肩こりの少女 1

 揺草山と呼ばれる山に高嶺神社がある。そこはご神体として「御狐様」をまつっており、願うと悩み事が解決するという評判だ。
 町のはずれにある長い長い石段、それを昇るとまず赤い鳥居が見えるだろう。それをくぐり、そのまま真っ直ぐ進めばお社だ。途中、狐の石造なんかが置いてあったりする。
 もしよく分からなければ、近くにいる男に聞けばいい。この神社の神主で、きっと人のよい笑みで案内してくれるだろう。実際、参拝客の中には彼の笑顔が目当ての女性も少なくはないと言う噂だ。
 そうして今日も悩める乙女が一人、社の前で手を叩く。
 ショートヘアで、笑えば可愛いだろう普通の少女である。紺のジャケットに緑のネクタイリボンは、ふもとの町の高校の制服だ。
「オキツネ様、最近肩こりがひどいんです。助けてください!」
 ずるっ。
「……何か滑った?」
 奇妙な音に目を瞬く。布の擦れる音だった気がする。そしてそれは目の前の社の中から聞こえたようだった。
(やだ、神主さんでもいたかしら)
 少女は口元を手で覆って軽く頬を染めた。
 しかし実際、悩みは深刻なのだ。肩は重く、きつくて勉強にも身が入らない。湿布を貼っても、母にマッサージをしてもらっても、肩の凝りは治らない。かと言って専門職に払うほどの小遣いはない。
 だめもとでの神頼みである。
 中に人がいても構うものか。彼女はもう一度声を上げた。
「本っ当に辛くて仕方ないんです!」
 言い切って、ふうと息をつく。
 そこへ風が吹いて落ち葉が舞った。爽やかで心地のよい風に少女は目を閉じた。
「君、口は堅い?」
 風に紛れて声。
「……え?」
 少女は目を丸くした。誰の声なのか。
「まあ、そういう目はしてるかな」
 再び響いた声に、少女は何度か瞬きをして社を見つめた。中から声が聞こえた気がする。そしてそれは男の声だった。
(やっぱり、誰かいる?)
 訝しげに見つめていると、かたんと音がした。続けて軋んだ音を立てて、木の格子扉が開かれる。
 少女は言葉を失った。
「これから見ること聞くこと、誰にも口外しちゃいけないよ」
 中から現れたのは青年だった。
 年の頃は高校生か大学生くらいに見える。黒い髪を腰よりもさらに下に垂らし、袴をはいている。ふわりとまとった沙は手触りがよさそうだ。
 だが、注目すべきはそんなところではない。
「耳……」
 呆然と呟く。
 青年の頭には黒い、獣の耳が生えていた。
「肩こり、ね」
 少女の言葉を無視し、呆れた口調で呟いて、青年がこちらを見つめる。澄んだ水色の瞳。
「あの……あなた誰ですか?」
 口にしながら、それはなんだか間抜けな質問に思えた。尋ねられた青年もそう感じたらしい。片眉を動かして、笑う。
「肩こり治してあげるよ。なんだか深刻そうだし」
 質問の答えにはなっていないが、それで十分だった。
「オキツネ様?!」
 思わず声を大きくする。
「ああ、待って。声が大きいのは勘弁」
 眉を寄せて青年が黒い耳を押さえる。やはり人間よりもよく聞こえるのだろうか。
「え、……ほ、本当に? あれ、でも、耳、黒いですよ?」
 狐の耳は狐色――つまり黄色っぽいものだというのが少女の思い込みであった。
 だが目の前に立つ自称オキツネ様の耳はふさふさと、黒い。うなずいて、青年は自分の胸元を指した。
「ん、俺はね、玄狐(げんこ)。黒い狐なんだ」
 少女は首を傾げた。
「そんなのいるんですか?」
「や、聞かれてもそれ俺だし。まあ、珍しいことに間違いはないんだろうけど?」
「天然記念物?」
「いや。ていうか、たぶん公式記録にはないと思う」
 青年は自分のあごを撫でて小さく首を唸った。
「妖怪だし」
 開いた口がふさがらないとはよく言ったものだ。
 オキツネ様は実際に存在し、しかもその正体は妖怪だという。
 祈願成就の神を頼りにして、あの長い石段を足を棒にしながら昇ってきた自分。そして自分と同じようにしただろう多くの人――。神は姿が見えないからこそ自分の良いように期待を持てるのであり、それが「妖怪だし」なんてあっさり言葉を発するような青年ではダメなのだ。
 少女は自分の中の今まで信じていた何かが音を立てて崩れていくような気がした。
 その彼女の横をふわりと青年が横切る。体重を感じさせない動作。とん、と足袋を履いた足が地面につく。
 思わず少女は硬直した。
 今更だが、そばで見る青年は驚くほどに美しかった。黒髪は艶やか、長い睫毛はうらやみたいほどである。造作については文句の付けようもない。切れ長の瞳は澄んでいて、口元に浮かべた笑みは清楚というか、どこか上品な感じがした。
 妖怪というよりも、やはり神様のほうがしっくり合うと少女は思った。崩れたものが再生していく。
「小鬼かな、これは」
 狐は少女の顔の横をまじまじと見つめる。
 それから彼女の肩の上でひょいと「何か」を摘む仕草をした。少女には「何か」は空気にしか見えなかった。摘んだ空気をもう一方の手の平の上に載せ、笑う。
「軽くなった?」
「え……あ、ほんとだ」
 少女は肩をまわした。冗談のように軽い。
「すごい……わあ! 本当にすごい」
 狐は満足そうに頷いて見せた。
「肩に妖怪がのってた。悪い奴じゃないんだけど、やっぱり人間には重いかな」
 少女は青年の手に目をやった。
「そこに、いるんですか?」
「ああ。見えたりはしない? 小さな鬼なんだけど」
 尋ねて狐は片手を上げて見せた。のせている物を落とさないようにする手つき。少女はじっと目を凝らした。
 手の平の上にぼんやりと。
「言われてみれば、いるような……? あれ? なんか太ってる?」
 ふと、狐が目を細めたような気がした。何かを図るように。
 少女が小さく首を傾げると、狐はもう一方の手を振った。
「まあ、いいや。とにかく、これで大丈夫だから」
 不思議に思いながらも少女はとりあえず肩こりが治ったことを喜んだ。
「はい、ありがとうございました」
 笑って礼を言う少女に狐は頷いて見せた。
「名前はなんて?」
「あ、優です。羽山優」
「じゃあ、優。もう妖怪なんてくっつけるんじゃないぞ」
 狐は笑って優の頭を撫でてやった。優しい手つき、昔は父にもよくこうしてもらったことを思い出し、優は目を閉じた。
 そして不意に思いつく。優は遠慮がちに口を開いた。
「オキツネ様は? ちゃんとした名前、ありますか?」
 狐はきょとんとして、それから微笑んだ。
「身内には沖って呼ばれてる。オキツネのオキ」
 意外と安易な名前だと思いながら、優は頭を下げた。
「沖様、ありがとうございました」
 さよならと付け足して、来た道を引き返し始める。
 狐が見送っている気配があったので、振り返ってみる。すると沖は笑みを返してきた。
 嬉しくなって、優は足取りも軽く長い石段を降りていった。

 少女の姿が見えなくなってから、沖は指先で頬を掻いた。
「沖様、ね」
 そう呼ぶ者は滅多にいない。彼女を合わせてやっと二人。
 自分を敬う大抵の人々は沖という名を知らないし、その名を知る者は敬ってはくれないのだ。
「沖!」
(ほらな)
 背後から響いた声に振り返る。声の主はどうやらずっと裏の庭にいたらしい。
 視界に入ってくるのはすらりと背の高い青年。日本人にしては淡い髪の色をしており、箒を片手にこちらを睨んでいる。この神社の宮司である高嶺松壱(たかみねまつひと)だ。
 爽やかな笑みで評判の神主だが、その実彼が神社のご神体である沖に微笑みかけることなど皆無に等しい。つまり外面だけは立派な神主だということだ。
「何? マツイチ」
 あだ名で呼んでくる狐に、松壱は不機嫌そうに眉根を寄せた。
「何であんな簡単に姿を見せるんだ。バカ狐」
 叱咤の言葉に沖は眉を寄せた。
「あの子は大丈夫だよ。言うなと言われれば、言わない」
 それから手の平にのせた小鬼を松壱に見せる。
「それに放っておけない。こいつはずっとあの子の生気を食べてたんだ」
 優には害はないといったがそれは嘘であった。
 ぷっくりと顔を丸くした鬼。餌がなくなったうえに、妖狐に捕らえられて冷や汗を流している。
「お人好しめ」
 松壱が呻く。
「それがいるってことはもっと大物がいるってことだろう。あの女の傍には」
「そういうことになるね」
 沖は頷いて、手の中の太った小鬼に視線を落とす。この妖力も乏しい小鬼は普段は大鬼など格の高い鬼についてまわり、そのおこぼれに預かるのだ。
 では、この小鬼の宿主は今どこにいるのか。
(優の家、かな……)
 妖怪としての視点から見れば、優は美味そうな人間であった。若く健康で、明るい性格の少女。
(それに俺の気配も分かるほどの霊力を持ってる。小鬼だってその気になれば見えたんだ……)
「沖」
 思考を邪魔する呼び声に沖は顔をしかめた。松壱もまた渋面を浮かべている。
「神社からは出るな」
「なんだよ、それ」
 沖は片目を細めて、宮司を睨んだ。松壱は動かない。
「どうせ女を助けに行こうとか思ってるんだろう。だめだ」
「見捨てろと言ってるの? このままじゃあの子は死ぬ」
「死ぬとは限らない。食い尽くす前に妖怪のほうが飽きるかもしれない。むしろそっちの可能性が高い」
 松壱は沖に近づいた。相手の胸元に指を突きつけながら続ける。
「だが、お前が手を出せば、間違いなく相手は反撃してくる。危険は増すんだ」
「少しでも彼女に害があるなら俺は放っておかない」
 ありがとうと言った声が耳に残っている。
 妖怪である沖を見ても怯えない、命のあるがままを受け入れることのできる少女だ。今ではもう少なくなってしまった清らかな心。
 二人はしばらく睨み合った。どちらにも譲る気はない。
 その間を風が吹き抜ける。集めた落ち葉が舞い、松壱は思わず渋面をひどくした。
 と、視界に沖の紗が広がる。
「沖!」
 松壱は制止の声を上げた。
 ふわりと鳥居の傍まで跳んだ沖が振り返る。
 黒髪はすっかり短くなり、狐の耳も人間の耳に変わっている。着物は白いパーカーとジーンズに。清流の瞳だけをそのままに、狐は人間の若者の姿に変わっていた。
「出かけてくる」
 笑って、また跳ぶ。
 微笑は十分に魅力的だったが、松壱は罵声を発した。
「この、バカ!!」
 箒を振るが、沖は振り返らない。石段を軽やかに飛び越え、一気に数十メートル下の地面に到達する。
 周りに木々の生い茂った暗い石段。下からでは頂上にいる宮司の姿は見えない。
 自分の跳んだ高さを確かめるように振り仰いでから、沖は町へと向けて足を踏み出した。