)
悩みのナの字も見あたらないのんきな寝顔のザックを見つめてから、フレイムはもう一度眠りにつくべく瞼を伏せた。
ことこと揺れる。慣れない感覚にフレイムは眉を寄せた。
馬車、と言うには及ばない。馬の引く荷台に幌(ほろ)を張っただけのものである。もちろん、御者はフレイムたちが賞金首であることは知らない。乗り心地は悪くはないが、あまり落ち着けるものでもなかった。
「ザックは平気なのかなあ……」
ため息混じりに、そのザックを見やる。彼は闇音の膝枕で眠っていた。時折差し込む陽光が眩しいのか、片腕で顔を覆っている。
「フレイムは酔ったの?」
荷台の端に座って、足をぶらぶらさせながらグィンが振り返る。
「うーん、そうでもないけど……」
こうして馬車に揺られているのはザックの体調を気遣ってのことである。もちろん、ザック本人にはそんなことは言っていない。言えば余計なお世話だと彼は怒るだろう。
――という事だったのだが、当のザックは気持ちよさそうに寝、自分は揺られて心地悪い。
(なんていうか……、本当に余計なお世話だったかも……)
自分の足ではありえない速さで流れていく風景を見て、フレイムはまたため息をついた。
コウシュウの田園の広がる風景はだんだんとその様を変えてきていた。
三百六十度ぐるりと囲んでいた地平線はもう見えない。農地は減り、人の手の入っていない林野を抜けていく。馬車の行く手には連なる山脈が顔を見せはじめていた。あまり高い山はなく、緑に覆われている。
その山脈を越えれば、もうリルコは目の前だ。
* * *
純白のイルタシア王城は壮麗な建物として他国にも名高い。尖塔が多く、緻密な装飾の施された白壁は美しい。それは見る者に神聖ささえ感じさせ、王室の権威の象徴でもあった。
その塔のひとつ。白い手すり。そこに置かれた、これまた白い手。だが冷たい石と違って、その手はほんのりと温かく柔らかい。
高所の強い風が銀の巻き髪を揺らす。
「そう、リルコへ向かうのね……」
深海の色をした瞳を遠くへ向け、神の華――パスティア王妃は一人で呟いた。
憂いを帯びた青い瞳は、銀の睫毛をまとってどこまでも美しい。形のよい唇。王妃は自身の住む城のごとく完璧な美しさを誇る女性だった。
「今はどこまででも行くといいわ」
頬にかかった髪を払いのけ、パスティアは目を閉じた。
「でも、犯した罪の償いはしないといけないわ」
その時ひときわ強い風が吹いた。頬を叩く、敵意すら感じる風。パスティアはくすりと笑みを浮かべた。
「ねぇ?」
「生意気な女だな」
手を西のほうへと向けた格好で、飛竜は舌打ちした。
突風はちょっとした牽制のつもりだった。しかし相手は臆する様子もなく笑みを返してきたのだ。
眉を寄せ、飛竜は赤い双眸でイルタシアの王城ホワイトパレスのある方向を睨んだ。
「……何か、切り札でも持ってるのか……?」
王妃と一国民の接点。ないようだが、一箇所ある。
彼の欲する青年は、王城にゆかり深い女を母に持つのだ。ただ、その女が王城にいたのは二十年以上前。王妃はまだほんの小さな皇女だったはずだ。
(それにフレイムは関係ないはず……)
なにかがどこかで縺(もつ)れている。
飛竜は人差し指の関節を噛んだ。分からないことがあるのは気に入らない。
血の瞳を不穏に光らせると、彼はその場から姿を消した。
* * *
「これは、何?」
仁王立ちになった女性がびっと一枚の紙を突きつけてくる。その瞳を怒りで染めて。
「何って、……賞金首の人相書き?」
椅子に座った男が答えて、引きつった笑みを返す。
手に力が入って、紙がくしゃりと曲がった。描かれた賞金首の顔も歪む。まるで持っている人物の怒りに怯えているように。
(やー、でもこの顔見たら誰だって怖がるよなー)
そう思いながら苦笑いのまま、紙を握り締めた女が叫ぶのを、男は黙って見ていた。
「もぉーっ、どういうことよー!!」
ヒステリックな叫び声を上げ、女は人相書きを宙へ投げる。
(ま、どういうことよ、ではあるよな……)
男はため息をついて窓の外に目をやった。彼の脇の机には別の賞金首の人相書きが置いてある。懸賞金十億とは思えない、ごく普通の少年だ。
天気のよい初秋の午後。怒る女をからかうように、波が打ち寄せては帰っていっていく。
はらりと、五億の賞金首の人相書きが床に落ちた。
「お客さん、ついたよ」
御者台のほうから声がかかり、フレイムはぱちっと目を開けた。いつの間にやら眠っていたらしい。寝癖のついた髪を手櫛で直しながら体を起こすと、グィンがにこりと微笑んできた。
「おはよー」
「あ、うん、おはよう」
ついたのはリルコとコウシュウの間にある関所である。見回すとすでにザックと闇音は馬車から降りており、こちらを見ていた。
「ごめんっ」
「いや、別にいいよ」
慌てて荷物を背負うフレイムにザックは手を振った。何か他に気になることでもあるのか、辺りを見回している。
フレイムが降り、馬車が行ってしまうとザックは小さな声で呟いてきた。口に手を添えた内緒話ポーズで。
「ふと思ったけどさ、関所、通れると思うか?」
一瞬、目をぱちくりさせ、それからフレイムは青ざめた。
そう、二人は罪人なのだ。飛竜はガルバラにはまだ令状は届いていないと言っていたが、それはもう三日前のことである。
「うっかりしてたよなー。シェシェンとコウシュウの間はなんかおまけみたいな関所しかなくて、顔もろくに見せずに通れたし」
その関所では実際、ザックが愛想笑いをしている横をフレイムはコソコソと通り過ぎたのである。買ったばかりの帽子を目深にかぶって――そう、普通はその程度なのだ。関所と言っても所詮は国内での話なので、詳しい取調べなどはない。厳重なのは国境にある関所だ。
「でも、リルコはある意味外国だからな」
そう言ってザックの見つめる先には実に立派な関所が建っている。ガルバラの国色である赤を主張するレンガ作りの、頑丈そうな平屋だ。
リルコはガルバラの領土ではあるが、国教とは違う宗教を信仰する者が多く、かなりの昔から自治区として認められている。
二人でじっと関所を見つめていると、闇音がため息混じりに告げてきた。
「御者に聞いたんですが、関所では身元証明と旅券の審査が行われるそうですよ」
ザックがよろりと天を仰ぐ。
「……身元証明……」
「……旅券の審査」
続けて呟いたフレイムを、ザックは目を細めて見下ろした。
「……まさかフレイム、旅券も持ってないのか?」
「……うん」
「どちらにせよ、身元証明で賞金首であることはばれるんですから。旅券はあまり関係ありませんよ」
遠慮がちに答えたフレイムに、闇音が首を振りながら告げる。
「どうやってリルコに入るの?」
グィンがなぜか面白そうに聞いてくる。
ザックが考え込むように眉根を寄せると、フレイムがぽつりと呟いた。
「空間転移という方法もあるけど……」
「お、画期的じゃん。関所を通り越すんだな」
「……俺、得意じゃないんだよね」
フレイムが表情を曇らせる。
「空間転移は難しいですからね」
闇音も付け加えて、他の案を考える。ザックは空間転移の何がどう難しいのか分からず、二人とは違う意味で眉を寄せた。
「じゃあ、武力行使だね」
明るい声でグィン。にこにこと笑顔で三人を見下ろしている。
「ぶりょくこーし、だと?」
聞き返したのはザック。片目を細めて疑わしげに緑の精を見つめる。グィンはあっさりと頷いた。
「関所の、武器を持ってる衛兵相手に武力で挑むのか? 言っとくけど奴らの中には魔術師もいるんだぞ」
「えー、でも闇音もいるし。何とかなるんじゃない? 怪我したら僕が治してあげるから」
楽観的な意見にザックが顔をしかめて反論しようとすると、闇音は意外にも頷いてみせた。
「まあ、ひとつの案ではありますね」
グィンの意見を肯定する自分の精霊にザックは顔を歪めた。自分は反対だと口調に込めて言い返す。
「本気かよ? 衛兵まで怪我させたら、ガルバラでも罪人になるんだぞ? 八方塞(はっぽうふさがり)じゃねぇか――なあ、フレイム」
促されて、ずっと黙っていたフレイムがやっと口を開く。
「あ、うん、俺もザックに賛成、かな」
自分はともかく、ザックの罪をこれ以上重くはしたくなかったし、できれば争いは避けたかった。
「でも、じゃあ、どうするの?」
「それは……」
口を尖らせるグィンに、フレイムは視線を落とした。
と、視界の影が大きくなる。自分より背の高い者が背後に立ったのだ。
じゃっとザックの靴が土を蹴る音と、次いで野太い声が響いてくる。
「さっきから……フレイムだの、ザックだの……大物賞金首の名前が聞こえてくるのは気のせいか? んー?」
振り返ったフレイムの目に、大きな槍を担いだ男が映る。その後ろには何人か、これまた武器を持った男たちがいた。
「なんだ、ただの賞金稼ぎか」
驚かすなよ、とザックがため息をつく。その態度にぴくりと槍を持った男の眉が動いた。
「ただの……?」
フレイムは怒気をみなぎらせた男を見上げた。茶色の髪に浅黒い肌。背は高いが、それでも規格はずれというほどではない。確かにただの人だ。
(と、思うのは……やっぱり……)
「飛竜と比べたら、なあ?」
苦笑して、ザックがこちらを振り返る。同じことを考えていたフレイムは頷いた。飛竜はその瞬きひとつの間にこの男たち全員を地に伏せることができるだろう。彼はそれだけの実力者だ。ついでに言えば、目の前にいる賞金稼ぎたちは雰囲気でさえ、飛竜には遠く及ばない気がした。
「ば、馬鹿にしやがって!」
顔を真っ赤にして賞金稼ぎが、槍を一閃させる。切っ先は一番近いザックを向いていた。
届く、男はそう確信して口元を笑みの形に歪めた。
しかし、その視界に映ったのは、こちらを見つめる涼やかな黒い瞳だった。すい、と軽く睫毛を伏せたかと思った次の瞬間には、槍は空しく空を切っていた。
目を瞬く男に、ザックは微笑んで手を振った。それからフレイムたちを振り返る。
「俺は関所を越える妙案も浮かばないし、こいつらの相手でもしてるよ」
気楽に言うザックにフレイムは思わずため息を漏らした。
「……うん、分かった」
少年のやる気のない返事が、始めの合図となった。
耳元を掠った槍をザックは軽く手の甲で叩くと、正面から突き刺してきた剣の刃先を靴のかかとで蹴落とした。
「……ますます元気と言うか…」
関所を通過するための「妙案」を考えなければならないはずのフレイムは、しかしザックの乱闘をじっと見つめていた。
「病み上がりって言うのはもう詐欺になっちゃうね」
頭上でグィンが頷く。
実際、ザックの動きは見事としか言いようがなかった。剣こそ抜きはしないものの、拳と脚で相手をいなしていく。
多勢に無勢と言う言葉もあるが、敵は槍など中距離武器を持つ者がいるゆえに、一度にかかることが出来ずにいる。結果、六、七人で囲んでいるにもかかわらず、実際にザックと相対しているのは二人程度であった。
闇音もフレイム同様それをじっと見つめていた。ただし、彼は他二人とは違ってその表情は穏やかとは言いがたい。
(……なぜ、剣を抜かない?)
剣を抜くほどの相手でないのは分かる。だが騒ぎが大きくなれば関所の衛兵が出てきてしまう。乱闘は短時間で終わらせなければいけないのだ。それはザックも分かっているはずなのに。
闇音は主人の動きに注意を払った。
三人目を地に伏せさせて、ザックは息をついた。残りの人数を見て、眉根を寄せる。
(早く終わらせないと……)
だが、彼の手は剣の柄に伸びない。
(……ちくしょう!)
ザックは内心で罵声を発した。
剣を握らないのではなく、手が剣を握ろうとしないのだ。
自分の手が言うことを聞かないことに気がついたのは、一人目をかわして、次の敵の剣を捌(さば)こうと思ったときだった。指先が剣の柄に触れた瞬間。
殺してくれ。
手が震えた。
囁いたのはシギルの声だった。
青い月光が照らし出す過去。すべてを語った養父の声。
(……俺って随分と小心者だったんだな)
剣を抜かず、拳で賞金稼ぎのみぞおちを打ちながらザックは奥歯を噛んだ。
一瞬でも養父を殺さなければいけないと考えた自分を恐れている。刃を掴めば、それが大事な人を貫くのではないかと怯えている。
その不安を払拭しようと、ザックは必要以上に拳に力を込めた。
そうしてがむしゃらに暴れた結果、いつのまにか立っている者は自分以外にいなくなっていた。
目を閉じて、肩で息をする。
「……悪い。手間取った」
こちらを見ていた三人に気づいて、苦笑混じりに告げる。
フレイムは首を振った。ついでに手も振る。
「ううん。お疲れ様。もうすっかり元気だね」
安堵した様子の少年に頷いてから、ザックは自分の精霊を見やった。冷ややかな闇の瞳とぶつかる。
「……お疲れ様です」
「……ああ」
返事をしながら、ばれたかな、と思う。
ザックは片眉を下げて、無表情な闇音に笑みを返した。じとりと物言いたげな視線がちくちくと痛い。この漆黒の精霊はどうにも鋭くて困る。
だが、それでも何も言わずにいてくれる闇音に感謝しながら、ザックはフレイムたちに首を傾げて見せた。
「で? 黙って見ていたみたいだけど、何かいい案は浮かんだのか?」
「あっ、えーっと……」
言い淀む少年に、ザックは嘆息をこぼした。
「……だよなあ。本当にどうしたらいいのか……」
そう呟きながら、彼には実は心当たりがなくもなかった。
うまくいけば、もしかしたら一気にネフェイルのところまで到達することも可能かもしれない案。だが、それを実行に移すには自分が犠牲になる必要があるのも分かっている。
記憶から消し足りたい出来事ナンバーワンともいえる惨事を思い出し、彼はげんなりと肩を落とした。無意識に自分の口を片手で覆う。
そう、その案とは、あの忌々しい赤目の魔術師を呼ぶことである。
(うぅ……、やっぱり嫌だ)
成功率はきわめて高いだろう。ハイリスクハイリターンとはよく言ったものだ。
この提案を仲間に述べるか否か、ザックは頭を抱えた。
と、そこへぱちぱちと手を打つ音が響いてくる。顔を上げると、フレイムたちも驚いて音のほうを見ていた。無理もない、それは自分たちへ向けられる拍手だったのだから。
倒れた賞金稼ぎたちの向こうに、男が一人立っている。呆然とする一行への拍手をやめ、にこりと笑う。その仕草にあわせて、赤い髪が揺れた。
「すごいな。これだけの人数を一人で倒してしまうなんて」
男の声は明るい。
「……何、この人?」
グィンが小さく呟く。
拍手を聞いた瞬間、フレイムの頭を過ぎったのは神出鬼没の飛竜であったが、目の前にいる男の顔は覚えにないものであった。
年は二十代後半だろうか。丈高く、その背になびく白いマントが眩しい。長めの赤い髪は背中で三つ編みにされており、青い瞳とあわせて美しいコントラストとなっている。
そして、腰に帯びた金に輝く剣から男が剣士であることはすぐに知れた。
「……あ、あれ?」
不思議そうな声を上げたのはザックだった。白マントの男をまじまじと見つめている。どこかの名のある賞金稼ぎなのだろうかとフレイムは予想した。有名な賞金稼ぎ、それも剣士に限ってザックはよく知っているからだ。
しかし、首を傾げながら検分してくる青年を見やり、白マントも怪訝な顔をする。
そして驚愕の声は同時に発せられた。
「ウィルベルト!!」
「ザックか!?」
お互いを指差して叫んだ二人の男にフレイムはぱちくりと目を瞬いた。
「えっと……何?」
少年の呟きはしかし無視され、剣士たちはすでに手を取り合って跳ねている。
「おいおい、本当にザックか? でかくなったなあ」
「ウィルベルトは変わってないな。でもその白マントはなんだよ。キザだなー」
「なんだ、お前知らないのか?」
ザックの問いにウィルベルトというらしい男は陽気に答える。
そこで闇音がはっと肩を跳ねさせたのをフレイムは見た。そして自分もそのことに気づいて思わず青褪める。
白いマントと金細工の剣。
「こいつはイルタシア王室直属の剣士団のトレードマークだよ」
明るい男の声に、四人は眩暈さえ覚えた。その男は賞金稼ぎよりなお悪い、フレイムたちにとって最悪の男であった。
動きを止めて、ザックはウィルベルトの顔を見つめた。
「イルタシアの……王室直属、剣士団……?」
「そう」
「……ええっと、なんでここにいるのさ?」
「そりゃあ、無頼者たちが暴れたら止めないとな。それも職務だし。まあ、止める前にザックが全部倒しちゃったけど」
そしてウィルベルトは笑ってザックの肩を叩く。
「強くなったなあ、ザック。先生は嬉しいぞ」
フレイムと闇音はちらりと目を合わせた。コソコソと呟く。
「……あの人、俺たちが賞金首だって分かってないのかな?」
「どうも……そのようですね。王室の剣士団といえばエリート剣士の集団……。賞金首のデータはすべて頭に入っていて当たり前のはずなんですが……」
「……ていうかさ、『先生』ってどういうことだろうね?」
二人の頭の間で、グィンが疑問を口にする。
闇音は目を閉じてため息をついた。
「……そうですね……」
呟いて、ザックのほうを向く。
「ザック、そちらの方はどなたですか? 紹介してもらえますか?」
声をかけられて、やっとザックは闇音たちに気づいたようだった。王室に関わる者だと知って慌てていたところに、紹介を求められて更に混乱したらしい。わたわたと手を振る。
「あ、ああ、えっと、ウィルベルト……」
「ウィルベルト・スフォーツハッド。イルタシア王室の剣士団《金獅子》の団員をやらせてもらってる。そしてザックの剣の師匠、かな」
言葉に詰まっている青年の手を捕まえて、自己紹介を行うとウィルベルトはフレイムたちに微笑んで見せた。
「剣の先生……」
呟いた少年に、ウィルベルトは頷く。
「十年も前の話だけどね」
「漂流してたのを拾ったんだ」
ザックが続けて説明する。フレイムは目を瞬いた。
「ザック!」
「え? だって本当のことじゃん」
余計なことは言うなと咎めるウィルベルトにザックは首をひねってみせる。ウィルベルトは片手で眉間を押さえた。
「ああ、もう……。そう、船が難破してグルゼ島に流れ着いたのを、ザックが見つけてくれたんだ」
「それは……大変だったんじゃ……」
慰めるべきか否か言葉を詰まらせる少年に、ウィルベルトは首を振ってみせた。
「もう随分も前のことだから。今更気にすることでもないよ」
青い双眸は寂しげにも見えたが、浮かべる人の良さそうな笑みにフレイムは何も言えなくなった。わざわざ話をやめようとしているのだから、あまり触れないほうがよいのだろう。
「で、そちらの紹介は?」
ウィルベルトはザックに目線で少年を示して尋ねる。フレイムはぎくりと体をこわばらせた。
「えっと……」
さすがのザックも言葉を濁す。闇音は微笑んで、一歩白マントに近づいた。
「私は闇音といいます。彼の精霊です」
そう言ってザックを示す。ウィルベルトは口笛を吹いた。
「へえ、こりゃまた上級精霊じゃないか。影の精霊、かな。いいのに目をつけてもらったなあ、ザック」
「ああ、うん。まあ、役に立つ奴だよ」
どこか照れくさそうにザックが答える。闇音は微笑んでいるままで表情を変えない。
(……精霊と分かれば、種族まで分かるのか。単なる馬鹿というわけではない……)
改めてウィルベルトを見やり、闇音は続けてグィンを指し示した。
「こちらはグィン。緑の精霊です」
「よろしく、オジサン」
「う……、ああ、よろしく、妖精さん」
オジサン、と言われたのがショックだったのか、ウィルベルトは目線を下げた。ため息をつくと、気を取り直して最後に残った少年を見やる。
「君は?」
心臓が高鳴る。名前を言えばばれるかもしれない。だが、ザックのことも知らなかった。ばれないかもしれない。
ちらりと視線を向けると、闇音は神妙に頷いて見せた。
フレイムは覚悟を決めて声を絞った。
「あの……フレイム……です」
小さな声だった。聞こえなかったかもしれない。ウィルベルトは目を瞬いている。
「悪いな。人見知りするんだ」
ザックが苦笑交じりに告げる。彼の顔からも、気づくなと祈っているのが見て取れた。
やがて、ウィルベルトはフレイムの頭をぽんぽんと叩いた。
「フレイムって、あの超高額賞金首と同じ名前じゃないか。間違えられて迷惑したりするんじゃないのか? 大変だなあ」
場は、沈黙した。
闇音ですら言葉を失って固まっている。
周囲の様子に疑問を覚えたらしいウィルベルトが、「ん?」と首を傾げて教え子を見やる。ザックははっとして笑った。ぎこちない笑みだった。
「あ、あはは、ああ、そうなんだよなー。さっきの奴らもそれで襲ってきたんだよ。いい迷惑だっての、なあ?」
相づちを求めてザックは闇音を振り向いた。本当は当人であるフレイムに話を向けるつもりだったのだが、少年はいまだ目を白黒させていて、とてもじゃないが嘘を求めることは出来そうになかったのだ。
闇音はさすがと言うべきか、すでに落ち着きを取り戻しており、主人の声に頷いて見せた。
「ええ、本当に。関所もうまく通れるか……不安ですね」
ウィルベルトが顔を上げる。
「リルコに入りたいのか?」
その反応にザックもぴんときたらしい、声を大きくする。
「ああ、出来ればすぐに。会わなきゃいけない人がいるんだ」
「でも、関所の検問はすぐすむぞ? 間違いだってないだろうし」
公務職らしい発言をするウィルベルトの肩を、ザックはがしっと捕まえた。眉根を寄せて、師匠の顔を覗き込む。
「……金獅子のウィルベルトには言いにくいんだけどさ……」
「……なんだ?」
「俺の旅券がさ、期限切れてるんだよね」
深刻そうな顔をした教え子の言葉に、ウィルベルトはがっくりと肩を落とした。
「なにやってるんだ、おまえは……」
「な? だから困ってるんだよ。ここでイルタシアの新しい旅券を発行するには十日はかかるだろうし」
ぺらぺらと嘘を並べるザックにフレイムは呆気にとられた。
はじめに闇音の手助けがあったとはいえ、中身を考えたのはすべて彼だ。ザックは嘘が得意だ、そう言った闇音の言葉を思い出す。
ザックは手の平を打ち合わせてウィルベルトに頭を下げた。
「頼む。ウィルベルトなら検問なしでリルコに入れるんだろ?」
「うーん、でもなあ……」
立場を気にしてか、ウィルベルトが唸る。ザックはきらきらと目を輝かせて続けた。
「先生、頼むよ」
「うう……」
もう一押しだ。周りの誰もがそう思ったとき、ザックは最後の言葉を発した。ぽつりと。どうでもいいように、しかしウィルベルトの耳に確実に届くように。
「命の恩人」
「……っ……分かったよ!」
ついに折れた師の声を聞いて、ザックは満足げな笑みでフレイムたちを振り返った。
イルタシアの誇る剣士団《金獅子》と魔道師団《金鷹》は他国であっても優遇された。特に隣国で国交も良好なガルバラでは。
この信頼の高さは先人達の実績によるものだが、現団員達がそれに劣らぬ働きをしているのもまた事実である。
ウィルベルトは検問の衛兵に表に獅子、裏に彼の名が刻まれた金の時計を見せた。
「ウィルベルト・スフォーツハッド様ですね」
「ああ」
確認する衛兵に頷いてみせる。時計を出したときもそうだったが、しまう動作も滑らかで気品さえ感じられる。背後で見ていたフレイムは思わず嘆息をこぼした。
「金獅子や金鷹には、よっぽどの実績がない限りは、貴族でないと入団できないんだ。だからウィルベルトだって間が抜けているように見えても、間違いなく貴族なんだ」
そう説明するザックにグィンが腕を組む。
「でも剣師団でしょ? 貴族なんかよりそこらへんのごろつきのほうが腕力があるように見えるけど?」
目線に浮かんでいる妖精にザックは首を振った。
「おまえさ、剣を使うのは力馬鹿だと思ってるだろう? 魔術ばかりに気を取られてるからそうなるんだ。忘れるなよ。この世界を支配してるのは、魔術と剣だ。魔術に劣らない剣技を持つ者が力を得る世界だ」
言いながら、ウィルベルトを目線で示す。
「今ある貴族はかつての大戦で実績を上げた奴らだ。つまり、どこの貴族だって魔術か剣の名門だってことさ」
闇音が頷いて続ける。
「イルタシア王室とて例外ではありません。大戦でイルタシアを率いた魔法剣士こそがイルタス一世なのですから」
力のある者が世界を治める。フレイムは思わず右腕を押さえた。
神腕――万の軍に匹敵すると言われる神通力を引き出す媒介。
(そんなの、嘘だ)
引き出せても操れなければ、一人の兵だって倒せない。操れたとしても、本当に万の軍に通用するはずがない。たった一人でどうにかできるほど、軍はひ弱ではないのだ。
「そちらの四人は……」
衛兵がこちらに目を向けてきたので、フレイムはぱっと顔を伏せた。ウィルベルトは四人を指し示して答える。
「ああ、私の連れだ。急いでるんだ。検問の時間が惜しいので、このまま通してもらえるか?」
衛兵はじろじろとこちらを見やる。
「失礼ですが、四人は一般の方のように見えるのですが……。それでは……」
「ああ、お忍びの旅の途中だから。いかにも貴族ですといった格好では宿も取りにくいのでね。彼らは、と言っても二人は精霊だけど、残りの二人はちゃんとした貴族の出だよ」
そう説明されて、フレイムとザックは思わず顔を引き攣らせた。ウィルベルトは構わず笑顔のまま続ける。
「そちらの黒髪の方はマクスウェル家の御曹司だ。今回、私はこの方の護衛が仕事でね。この方を疑われるようでは、私も侮辱されたと思うしかないのだが……」
言って、ちらりと衛兵を見つめる。穏やかな青い瞳は、しかし光の具合によっては冷たい深海を思わせることもできた。衛兵はぎくりと体を強張らせると、びしっと敬礼の姿勢をとった。
「スフォーツハッド様、及び他四名、リルコへの通過を許可します」
「ありがとう」
ウィルベルトは衛兵に微笑むと、ザック達について来いと手で示して歩き出した。四人は慌ててそのあとを追った。
そうして、関所を無事通過したのであった。
「ったく。俺のどこをどうとって貴族だなんて言うんだよ。フレイムのほうがよっぽどそれらしい顔してるじゃないか」
関所から出て、ザックはウィルベルトに向かってそう愚痴をこぼした。ウィルベルトは笑う。
「いいじゃないか、向こうは信じたんだし。それにお前だって綺麗に着飾って黙ってれば貴族に見えないこともないさ」
「馬鹿野郎。イルタシアの貴族に黒髪はいねぇだろ」
「ああ、そう言えばそうだったな」
指摘されて名高い金獅子の剣士はぽんと手を打つ。
「いやー、ここがガルバラでよかったなあ。イルタシアだったら即刻ばれてただろうなあ」
実はかなり危ない橋を渡ったのではないかと、フレイムは内心で冷や汗を流した。
「どうしようもないオマヌケさんだね」
グィンもそう思ったのか双眸を細めて呟く。闇音は何も言わなかったが、苦笑を浮かべていた。
「でも、本当に助かったよ。ありがとう」
ザックがそう言って手を差し出すと、ウィルベルトはそれを握り返した。
「まあ、命の恩人の頼みだしな」
そう言って片目を閉じてみせる。ザックは眉を下げて笑った。
「うん。それでウィルベルトは本当はどうしてガルバラに来てるんだ?」
尋ねられると、ウィルベルトは表情を変えて教え子の問いを手で遮った。
その仕草は「極秘任務だから聞くな」と暗に語っている。黙り込んだザック達にウィルベルトは笑って見せた。
「ちょっとした行楽だよ」
「あ……、ああ、そうか。じゃあ、楽しめるといいな」
ザックはぎこちなく言葉を返し、手を放した。外国までの旅を「ちょっとした行楽」とは言わないだろう。あいかわらず上手い嘘を言えない師匠にザックは微笑んだ。
「また、いつか会えるといいな」
「……そうだな」
そう言って、別れを告げる。
フレイムたちもウィルベルトに礼を言い、四人はまたスウェイズに向けて歩きを再開したのだった。
遠く小さくなっていく四人を見つめて、ウィルベルトは風に吹かれた前髪をかき上げた。
その背後に静かに男が歩み寄る。ウィルベルトと同様の白いマント。しかし金の剣は帯びていない。剣師団の候補生である。濃い金髪を持ち、快活そうな瞳は澄んだ水色をしている。二十歳前後であろうその青年は、赤毛の剣士の三歩ほど後ろで足を止めた。
「良いのですか、スフォーツハッド様」
若い候補生は窺うように首を傾げた。もちろん表情は見えないが、俯(うつむ)く彼がどのような顔をしているのか青年は想像出来るような気がした。
「彼らは反逆罪で賞金のかかっている賞金首でしょう?」
「……ディルム、口外はするな」
「しかし……」
言い募る後輩を振り返り、ウィルベルトは謝るように笑みを見せた。
「教え子を罪人扱いはしたくない。お前が罪を犯したとしても、私はそう思うだろう」
「私は罪など犯しません。私は高潔なる金獅子の団員となるのですから」
むっとして言い返すディルムに、ウィルベルトは苦笑する。誇り高いと言うか負けん気が強いと言うか。その気概が一人前になる頃にはこの若者も金の剣を手にしているだろう。
「……そうだな。……そうだ、私とて金獅子の一員だ」
呟いて金の柄を撫でた。固く冷たい剣と、先ほど握り締めた青年の手を比べる。どちらも彼にとっては捨てることの出来ないものだ。
(二度目はない。『またいつか』会うときは、私はお前を裁く……)
赤い髪を風に遊ばれるに任せ、目を伏せる。ウィルベルトは純白のマントを翻し、振り向きながら風の狭間で小さく呟いた。
「ザック・オーシャン……二度と会うことがないと良いな……」
「さて、ここからどこを目指せばいいんだ?」
ザックは辺りを見回しながらフレイムに尋ねた。
広い街道の向こうには山脈が迫っている。関所を出て一番初めの町は宿場のようだった。宿や馬屋が多く見受けられる。
「えっと、スウェイズなんだけど」
フレイムは鞄から引っ張り出した地図をぱらぱらと捲ってみた。と、その上にグィンが滑り込む。
「もう、スウェイズは僕の出身地シヤンの隣。地図なんか見なくても分かるよー」
「本当に?」
フレイムが尋ねると、グィンは任せてと頷いた。
「でもスウェイズは遠いから、途中で宿を取ることになるかも」
「まあ、それは仕方ないでしょうね。リルコは広いですから」
闇音が同意する。
フレイムは地図をしまいながら空を見上げた。太陽は中天を通り過ぎつつある。精霊たちの言うとおり、今日中にスウェイズに到着するのは難しいだろう。
リルコは広く、自然が多い。つまり魔物も多いと言うことである。野宿をするには相当の準備がいるのだ。確かに今夜は宿を取ることが無難な選択だといえるだろう。
「じゃあ、着くのは明日になるのか?」
ザックが真っ直ぐに続いている街道の先を眺めながら聞いてくる。グィンは首を捻った。
「どうだろう? 頑張り次第じゃない?」
「うーん」
グィンの返答に眉を寄せるザックを、闇音は不思議に思った。
「……どうかしたんですか?」
背後に立った黒い精霊を振り返って、ザックは頭を掻く。
「いや、もう賞金首捕まえて換金、なんて出来ないだろう? そろそろ金を節約しないといけない気がするんだが……」
言いながら、彼は財布の入っている腰の鞄を叩いて見せた。闇音が確かに、と頷く。
「……そうですね。もっと先へ進めば、イルタシアの令状の届かない僻地になるんでしょうが……。今しばらくは役所関連には近づけませんね」
「シィにも少し餞別をもらったけどさ、そんなにもつわけじゃないし……」
「あの、俺、まだいくらか余裕があるよ……。それにネフェイルのところまで行ければ何とかなるよ」
二人の会話に、フレイムが遠慮がちに口を挟む。ザックは少年のほうを振り返った。
「……ネフェイルってのは金持ちなのか?」
「え?」
彼の問いの意味が分からず、フレイムはとりあえず首を振った。
「ネフェイルのところでなら、きっと野宿に足りるだけの備えが出来ると思うけど…」
「……ああ……、なるほど。そういうこと、か」
ザックは苦笑する。
「お前って、野宿好きだよな」
フレイムは再び首を傾げ、それから素直に頷いた。
「うん、夜空とか見上げながら寝るの好きだよ」
地面に寝転んで見上げる満天は、晴れた日には月も星も降ってきそうなほどで、眠る前だというのに胸が躍る。いい夢が見れそうな気がするのだ。
「……まあ、いいけど。天体観測は飽きないもんだしな」
そう言いながら、やはり困ったような笑みを浮かべるザックに、フレイムはまた首を傾げるのだった。
「とりあえず、しばらくは星空を見ながら寝るわけにはいきませんので、先を急ぎましょうか」
闇音が二人のやり取りに微笑を浮かべたまま、街道を指差して促す。
「ああ、それもそうだな」
ザックが頷く。フレイムは自分の精霊のほうを見た。
「じゃあ、グィン、頼むよ」
「うん!」
グィンは張り切った返事をし、一行の先頭に立ったのだった。
そして歩きはじめてだいぶ経った頃。
「……なんか、どんどん人里を離れてる気がするんだが……」
ザックが肩の荷物を抱えなおしながら、そう呻いた。
ちゃんとした道を歩いていることは確かだ。だが、周りにはあまりにも人家が少ない。最後の家を見てからすでに二十分は経った気がする。
「スウェイズは田舎だもん」
グィンはあっさりと答える。ザックは眉根を寄せた。
「それはもう知ってるよ。だから、途中で一泊するんだろ? なのに人里から離れてどうするんだ。宿がないじゃないか」
緑の精霊はぴたりと止まった。
ザックの背後で闇音が小さく苦笑を浮かべる。彼もザックと同意見だったらしい。
フレイムが遠慮がちに自分の精霊に問う。
「グィン、直線方向に進んでた……?」
主人の声に振り返って、グィンはフレイムに飛びついた。
「ごめんなさいぃ」
頭を押し付けて、謝る。フレイムは笑った。
「大丈夫だよ、またちょっと町まで歩けばすむんだから」
失敗は誰にでもあることだ。頭ごなしに責める前に、それまでの努力を評価してやろうとフレイムは思う。
怒るわけでもない主人に、グィンは感涙してさらに彼にしがみつく手に力を込めた。
「じゃあ、戻るか」
ザックが後方を指差しながら、促したそのとき。
ずん、と大気圧が増した気がした。上方から押されるその感覚は、結界が張られたときのものに似ていた。
「何!?」
誰ともなく驚きの声を発する。つい数時間前に賞金稼ぎに襲われたばかりだ。四人の間に緊張が走る。
しかし一行の耳に響いてきたのは、風のような男の声だった。
「戻る必要はない」
その覚えのある声にフレイムは目を見開いた。誰もいないはずの空を見上げる。
「ネフェイル!?」
風の声は構わず続ける。
「そのまま、来なさい」
空に手招きされたような錯覚に陥る。
足元に緑の光が走って、複雑な文様を描いていく。魔術陣だ。そして一瞬の後、緑の光は強さを増し、広い街道の真ん中から四人の影は消えた。
遠くが騒がしい。ああ、ゆっくり寝ていたいのに、どうしてこんなに……。
そう思いながら、少年は目を開けた。陽光が目に染みる。
十四、五歳くらいのその少年は、淡い灰色の髪と紫の瞳を持っており、緑の丘に寝そべっていた。
「……起きたか」
頭上から聞いたことのない声が響いて、少年は驚いて起き上がった。見やると横に背の高い男が立っていた。深い緑の髪が風に揺れている。
「誰?」
「……ネフェイル・ホライゾ」
少年のガラス玉のような瞳に映った自分を見ながら、男は答えた。
知らない男が傍にいることはもちろんだったが、少年はそれ以上に自分が野原で眠っていたことに驚いていた。困惑しながら緑髪の男に問う。
「……あの、なんで俺、こんなところに……」
下敷きにしていた緑の草を手で撫でながら、眠る前のことを思い出そうとする。だが、頭の奥が酷く痛くて、記憶の反芻を妨げた。
顔をしかめる少年を見下ろしながら、ネフェイルは静かに答える。
「思い出すな。今は必要ない」
そして顔を背ける。少年は怪訝に思って、男の目線の先を追った。息を呑む。
村が、赤々と燃え上がっていた。
フレイムは瞼を持ち上げた。
目の前には家がひとつ。その周りは少し開けていて、あとは森になっている。そのことをぼやけた視界で確認しつつ、フレイムは嘆息した。
だるい。身体が前後左右に揺れているような気がする。
「大丈夫か?」
ぼんやりしていると背後からザックが声をかけてきた。のろのろと振り返って頷く。黒髪の青年はなんともないような顔でこちらを見ていた。彼の背後には小道が細長く伸びている。自分達はその道を歩いてくるはずだったのだ。
だが、その行程はすっぱりと省かれて、いつの間にか目的地についている。再びため息が漏れた。
どうやら自分は転移に軽く酔ったらしい。馬車に揺られた後だったことも響いただのろう。
軽い眩暈と、転移中に見た過去の夢を振り払おうと首を振る。そうしていると前方から声が響いてきた。
「……久しぶりだな」
懐かしい声。つい先ほど、自分達を空間転移させた張本人である。フレイムは顔を上げて、その男を見た。
長く、深い緑の髪。自分と比べて幾分か浅黒い肌に、淡い色合いの長衣を身に着けている。そして、大地に萌える緑の双眸。すべてを見透かすような深い輝きを宿している。
その男、ネフェイル・ホライゾは二年前と何も変わっていたなかった。
「うん、久しぶり……だけど、ちょっと乱暴な招き方じゃないかな……」
返事をし、それから声量を落として呟く。転移酔いしているらしい少年に気づいてから、ネフェイルは笑った。
「確かに、遠隔操作で四人も転移させるのはいささかスマートさに欠けたな」
そう答えてから、少年の背後にいる三人に向き直った。
「はじめまして、わたしはネフェイル・ホライゾ。魔術師だ。精霊は持っていない」
まずはこちらを警戒心を持って見ている精霊たちに、挨拶として微笑んで見せる。
男がフレイムの探していた人物だと分かると、グィンはほっとしてからフレイムの肩に降り立った。
「僕は緑の精霊。グィン。フレイムの精霊だよ」
「ああ、よろしく」
小さな精霊に微笑み、それから自分のほうを向いたネフェイルに、闇音が口を開く。
「はじめまして。闇音と申します」
グィンに比べれば無愛想な挨拶ではあったが、上級精霊ともなるとその思慮は深い。名乗ったくらいで親しくはしてくれないことは分かっていた。ネフェイルは頷く。
「……君は、フレイムの精霊ではないね」
それだけ確認するように告げ、最後に黒髪の青年を見やる。
「さて、君は?」
精霊たちに挨拶をする男を観察していたザックは、こちらに視線を向けた緑の瞳を見つめた。相手が信じるに足る人物なのか、値踏みするようなその眼差しを、ネフェイルは黙って受け止める。
ザックがネフェイルのことをどう思ったのかはフレイムには分からなかったが、ザックはとりあえずは小さく笑んで口を開いた。
「ザック・オーシャンだ。フレイムと一緒に旅をしている。それと、闇音は俺の精霊だ」
ネフェイルは頷いて左手を差し出した。
「よろしく」
左利きなのかと思いつつ、ザックがその手を握り返そうと、自分の手を伸ばす。
しかし、お互いの指先が触れた瞬間、ザックは驚いたように手を振り払った。目を瞬いて、緑髪の男を見返す。
「な? え……、静電気?」
ネフェイルは黙って、弾かれた自分の左手を見下ろした。
フレイムたちはわけも分からず二人を見比べる。ザックの言葉からすると、どうも触れた際に両者間で静電気が発生したらしい。珍しいことではあるが、ありえないことでもない。
やがてネフェイルは顔を上げ、呆然としている青年を見つめた。
「……君は……一体……?」
変化は乏しかったが、ネフェイルが驚愕していることにフレイムは気づいた。いや、驚いているからこそ、表情が欠けているのだろう。
ネフェイルはその緑の双眸を上下に動かし、何度もザックを見直す。
そして、まさか、と呟いた。うろうろしていた視線は、いまや青年の顔を凝視している。
「……マクスウェル嬢の、子か……?」
「マクスウェル……?」
確信のない声で漏らされた名をザックは反復した。
どこかで聞いたような名だった。だがどうも思い出せない。どこで聞いただろうか。
青年が首を傾げると、ネフェイルは眉を寄せる。
「……違うのか……?」
疑わしく聞かれて、ザックは困惑した様子で首を振った。
「何の事だか分からない」
そんな主人を庇って、闇音が前に出た。夜の眼差しはいつもと同じ無表情である。
「ネフェイル様、あなたの言うマクスウェルとは、もしやザックの母親でいらっしゃるマリー様の旧姓ではありませんか?」
指摘されて、ネフェイルは合点がいったようだった。
「なるほど。そうか、彼女は家を継がなかったのか……」
そしてもう一度、そうかと呟き、彼は視線を下ろした。
「どうかしたの?」
フレイムが尋ねると、ネフェイルは顔を上げて首を振った。
「いや、まさかマリーの子どもと会うことになるとは思っていたなかった。驚いたよ」
そう言って笑う双眸は思考が読めない。飛竜とは違った意味で、理解しがたい瞳。秘密を守ることに慣れた瞳だ。
「立ち話もなんだから、中へ入ろう」
そう言って背後の家を示す。平屋の小さな家だ。
ネフェイルは扉を開けて四人を振り返った。
「ようこそ」
家の中に入る途中、闇音はザックに小さく囁いた。
「……マクスウェル、覚えていますか?」
「……いや、なんか聞いた覚えがあるような気はするんだが……。お前、分かるのか?」
ザックが首を傾げると、闇音は視線を落とした。
「いえ」
短く答える。ザックはお前もか、とため息をつくだけで終わった。そのままフレイムたちを追ってネフェイルの家に踏み込む。
闇音はそんな彼を一瞥し、それから目を伏せた。耳に甦る声はまぶたの裏にその男の赤い髪を描く。
――そちらの黒髪の方はマクスウェル家の御曹司だ。
(……偶然か……?)
イルタシアの国色である白のマントが翻ってちらつき、また、ザックと笑みを交わした優しい海色の双眸が過ぎった。憶測の邪魔をするかのように。
闇音はすでに閉じた視界を、片手でさらに覆った。この闇の中で見極めなければならない。
偶然か、――それとも……
焼け野原となった村。それを丘から眺め、激しい罪悪感に涙をこぼした。
――たくさんの人を殺めてしまった。死にたい。
そう訴えると、男はこう言った。
「そうか、まだ殺したりないのか」
あれから、二年が経った。
フレイムは目の前の席に腰掛けた男を静かに見つめた。
ネフェイル・ホライゾ。年を取り、今でこそ隠居状態の身だが、若い頃は世界でも名の通った魔術師だったと、誰かに聞いたことがある。
二年前と変わらない穏やかな表情で、彼は先ほどの話の続きをはじめた。
「昔、一度だけホワイトパレスを訪れたことがあったんだ。マリー嬢とはそのとき知り合ったんだよ。まあ、知り合ったと言っても少し話を交わしただけなのだが」
それに対して、フレイムの横に座っているザックは不思議そうに首を傾げる。
「どうして、城なんかで母さんと会うんだ?」
その問いにネフェイルは苦笑を浮かべた。
「何も聞かされていないんだな。……まあ、当然か。誰にでも話してよいことではないからな」
「どういう意味ですか?」
そう尋ねたのは闇音である。普段は進んで会話に入るほうではないが、さすがに主人のことともなると口を挟まずにはいられないのかもしれない。
ネフェイルは組んでいた手を広げて、肩をすくめてみせた。
「誰にでも話していけない理由は、マリー嬢の身分にある。そのジルと言う男もとんでもない相手を伴侶に選んだものだな」
ひとつ息をつく。
「マリー嬢はマクスウェル公爵の娘だ」
思考が止まる。ついでに息も止まる。ザックは目を瞬くことしかできなかった。
フレイムが思わず身を乗り出しかける。
「公爵って……、え、貴族のこと?」
「それはそうだろう。マリー嬢は家を捨てて、ジルを選んだと言うことだな」
感慨もなさそうに答えるネフェイルに、フレイムは少なからず絶句した。
もとより、ネフェイルが地位や財に興味がないことは知っていた。だが、そうして駆け落ちした大貴族の娘の息子が目の前にいることはどうでもいいのだろうか。先刻の驚きは、ならば「貴族の娘の息子」ではなく、「マリーの息子」に対するものだったのか。
そんなフレイムの考えに気づいているかのようにネフェイルが続ける。
「マリー嬢は素晴らしい魔術師だった。そんな彼女の息子に会えるとは、なかなか面白い巡り合せだな」
魔術師。
その言葉にザックは我に帰った。闇音のほうを見やる。彼はこちらを見ていた。
音のない視線の間で交わされた言葉は、神臓。
その二人の反応に、ネフェイルは思い当たることがあるらしい。緑の双眸を細める。
「だが、君は魔力を持たないようだ。……父親に似たのか。残念なことだよ」
静かな声はかえって違和感があった。いや、聞く者によってそう聞こえるのか。ザックもフレイムも特に何の反応も示さない。闇音だけが目の前の男を凝視した。
何かを訴えるようなその眼差しに、ネフェイルは笑う。
「そうそう、魔力と言えば、私は影の精霊と言うものをあまり見たことがなくてね。よかったら今夜、話をできないかな?」
闇音は息を呑んだ。
「……いいですよ」
答えて、主人のほうを見やる。
「難しい話になりますが、あなたは参加しますか?」
嫌味とも言える言葉に、ザックは嘆息して両手を挙げた。
「お断り申し上げます。――口を挟んでは、いらぬ恥をかきそうだ」
素直に認める青年に笑ってから、ネフェイルはフレイムのほうを見た。
「おまえはどうする?」
尋ねられて、短く逡巡したあと、フレイムは首を振った。
「ふたりとも専門的な話をしたいみたいだし、俺はいいよ」
じゃあ僕も、と誰も聞いていないのにグィンも答える。そしてネフェイルと闇音は頷きあって、二人だけで話をすることを決めた。
ところで、とネフェイルが話題を変える。
「今更本題な訳だが、――君達は何が目的で私を訪ねてきたのかな?」
複数形を用いながらも、緑の瞳はフレイムだけを映し出していた。
思わず震えた手を、フレイムはテーブルの下で握り締めた。
「色々、聞きたいことがあって…」
「色々とは?」
言い淀む少年を、ネフェイルは首を傾げて促す。
「……神腕の、こととか……」
答えながら、フレイムは自分がネフェイルの眼光に怯えていることに気づいた。なぜだろうと思う。分からない、しかし、やはり身が竦んだ。
そんな彼の心情をいち早く察知したのはグィンであった。代わるように言葉を紡ぐ。
「あのね、賞金首とかに負けないくらい強くなる方法を知りたいんだ」
言って、「強い」を表すのか、グィンは両手を広げて見せた。
テーブルの上でひらひらと動く精霊に、ネフェイルは微笑み、それからフレイムのほうに向き直る。
「なるほど。しかし、そこらでのさばっている程度の賞金首ならば、今のお前でも問題はないだろう?」
ネフェイルの口調は微かだったが、確かにたしなめるような響きを帯びていた。
「誰も傷つけたくない。だから強い魔術はいらない。そう言ったのは、フレイム、お前だぞ」
フレイムはうつむいた。
「……そうだけど……」
小さく呟く。上手く言葉が出てこなかった。
落ち着け。そう自分に言い聞かせてから、フレイムは深呼吸をした。
守ると、決めたのだ。
顔を上げて、対峙する男を見つめる。そして、やはりなぜか躊躇する喉を無理やり開いた。
「誰かが傷つきそうになって……、それを防ぎたいって……その人を守りたいってそう思ったんだ」
途切れつつも必死に言葉を探す。その間、誰も口を開こうとはしなかった。
「そしたら……俺には守れるだけの力がなかったんだ……」
自分の掌を見下ろす。ちっぽけな手だ。剣も握れない、殴ることもしたことのない弱い手だ。
「力が欲しい」
そう漏らした一言は半ば無意識のものであった。
少年の言葉を聞きながら、ザックはぼんやりと一点を見つめていた。何をと言うわけではなく、ただ視線を動かさなかっただけである。
(……力、か)
心の中で呟く。
力があれば――父はそう思いながら死んだのだろうか。
母は持てる力で、その仇を討った。
(……討って、狂っただろうな)
死者のことなど分かろうはずもないが、ザックはなんとなくそう思った。
人を一人殺すのだ。相手が自分の夫を殺したように、自分も相手を殺すのだ。
これで狂わないはずがない。
ふと、視線を動かすと、深く茂る葉の色をした瞳とぶつかった。こちらの思考を読み取るような、すべてを写し取るような、無感情で冷たい眼差し。
ザックはぞっとして視線を逸らした。
ネフェイルはそんな青年をしばらく見つめてから、フレイムに注目を戻した。ゆっくりと口を開く。
「いいだろう」
思いのほか簡単に出された答えに、フレイムは思わず安堵の息を漏らした。
「守るためと言うなら、教えてやってもいい」
はい、と答える少年に向かって、ネフェイルはただしと付け加えた。
「まずはお前がすべての夢を見てからだ」
「え?」
突拍子もなく告げられた言葉に、目を瞬く。ネフェイルは挑戦的ともいえる笑みを口元に刷いた。
「お前はいまだに音のない夢を見ているだろう」
フレイムがぎょっとする。何故そのことを知っているのか、尋ねようとするのを遮って、ネフェイルは続けた。
「音のある夢で、すべてを思い出してなお、守るためだけにと言えるなら教えてやってもいい」
フレイムは眉根を寄せた。彼の言わんとするところが上手く掴めない。
「……よく分からないんだけど」
ネフェイルはゆっくりと立ち上がり、それに合わせて顔を上げる少年を見下ろした。
「フレイム、お前はアシーアを殺した男の名はおろか、顔も覚えていないだろう」
ガラス玉のような淡い紫の瞳が宙を泳ぐ。入り組んだ路地を彷徨(さまよ)い歩くようなその動きに、ザックは漠然とした不安を覚えた。声をかける。
「フレイム?」
その声に、促されたようにフレイムは口を開いた。
「……なんで、覚えてないって気づかなかったんだろう……?」
「……ああいうことって、あるもんなのか?」
「はい?」
前振りのない主人の問いかけの意味が分からず、闇音は首を傾げて見せた。
周辺の地理を教えて、ネフェイルは客人に部屋を貸し与えた後出掛けてしまった。付近の学校で非常勤講師を務めているらしい。
ザックと闇音が借りた部屋は家の奥であった。窓からは隣接している木が見える。部屋はもとは空き部屋をネフェイルが倉庫代わりにしていたものらしく、ザックたちを入れる前に彼が片付けてはいたが、隅にはまだ本が山積みとなっている。しかし、特に邪魔になるというわけでもなく、ザックにとってはむしろ嬉しい放置物であった。
たたんだままの新しいシーツをベッドの端にのけて、ザックはそこに腰掛けていた。聞き返してくる精霊を見上げる。
「フレイムだよ。記憶喪失とかそういうものなのか?」
恋人を殺した男を覚えていない。そのこと自体には疑問を抱かなかった。経験はないが、強すぎる衝撃が記憶を奪ってしまうということは稀にあるらしいからだ。
家の周りの様子を見ていた闇音は、窓の桟に寄りかかるようにして口を開いた。
「つまり、覚えていないということに何故気づいていなかったのか、ということですよね」
「ああ、覚えてないんだから気づけるはずもないってなら分かるけど、あいつは恋人が殺されたことも自分で火を放ったことも覚えてる。なのに、肝心の殺人者の顔だけ覚えてないことに気づかないってのはどういうことだ?」
忘れるなら恋人の死か、人殺しの罪のほうだろう。ザックはそう考える。
闇音は考え込むように視線を落とした。
確かにおかしいことばかりだ。第一、そのことをネフェイルが知っていたことに疑問を感じる。
二日ばかりかかる道のりを、空間転移で省いてしまった魔道師。その計りがたい双眸を思い出して、闇音はもしやと思った。
「魔術かもしれません」
「魔術?」
また苦手な話題にぶつかるのかとザックが一瞬眉をしかめる。闇音は構わず続けた。
「相応の技術さえあれば、記憶を一時的に消すことも可能なのです。フレイム様はその魔術にかかっていたのかもしれません」
専門的な部分を一切省いた説明に、ザックは質問を返した。
「『かかっていた』って……、忘れていたことに気づいたら解けるって事か? 解けたとして解いたのは誰なんだ?」
闇音は人差し指を立てて見せた。
「ひとつに、記憶や感情など意思に関わってくる魔術は不安定であることが多いです。忘れていたことをあるきっかけで突然思い出すことが普通の生活でもあるように、何かのきっかけで魔術が解けることがあるのです」
ザックが頷く。さらに解説は続けられる。
「だからフレイム様がその殺人者に似た人を見ただけで思い出すこともあるし、本人を目の当たりにしても気づかないこともあります。……つまり、何故解けたのか明確にすることは難しいのですが……」
「……今回は、思い出すきっかけをネフェイルが与えたってことか」
闇音が途切れさせた言葉をザックが紡ぐ。
「フレイム様に記憶を封じる魔術が掛けられていたのだとする場合、今回はそれを解いたのはまず間違いなくネフェイル様でしょう」
影の精霊が言い切ると、ザックは深く息を吐き出して、ベッドに倒れこんだ。
「まいったなー」
簡素な天井灯を見上げて言葉を漏らす。
「俺、あのおっさん苦手だよ」
まるで学生が苦手な教師の試験を受ける前に吐くような台詞に、闇音は呆れながらも同意を示して見せた。
「出会いから静電気ですからね」
「笑うなよ。マジで痛かったんだぜ。おっさん、セーターの重ね着でもしてんのかよ?」
朝夕冷え込むようになってきたとはいえ、いくらなんでもまだセーターは早いだろう。それでもザックはぶちぶちと呟いた。
「電気ためるのは勝手だけど、他人に放電はやめて欲しいよな」
闇音は思わず苦笑を浮かべた。
どうもザックはネフェイルがどれほどすごい人物なのか分かっていないらしい。
フレイムが不得手とするように、空間転移の魔術は難易度の高い術なのだ。四人がリルコに入ったことに気づき、なおかつ転移を遠隔操作で行う。引き出す魔力の量はもちろん、高い精度をも要求される高等技術。ネフェイルは間違いなく最上クラスの魔術師だろう。
(もちろん……彼の見るべき点はそこだけではないのだが……)
ネフェイルはザックのことについて何か気づいているのだ。それを今夜聞き出さなければならない。
態度からして、こちらから問わずとも彼は何か話す気ではいるようだが。
赤く染まりだした太陽を見つめて、闇音は唇を引き結んだ。
眼差し。
覚えているのはそれだった。亜麻色の髪を追う、感情を殺した冷たい双眸。
フレイムはベッドの上に横になったまま、自分の前髪を摘んで夢の中の記憶を探っていた。
男の顔はどうだっただろうか。瞳は黒かった。
「瞳は黒で……」
やはり思い出せない。嘆息してフレイムは寝返りをうった。
彼に与えられた部屋は玄関に近い客室であった。ザックと闇音の部屋とは幾分距離がある。
グィンは初めての家がものめずらしいのか、先ほどから部屋と廊下を行き来している。開いている部屋があったら勝手に入っているのかもしれないが、グィンの力では部屋を散らかすことはできない。そう思ってフレイムは好きにさせていた。
窓から差し込む陽光を見るともなしに見つめながら、曖昧な記憶を掘り下げていく。
思い出せはしないが、男の名を聞いたということは覚えている。
確かアーシアがその男の名を呼んでいた。
そうだ、彼女はその男と既知だったのだ。そのことを当時の自分は困惑しながらも理解したのを思い出す。
記憶の階段を下りようとしながら、フレイムはうとうとし出している自分に気づいていなかった。馬車に揺られ、歩き、思いがけない条件を突きつけられ、心身は彼が思う以上に疲れていたのだ。
(……アーシアが……名前を……)
声を荒げて呼んでいた。
「離して!」
甲高く響く女性の声。
フレイムははっとして目を見開いた。辺りを見回す。目に入ったのは向かいの道から続く細い裏路地。そこで掴まれた腕を引き離そうともがいている女性がいた。
「離してよ!」
亜麻色の長い髪を揺らしながら女性は、再度叫ぶ。しかし腕を掴んだ男は、それを面白そうに見下ろすだけだった。定職にもつかず、ふらふら遊んでいるようななりの男だ。
「なあ、ちょっと付き合ってくれって言ってるだけじゃないか」
「嫌よ!」
きっぱりと女性は拒否する。男は茶色の瞳に下卑た光を浮かべた。
「そういうなよ」
そう言って女性を無理やり抱き寄せようとする。女性が悲鳴を上げようとした瞬間、男の頭を白い肩掛け鞄が横殴りした。
鞄の中身は十分な重さのものだったらしい。男はあえなく転倒する。それを唖然と見下ろしながら、女性は鞄を投げた少年に目を移した。彩度の低い朱の制服は、近くの魔道学校のものだ。
少年は男の側に落ちた麻布の鞄を拾い上げると、辞書を入れといて良かったと呟いた。それから顔を上げ、自分を凝視する女性のほうを見やる。
「大丈夫ですか?」
そう言ってフレイムは、ガラス玉のような瞳を細めて笑った。その笑みに安堵するした様子で、女性もまた微笑を浮かべる。見惚れるような美しい笑顔。
――それが彼女との出会いだった。
自分は孤児で家族がいないのだと告げると、アーシアはしばしば家に来ては食事を作っていくようになった。申し訳ないと何度も言ったのだが、
「あの後どうなっていたかと思うとね、あなたにお礼せずにはいられないのよ」
彼女はそう言って笑うばかりだった。仕方なくフレイムはテーブルについて、調理をするアーシアの姿を見つめていた。
それにしても、なんて綺麗な人だろう。
はじめて見た時からそう思っていた。あの時殴り倒した男が、無理にでも彼女を自分のものにしようとした気持ちが分からないでもない。
艶やかだが、明るい健康さを失わない声。風に揺れる亜麻色の髪が彼女の白い美貌を縁取る。微笑む青の瞳は澄んでいて、アーシアの心の清らかさを表すようだった。
彼女は話し上手で、ともに過ごす時間はとても楽しく感じられた。心が癒されて、彼女を大切にしたいと思うのだ。
自分はアーシアに惹かれている。
そう自覚してしばらくした頃、彼女はこう囁いた。
「私、フレイム君が好きよ」
窓から差し込む光は既に夕日ではなく、月光に変わっていた。
暗い部屋の中でむくりと起き上がり、フレイムは頭を掻いた。
「……寝ちゃってたんだ」
呟いてから、眉を寄せる。
(……どうして、昔の夢ばかり見るんだろう? 見ようと思って見るのはおかしい……)
ネフェイルはすべての夢を見ろと言った。すなわち忘れている部分を――殺人犯の顔を思い出せと言っているのだ。
それでもなお、守るためだけにと言えるなら。
(……アーシアを殺した男をのことを思い出せば、俺は復讐心を持つ。ネフェイルはそう考えてるんだ……)
守るためにではなく、仇を討つために力を欲すると。
正直なところ、フレイムには自信がなかった。自分はその男を殺すために、村を火の海にしたのだ。
室内に降り注ぐ光を見つめる。
――俺はお前を裏切らない。
ザックがそう言ったときも、月はこんな光を放っていた。
(……力が欲しい)
フレイムは目を閉じて、右腕を握り締めた。
力が欲しい――守るために。
「……来たか」
扉の向こうに立つ影の精霊を見とめて、ネフェイルは部屋に入ってくるように手で示した。室内に踏み入ると闇音は扉を閉めた。
そして周りを見回す。ネフェイルの私室はその壁の全面がほぼ本棚で埋め尽くされていた。与えあられた客室も書庫代わりだったことを思い出す。膨大な情報。このすべてを彼は知り得ているのだろうか。
しかし、もしそうだとしても、それがなんら闇音にとって有益であるわけではない。今、彼が必要としているのは、ネフェイルがザックに関して知っている事柄だけである。
「何を話しましょうか?」
挨拶する間も惜しい様子の精霊にネフェイルは苦笑した。
「まあ、掛けなさい」
椅子を示し、自分も腰を下ろす。闇音が椅子に座るのを待ってから、彼は口を開いた。
「影の精霊の生態なぞ、話す気はないのだろう?」
「もちろん」
即答する闇音に薄く笑んで、ネフェイルは膝の上で手を組んだ。
「彼は……ザックは自分の魔力に気づいているのかな?」
いきなり核心か。
闇音は唇を噛んだ。
「……やはり、ザックには魔力があるんですね」
「なぜ今更そんなことを確かめる? 彼はマリーの子だ。神臓を持っていないはずがない」
ネフェイルは淡々と言葉を並べた。精霊がうつむくのを見て、深い緑の双眸が細められる。
「――『封印』に、気づかなかったのか」
闇音は自分の服を握り締めた。
「そう……です」
「フレイムもか」
「……はい」
ネフェイルは組んでいる手の親指を撫でた。深く息を吐く。
「まいったな。……いや、さすがは赤き魔女というべきか……」
闇音は顔を上げて声を大きくした。
「ザックの魔力を封印したのは彼の母ですか?」
ネフェイルは頷く。
「無論。『封印』などという大魔術を扱える者は限られる。ザックの側にそのような者がいたとすれば、それは間違いなくマリー嬢だろう」
――封印。「結界」を応用した高等魔術である。
結界との違いはひとつ。「封印」は術者が解かない限り、半永久的に持続する。
結界は術者が常に魔力を放出して維持しなければならない。だから放っておけばすぐに崩れるし、長い時間維持し続けるのは相応の魔力が必要となる。つまり、「張りっぱなし」にはできないのだ。
そしてその「張りっぱなし」を可能にしたものが封印である。封印は術を施したあとは作為なしに消えることはない。そのため、封印をする際には長時間の展開を可能とするだけの魔力が必要とされる。また、「封印自身が自己を存続させる」という付加を与えなければならない。
(ザックの母親は、凄まじいほどの使い手だった……ということか)
闇音は沈鬱に目を閉じた。シェシェンの街で、医者である暁(シャオ)に言われた言葉を思い出す。ためらいがちに彼はこう言った。
『……僕なりに治癒魔術を使ってみましたが、どうもザックさんの身体はそれを受け付けてくれません。もとより、体質的に魔力の影響を受けない人もいます。ですが、ザックさんには<抵抗>を感じるんです』
つまり、母親の張った封印がザックに対する暁の魔力を打ち消していたのだ。
被術者の意志に関係なく常に展開される最高の防御結界。そしてそのおかげでザックは治癒魔術を受けることも出来ない。
「マリー嬢は息子に魔術を使わせたくなかったようだな」
ネフェイルの深い響きを持つ声に闇音は顔を上げた。
「あの封印はザックの魔力を抑え、かつ周囲にそれと悟られないように出来ている。よほどの術者でなければ、あの封印には気づけないだろう」
闇音の脳裏を赤い瞳の男が過ぎる。
(飛竜は封印に気づいたのだ。あのときの地面の破壊跡は、おそらくザックに魔術が効くか否かを確かめようとして出来たもの……)
その結果、飛竜は悟っただろう。ザックには封印が掛けられており、その中には神臓が秘められていることを。
(……飛竜だけではない)
もし、イルタス王にこのことを知られでもしたら……。ザックの母親が神臓の持ち主だと知ったときに覚えた不安感。それを再び感じて、闇音は服を握る手に力を入れた。
ザックはイルタス王の命令に従って魔力を振るうことを良しとはしないだろう。正義感の強い青年だ。たとえ、そのことによってどんな制裁を受けようとも彼が間違った王に従うはずがない。
(守らなければ)
命に代えても、守らなければ。
漆黒の双眸に覚悟を決めた光を浮かべる精霊をネフェイルは静かに見つめた。
彼の背後、窓の向こうは月が輝くばかりで、星はひとつとして見えない。広い大地をたった一人で照らす月。その光に隠れるようにして、多くの画策が瞬いていた。
眩しい太陽と流れる雲をぼんやりと見つめながら歩いていると、甲高い声が耳元で響いた。
「ザック! ぼーっとしてるとすっ転ぶよ!」
きんきんと響くその声に眉をしかめながらザックは応じる。
「分かってるよ。転びはしないって、大丈夫だよ」
二人はネフェイルの家を出て、スウェイズの商店街を歩いている。店は露店が多く、カルセの街を彷彿とさせた。違いといえば、カルセの街を過ごしたときよりもだいぶ肌寒いところか。
「本当にー? 心ここにあらずって顔しちゃって。何かあったら僕が闇音に叱られるんだからね!」
「あー、うるさいな。それならなんだって俺を誘ったんだよ」
肩の上で騒ぐ精霊に半眼で尋ねると、グィンはぐっと手を握り締めた。
「だってー、フレイムはなんか思い詰めてる顔してるんだもん。ネフェイルに出された条件もあるし、邪魔なんか出来ないよ。それに、ザックだって暇そうな顔してたじゃん」
最後にびしっと指差されて、ザックは嘆息した。グィンのいる方とは反対を向いて呟く。
「暇というか、俺は本を読んでたはずなんだけどな……」
そう、部屋に置き去りにされた本を読み漁っていたところへ、グィンが街へ出掛けようと誘いに来たのだ。本も気になったが、はじめて来た街を探索したいという気持ちも強かった。
そして闇音に留守番を頼んで――フレイムはグィンの言うとおり考え込んでいて声をかけることが出来なかったし、ネフェイルは既に出掛けていた――、二人で出掛けてきたのだ。
「あーあ、シヤンに行きたかったのになあ」
グィンが肩を落としながらごちる。シヤンはスウェイズの隣にあるのだ。街を探索しがてら、シヤンに行く予定だったらしい。しかしフレイムと一緒に行くと決めていたグィンはその機会を逃してしまったのである。
「まあ、いいじゃないか。あいつの暇があるときにまた来ればさ」
「……そうだけどー」
ザックのフォローなど役に立たないといった様子で、グィンは頬を膨らませる。
そんなグィンのことはさほど気にせず、ザックは辺りを見回していた。
(宝石とか装身具を売ってる店ってないもんかな)
店々を眺めながら進んでいると、ふと一人の女性と目が合った。美しい女性で、緑の髪と青い瞳はグィンと同じだ。
(まさか、緑の精……とか?)
身体のサイズからいえば、その女性は上級精霊ということになる。ザックがじっと見つめると、彼女もまたこちらを凝視してきた。
「サッシャ、どうかしたのか?」
女性を連れの男が呼ぶ。緑髪の女性が振り返るのと同時に、ザックはその青年を見た。
長めの銀髪と銀の瞳、そして首に掛けられたロザリオが目に付く。男はすらりと背が高く、年はザックより幾つか上に見えた。
「いいえ、なんでもないのよ」
女性は笑って答える。しかし、なんでもないと言いながら彼女はザックに向き直った。
「あなた、重いものを負っているのね。支えてくれる仲間はいる?」
「え? あ?」
いきなり話しかけられて、ザックは目を白黒させた。
銀髪の青年も驚いた様子で女性を見下ろし、それからザックのほうを見た。さらに目を見開く。
「おまえ……」
まさか賞金首だとばれたのか。ザックは慌てて手を振った。これ以上彼らと対峙している気にはなれない。
「な、仲間ならいる。だから大丈夫だ!」
それだけ告げて、さっときびすを返す。ザックは果物屋に目を奪われている精霊を掴んで逃げようと思った。
が、叶わなかった。グィンにすら手の届かない速さで男に腕を掴まれる。
「逃げなくていい。君は……いや、本当にそれは頼れる仲間なのか?」
銀の双眸に見つめられて足がすくむ。しかし、それよりもザックは男の言葉にむっとして口を開いた。
「あたりまえだ。大事な仲間だよ! あんたに心配される必要なんてないくらいな!」
怒鳴られた青年に緑髪の女性が声をかける。
「あなたは下がっててちょうだい」
咎められた男は一瞬口を開きかけたが、しかし噤んで一歩後ろへ下がった。女性はザックに微笑みかける。
「ごめんなさい。連れが失礼なことを言ったわね。でも、彼は本当にあなたを心配してるだけなのよ」
訳が分からず、ザックは眉を寄せた。
「どういう意味だ?」
女性は澄んだ青い瞳でザックを見上げた。
「あなた、封印されているわ」
「封印……?」
青年が口を挟む。
「それは望んでそうしているのか? それとも知らずに封印されているのか?」
ますます分からない。闇音がいれば、そう思いながらさらに問いを重ねる。
「……封印てなんだよ?」
「君に施されている封印は、魔力を押さえ込むものだ」
男の眼光はいたって真摯だ。嘘を言っているようには見えない。
だが、ザックには覚えのないことだった。
「……俺には元から魔力なんかない。あんたら、目がおかしいんじゃないのか?」
緑髪の女性は感嘆にも似た息を漏らして、隣の男を見上げた。
「驚いた。まるで昔のあなたそのものだわ」
肩の力を抜いた女性に反して、男は相変わらずザックを睨むように見つめている。
本当に何がなんだか分からない。ザックは居心地悪く肩をすくめた。
(なんなんだ。自分達だけ分かった顔をして……)
厳しい表情をしている青年の肩を、女性が叩く。見下ろした男に彼女は笑いかけた。
「でもね、支えてくれる人がいると言うんだから、大丈夫よ」
女性の声は優しい。聞きながらザックはどこかほっとする自分に気づいた。彼女は警戒しなくても良い人間だと本能が安堵しているのだ。
青年が頷くのを見とめて、女性は再びザックに向き直った。
「何も問題はないわ。引き止めてごめんなさい」
「あ、いや……別に」
「そういえば、何かを探しているようだったわね。何を探していたの?」
侘びの代わりに情報を提供する、そう言外に含めて女性は問う。ザックは決まりが悪そうに頭を掻いた。
「えっと……、なんかアクセサリーを売ってる店とか……そういうのを……」
「ああ、それならこの先を真っ直ぐ行けば青い屋根のお店があるわ」
女性はそう言って背後を振り返って指差す。
「あ、どうも」
頭を下げるザックに、女性は笑んで目を閉じた。手を組んでうつむく。
「あなたにシャナラーのご加護がありますように……」
恭しく告げられてザックが困惑していると、銀髪の青年も声をかけてきた。
「運命は人の目には見えない。見えないものに恐れを抱くのは当然だ。だが、見えないものに従うこともまた不可能だ」
ザックが黙って聞いていると、男は最後に微笑んだ。
「これから先、困難があっても、それが運命だと諦めるな。道は自分の足で進むものだ」
その声は力強くザックの胸に響いた。青年の言葉を頭の中で反芻しながら、彼も笑みを返した。
「なんか、いまいち意味が分からないけど……、励ましてくれてるんだよな? ありがとう。頑張るよ」
分からないと言われて男は一瞬目を見開いたが、すぐに苦笑した。
「ああ、頑張れよ」
青い屋根の店から出て、ザックは小さな紙袋をポケットにしまった。
「ねぇ、それ、誰にあげるの?」
耳元でグィンが不思議そうに尋ねてくる。ザックは目元を赤く染めながら、彼女を睨んだ。
「だれだっていいだろ」
「ナンパに使うの?」
「ナンパでこんなんやるか!」
怒鳴ってザックはさっさともと来た道を歩き出した。
「もういいだろ。森には行かないんだし、誰か知り合いがいるわけでもない。飯の美味い店だって知らないし、散歩にしちゃもう随分歩いた」
ついでにわけの分からない二人組みに捕まった。
グィンも頭の後ろで手を組んで、そうだねーと応じた。
「だいたい、僕とザックで出掛けようってのが失敗だったかも」
「だな」
ザックは頷いて、歩く速さをいつもどおりの速度に落ち着けた。グィンはザックの頭上に寝そべる。
「昼飯何だろうな」
「デザート出るかな?」
二人で料理店と思しき店を横目に見ながら、会話を交わす。
「さーな。しかしあのおっさんにしたって、急な来客な訳だろうし、そんなに準備良くないかもしれないぜ」
「じゃあ、買って帰ろうよ」
果物屋を指差しながら、グィンが声を弾ませた。しかしザックは首を横に振る。
「あんまり金持って来てないから無理」
「ぶー」
「なにがぶーか。つい昨日だぞ。金を節約しようって話をしたのは」
「それって、賞金首になっちゃったから?」
「そう……っ……!?」
うっかり答えて、ザックは戦慄した。背後から響いたその声は高く、しかしグィンではなく、他の女のものであることは容易に知れた。
相手はこちらを賞金首だと知っている。知っていて会話に入ってきたのだ。
「……っ信じられない!! 本当にあんただったのね!」
続いて浴びせられた言葉に、いや、その訛りを帯びたヒステリックな口調にザックは目を見開いた。頭の上のグィンが振り落とされそうになるのも構わず、地面を蹴って振り返る。
目の前に幻があった。
長い黒い髪。光を多く含む黒曜石の瞳。それを縁取る長い睫毛。その美しいけれど、強気そうな造作の顔立ちは忘れるはずがない。
「なによ。幽霊でも見たような顔をして」
それは、ナキアの幻だった。
「なっ!!」
「何でここにるんだー! ……って?」
背の高いその女性は腰に手を当て、挑戦的にザックを見上げてきた。優美に唇の端を吊り上げる。
「あんたがね、どーうしようもない馬鹿だって分かったから、笑いに来てやったのよ!」
そして、平手が一閃。
グィンは既にザックの頭から離れていたが、その鋭い音に思わず目を閉じた。肩をすくめたまま、次に目を開けるタイミングに悩む。
殴られて呆然としていたザックは、頬がじんじんと熱を持ち出してやっと我に帰った。
「な、なにすんだ、てめぇ!」
「今のは心配かけた罰よ!」
そう言い放つとナキアは今度はザックの襟首を掴んだ。反射的にザックは目を閉じた。
だが、訪れたのは二度目の平手ではなく、唇に触れてくる柔らかい熱だった。
「……会えて、嬉しい」
身体を引いて、ナキアは微笑んだ。
二度目の自失。しかし、すぐにここが往来だと思い出して、ザックは青褪め、そのままふらりと一歩後退した。
「な、ナキア……」
「なーに? ザック」
小首を傾げたその笑みは、可憐な花にも似て、先程とはまるで別人である。グィンは内心で頬を引き攣らせた。
この女性がザックとどういう関係なのかはもはやどうでもいい。問題は周りの人々に自分が彼らの知り合いだと思われてしまったいることだ。じろじろとこちらを観察する視線と辺りを包む話し声は、小さな彼女にも十分に突き刺さっている。
(他人の振りがしたい!!)
心底叫ぶが、ザックと会話をしていたことは誰もが気づいている。グィンは心の中でフレイムに助けを求めた。
動かない三人に向かって、おずおずと申し出る声があった。
「な、なあ、こんなところでなんだからさ。ザック、お前、今どこの宿に泊まってるんだ? そこへ行こうよ」
ナキアの背後にもう一人いたのである。同じく黒髪の男。
ザックは再び驚きに目を見開いた。
「タグル……」
タグルと呼ばれた男は眉を下げて笑うと、な? と目で訴えた。
「あ、ああ……そうだな」
ザックはギクシャクと振り返るとなんとか一歩踏み出した。
「こっちだ」
それに従って黒髪の男女も歩き出す。
三人の黒髪を見つめて、グィンはしばらく唖然としていたが、すぐに慌ててあとを追った。
* * *
扉を開けて、主人を迎えた闇音はぱちくりと目を瞬いた。
「……どちら様ですか?」
ザックの背後にいる二人を見つめて、訝しそうに眉を寄せる。
その質問に対して、ものすごく疲れている様子のザックはためらいがちに口を開いた。
「幼なじみ」
「えっ」
思いがけない一言に、驚きの声を漏らす。確かに黒い髪と黒い瞳はザックと同じだが、なぜそんな者がここにいるのか。
困惑している様子の精霊に、ザックはため息をついて見せた。
「悪い。あとで説明するからさ……。ちょっと待っててくれ」
そう言って、ザックは二人についてくるように手招き、ネフェイルに割り当てられた部屋へと入っていく。同じように扉の向こうに消えていく男女を闇音は静かに見送った。
(長い……黒髪……)
胸中で呟く。
「闇音ー。僕、もうすっごくすっごく疲れちゃったよー」
耳元で響いた声で、やっとグィンの存在に気づく。闇音は振り返って、緑の精に視線を移した。
「なにかあったんですか?」
「何って? 僕は何もなかったけどさー」
グィンは間延びした声で答えながら、肩を落とす。
「……疲れた」
「ナキア・コーラルとタグル・パシフィックだ」
ザックに二人の若者を紹介されて、フレイムはとりあえず首を傾げてみた。
「……あー……、『なんでここにいるの?』って顔だな。それは」
少年の様子を見てザックは頭を掻いた。苦虫を噛み潰したような表情で続ける。
「とうとう王室発行の犯罪者リスト最新版が全国土に行き届いたらしい。そしてこいつらは辺境グルゼ島からわざわざ賞金首狩りにおいでになったそうだ」
おかしな尊敬語で説明して、ザックはため息をついた。タグルが苦笑する。
「俺は大丈夫だって言ったんだけどね。ナキアが聞かなかったんだよ」
そう言う青年をフレイムはじっと観察した。ザックと同じくらい背の高い、人のよさそうな柔和な顔立ちの青年だ。短い髪はくせっ毛であちこちを向いている。
「だって! 幼なじみが賞金首だなんて言われてじっとなんかしてられないわよ!」
高く響く声の主をフレイムは次に見やった。
澄んだ声はよく通るが、別に不快な感じはしない。そして声以上に彼女は美しかった。真っ黒の髪は艶やかで、大きな瞳は表情豊かである。
(闇音さんと似てる……?)
よく見ればあまり似ていないのだが、長い黒髪と同じく黒い瞳がふいに二人の像を重ねる。
フレイムは闇音に視線を移した。壁の側に一人で立つ彼女はじっとナキアを見つめている。
「ただの幼なじみがわざわざ国境越えてくるのか……」
ザックが呟くと、ナキアは彼を睨んだ。
「そーよ、ただの幼なじみだけどね。私は友達思いなの!」
どこか違和感を覚える会話を耳にして、フレイムはまた三人のほうに向いた。その彼の背後からグィンは小さな声で囁いた。主人だけに聞こえるように。
「『ただの幼なじみ』じゃないよ」
「え?」
聞き返すとグィンはさらに声を潜めた。
「だって、あのナキアって人ザックにキスしたもん。絶対なんかあるよ、あの二人」
「ええ!?」
思わず声を上げてしまったフレイムに、四対の視線が向けられる。フレイムはわたわたと口を押さえた。
「あ……いや、なんでもないです」
脂汗をかきながら、肩をすくめて縮こまる。グィンは明後日のほうを向いて口笛を吹くまねをした。だが、それを怒ろうとするほど、フレイムの脳に余裕はなかった。
(……ザックとナキアさんて……どういう……?)
混乱する頭を過ぎったのは、コウシュウでのザックの台詞だった。好きな人はいるのかというフレイムの問いに彼は先ほどのような苦い表情でこう答えたのだ。
――いないと言えば嘘になる。
(あれは……ナキアさんのことだったのかな?)
ザックと同じ黒い髪の綺麗な女性。気丈そうな性格はおそらく彼の好みだろう。
「あの、お二人は今夜はどうなされるんですか? ここに……」
尋ねる闇音にザックが手を振る。
「まさかこれ以上ネフェイルに世話になるわけにはいかないだろう」
タグルも頷き、ザックとナキア以外に向けて説明をした。
「今夜は街の宿に泊まります。それからあまり家を空けておくわけにもいかないし、三日後にはもうここを発ちます」
「そんなに早く……?」
思わずフレイムが問い返すと、タグルは相好を崩した。
「ええ。俺達はただ、ザックが元気でいるか確かめたかっただけですから」
フレイムは藤色の瞳を揺らした。
「あ……、ごめんなさい。俺のせいで……」
自分を庇ったせいで、ザックは反逆罪を負うこととなった。タグルたちの幼なじみを罪人にしてしまったのだ。
「フレイム君が謝ることはないわよ」
向けられた声に顔を上げると、ナキアは優しく微笑んだ。
「ザックが自分から庇ったんだし、ザックに賞金首をかけたのはイルタス王よ。ね、フレイム君は何も悪いことはしてないじゃない?」
「そうだよ、だいたいこいつ十億の賞金首を獲ってやるって言って島を出たくせにさ。あろうことか自分が賞金首になってるんだもんな。俺は本当に頭が痛いよ」
タグルがやれやれと息をつくと、ザックが苦笑して彼を小突いた。
「おい、全部俺が悪いみたいじゃないか」
そうだよ、とタグルは当たり前のように答える。
「おまえこそフレイム君に謝るべきさ」
ザックは呆れて首を振った。話にならないな、と表情でフレイムに伝える。
たまらずフレイムは笑い出した。グィンも笑う。そして全員が笑った。緑の森の中、小さな家に明るい笑い声が響いた。
笑いながら、フレイムは気が楽になっていることに気づいた。
ザックに罪を負わせた罪悪感と、ネフェイルに魔術を教わるための条件を突きつけられた落ち込んでいた気持ちが、いつの間にか晴れ渡っていたのだ。それこそ不思議な魔術のように。
ナキアとタグルのおかげだ。
フレイムは二人の男女を見上げて柔らかく笑んだ。
「ありがとう、ナキアさん、タグルさん」
少年の甘い笑みに、礼を言われた二人はくすぐったそうに笑った。
「やだ、大したことじゃないわよ」
嬉しそうにはにかみながらそう言うナキアは本当に可愛らしい。
フレイムはザックの好きな人はきっとこの人なんだろうなと、自然と確信した。
「悪いな、初対面から遠慮のない奴らでさ」
二人が帰って、ザックはフレイムの部屋を訪れていた。疲れたと言っていたグィンはもう眠っている。
「ううん、そんなことないよ。いい人たちだね」
フレイムは首を振って見せると、ザックは照れくさそうにうつむき、へへへと笑った。
「ああ、いや、フレイムが嫌じゃなかったらいいんだ。そうか、よかった……。俺も正直会えて嬉しかったよ」
それから彼らと会う予定など明日の話をして、ザックはフレイムの部屋を後にした。
部屋の電気を消し、フレイムは息をついた。
(俺も……彼らに会えてよかったよ)
明るくて、優しい人たち。小さな島で皆家族同然で過ごしてきたのだろう。だからナキアやタグルは人懐こくて、会ったばかりのフレイムともすぐに気後れせずに話せる。
彼らがザックの友達だったのなら、シギルがいなくなったあとも、ザックはそんなに酷い思いはしなかっただろう。きっと彼らがよくしてくれたはずだ。
(……そっか、だからザックは性格が明るいままなんだ)
ザックとはじめて会った時のことを思い出す。あのときのザックもタグルたちと同じで、初対面の自分によく笑いかけてくれた。
彼が養父に裏切られても、決して絶望してしまわなかったわけが判った気がした。
そしてフレイムは、絶望した日のことを夢に見た。
自室の机に腰掛けて、ネフェイルはじっと一点を見つめていた。宙に浮く赤いガラス玉。淡く光を放っているのは、フレイムが過去の夢を見ている証だ。
「……さあ、試練のときだ」
呟いて、ネフェイルはガラス玉を静かに掴んだ。
「アーシア……」
フレイムが呼びかけると、彼女ははっとして顔を上げた。
「どうしたの、何か心配事?」
うつむいて気鬱な表情を浮かべていた彼女を心配して、フレイムは首を傾げる。
アーシアは空色の双眸を細めると笑みを浮かべて見せた。
「いいえ、なんでもないのよ」
答えて腕を伸ばすと、フレイムを抱き寄せる。柔らかな腕に包まれながら、フレイムは彼女と唇を重ねた。
「本当に?」
唇を離して、フレイムがもう一度問う。彼女は笑って、フレイムの髪を撫でた。
「もちろんよ。私は今、幸せよ」
「それなら、いいんだけど……」
しかし、フレイムには心当たりがあった。
彼女はほとんど自分の家に帰っていないのだ。フレイムと一緒に暮らしていると言っても過言ではないほどに。
アーシアも家族はいないのだと言っていたが、それは嘘なのではないだろうか。いつか、彼女の家族が彼女を連れ戻しに来るのではないだろうか。
アーシアが沈んだ顔をするたびに、フレイムの中の不安も次第に大きくなっていったのだった。
そしてある風の強い日、不安が目の前に形あるものとなった。
とんとんとん、と玄関をノックする音が聞こえた。フレイムが返事をして席を立つ。
「どちらさまですか?」
扉を開くとそこには闇が立っていた。思わず目を見張る。
風になびく漆黒の髪。ばたばたとはためく黒いコート。黒いブーツは長く履き続けたのか、だいぶくたびれている。
それらをざっと視界に入れて、フレイムはその男を見上げた。
健康的とは言いがたい白い肌は痩せており、感情の窺えない黒い瞳は嵐の夜を彷彿とさせる。
「ルーディス!?」
背後でアーシアが悲鳴を上げる。
その恐怖の滲んだ声に、フレイムは一瞬心臓を跳ねさせた。
ルーディスと呼ばれた男は特に感慨もない様子で、家の中にいる亜麻色の髪の女性を見やる。アーシアがびくりと体を震えさせたが、男は目を細めただけで、フレイムに視線を戻した。
「フレイム・ゲヘナ。神腕を持つイルタシア人。……おまえで間違いないな?」
深く体の底まで響く声が確認するように問うてくる。
フレイムは目を見開いた。――なぜ、知っている?
村の人さえも誰も知らないことなのに。どうしてはじめて会ったこの男が知っているのか。
混乱するフレイムに構わず、男は口を開いた。冷たい声が頭上から降ってくる。
「俺はルード・ダーケン。……人身売買を営む組織の――犬だ」
「ルーディス!」
アーシアはとうとう立ち上がって、二人のもとへ駆け寄った。フレイムを自分の背後に押し隠しながら、ルードの前に立つ。
「フレイム・ゲヘナは神腕なんか持っていなかったわ。あの能無しが間違えたのよ!」
フレイムは色の薄い睫毛を震わせた。自分はアーシアに神腕を持っていることを打ち明けた。彼女なら受け入れてくれると思ったから。
知っていて彼女は持っていないという。この男から、自分を庇おうとしているのだということはすぐに知れた。
ルードがぴくりと瞼を動かす。光が当たるとその双眸は紫を帯びた。
「アーシア……おまえは何のために、ゴロツキまで利用してその小僧に近づいたんだ?」
心臓が震えた。
(利用して? 何のために、近づいた?)
心が見あたらない声の主は、青褪めた少年に一瞥を投げる。
「我々の仕事はその小僧を――神腕の持ち主を雇い主に渡し、報酬を得ることだ」
頭が真っ白になる。
動けないフレイムの耳を甲高い声が打った。
「ルーディス! やめて!」
アーシアは叫んで、ルードの服を握り締めた。懇願の眼差しで男に縋る。
「私っ、私は……っごめんなさい! 許して! 私はフレイムを愛したの!」
長い前髪の下の眉が寄せられる。アーシアは目線を下げて続けた。
「分かってたわ。……分かってたけど、駄目だったの。私は彼を愛しているわ……」
一瞬凍りついた心が、その言葉で氷解する。最初の目的がどうあれ、彼女は自分を選んでくれたのだ。
(俺はアーシアを……信じる……)
コートを握る白い手を、ルードは掴み取った。アーシアの瞳にさっと恐れの色が浮かぶ。
「アーシア……」
囁かれる名とともに、握る手に力が入る。アーシアは痛みに顔を歪めながらも、首を振った。
「ルーディス、お願い……。お願い、彼を見逃して……」
答えない男を見上げて、アーシアは声を震わせた。青い瞳から涙が溢れる。
「お願いよ……」
ルードは黙って女の泣き顔を眺めていたが、いきなり彼女の髪を掴んだ。
「きゃあっ」
悲鳴を上げるアーシアを助けるべく、腕を伸ばしたフレイムはしかし体を強張らせた。
ルードがアーシアに口付ける。
深く、強引な口付けにアーシアは逆らうことも出来ず、ただ長い睫毛を伏せた。
やがて相手を解放し、ルードはほんの小さく唇の端を歪めた。アーシアはさっと男から離れる。
「アーシア、おまえは浅ましい女だな」
聞く者を支配してしまうような、低く官能的な声。
ルードの声にアーシアが更に涙を零した。長い髪は乱れ、美しい顔は悲痛さで染まっている。彼女は嗚咽の声を必死に絞った。
「やめて……言わないで……」
フレイムはもはや指を動かすこともままならず、黒い悪魔の声を聞いた。
「俺を愛していると言ったその唇で、他の男の命を乞う」
アーシアは俺を愛してくれた。
それは真実だ。あの心の触れ合いを、俺は覚えている。
だが、不変ではなかったのだ。
彼女はルード・ダーケンを愛し、次に俺を愛した。
「俺はお前を裏切らない」
――不変だろうか?
(……怖い……)
自分は追われている自覚があった。この、腕のせいで。
恐怖とともに腕が痛む。歯を食いしばり、フレイムはぎゅっと右腕を掴んだ。
変わらないものなどないのだ。脈動し続けるこの世界は変わらずにはいられない。
人も、その流れからは外れられないのだ。
ザックも変わるかもしれない。
警戒すべき対象へと。
「おはよう」
廊下ですれ違ったザックが、フレイムにそう声をかけてきた。
「……おはよう」
暗澹(あんたん)な気持ちで挨拶を返す。
その表情の暗さを見て、ザックは眉を寄せた。
「なんだ? 具合でも悪いのか?」
フレイムはうつむいて首を横に振った。相手の顔をまともに見ることが出来ない。
「……いや、ちょっと怖い夢を見ただけだよ」
「そっか?」
ザックは頬骨のあたりを掻いて、首を傾げた。
「……まあ、大丈夫だったらいいんだけどさ。朝晩も冷え込んできたし。風邪、引くなよ」
耳に触れる声はいつものように温かい。
フレイムは振り返らぬまま頷いた。
「うん。ありがとう」
ザックは違和感を感じながらも、あえて追求しようとは思わず、そのまま止めていた歩を戻した。
足音が遠ざかるのを聞きながら、フレイムは袖口で顔を拭った。
(……このことだったんだ)
長い睫毛を涙に濡らしながら、フレイムは悟った。
不安と猜疑に揺れる心。
ザックたちとともに行動を始めてからは久しく忘れていた、体の奥底に潜む疑心の暗鬼。
(ネフェイルは……俺は、人を信じられない、そう言ったんだ……)
大切な者を守りたいという心よりも、憎くてならない者を殺したいという気持ちが強くなる。だから、ネフェイルはフレイムには力を与えない――彼はそう言いたいのだとフレイムは思っていた。
だが、違ったのだ。
大切な者を守りたいという心よりも、誰とも関わりたくないという思いが大きい。力を持てば、フレイムはただ逃げるためだけにそれを用いるだろう。
そのように心の弱い者には魔術を教えられない、とネフェイルは言おうとしたのだ。
廊下の突き当たりは洗面所になっている。向かいに自分の顔を見つけてフレイムは足を止めた。
細くて頼りない、弱い少年がこちらを見ている。
万の軍に匹敵すると言われる神腕は彼にとって不幸を運ぶばかりで、何の役にも立たなかった。
(……でも)
それでも力が欲しいと思った。
フレイムは真っ直ぐに鏡を見つめた。
(守りたいと……思ったんだ)
「……フレイムが、なんか変だったな」
部屋に戻ってきてそう呟いた主人を、闇音は振り返ってみた。
「変、とはどのように?」
「なんていうか……人見知り状態って言うか……」
ザックは眉を寄せる。闇音は慰めるように笑みを浮かべてみせた。
「きっとナーヴァスになってらっしゃるんですよ。恋人を殺した男を思い出せなんて言われてるんですから」
ザックは頭を掻いた。
「そうだな……」
怖い夢を見ただけだと言っていた。
(大丈夫だよな。昨日も笑ってたし)
頷き、それから彼はポケットに手を突っ込んで、闇音を見た。
「今日……何日だっけ?」
「四日ですよ」
闇音は即答する。
「だよな」
ザックは笑って、手に握っていたものを差し出した。
「……なんですか、それ」
細い皮ひもにぶら下がった青い石。透明度が高く、朝日を弾いて内側が輝いている。
「誕生日プレゼント」
「え……?」
戸惑う闇音の手にその石を握らせながら、ザックは続けた。
「おまえ、誕生日分かんないとか言うからさ。とりあえず、俺がお前に初めて会った日に振り替えようと思って……」
そうだ、今日で出会って一年目になる。
「……あ」
ありがとうございます、と言わなければいけないのに、言葉は胸に詰まって出ようとしなかった。
こんな、こんなに幸せなことがあるだろうか。仕える身でありながら、その主人から誕生日だからと何か貰えるなど。
初めての感情に闇音は少なからず動揺していた。
「あ、……あのこれ、女物ですけど……」
口をついて出た言葉は感謝を表すものではなかった。思わず硬直する闇音には気づかず、ザックは苦笑を浮かべてみせた。
「いや……確かに、俺はお前を男として見てるけどさ。お前に似合うものを探したらそれになったんだよ」
勘弁な、と付け足す主人に、闇音は首を振った。
「いいえ……。いいえ、ありがとうございます」
掛け替えのないものを手に入れた闇音は青い石をしっかりと握り締めた。
「うん」
嬉しそうに笑うザックに、闇音も笑みを浮かべる。
「――っと、俺、タグルたちのところに行かなきゃ」
時計を見て、ザックは慌てて上着を羽織った。闇音は石を素早く身に付ける。
「私も行きます」
昨日の外出はグィンと一緒だというのであえてついて行こうとはしなかっただけだ。だが、一人だと言うのならば、そうはいかない。
「友達のところへ行くだけだよ」
「お願いします」
縋るように訴えてくる精霊に、ザックはシンシュウでのことを思い出した。
闇音を側に置いておかなかったがゆえに、彼に負担をかけることとなったのだ。
「分かった。来いよ」
主人の許しを得るや、闇音は彼の影へと身を投じた。
「ネフェイル……、俺はどうしたらいい?」
部屋の戸口に立って、フレイムはそう呟いた。
椅子に腰掛けたまま、ネフェイルは振り返って少年を見た。泣き腫らした目がこちらをじっと見ている。
ガラス玉の瞳。透明で壊れやすいその薄い紫が揺れている。
「……人を信じたいか?」
問うと、フレイムは頷いた。
「だが、フレイム。人は信じたいと思って信じられるものではないのだ」
ネフェイルは立ち上がって、フレイムの元に歩み寄った。見上げてくる少年に外を指差してみせる。
「私達が、空を空と信じられるのは、空がそれ以外のものになりはしないと思っているからだ。空を信じたいと思っているわけではない」
高いところで雲を吹き流す青空をフレイムは見やった。それから首を振って、ネフェイルを見上げる。
「空と違って人は変わる」
「そうだな。それでも人というものをお前は信じたいのか?」
フレイムはうつむく。
ネフェイルは小さく笑みを浮かべた。
人を信じる――そのことを考えるには、少年はまだ若すぎる。そのうえ多感な時期を人と触れ合えずに過ごしてしまった。
「変わり続けるものを信じるには……、自分が変わらない何かを持っていればいい」
ネフェイルの呟きに、フレイムは再び顔を上げた。
「……何を?」
その問いには答えず、ネフェイルは少年の頭を撫でた。窓から吹き込む穏やかな風とともに、低い声音が耳を撫でる。
「人を信じるためには、まず自分を信じなければならないということだ」
* * *
タグルとナキアが泊まっている宿に入ったザックは辺りを見回した。
「えっと……」
「ザック、こっちだ」
階上から声が降ってくる。見上げるとタグルが階段の踊り場で笑みを浮かべていた。
「タグル! おはよう」
「ああ、おはよう」
軽い足取りで階段を駆け上がってくる友人に、タグルは笑いを漏らした。ザックが首を傾げる。
歩き出しながら、タグルは口を開いた。
「いや、変わってないなーと思ってさ」
「ちょっとは成長したとか思わないか?」
ちょうど一年目の再会だったのだ。
ザックの言葉に対して、タグルはその髪を引っ張った。
「まあ、髪が短くなってるのにはびっくりしたけど?」
タグルの知るザックは腰まで髪を伸ばした少年だった。潮風になびくその髪を覚えている。
ザックは苦笑した。
「邪魔だったんだよ」
タグルは黒い双眸を細めて呟いた。
「ナキアを忘れるには?」
ザックが立ち止まる。
図星と分かりやすいその反応に、タグルは更に言葉を紡いだ。
「無理だよ。お前を救ったのはナキアなのに、そのお前がナキアを忘れられるはずがない」
長い黒髪はナキアのお気に入りだった。伸ばし続けたのは、人の髪で遊ぶのが好きな彼女が喜んでくれるからだ。
ザックは目線を下げて、ため息をついた。
「……タグルは意地悪だ」
「どこらへんが?」
朗らかに笑う年上の友人を、ザックは悔しそうに見上げて笑った。
「鋭すぎ」
「あら、ザック。おはよう」
ナキアはそう言って二人を迎え、それからきょろきょろと周りを見た。彼女の長いスカートにはイルタシア西方の民独特の模様が刺繍されている。ガルバラではほとんど見かけないそのスカートをザックは不思議な気分で見下ろした。
(島で見たときはこんなじゃなかった気がするんだけどな……)
それを懐かしいというのだと気づく前に、彼の耳をナキアの声が打った。
「フレイム君は? 一人で来たの?」
「ん? ああ、そうだけど……」
ザックが答えると、ナキアはつまらないと零した。
「昨日は時間がなかったから、今日はいっぱい話せると思ってたのに」
ザックは苦笑する。
「あいつ、今日はなんだか疲れてるみたいだったからさ」
フレイムを連れてきた方がいいのだろうとは確かに思っていた。空白の一年間を埋めるおしゃべりには、半年弱ほど一緒にいる彼の話もあった方が盛り上がるだろう。
だが、結局ザックはフレイムを誘うことが出来なかった。
フレイムが来ないならグィンも誘えない。だからもう一人で出掛けようと思ったのだ。実際は闇音も来ているのだが。
「疲れてる? 具合が悪いの? 大丈夫?」
ナキアが心配そうに首を傾げる。ザックは首を横に振って見せた。
「大丈夫だよ。熱とかはないみたいだったし。まあ、俺達もこっちに着いたばかりだし、旅の疲れでも出たんだろう」
「……昨日お邪魔したのがいけなかったかな……」
うつむく幼なじみに、ザックは慌てて両手を振った。
「ばっ――そんなことねえよ! フレイムも喜んでたし!」
ナキアは顔を上げてきょとんとザックを見つめた。そしてすぐに笑う。
「変わってないね、ザック」
その黒い瞳に浮かぶ甘い光に、ザックは頬を染めた。一年くらいでは変わらないのだ。
彼女の内も――自分の内も。
だが、自分は捨てた。
「私が好きだった頃のままだね」
この表情豊かに笑う女性を置いて、島を出た。
「ナキア」
声を出したのはタグルだった。案じるようなその眼差しに、ナキアは首を振った。
「大丈夫よ。明日、島に帰る」
ザックを振り返って、ナキアは微笑んだ。
「私、待ってるから。ザックが帰ってくるのを待ってるから」
――帰ってこれないかもしれない、死ぬかもしれない、だからナキアは連れていかない、ザックはそう言って彼女と別れた。そのとき、シギルの気持ちを悟ったのだ。一緒に連れて行きたくても、出来ないときがあるのだ、と。
「ナキア……」
「だって、ザックは私が嫌いになったんじゃないよね? 私、信じてるよ」
一瞬、ナキアの顔が歪んで、彼女が泣き出してしまうのではないかと思った。
だが、そんなことにはならず、ナキアは微笑んだ。島の眩しい太陽を髣髴とさせる笑顔。
「ああ……」
ザックは答えた。
「帰る。いつか絶対、島に帰るから」
帰れないかもしれないなんて、そんなことはない。彼女を忘れなければならないことなんてない。
驚きを宿した黒い双眸が、やがて嬉しそうに細められる。
「うん。その時は旅のお話いっぱい聞かせてね」
それから、少しばかり恥ずかしそうにタグルも口を挟んだ。
「じゃあさ、とりあえず、今日はここまでの話を聞かせてくれよ」
「ああ、いいぜ」
ザックはにやりと笑って答え、二人と一緒に席に腰を下ろしたのだった。
ナキアたちと別れて、ザックが宿から離れたところまで歩いてくると、闇音が影から立ち上がった。
「いいんですか?」
「何が?」
問い返してくる主人に眉を寄せて闇音は口を開く。
「お二人と島に帰りたいんじゃないんですか?」
ザックはああと笑って、首を横に振った。
「今はそう思わないよ。何もかもが中途半端になっちまう」
空にある太陽はまだ高いが、それもすぐに赤みを帯びてくるだろう。
田舎道を歩きながら、ザックは続けた。
「フレイムがどこまで行くのかは知らないけど。あいつが安心できるところまでは付き合いたいよ。約束したしな」
裏切らない、と。
自分が裏切れば、フレイムは今度こそ誰も信じなくなるかもしれない。それをいつも感じていた。
それに、と言ってザックは闇音を見やる。
「俺にはお前がいる」
はっと闇音は目を見開いた。
その様子にザックは笑う。
「実はすごいんだぜ、お前」
「……何がですか?」
ザックはやはり笑顔のまま、手で自分を示してみた。
「俺に、いつでも一緒にいる、と言って、まだ離れていないのはお前だけだ」
闇音は愕然と足を止めて主人の笑顔を見つめた。
父親も母親も、シギルも、ナキアもタグルも、誰もが一度ザックと別れを交わしているのだ。
「まあ、お前とはまだ一年しか付き合ってないけどさ」
頭を過ぎるのはザックと主従の契約をした夜のことだった。
いつでもどこでも、いつまでも、あなたに従う――そう告げたらザックは不思議そうに首を傾げ、こう言った。
それ、本気で言ってんの?
問う声に冗談はなく、まるで「そんなことは不可能なのに」と言っているようだった。
闇音は先を歩く主人に向かって声を上げた。
「大丈夫ですよ。精霊は主人を絶対に裏切りません」
闇音の言葉にザックは頷く。
「信じてるからな」
当たり前のように漏らされた言葉はあまりにも重く、闇音は拳を握った。
「はい」
ネフェイルの家に帰ると、庭先でフレイムがぼんやりと空を見上げていた。
「フレイム、何やってんだ?」
ザックが声をかけると、少年はびくりと肩を跳ねさせてから、帰ってきた青年とその精霊を見やった。
「あ、お帰りなさい」
「ただいま。……で、何してるんだ? 瞑想とか?」
見下ろして首を傾げるザックに、フレイムは苦笑して見せた。
「そんなとこ」
ズボンを叩きながら立ち上がる。
「さっき、ネフェイルがもうすぐ夕食だって言ってたよ」
「おっ、いいね。ちょうど腹もすいてきた頃だ」
ザックは笑って玄関へと向かう。闇音もそれに続いた。
二人の背中を見つめながら、フレイムはぽつりと呟いた。
「空はどうして空なのかな?」
聞こえなくても構わない。その程度の声量だったが、ザックは振り返って目を瞬いた。
ガラス玉の双眸がこちらをじっと見つめている。
ザックは一度空を見上げ、それからフレイムに向き直った。
「空が、空でいたいと思ってるからだろ」
そう告げると、フレイムは眉を下げて笑った。
「ザックらしい答えだね」
「……お前はどう思うんだ?」
少年の様子を怪訝に思いながら、ザックは問い返した。
いつものように目を逸らすかと思ったが、フレイムは視線を真っ直ぐに保ったまま口を開いた。
「……俺達が気づかないだけで、空は空じゃないときがあるかもしれない」
面白い答えだとザックは思った。
だが、少年の声はわずかばかり硬い。何かを否定するような響きを感じる。
「フレイム?」
不安になって名を呼ぶと、フレイムは相好を崩して見せた。こちらに歩み寄ってきながら、答える。
「瞑想のお題だよ」
そのままザックの横を通り過ぎて家の中に入っていく。
それを見送って、闇音は眉を寄せた。
「確かに、おかしいですね」
今朝ザックに話を聞いたときは旅の疲れだろうと思ったが、そういったものとは違うものを感じた。何か、悩んでいるようにも思える。
「ネフェイルが何か言ったのか」
怒ったような口調で言い、ザックは足早に家の中に入る。闇音は慌ててそれを追った。
「ザック、待ってください」
「待たない。あのおっさんは胡散臭くて敵わない!」
追ってくる精霊を振り返って、ザックはもう我慢できないとばかりに言い放つ。
「始めて会ったときからそうだ。あれは静電気なんかじゃない! ネフェイルはあの左手で何かをしたんだ! 俺が『何』かを確かめるために!」
闇音は目を見開いた。
何かをしたと言うのならば、それは魔術だろう。だが、ザックにそれが分かるはずがない。
驚いた様子の精霊にザックは自嘲を浮かべて見せた。
「気持ち悪いんだ……。昔はこんなこと何も分からなかったのに。今ではお前が精霊だと言うことをはっきり感じる。グィンもだ。フレイムの右腕を見るのも怖い」
コウシュウでフレイムが魔術を使ったあとの気配に彼が気づいたことを思い出し、闇音は息を呑んだ。
(やはり、感化されていたのか……)
もともとザックには魔術の才能があって然るべきであった。だが、母がその魔力を封じたために、彼は常人よりも魔力の気配に疎い青年に育っていたのだ。
だが闇音自身を含め、フレイム、セルク、飛竜……高度な魔術を使用する者たちが側にいるようになって、彼の本来の魔力に対する感度が復活しつつあるのはもはや間違いないようだ。
考え込む闇音にザックが呟く。
「ネフェイルの左腕が、怖い」
「食事ならばダイニングだぞ」
部屋に押しかけてきた青年を見やり、ネフェイルは静かに告げた。
ザックは睨むように壮年の男を見つめる。
「聞きたいことがある」
「急だな。夕食のあとではだめか?」
ザックは部屋に足を踏み入れなら答えた。
「今のままじゃ、気になって食事なんか喉を通らない」
ネフェイルはため息をついた。しょうがない、と小さく零し、ザックに座るように椅子を示す。
それから戸口の方に立つ影の精霊に視線を移し、君も座りなさいと言った。
「で、聞きたいこととは?」
二人の前に同じように腰掛けて、ネフェイルは問う。
ザックは単刀直入に聞くことにした。鎌などかけていてはまどろっこしくなると思ったからだ。
「あんたの左腕、神腕か?」
闇音がぎょっとしてザックを見やる。
ネフェイルは面白がるように笑った。
「なぜ、そう思う?」
ザックは背後を窺うように一度視線を逸らし、それから答えた。
「……フレイムの右腕に似てる」
ネフェイルは膝を指先で叩いた。ザックの答えを吟味するように目を閉じる。
しばらくして再び目を開くと、青年を見つめてまた笑った。
「正解だ」
闇音がネフェイルを凝視する。ネフェイルは左腕を掲げて見せた。
「私の左腕は神腕だ」
影の精霊を見やり、口の端を小さく持ち上げる。
「普段は完全にチャンネルを閉じてあるから分からないだろうがね。……やはりチャンネルを開いて握手をしたのがいけなかったか……、君が何者か気になったのでね。それで分かったのだろう?」
視線を戻して問うと、ザックは頷いた。
「あんたの左腕、フレイムの神通力の壁に触ったときと同じ感触がしたんだ」
シェシェンで触った魔力の塊。あれほどの力ではなかったが、同質のものであることは知れた。
「ふむ。なかなか鋭い。……ではなぜ、静電気のような現象が起きたかは分かるか?」
「それは……どうだろう。分からない」
ザックが首を傾げると、かわりに闇音が身を乗り出すようにして口を開いた。
「封印ですか?」
「そうだ。私の魔力は見事に弾かれてしまった」
二人の会話にザックが声を上げる。
「それ! 封印てなんだ? 町でも封印がどうのって言われたんだ」
ネフェイルが眉を寄せる。
「誰に言われた?」
予想外に厳しい声にわずかに怯みながら、ザックは両手で身振りして見せた。
「長い緑髪の女と銀髪の男だよ」
ほっとネフェイルが息をつく。
「それはシヤニィの巫女だ。一緒にいた男は……簡単に言えば巫女の護衛だな」
「巫女?」
ザックが知らない単語を繰り返すと、闇音が頷いた。
「聖なる森を守る一族の巫女です。神の声を聞くとか……。確かに彼女なら魔力も強いでしょうね」
神の声を聞くとは預言者のようなものだろうか、だから何か変なことを言っていたのだろうか。そんなことを考えてから、ザックは改めて二人を見た。
「……で、封印て何?」
闇音がネフェイルを見やる。答えてよいのか迷っているようだ。
ネフェイルは精霊に頷いてみせ、ザックに向き直った。
「封印について知るということは、マリー嬢の望みを知り、そしてその望みに反することになる」
「どういう意味だよ」
自分の母親のことを知ったふうに言われるのは癇に障るのか、ザックが唇を曲げて問う。
ネフェイルは膝の上で手を組み、困ったように眉を下げて見せた。
「……確かにもう母親に守られる年ではないようだが……」
マリーは神臓の持ち主で、それゆえに夫を亡くした。息子をも危険にさらすかもしれない――そう恐れた彼女は息子の魔力を封じ、本人にもそれを黙っていたのだ。
だが、それはザックの同意を得ていない。
「知りたいか? 知らねばよかったと後悔するかも知れないぞ」
魔術師の問いに、ザックは養父とのやり取りを思い出した。
知りたくないと言うザックに対し、彼は「知らずに過ごすのは危険だ」と言って、母と父に関して語ったのだった。
ザックは目を閉じた。
「……知りたい。知った上でどうするかは俺が決める」
告げてから、瞼を持ち上げて、その翠の入り混じった黒い双眸をネフェイルに向ける。
真摯な眼差しをネフェイルは真っ直ぐに受け止めた。
「分かった。では話そう」
「俺が……神臓を……?」
ザックが唇を震わせる。馬鹿な、とでも言うように、彼は首を横に振った。
「確かに神臓だが、役には立つまい。魔術の基礎を覚えるにはもうお前は年を取りすぎている」
チャンネルを開き、そこから魔力を引き出し、望む形に変える技。それを学ぶには幼少時からのイメージトレーニングが欠かせないと言われている。
「……なんだ、じゃあ、宝の持ち腐れ……ってやつ?」
肩透かしを食らったような顔でザックはネフェイルを見た。うなずいてネフェイルは続ける。
「第一マリー嬢の封印があるだけに魔力は使えまい。お前は蛇口の壊れた水道と同じだな」
身もふたもない例えにザックは閉口する。
その様子に苦笑したあと、しかし、とネフェイルは言った。
「そうとは知らない者もいる」
「え?」
「お前が神臓の持ち主である――それだけで、もう利用価値があると判断する輩がいるということだよ。お前が不良品だとも気づかずに、な」
目を瞬くザックに対し、闇音は表情を暗くする。
しばらくしてネフェイルの言葉の意味を理解したのか、ザックは眉を寄せた。
「俺はイルタス王になんか媚びないぞ」
「……お前の意志など関係ない。それだけの力をイルタシア王室は持っている」
見下ろすような視線で刺され、ザックは渋面を酷くした。
「絶対、言うことなんか聞かない。相手が何をしてきても服従はしない」
闇音がびくりと肩を震えさせたことにザックは気づかなかった。
ネフェイルが冷えた双眸に憮然とした表情の青年を映す。
(生かしたまま殺す方法などいくらでもあるのだよ……)
年老いた魔術師は心中で呟いて目を逸らした。
その視線の先、窓の向こうには空でしかない空が見えただけだった。
夕食の時間、ザックはフレイムをじっと観察した。
普段と何も変わらない様子で食事を口に運ぶ少年。
――フレイムは自分を信じることが出来ない。それが、欠点だ。
脳裏に先ほどのネフェイルの言葉が浮かぶ。
――魔力の制御にはまず「出来る」という意志が必要である。また何のために魔術を用いるのか明白な理由も要る。使用に疑問を感じれば、魔術は簡単にその形を崩してしまうのだ。
(つまり、自信がなければ魔術は使えない)
特例もあると言ったのは闇音である。操作系の魔術を施された魔術師は自分の意志ではなく、操作されるがままに魔術を使う、ということらしい。
(どちらにせよ……フレイムは村を焼いた罪悪感から自分は正しく魔術を使えないのではないかという不安感を払拭できないでいる……)
フレイムの恋人を殺した男に関する記憶は、やはりネフェイルが消したのだという。記憶があるまま放っておけば、フレイムが負の感情に囚われたままになる恐れがあったからだ。
――だが、これ以上に強い力を得たいというのであれば、過去をすべて呑み込んだ上で、更に先へ進む精神力が必要になるだろう。
(魔術は厄介だ)
スープを飲みながら、ザックは頭の中でそうごちた。つい、自分は魔術師でなくてよかったと思ってしまう。無論、剣士とて剣を振るう以上、それ相応の覚悟がいる。
だが、剣は使わないと思うならば鞘に封じておけばそれでよいのだ。
魔力は鞘がない分、暴走の危険がある。だからこそ、この世界には魔術師免許制度があるのだ。
「なあ、フレイム」
ザックが声をかけると、フレイムは手を止めて顔を上げた。
「さっきさ、空の話をしただろう?」
「うん」
「お前のあの解釈ってさ、空を人間として捉えてるみたいだよな」
ザックの言葉に、フレイムは目を瞬いた。
「隠し事とか……、表と違う側面を持つのって人間だろ?」
「そうだね……」
フレイムはゆっくりと頷き、スプーンから手を離した。目線を上向かせる。
「俺、絶対に変わらないものなんかないと思ってるんだ。その筆頭が人間でさ……」
語ることにためらいがあるのか、口の動きが止まる。ザックは辛抱強く続きを待った。
「難しいね。変わらない何かを見つけるって……」
フレイムは呟いて、小さく笑みを浮かべた。見つけることが出来ない自分への嘲笑だろうか。
ザックはしばらく考えて、それからフレイムを見つめた。
「確かに難しいけど……俺、一つなら分かるぜ」
「え……?」
驚いた顔をする少年に、ザックは人差し指を立てて見せた。
「過去さ。お前が今まで歩んできたその過去は変わらない」
薄紫色の双眸が揺れる。
フレイムは長くその言葉を吟味している様子だった。
やがておもむろに微笑む。自嘲とは違う、満足したようなそんな笑みだ。
「そっか。俺が何をしたかそれは変わらないんだね」
そして、見出したらしい一つの答えを口にする。
「過去は変わらないからこそ、今何をするかはとても大事なことだね」
少年が導き出した答えに、ザックは大きく頷く。
「そうだな」
「ありがとう、ザック」
礼を言って、フレイムはもう一度微笑んだ。ザックが思わず頬を染める。
「いいよ、礼なんか。俺は例えを挙げただけさ。お前ならもっとたくさん見つけられるよ」
そうかな、と首を傾げる少年に、ザックはあたりまえだと答えた。
「お前は俺より若いんだからさ。これからいくらでも考える時間があるんだ。納得いくまで探すといいよ」
* * *
「フレイム、今日は顔色がいいね」
食事を終えて、風呂から上がってくると、グィンがそう言った。テーブルの上からフレイムを見上げている。
「そう?」
自分の頬をつまんで尋ねると、グィンは嬉しそうに笑った。
「うん。なんだか元気が出てきたみたいだね。よかったね」
フレイムは胸の奥がじわりと温かくなるのを感じた。
近頃自分のことばかり気にして、グィンの気持ちを考えていなかったのだ。彼女はずっとこちらのことを心配していたのだろう。
「うん、ありがとう」
フレイムはグィンの頭を撫でてやった。たまらなく嬉しそうな顔をする彼女に、フレイムは心の中でもう一度感謝の言葉を並べた。
(ありがとう、グィン)
そうだ、過ぎた過去に落ち込んでばかりはいられないのだ。
自分は「守っていく」と決めたのだから。
疑心暗鬼に陥ってしまっていた自分を叱咤し、フレイムは唇を引き結ぶと、すっかり暗くなった空を見据えた。
(ザックにはまた助けられちゃったな……)
フレイムはベッドの上で夕食での会話を反芻した。
もっと見つかる。自分でも何か見つけなければならないと思う。彼はちょっとだけヒントをくれた。
(そうだね。何もないんじゃないかなんて疑ってたら見つかるはずもないよね)
何もない事なんてない。例えを挙げてくれたのだ。
(変わらない何かを見つけたい)
そして、今日も見るだろう過去夢の続きを受け入れるべく、フレイムは目を閉じた。
もう覚悟は出来ている。今日はきっとアーシアが死ぬところを見るだろう。
そう、彼女の最期の言葉をもう一度聞くのだ――……。
ルードが懐から何かを取り出した。黒くて冷たい、金属の塊。フレイムはそれを見たことがなかったが、側でアーシアが息を呑んだのが分かった。
「“禁じられた知恵(イースタンアート)”……」
震える声が意味することは何か。フレイムも言い知れぬ不安を覚えて、その塊を見た。
「……私を殺すの?」
「フレイム・ゲヘナを殺す。神器は持ち主が死んでも機能することは既に実験済み。必要なのは、その右腕だけだ」
「神器」とは神腕、神臓、神眼など神通力を導く部位の総称である。
死んでも機能するというその言葉にフレイムは思わず唇を震えさせた。
この男は殺すことを厭わない。確信が絶望とともに死を暗示する。
「やめて!」
アーシアは叫んでルードの前に立ちふさがった。涙を振り払い、強い眼差しで過去の恋人を見据える。
「もうやめるのよ、ルーディス……」
彼女の言葉には耳をかさず、ルードは最後通牒だと言うように口を開いた。
「どけ、アーシア。今回の行動は愚かだとしか言えないが、本来のお前は学識を持っている。失うのは組織の痛手だ」
「学識?」
その言葉を聞いてアーシアが嘲う。もう絶えられないと言わんばかりに、彼女は笑いに身体を揺らした。
「人身売買の組織に知識が必要だと言うの? 人を愛することを愚かだと言うあなたに私が必要だと言うの!?」
ルードの表情に変化はない。
その瞳は手に持つ黒い武器と同じ、空虚で静かで、ただ一つの意志だけがある。
「ルード・ダーケン! 愚かなのはあなただわ!!」
それは、殺意。
「アーシア!!」
空気が裂かれたような音だった。
何が起こったのか分からなかった。男が何か攻撃してくるならば、魔術で対抗しようと思っていたのに、フレイムは動くことが出来なかった。
目の前でアーシアが弾かれたように踊る。
倒れこんでくる彼女を受け止めながら、フレイムはその胸が血を噴いているのを見た。
「アーシア! ……どうしてっ」
「逃げ、て! フレイム、逃げて」
目を閉じたまま、アーシアは掠れた声でそう叫んだ。
「だめだ、アーシア。傷を塞がなきゃ……っ」
体が震えた。アーシアの白い服が見る間に赤く染まっていく。何が彼女の身体を貫いたのか。
フレイムは涙で歪んでいく視界で必死に彼女を見つめた。
「いいの、逃げて……。私は助からない」
「嫌だ! 何を言ってるんだよ! 助かるよ!」
泣き喚く少年に、アーシアは手を伸ばしてその頬に触れた。涙が指先を伝う。
「ごねん……、ごめんね、フレイム……こんなことに巻き込んで……」
フレイムは首を振った。アーシアは微笑む。
「私の事は忘れて……。忘れていいから、早く逃げて……」
「そんなこと出来ない!」
叫んでフレイムはアーシアを抱きしめた。
「世界中の誰が忘れたって、俺はアーシアを忘れたりしない!」
彼女の青い瞳から涙が溢れる。
声が嗚咽に負けそうになりながらも、フレイムは声を絞った。
「それが……っ、……俺がアーシアを愛した証だ……」
もうこれが最後だとアーシアは感じた。
何もかもが失われてしまう。
失いたくないのに。
「忘れないで……忘れられたくない。フレイム……」
そして長い睫毛は伏せられた。
抱きしめている身体から力が奪われていく。永遠に、大地へと。
愕然と彼女を見下ろすフレイムの耳に、カチリと硬い音が響いた。
憎悪の眼差しで音のほうを見やる。
「……ルード・ダーケン」
見下ろす眼差しは凍てついていて、再び火を吹こうと闇の武器を構えている。
「気安く呼ぶな。女ひとり救えない愚かな神器よ」
どんっと地鳴りが響き、建物が揺れた。
少年の身体から溢れ出した極彩色の魔力が唸り、室内を駆け巡る。荒ぶるドラゴンを思わせるその破壊衝動をルードは無表情に見つめた。
「……なるほど、これか」
思ったほどでもない。それが彼の感想だった。
神通力、人を超えた力。
だから――なんだというのだ?
「操る者が人ならば、俺の恐れるところではない」
呟いて、ルードは女の死体を見やった。
神通力はその色を変え、今や咆哮を上げる炎と化していた。すべてを焼き尽くす神の炎。
弔いだ。
ルードはコートを翻し、フレイムに背を向けた。歩き出しながら、ぽつりと呟く。
「焼き尽くせ、“地獄の炎(ゲヘナ)”」
その声に呼応するように、炎は高く天を目指した。
* * *
目覚めは静かだった。
朝の光がカーテンの隙間から部屋を濡らしている。
(思い出した……)
すべて、思い出した。
助けられなかった自分――他でもない、一番殺したかったのはそれだ。
そしてネフェイルが恐れたこともそれだろう。だから彼はフレイムの記憶を封じ、懐にしまったのだ。
(彼が怖かったわけが分かった……)
助けてくれた恩人で、尊敬もしている人なのに、フレイムはなぜか彼に再会するのが怖かった。
ネフェイルこそがフレイムの忌まわしい過去をその身に隠していたからだ。
フレイムは涙に濡れた眼差しで、白い陽光を見つめた。
泣きはらした顔を見られて心配されたくないと思ったフレイムは、早朝の森を散歩していた。しかしグィンだけは素早く目を覚まし、彼にくっついてきた。
とぼとぼと歩きながら、フレイムは過去のことを冷静に考えてみた。
人身売買の組織、神器に関する専門知識、そして――
(イースタンアートってなんだろう……)
あの黒い武器のことをアーシアがそう呼んでいた。あの武器がどうやって彼女を殺したのかフレイムには分からなかった。
ただ破裂音が響いて、気づいたら彼女の胸には穴が開いていたのだ。武器の先端から煙が上がっていたので、何か火を使ったのかとも思う。
「ねえ、グィンはイースタンアートって知ってる?」
尋ねてくる主人にグィンは眉を下げて首を振った。
「ごめんなさい、分かんない。でもイーストって聖都の向こう側だよね。あっちには行けないって聞いてるけどそれに関係してるのかな?」
聖都――アルディア。この世で最強にして最高位、その神性極まる姿は人々が崇めてやまないという神器「神翼」を持つ女性が治める国だ。
遠い地である。だが、いつか行ってみたいと思っている聖地を思い描いて、フレイムは視線を空へと向けた。
* * *
「この森がシヤン?」
緑濃く茂る森を見てフレイムはグィンに尋ねた。緑の精霊は嬉しさで弾けんばかりの笑顔で頷く。
「そうだよ。凄く綺麗な森でしょ。奥にはもっと綺麗な泉があるんだよ。そこに女神様がいるんだって!」
そして、早く行こう、と言ってフレイムを引っ張る。フレイムは笑って頷くと常緑の森へと足を踏み入れた。
森の中は明るく、静謐な空気に満ちていた。森の規模から鬱蒼として光がなくとも不思議ではないのに、太陽の他にも何か光源があるのではないかと思ってしまうほどだ。緑の精霊が最も多く棲息していると言われる場所は確かに「聖なる森」と呼ぶにふさわしい気がした。
「空気が綺麗だね。全然、淀んでない」
人が暮らす街には少なからず、淀みが存在する。だが、それがここにはない。本当に一つの村がこの中にあるのかとフレイムは疑った。
「シヤニィは森を守る一族だからね。彼らはシヤンを母なる森、泉を神泉として崇めてるんだ」
「へえ」
不思議な一族だと思いながら、フレイムは進んだ。
そしてしばらく歩くうちに行く手に人が立っていることに気づく。
(誰?)
思わず足を止める。
すると相手はこちらに向かって歩いてきた。逃げると変に思われるだろうかと思うと、フレイムは動けなかった。
(女の人だ)
緑の長い髪と澄んだ蒼い双眸がグィンを髣髴とさせる。
(緑の精霊?)
「シヤニィの巫女様だ」
グィンの声にフレイムははっとした。
(巫女?)
そう言われてから見ると、確かに女性は穏やかな顔立ちで静かな優しさを感じさせる。俗世から遠いところで暮らしているようなそんな清廉さ。
「シヤンの森へようこそ」
傍までやってきた女性が微笑む。
美しい声に聞き惚れながら、フレイムは小さく頷いた。
「あ、はい……お邪魔してます」
おかしな返事をしてしまい、さっと頬を染めると、女性は相好を崩した。
「シヤンは迷える人のために開かれているの。心が落ち着くまでゆっくりしていくといいわ」
そう告げてから、グィンを見て「あら」と言う。
「あなたはこの前も見たわ」
「え?」
グィンが驚いたような顔をすると、シヤニィの巫女はくすくすと笑った。
「背の高い黒髪の人と一緒にいたでしょう? あなたはこちらに気づいていなかったようだけど」
「えっと、じゃあ、この前町を歩いてたときかな?」
グィンが腕を組んで首を傾げると、巫女は頷いた。フレイムを見やる。
「あの時はあの男性の精霊かと思ったけど……そうね、あなたはこの子の精霊ね」
「でもでも巫女様、巫女様は森から出るときは護衛を何人かつけるでしょう? それだったら僕でも気づくと思うんだけど」
指摘されて巫女は少し驚いたような顔をした。巫女だと名乗っていないのに「巫女様」と呼ばれたからだろう。しかし、巫女は相手が緑の精霊ならばこちらを知っていてもおかしくないと判断したのか、そのことには触れずに小さく笑んだ。
「ええ、そうなのだけど。この前は一人で十人分も働いてくれるような人が一緒だったから」
「へえ、凄く強いの?」
「そう。とても強いの」
巫女はおかしそうに笑った。
「強いのだけれど、なかなかそれを自覚できない人なの。魔法剣士なんてそれだけで十分に凄いことなのに」
そしてちょっと困ったようにため息をつく女性に、フレイムは思わず頬を染めた。
(この人……その魔法剣士のことが好きなんだ……)
魔法剣――精霊を宿し、斬撃に加えて何らかの付加効果を持つ剣だ。剣と魔術が支配するこの世界で圧倒的な強さを誇る武器であり、しかしその扱いの難しさのため、使い手は少数だと言われている。
(確か最強と謳われる魔法剣士がザックの憧れの人だったよね……)
魔法剣には憧れていたけど、魔術のほうがさっぱりで習得できなかったと残念そうに語る青年のことを思い出し、フレイムは微苦笑を浮かべた。
身内の魔法剣士よりも光沢のない灰色の髪を持つ少年を見つめて、巫女は静かに口を開いた。
「あなたも重いものを背負っているのね……」
「え……」
巫女は緑の光に溢れた木々を見上げた。蒼い双眸は少し寂しげだ。
「常軌を逸した能力と言うのは少なからず持ち主の負荷になるわ。けれども生まれながらに背負ったその枷を捨てることはできない……」
神腕のことを言っているのだと悟り、フレイムは息を呑んだ。だが逃げる気にはなれなかった。彼女は憂えている――神腕の力を、魔法剣士の力を。
「その力から目をそむけて生きることも可能だわ。けれど、あなたたちは向き合う覚悟を決めているのね」
この目の前の少年も、何も知らずに封印を施された青年も、周りからのプレッシャーに押しつぶされそうだった剣士も……。
巫女は少しだけ苦しそうな眼差しを見せたが、それはすぐに失せた。
フレイムに視線を戻し、励ますように微笑む。
「向き合おうと、そう思えるだけの力があって、一緒にいてくれる人がいるのなら、あなたは大丈夫よ」
脳裏にグィン、ザック、闇音の姿が過ぎる。
フレイムはゆっくりと頷いた。
「はい」
聖なる森を後にし、フレイムはネフェイルの家まで帰ってきた。
玄関の前にザックが立っている。
「よう、朝からどこに行ってたんだよ?」
苦笑い気味のその問いは、彼がフレイムを探して回ったことを伝えてくる。
「ああ、ごめん。ちょっとシヤンの森まで……グィンと」
謝ると、ザックは散歩かと呟いた。それから興味深そうに尋ねてくる。
「聖なる森だろ。どうだったんだ?」
「綺麗なところだったよ」
フレイムは答えて、首を傾げるようにザックを見上げた。
「シヤニィの巫女様に会ったよ。ザック、この前、街で会ったんだってね?」
「あ、ああ。会ったときは巫女だって知らなかったんだけど……。昨日、そうだってネフェイルに聞いたよ」
やはり知らなかったのかとフレイムは思った。あの緑髪の女性が巫女だと知っていたなら、ザックはきっとそのことを話題にしていたはずだ。
フレイムは笑った。
「ザック、もう一つ知ってた? そのとき一緒にいた人、魔法剣士なんだって」
「え!」
驚きの声を上げる青年にフレイムは頷いてみせる。
「凄く強いって、巫女様のお墨付きみたいだったよ」
「ま、マジか? だって、背は高かったけど、細身で……あれで魔法剣士……?」
そういえばネフェイルが巫女の護衛だと言っていた。
ショックを受けている様子のザックに、フレイムはきょとんと目を瞬いた。
「剣士っぽくなかったの?」
「んー。まあ、ガンズみたいなタイプではないな。どっちかって言うとウィルベルトとかそっちのタイプで……」
思い起こせば、確かに見た目は華奢そうでも、あの眼光は少なからず死線をくぐり抜けて来た者のものだ。
ついに座り込んで頭を抱える。
「ああー、ちくしょう。知ってたなら、手合わせ願ったのに……」
魔法剣士――ならば、きっとあの時、やけに目に付いたあのロザリオが魔法剣なのだろう。せっかく魔力の気配に気づけるようになってきたのに、チャンスを逃してザックは落ち込んだ。
フレイムはザックの横に同じように座って笑った。
「森へ行ってみればいいじゃない。まだここにしばらくいるんだからさ」
励まされて、ザックは小さく頷いた。それからため息を大きくつくと、立ち上がる。
「ああ、そうだな。でも今日はナキアたちを見送らなきゃいけないし……」
また今度だな、そう呟いて、ザックは人里から離れたところにある森の方向を見つめる。
フレイムはザックがその人と剣を交えるときは側で観戦しようと思った。剣の試合はあまり見たことがないけど、きっと面白いだろう。
ただ、フレイムはその日を近い未来として想像していた。
遠く遠く延びてしまうとは、この時はまだ全く考えていなかった。
* * *
朝食をすませた後、ナキアとタグルを見送るべく、フレイムはザックについて出掛けた。もちろん闇音もグィンも一緒だ。
フレイムたちは賞金首リストに載せられているので、別れはリルコ州の関所よりもいくらか手前で交わすことになった。
「フレイム君、次はたくさんお話したいわ」
フレイムの手をとって、ナキアはそう笑いかけた。フレイムは眉を下げつつ、笑みを返す。
「ええ、ぜひ」
「いつかザックとグルゼに遊びに来てちょうだい。グルゼ料理をご馳走するわ」
胸を張ってそう告げるナキアに、ザックは意地の悪い笑みを浮かべる。
「野菜を煮るだけのシチューしか作れない奴が何言ってるんだよ」
ナキアはむっと唇を尖らせた。
「失礼ね。私だって上達したんだから。ザックが舌を巻くほどの料理を披露して見せるわよ」
そう言って腕組みをして上目遣いに見上げてくる。くつくつと笑って、ザックは相手の頬を摘んだ。
「じゃあ、俺はお前が頬を落とすような料理を作ってやるよ」
そしてそのまま頬にかかる髪を指先で撫でる。
ナキアはその手に縋るように首を傾げて笑んだ。
「……待ってるわ」
「ああ」
頷いて、振り返って、ザックは皆が黙り込んでいるのに気づいた。自分とナキアのやり取りを反芻し、唇を歪める。
「…………あ、ああ、そういや、帰りにコウシュウに寄ったりするか?」
強引にタグルのほうを振り返り、ザックはそう尋ねた。タグルははっとして目を瞬く。
「え、うん。ここを出てコウシュウ、シェシェン……って、ああ、そうか。シギルおじさんがいるんだっけ? 寄ってみるよ」
「ああ、よろしく言っといてくれ」
二人の会話を聞きながら、ナキアが悲しそうな顔をするのをフレイムは見た。その視線に気づき、ナキアがフレイムを見返す。
じっと見つめたりして失礼だったかと思って視線を逸らすと、ナキアは小さく笑った。フレイムにこそりと話しかける。
「コウシュウで彼、落ち込んだんじゃないかしら?」
彼、とはもちろんザックのことだろう。フレイムが顔を上げて、肯定するべきか否か迷っていると、ナキアはそのまま言葉を続けた。
「ああ見えて落ち込みやすいところのある男なのよね。……まあ、見てる感じには大丈夫そうだけど」
ナキアはザックへと視線を移す。
「私、シギルおじさんは好きだけど……だけど……」
今、ザックは笑っている。
フレイムはやっと口を開いた。
「ザックは大丈夫ですよ。ナキアさんたちがいたから、大丈夫になったんですよ」
ナキアは驚いた様子で目を見開いた。
それからゆっくりと微笑む。
「ありがとう」
秋風にふわりと黒髪が広がる。ナキアはそれを指先で梳いて、瞳を閉じた。
「本当に……ありがとう」
養父に置いていかれて、すっかり塞ぎこんでいたザックを立ち上がらせたのは確かに自分だったのかもしれない。ザック自身もそう言っていた。
だが、彼が養父と再会したとき、側にいたのはこの少年たちだ。彼らがいたからきっと今、ザックは笑っている。
「じゃあ、そろそろ」
タグルはそう言ってナキアの方を見た。ナキアは頷いて、彼の側に歩み寄る。
「また、会うときまで皆元気でいてね」
ザックたちそれぞれの顔を順に見つめて、ナキアはそう別れを告げた。
「ああ、お前らもな」
答えて、ザックは二人と握手を交わした。
手を振る。
フレイムも大きく手を振った。
青空に吸い込まれていく雑踏に、更に消えていく後姿に、いつまでも手を振ったのだった。
男は書類の一枚を眺めて、側の部下をこまねいた。
淡い金髪と、銀に近い水色の瞳を持つその男は、イルタシア王室直属の剣士団である金獅子の団長として城に勤めている。彼の優れた剣技、臨機応変な判断力、そして一団体を率先する能力は誰もが認めるところであった。
「ヴァンドリー様、いかがいたしましたか」
側によってきて用件を窺う部下に、金獅子団長イルフォード・ヴァンドリーは手にしていた紙片を示して見せた。団員の長期出張届けである。
「副団長はまだ帰ってこないのか?」
金獅子の副団長は数日前、脱獄した政治犯を追って外国まで出ていったのだ。
その届けに寄れば、帰国予定の期日まではまだ時間がある。しかし、なにぶん団長の補佐を務める男である。彼がいないと進まない仕事もあるのだ。
ああ、と金の剣を揺らしながら部下は頷く。
「それでしたら、昨日、目標の位置を捕捉したのと連絡が入っていますので、もう間もなくだと思いますが」
イルフォードはため息をつく。それから手にしていたペンにインクをつけると、白い紙を取り出しさらさらと文を綴った。最後に署名し、押し付けるようにして団員に渡す。
「……これを、伝達するんですか?」
書き上げられたばかりのその文に目を通し、その団員は片目を細めた。
「『いつまで遊んでいるつもりだ。さっさと帰って来い』」
イルフォードは自分の書いた伝言を暗唱し、それからふんと鼻を鳴らした。
「間違いない。そのまま伝えてくれ」
「……分かりました。まあ、いいですけどね。副団長も慣れてる事でしょうし……」
今度は部下がため息をつく。副団長が仕事の遅い人だということはよく知っていた。そして彼が本気になれば、誰よりも仕事が速いことも知っている。
一礼して部屋から出て行く部下の背中を見送り、イルフォードは机の上で手を組んだ。
視線を滑らせて、窓の外を見つめる。色づき始めた木々が曇り空を必死に飾り立てていた。
「早く帰って来い……。どうにも秋の憂鬱な天気にふさわしい、不穏な空気だ」
* * *
それは町の出口の石畳にあった。側を通りかかった農婦が、足を止めてぽかんと口を開ける。
「あれまあ」
思わず声を漏らすと、背後から顔見知りの商人が声をかけてきた。
「隣の国の剣士様がやらかしたそうだよ」
振り返って、しわの増えた目じりを細め、農婦は驚きを含んだ声で疑わしく問う。背後の光景を示しながら。
「これを? どうやって?」
さあね、と商人は答える。汗をかいた額をハンカチで拭きながら、息をつく。農婦の気持ちが分からないでもない。警邏(けいら)に直接聞いて確かめたことだったが、なかなか信じられない。
幅は掌ほど、しかし緩やかに弧を描いたその長さは十数メートル。深さはそうない。だが、だからと言って、こんな亀裂をどうやったら人間が作れると言うのか。
無残な姿の石畳の道路を眺めて、商人は呟いた。
「まあ、人間技じゃないよなあ」
「スフォーツハッド様!」
耳元で喚く部下に、ウィルベルトは降参の意を示して両手を挙げた。
「分かった。君の言い分はよく分かったよ」
「いいえ! 分かってません!」
ディルムは拳を握って、それで机を叩く。ウィルベルトが飲もうと思っていたコーヒーは揺れて中身が減った。
二人はガルバラ国リルコ州、そのとある町の役所にいた。休憩所で白い机をはさんで向かい合っている。
「なんだってどうして、あんな連中にスフォーツハッド様が剣を抜かなきゃいけないんですか!」
あんな連中、とは今回の出張の原因になった政治犯と、それに従った魔術師達のことである。
「……いや、だって仕事だし」
少なくなってしまったコーヒーを悲しそうに見下ろしながら、ウィルベルトは呟く。いくら怒鳴ってもマイペースな上司に、ディルムは嘆息して椅子に腰を下ろした。頬杖をついてごちる。
「恐れ多くて目を潰しやがれって感じですよ、もう……」
海外出張になったと言う以外は、取り立てて凶悪な訳でもない今回の事件。魔術師を味方にして逃げた政治犯を捕まえるだけの仕事だ。候補生の自分にだって片付けることは可能だった。
「いくらなんでも目なんか潰れないだろう」
白いカップに口づけながら、ウィルベルトは朗らかに笑う。実年齢よりも若く見られがちなこの男は、嫌味なほどに笑顔が良く似合った。その笑顔になんとなく負けた気分になってディルムは口を開いた。
「スフォーツハッド様は自分の剣がどれだけ凄いか分かってないからそう言うんです」
ウィルベルト・スフォーツハッドは滅多に公開試合を行わない。なぜか。公開してまともな試合が出来るほどの相手があまりにも少ないからだ。
(できるとしたら、金獅子の団長と……金獅子の団長くらいだよ)
団長と団員が公の場で剣を交える。それは年に一度、新年の御前試合だけである。
また、仕事でもウィルベルトは滅多に剣を抜かない。彼がのんびりと構える間に、他の団員が敵を片付けてしまうことが多いからだ。
「なのに、なんで今回に限ってあんなに素早く動くんですか」
腐りっぱなしの部下に、ウィルベルトは眉を下げた。
「団長様からラブレターをいただいてしまったんだ」
その言葉にディルムはぎょっと目を見開く。懐から一枚の紙を取り出し、ウィルベルトはひらひらとそれを振って笑った。
「『いつまでも遊んでちゃイ、ヤ。早く帰ってきてね』だそうだ」
「冗談言わないでくださいよ!」
上司の手から紙を取り上げて、目を左右に動かす。そしてディルムはうなだれて机に突っ伏した。
「ああ……、だからもっと早く仕事しましょうって言ったのに」
「大丈夫だよ。団長優しいから」
気軽に取り合うウィルベルトに、きっと鋭い視線を送る。
「それはあなたには何を言っても通じないからでしょう。私が怒られるんですよ!」
候補生の嘆きを無視し、ウィルベルトはカップを干すと立ち上がった。投げ出された紙片を拾ってまた懐に戻す。
「その時はこう言っておけばいい」
自分に続いてしぶしぶと立ち上がるディルムに、片目を閉じてみせる。
「副団長の教育は前団長様がいたしました」
ディルムは両腕を戦慄かせた。
「そっ、そんなこと言える訳ないじゃないですかー!」
泣き出しそうな顔をする部下に笑って、金獅子副団長ウィルベルト・スフォーツハッドは帰路に着くための準備を始めた。
フレイムはネフェイルの部屋を訪れた。
振り返った緑の双眸がひどく懐かしく感じて、フレイムはほっと息をついた。
(大丈夫だ。怖くない)
これで彼が封じた記憶はすべて取り戻したのだ。
安堵の表情を浮かべた少年を見て、ネフェイルが口元に笑みを刷く。
「シヤンに行ってきたそうだな。巫女に会ったのか?」
「……うん。励ましてもらったよ」
緑に輝く森は優しくフレイムを力づけてくれた。
ネフェイルは椅子に腰掛けたまま、膝の上で手を組んだ。
「それでは、聞こうか――なぜ、強くなりたい?」
二度目の問いかけ。
口ごもることなくフレイムは答えた。
「守りたいんだ。大切な人たちを」
自分の不甲斐なさに泣くのはもう嫌だ。
力を持つことを怯えてはいけない。それは傷つけるものではなく、守るために必要なものなのだから。
ネフェイルが頷いて更に問う。
「自分を信じられるか?」
フレイムはわずかに眉を下げた。
「正直に言うと、まだ自信がないんだ。俺はまだたった十七年しか生きてなくて……自分のこともよく分からない。……でも」
フレイムは一度言葉を切って深呼吸した。
「俺はこれからも生きていくわけで、こんな俺との付き合いは死ぬまで続くんだ。死ぬ時に後悔がないように、俺は俺の出来得る限りをしておきたい」
生きていく限り、この長い付き合いは終わらない。
そんな相手を――自分を、信じなくてどうする。
右腕に宿る力はきちんと使えれば、たくさんのことが出来るはずだ。グィンやザックや闇音を守れる。そして、それはナキアやタグルたちの笑顔にも繋がるだろう。
すべては失われたと絶望したあの炎の日から、いつの間にか、守りたいものができて、増えていた。
「ネフェイル、俺は俺の力を守るために使いたい」
色の淡い双眸に、力強い光を称え、フレイムはネフェイルを真っ直ぐに見つめた。
その眼差しを受け止め、ネフェイルは微笑んだ。
長く地上にあって、鳥たちの羽を休めるために枝を伸ばし、まどろむ獣のために葉を茂らせ陽光を柔らかく遮る。大樹は大地に深く根付いて、優しい。
ネフェイルの瞳はそんな緑をしている。
「炎の中から助けたばかりの頃のお前は、失ったものの事ばかりを考えていて……生き残った者に気づいていなかった」
ネフェイルは青空を背負って続ける。
「死んだ者は喜びも悲しみもしない。喜ぶのは生きている者であり、恨むのも悲しむのも、また生きている者だ。死者を安らかにしてやるのも、生きている者だ。安寧は生きている者たちの中にある。過去を悔やむなとは言わない。だが、お前が安らぐことを望んでいる死者もいるであろうことを忘れてはいけない」
同じことを二年前にも言われたことをフレイムは思い出した。その意味をあの頃は理解することが出来なかったのだ。
「……はい」
フレイムはゆっくりと頷いた。
これからの自分の喜びがアーシアにも届くといい。喜びという温かいものが彼女の魂を癒してくれるといい。
ネフェイルが椅子から立ち上がる。
「では、魔力の制御について講義をしようか」
フレイムははっと目を見開いた。
端にあった椅子を引っ張ってきながら、ネフェイルが苦笑する。
「なんだ、魔術を学びたいのだろう?」
「う、うん。……いいの?」
戸惑いがちに、しかし嬉しさを顔に滲ませて問うてくる少年に、ネフェイルは笑った。
「強くなりなさい、フレイム。守りたいものがあるなら」
「はい」
フレイムは返事をして、ネフェイルの側に歩み寄ったのだった。
* * *
「よう、大変そうだな」
家から出てきたフレイムに、剣を振っていた手を止めてザックが話しかけてくる。フレイムは小脇に抱えた本を揺すって見せた。
「ネフェイルってば、予想以上にスパルタかも……」
ネフェイルに魔術を学ぶことになった翌日、渡された本は魔術の種類に関するものだった。日用魔術から、戦争における大規模な破壊魔術まで数々の術について広く綴られている。掘り下げて書かれている部分は少ないが、それぞれの魔術の動作原理が簡単に示されているのだ。
それらを頭に叩き込み、瞬時に対応できるようにならなければいけないとネフェイルは言う。
「相手の魔術を防ぐにもその特性が分からないといけないから……っていうのは分かるんだけど……」
フレイムは本をニ、三ページ捲って顔をしかめた。
「やっぱりちょっと分厚いよ」
「いいじゃねえか」
ザックは気楽に笑う。
「基礎は大事だぜ。ウィルベルトもそこんとこは厳しかったもんなあ」
そう言って懐かしそうに空を仰ぐ。
「フレイム、ファイトだよ」
フレイムの耳元でグィンも励ます。フレイムは笑って礼を言い、木陰に座っていた闇音に迎えられ、腰を下ろした。
「そういえば、精霊はどうやって魔術を覚えるの?」
フレイムは横のグィンに尋ねた。グィンはさあと答える。
「本能ですよ」
困った顔をするフレイムに闇音が変わりに答えた。
「獣が生まれてすぐ立ち上がるのと同じです。私たちにとっては魔術とは腕を上げることとさほど変わらないのです」
グィンも頷く。
「だよねえ。魔術の使い方教えてって言われても困っちゃうもん。説明なんてしようがないし」
「そっか……」
だから学院で精霊魔術について学んだときもやたらと難解で苦しんだというわけだ。人間と彼らは違うのだ。
(ってことは、やっぱり俺は俺なりに頑張らなきゃいけないってことだよね)
膝の上に乗せた茶色のカバーの本を撫でる。
顔を上げれば、ザックが剣の修行を再開しているのが見えた。一心に剣を振るその瞳に迷いは見えない。他の事を考えている暇などないのだろう。
強くなりたい。
守りたいものを持っていて、想うことは同じなのだ。
フレイムは視線を上昇させた。
緑茂る向こうに蒼穹が広がっている。高い空を見上げ、フレイムは双眸を細めた。
(俺はみんながいるから頑張れる)
そしてまたザック、グィン、闇音を見る。
一人微笑む少年の頭上を、風に乗った鳥が高く舞い上がっていった。