廊下の影 8

 翌日の昼下がり。
「松之が出たんだってな」
 いつものように境内の掃除をしている松壱に、黒刀が話しかけてきた。
 箒の先を見つめたまま、松壱は答える。
「出たって……化け物じゃないんだ」
「でも、お前は化け物を見たときより怖かっただろう?」
 からかうような台詞。渋面を浮かべて顔を上げると、黒刀は別に笑っていなかった。
 思いのほか真摯な眼差しがこちらを見ている。
「……黒刀」
「何かあったら俺を呼べよ」
 黒刀は松壱の側に近寄りながら、そう告げてきた。
「お前には借りがある」
 借りとは幼少時、致命傷を負った黒刀に霊気を大量に分け与えたことを指している。
 松壱は眉を下げて小さく笑った。
「十分返してもらったよ」
 殊勝な態度に黒刀が薄く笑う。
「何を言ってるんだ。お前らしくもない。百倍にして返せと言ったのはお前だぞ」
 きょとんと松壱は黒刀を見た。
「……覚えがない」
「俺は覚えてる」
 きっぱりと答える黒刀に、松壱は思わず笑い出した。
「おい、笑うところじゃないぞ」
「だって、馬鹿だ。やっぱりお前は鳥程度の頭なんだな」
 黙っておけばいいのに。律儀に守ろうとする必要なんかないのに。
 呆れられて、黒刀は不満そうに眉を寄せた。
「俺は天狗だぞ。そこらへんの鳥と一緒にするな」
「鴉なんだろう?」
 不安感は笑い声をあげることで払拭されていく。黒刀の拙い言い訳に笑いながら、松壱は昨夜の恐怖を薄めていった。

「可愛い笑顔だねえ」
 神社の屋根の上から松壱と黒刀を見下ろしながら、玖郎が笑った。横で沖がむくれている。
「松壱もああいうふうに笑うんだな。僕に笑いかけてくれないのは、やっぱり時間の問題かなあ」
 幼少の頃から松壱と付き合いのある黒刀と、つい最近現れた玖郎とでは信頼度が違うのは歴然である。
「じゃあ、俺はどうなるんだよ」
 むっつりと呟く沖の背中を、玖郎は笑って叩いた。
「なに妬いてるんだ。お前は先代高嶺の世話をしていて、実質松壱と遊んでやってたのが黒刀君なんだろう? お前だってまだ足りないんだよ」
「……そんなの分かってるよ……」
 沖は膝を抱えて袴を握り締めた。分かっているから、自分も早くそうなりたいと思うのだ。
 松之が現れた以上、このままの平穏は続かない。沖はそう確信していた。
 眉間に皺を寄せている沖に、屋根に寝転びながら玖郎は気楽に言う。
「あんまり悩む必要はないんじゃないか? お前もいるし、黒刀君だっている。それに僕だっているんだからさ。……そう怖いものなんてないと思うけど?」
 気持ちよさそうに日光浴をしている大妖怪を見下ろして、沖はため息を零した。
(それもそう、かな?)
 確かに不安要素を打ち消すほどの力はあるかもしれない。
 沖は青く広がる空を見上げて、それから立ち上がると屋根から飛び降りた。足音に気づいて、松壱と黒刀が振り返る。
「俺も混ーぜて」
 にこりと笑うと、松壱が眉を寄せた。
「何に?」
「じゃれあい」
 即答して二人を指差す。
「じゃ、じゃれあってなんかねえよ!」
 普段は高嶺は高慢だのなんだのと吐いている黒刀が否定する。沖はにやりと笑って黒刀を肘で突いた。
「なーに言ってるの。まるでお兄ちゃんみたいな言い草しといてさー」
「おにいっ!?」
 ずさっと後退さる黒刀の頭上から、間延びした声が降ってくる。
「黒お兄ちゃーん」
 相手の神経を逆立てるのが目的としか思えない呼び方をして、空中から降ってきた玖郎が黒刀の肩にぶら下がる。
 案の定、黒刀は眉を吊り上げた。腕を振って玖郎を引き剥がそうとする。
「離せ!! この中年!」
「わっ、このスベスベお肌の美青年を捕まえて中年だなんて。酷いなあ、黒お兄ちゃんは」
「お兄ちゃんて言うなー!」
 二人のやりとりを見ながら、沖はけたけたと笑う。
「うーん、六百歳と一千歳超じゃ勝負にならないなあ」
「玖郎が中年じゃなくて青年だったらお前たちはどうなるんだ?」
 顎に手を当てて問うてくる松壱に沖は首を傾げる。
「うーん、少年? 俺、美少年?」
「お前はバカ狐。じゃあ、ユキは?」
「バカは余計でしょうも。幼女?」
 その会話に噴き出したのは玖郎だった。
「バカ狐って凄いなあ。馬鹿狐だよ? いや、まさに妖怪の代表だねえ」
「ああ、なるほど」
 松壱がぽんと手を打つ。
「そうか、だからお前は妖怪なのか」
「違う、違ーう。馬鹿はいらないんだってば!」
 首も手も振って否定する沖を黒刀が鼻で笑う。
「バカはその自覚がないんだぜ」
 きっと沖は黒刀を睨みつけた。
「なんだよ、背中に玖郎なんかくっつけてる黒刀にそんなこと言われたくないね!」
「なっ……この、離れろ! 玖郎!」
 べしっと額を叩かれて、玖郎はしぶしぶと黒刀を解放した。
「黒お兄ちゃんてばケチだなあ」
「お兄ちゃんて言うな。神域結界から強制排除するぞ」
 山の守護者の切り札を持ち出され、玖郎は笑顔で口を噤んだ。
 それらの下方で、ため息が漏らされた。皆が視線を下げるとそこにユキがいた。
「いやあねーもう。いい年してなんて恥かしい会話かしら」
 彼女は両手を上げて首を振り、それから四人の男たちを見上げた。
「あなたたちをユキが形容してあげる」
 どう形容するつもりなのか、思わず皆は黙って少女の言葉に聞き入った。ユキはまず自分の胸を指し、それから順に沖たちを指差した。
「ユキと愉快な仲間達」
 朗らかな笑みと零された言葉。
 ぴちちと小鳥が鳴いて、陽光にその影が舞う。穏やかな一瞬の後、色の違う四つの声が青空に響いた。
「違う!」