肩こりの少女 2

 さて、どうしたものか。
(行くなら行くで作戦を練ってからにしろよな……)
 心中でそう零して、松壱はひとつため息をついた。
 黒い狐。四百年、この高嶺神社で暮らしている妖怪。ふらふら出歩くご神体。どう言い換えようとしても、あの狐を敬うような単語は出てこない。
 沖の顔を思い出し、無意識にもう一度ため息をこぼす。
 人間に甘い、お人好し――いや、お狐好し。
(……仕方ない……)
 松壱は神社の裏に向かった。生い茂る雑木林の前に立つ。
 揺草山は小さな山だが自然が多い。人間が作った書類の上ではそのすべてが高嶺の所有物で、山を切り開くことを代々の宮司が拒んできたのだ。
 おかげでこの山にはいまだに妖怪たちが生活している。最近では住処を追われて棲み移ってきた者もいるくらいで、むしろ妖怪は増えていた。それに沖も毎朝この森に散歩に出て行くくらいなのだから、よほど居心地のいい状態なのだろう。
 ――というか、そんな沖を見ていると、この山の自然は彼のために残されたのではないかと思えてくる。
(……つまり、俺の先祖はそれだけ沖が可愛かったってことだよな……)
 あんな生意気な狐のどこがいいんだか……。なんとなく、肩に虚脱感を覚えながら松壱は森の奥を見つめた。
 あれは今日ここに出ているはずだ。息を吸い込む。
「ユキ!」
 声は木々の間に吸い込まれていく。間もなく風が吹いた。葉を舞わせながら遠くからこちらへと向かってくる。松壱はそれがやってくるのを待った。
 やがて近くの草むらががさがさと音を立てる。最初に見えたのは銀色の獣の耳だった。続けて、幼い少女が葉を掻き分けて姿を現す。
「呼んだ? 高嶺?」
 背の高い青年を見つけて、首を傾げてみせる銀色の狐の妖怪。頷いてやると、少女は尻尾を振りながら辺りを見回した。
「……沖様は?」
 呼び出した本人はちゃんといるのに、沖を捜すのか。松壱はうんざりしながら答えてやった。
「出掛けてる」
「えー、なんで置いてくのー。高嶺、ちゃんと呼んでよ」
 何で俺が呼ぶんだと松壱は小さく呟く。
 この幼い狐の妖怪は沖の扶養家族である。交通事故で母を失い、さ迷い歩いて倒れていたところを沖が拾ってやったのだ。それ以来、ユキと名乗ったこの少女は沖を慕い続けている。
「じゃあ、今からでも追いかけてこいよ」
 言って、鳥居の方を指差す。
「町へ降りた。今頃、鬼付きの女を捜してるはずさ」
「え? 鬼付き?」
 きょとんと首を傾げるユキに松壱は肩をすくめて見せた。
「そう。またいつものおせっかい」
「えーっ」
 不満の声を上げて、また沖様は……とユキがごちる。それから彼女は松壱をきっと見上げた。
「なんで止めないのよ」
「止めたさ」
「どうせまた『行くな』とか『バカ』とかしか言わなかったんでしょー。そんなんで沖様が聞くはずないじゃない」
 意外と鋭い指摘に松壱が片眉を動かす。沖のこととなると強いこの仔狐は腰に手を当てて、眉を寄せた。
「沖様のこと心配じゃないの?」
 ユキの問いに、松壱は視線を空へ投げ、それからもう一度彼女に向き直った。
「心配してるさ。あれがいないとうちは商売上がったりだ」
「もー、沖様をなんだと思ってるのよ」
「ご神体、もというちの大事な客寄せマスコット」
「沖様はマスコットなんかじゃないわよっ」
 ぷいっと顔をそむけるユキに、松壱は苦笑を漏らした。
「理由は何であれ、心配はしてるんだ。お前、あいつを見張ってろよ」
「高嶺みたいな外面ばっかりいい守銭奴神主に言われなくったって、ユキは沖様を傍でサポートするわよ」
 実際、沖を補助するほどの能力がこの少女にあるわけではないのだが、何かあったときの連絡係としては十分だろう。
「じゃあ、頼むぞ」
 いつもの営業用の笑みを見せて、松壱はユキの頭にぽんと手を置いた。ユキが緑の双眸を細める。
「……あいかわらず胡散臭い笑みねー。なんで人間はこれにだまされるのかしら」
 少女の疑問に、松壱はさあなと軽く答えてやった。
「まあ、いいわ。ユキは沖様のところに行くわ」
 嘆息混じりにそう言って、とぼとぼと鳥居のほうへ歩き出す。それを最後まで見送らず、松壱は落ち葉掻きを再開した。
 だが、すぐに視線を感じて顔を上げる。鳥居の傍でユキがこちらを見つめていた。
 松壱が怪訝な顔をすると、少女は口を開いた。
「本当は、本当に心配してるんでしょ?」
 思わせぶりな言葉で、ユキは続ける。小悪魔的な笑みを浮かべて。
「だってそうじゃなきゃ、わざわざ私を呼んだりはしないもんね?」
「別に……」
 松壱が反論しようとするが、ユキはそれを遮って笑った。
「ひねくれた愛情ねー。素直にならないと、沖様に愛想尽かされちゃうわよ」
「ばっ」
 バカ言うなと、松壱がみなまで言う前にユキは石畳を蹴った。沖同様に、石段を一段ずつ降りるようなことはしない。ただし、彼女の場合は最下段までに二、三歩を要する。
 逃げるように去っていった少女に、松壱はまたため息をついた。
(バカ。本当に心配なら自分で行くに決まってるだろう)
 誰もいない鳥居に向かって無言で告げ、そして彼は再び掃除に取り掛かったのだった。

 紺色のブレザー。
 羽山優の通う学校を見つけて、沖はその前で足を止めた。
 終業したのだろう。帰る者と、運動着姿でどこかへ走っていく者、校舎内にまだ残っている者など、その動きはばらばらだ。夕日に染まったグラウンドは人が多いのにも関わらず、見る者にどこか寂寥感を与える。
 しばらくそれらを見つめてから、はたと気づいて沖は頭を掻いた。
(よく考えたら、優は俺のところに来たんだから、もう学校は終わってたんだよな……)
 優はすでに学校にはいない。つまり彼女の自宅を探さなければならないのだ。
(右かな、左かな)
 校門の前で左右を見比べる。
「あの……道に迷われたんですか?」
 背後から声がかかり、沖は振り返った。声の主は眼鏡をかけた少女で、遠慮がちにこちらを見上げている。紺の制服、学生だ。
「いや、迷ってはいないんだけど……ああ、羽山優って子の家知ってる?」
 尋ねてみると、少女はわずかに眉を寄せた。
「……彼女に何か?」
 警戒されてしまった。そのことを悟り、沖は唇を曲げた。不用意に少女の名前など出すべきではなかったかもしれない。
(そりゃ、そーだよな……)
 しかし「彼女」と言った。この眼鏡少女は優の知り合いなのだ。沖は気まずそうに手を振ってみせた。
「ああ、ええっと、俺、高嶺っていうんだけどさ……」
「あ、神社の方ですか?」
 思い当たるところがあったのか、すぐに少女が聞き返してくる。沖はきょとんと目を瞬いた。
 優はこの眼鏡少女に神社に行くことを話していたのだろうか。
(でも……ネクタイの色が違う。そりゃ、後輩や先輩に話しても構いはしないけど……)
 沖は水色の双眸を細めた。まさか、と思う。
「……そうだけど」
 肯定すると、途端に場の空気が変わった。
 不穏な空気が辺りを覆い、足元に生ぬるい風がまとわりつく。沖は素早く身構えた。
 少女の眼鏡の下の瞳が金に光る。ついで彼女の口から漏らされたのは低い男の声だった。
「どこの下賎だ、おぬし……」
 しゃがれていて、どこか深いところから響いてくる不気味な声。
 沖は思わず口元を歪めた。やはり。
 鬼だ。
 自分が人でないことは最初からばれていた。それでこの鬼は話しかけてきたのだ。
 鬼は予想通り強い妖力を持つ大鬼であった。人間の姿をしているにも関わらず、周囲の空気が圧迫感を伝えてくる。こんなところで戦うことになれば、近くの学生も巻き込まれてしまう。
 沖はゆっくりと口を開いた。
「……妖狐だ」
「妖狐? 神社の使い魔ではないのか……?」
 答えると少女姿の鬼が眉を寄せた。沖をじろじろと見やってから再び口を開く。
「祓いではなく、餌の横取りが目的か?」
 どちらにしろ不愉快そうに問う。沖は媚びるような笑みを見せてみた。
「横取りなんて……飽きていたら譲ってくれないかなーなんて……」
 狐の申し出に、鬼はふんと鼻で笑って返した。
「たとえ飽きていたとしても、狐なんぞにくれてやりはせんよ」
 腕を組んで、高慢な視線で沖を見やる。
 妖気が少女の周りで渦巻いた。双眸の輝きが増す。ぶわっと吹き付けた風に沖は思わず顔を覆った。
「立ち去れい。妖狐如きがいつまでも私の前に立つな」
 尊大な声は自信に満ちている。よほど位の高い鬼か。
 沖はぱっと跳んで後ろへ下がった。くすりと笑みを浮かべる。
「では、失礼」
 短く答えて、姿を消す。
 狐の消えた後を見つめて、鬼は腕組を解いた。
(……逃さず喰ってしまったほうがよかったかのう……)
 なかなか美味そうな狐ではあった。それに下手な態度を取って見せてはいたが、決して揺るがない青い双眸が癇に障りもした。黙って帰す必要はなかったかもしれない。
(ここらでは見かけぬ顔だったが……高嶺を名乗ると言うことは、揺草山の妖怪か……)
 取り憑いている女は、母に揺草山にある高嶺神社に行くと話していた。その山で彼女を見かけた妖狐が生気欲しさについてきた――大方そんなところだろう。
 所詮雑魚よ、と呟いて鬼は羽山家へと足を向けた。

(雑魚呼ばわりとは失礼な奴だな……)
 沖は電柱の上に立ち、頭の中で抗議した。
(高いのは位じゃなくて気位だったかな)
 眼鏡をかけた少女の姿をした鬼の後姿を見つめて、沖は皮肉げに笑みを浮かべた。
 優に自分のおまけで憑いていた小鬼――これは妖力が乏しいために神社の聖域にも入れた――、それがなぜいなくなっているのか、大鬼は考えるだろうか。
 神域で似非神主にでも祓われたのだろうとでも、思うのだろうか。
 夜の始まりの風が、沖の短い髪を揺らす。電柱に直立したその姿は、夕日の逆光を浴びて、あたかも黒い獣のようである。
 しなやかなその影は、電柱から電柱へと飛び移った。
 鬼はおそらく羽山優の家へ帰るだろう。目を覚まし始めた闇に混じるように気配を消し、沖は彼女のあとをつけた。