廊下の影 7

「沖か……」
 松之が振り返って、地面に手の平をついている玄狐を見つける。沖の手は鬼道を押さえていた。
 沖は冷や汗混じりに、立ち上がる。
「……ひー、間一髪。玖郎も黙って見てないで、動いてよね」
「いやいや、友人の息子に活躍の場を与えてあげようと思ってね」
 そしてにこりと愛情の感じられない笑みを返す。
 舌打ちをしたのは松之だった。
「相変わらず、生意気なガキだな」
 吐き捨てる松之に、沖は険悪な笑いを向けた。
「ガキだなんてよくも四百歳も年上に言ってくれるね」
「精神年齢の問題だ」
 松之はさらりと答える。玖郎が笑いを堪えるのを沖は睨んだ。
「そんなことより――なんで、ここにいるのさ。出て行ったんじゃなかったの?」
 六花が死んで、松壱が高嶺を継ぐ準備に入ったころ、松之はふらりと姿を消したのだ。
 松之はくたびれたジーンズのポケットに片手をつっこんだ。煙草を取り出して口にくわえる。
「何、そろそろ松壱が待ってるだろうと思って帰って来たのさ」
「俺はあんたなんか待ってない!」
 松壱が叫ぶ。
 松之は色素の薄い双眸を向けた。自信たっぷりに言い返す。
「嘘だな。お前の魂は俺を待っていたはずだ。お前は震えるほどに喜びを感じただろう?」
 松壱は拳を握り締めた。
 違う、と声を絞る。
「……まあ、いい」
 嘆息と紫煙を一緒に吐き出して、松之は空を見上げた。
「そのうち思い知るさ」
 月を見た瞳が松壱を映す。
「それがお前の業だ」
 松壱は息を呑んだ。
「俺にはあんたの方が業が深いように見えるけどね」
 沖は腰に手を当て、松之を半眼で見つめる。松之は笑って沖を見た。
「それはそうだろう。俺と松壱では勝負にならん」
 唇を歪ませる沖に片手を振って見せ、松之は煙草を吐き出すと足でもみ消した。ふと、思いついたように顔を上げる。
「そうだ、黒刀にもよろしく言っといてくれよ。『ただいま』ってな」
「断る」
 ぴしゃりと撥ね付ける沖に、松之はそれ以上何も言わなかった。ただ、冷たい笑みをその狐に向ける。
「行くぞ、是炬(ぜこ)
 彼がそう呟くと同時に、何もない空間から一人の若者が現れた。松之の背後に降り立つ。真っ白い髪に赤い瞳、尖った耳と額の角が彼が鬼であることを示していた。
 鬼は松壱を睨むと、その袖を一振りした。音もなく松之と鬼の姿が掻き消える。
「空間移動か。鬼が使うってことは鬼道を利用しての地点と時点の転換かな?」
 冷静に分析してから玖郎は、落ち込んでいる様子の二人を見た。それから両手を上げてみせる。
「とりあえず鬼門が開くことは防いだんだし、喜んでいいんじゃないかな?」
「松之、鬼を使役してるんだね……」
 ぽつりと呟く沖に玖郎は片眉を上げる。
「松壱は玄狐を使役してるけどね」
(しかし、さっきのは契約していると言うよりは……鬼のほうから松之を慕って協力してるって感じだったよな)
 美しい鬼だった。術を使う際に見せた妖気からして、並みの者ではないだろう。
(あれほどの鬼を人間が従えることが出来るだろうか……)
 玖郎は松壱を見つめた。
 答えは、「出来る」。
 あの松韻の血に連なる者達だ。
(『鬼をも惑わす――』か)
 玖郎は息をつくと、うつむいている松壱の肩を叩いた。
「松壱、大丈夫かい?」
「……『糸』ってなんだ?」
 松壱は睨むように玖郎を見上げた。何のことかと沖は眉を寄せる。
 玖郎は笑みを消した。松壱がその服を掴む。
「あいつが言ってた『糸』とか『奴』とか、なんでお前は分かるんだ?」
 口早に捲くし立ててくる契約者に、玖郎は落ち着くように両手で抑えるような仕草をして見せた。
「まあまあ。僕は一千年も生きてるわけだし、松壱より物知りなだけだよ」
「……じゃあ、教えろ。あれはどういう意味だったんだ?」
 あの時、こちらを見た松之のあの笑みが、松壱の頭から離れようとしない。とても嫌な感じだった。
 玖郎は首を振る。
「答えられないね」
「どうしてっ――」
 責め立てようとする松壱の額を、玖郎が指先でとんと突く。
 そのまま気を失って崩れ落ちる青年を片腕で支え、玖郎は答えた。
「君がそう興奮しているからだよ。立っているのもやっとだろうに、無茶しいだね」
 二人のやり取りを黙って見ていた沖が近寄ってきて口を開く。
「……糸で特定の誰かと繋がれていれば、必ず近くに転生する……」
「そうだ」
 玖郎は頷く。沖は不吉そうな面持ちで首を傾げた。
「ねえ、松之は誰と繋がってるの?」
 沖の青い双眸から視線を外し、玖郎は目を閉じた。
「例え、お前が高嶺を守る契約をした者だとしても……そこまで関与してはいけない」
 運命は当事者にすら見えないものだ。
 松之とて糸が視えているわけではない。ただ、彼は知っているのだ。自分に糸がかけられたことを、かけた相手のことを。
 しばらく難しい顔をしていたが、やがて沖は息を吐き出した。
「……そうだね」
「じゃあ、帰ろうか」
 松壱を抱えて、玖郎が促す。沖は頷いて歩き出した。

 強制的な夢の中で松壱は「声」を聞いていた。
 ――やっと見つけたぞ。嬉しいことだ。
(嬉しい?)
 ――待っていた。
(俺は……俺は待ってなんかいなかったのに……)