薔薇の下 11

 白い天井、白い壁。遠近感に乏しいその室内は常に清潔に保たれていた。
「……ジィルバ」
 クラングは呟いて、眠っている青年の銀の髪に触れた。
 軍の医務室である。
 背後のカーテンを巻くって、一人の女性がため息をついた。
「見つけた。サボらないでくださいよ、大佐」
 ブルーメン少佐に囁きに、クラングは振り返らずに微笑を浮かべた。
「勤務時間外だろう」
「断罪の天使のことで他の者は皆働いてますわ」
「……頼むよ」
 ブルーメンはカーテンから手を放した。
「はやく戻ってくださいね」
 布の向こうからそう声が響き、足音が遠のいていく。
 気配が消えて、クラングは嘆息した。ジィルバのほうに視線を戻す。
「……あの金髪の天使……、リヒトと言ったかな。隔離保護してある」
 銀の瞳がゆっくりと開かれる。
「……あいつを匿ったのは俺だ。……隔離などせず、もとの施設に戻してくれ」
「……ふむ? それでいいのか?」
 いつもより白い顔をしてジィルバは口元に小さく笑みを浮かべた。
「そうでなければ、殺すんだろう? どうせ天使だから」
 クラングは軽く首を振ってみせた。
「まさか。救済の天使を理由なく殺せば問題になる。脱走天使だから隔離だってできるんだ」
「……問題を揉み消すほどの力を持っていてそれを言うのか。お前は、殺せる人間だよ」
 青い瞳を細めて、クラングはジィルバの頬に触れた。こちらを見つめるように力を入れる。
 抵抗するわけでもなく、ジィルバは静かに黒髪の男を見上げた。
「私に逆らわないでくれ」
 クラングがジィルバに外傷を与えたのは初めてのことだった。それはつまり、ジィルバがクラングの命令に逆らったのが初めてだということでもある。
「君は美しい。翼を失ってなお、天使よりも神聖だ」
「……言いたいことが分からない」
 逆らうことはなくても、この銀の瞳が服従することは一度もなかった。
 クラングは目を伏せた。
「悲しいことだがね、結局私は君を力でしか縛れないんだよ」
 ジィルバは自分の頬に触れるクラングの手を取った。
 今までなかったことに、男が目を見開く。
「……縛ろうとすれば、人は逆らうものだ」
 その静かな声は、舞う花びらのようにクラングの耳を撫でた。
 花びらは白く、清楚だった。
 ――ジィルバにあの壮麗な翼が生えていたなら、自分はおそらく相手が男であることにも構わず恋に落ちていただろう。
 澄んだ銀の瞳。
「……あ……、ああ……」
 クラングは青い目を左右に動かしながら、うつむいた。ジィルバから手を取り上げて、口を覆う。
(翼がなくても……? ……それは……病気だ……)
 平常心を取り戻そうと、二度ほど深呼吸をする。
 それからクラングは眉を下げた。
「言うことが、随分と天使じみている気がするが?」 
 ジィルバは視線を動かして、屋内では見えないはずの天を仰いだ。
 ゆっくりと口を開く。
「そうだな。……やはり、そういう性分なんだろうな」
 天使だから――……
 涙が出そうだった。
「……また一人殺した……」
 手の甲で顔を覆う青年を見下ろして、クラングは膝の上で手を組んだ。
「それでも、あの銃を他人に託す気はないのだろう?」
「……ああ」
「天使の後始末は、天使である自分がする。そう決めたのだろう?」
「ああ、そうだ」
 ジィルバはゆっくりと手を掲げた。
 光らない、手。
「天使が歪めたこの世界……。俺は現れる悪魔をすべて滅ぼす」
 クラングは促すように首を傾げた。
「悪魔ならばあの銃でなくとも殺せるだろう」
「……大天使が斃(たお)れて、天使の役割は終わった。これ以上、無駄な足掻きをする天使は悪魔と同じだ……。何も分かっていない、この世の歪みだ」
「……なるほど」
 頷いて、ふと窓に目をやる。
 すでに夜は明けて、外は明るい。ここ十年、何の変わりもない朝だ。
「悪魔と考えても、殺すのは悩むか。……やはり、君は天使なのだな」
 ジィルバは上体を起こした。左足の太ももに痛みが走るのを堪え、クラングの視線を追って外を見やる。
 明るい青空は金髪の天使の瞳を彷彿とさせた。
「クラング……」
 名を呼ばれて、男が振り返る。
 朝日の逆光を浴びる上官をジィルバは見つめた。
「……軍を辞めたい」
 一言紡ぐ。
 クラングは目を見開いた。青い双眸に驚愕がありありと浮かんでいる。
 長い沈黙の後、クラングは唇を震わせた。
「……今、逆らうなと命じたばかりだぞ」
「……すまない」
 ジィルバは目を伏せた。
 忘れたい過去がたくさんある。それらはすべて薔薇の下に埋めたつもりでいた。
 埋めたつもりで、自分はその棘のある茎を掻き分けていたのだ。手を血で汚しながら。
「天使は間違っていた……。軍に力を貸したことに悔いは、ない」
 翼を捨て――天使の力を捨て、人間とともに大天使を目指した。銀の銃を手に、断罪の天使を退けながら。
 だが、純白の宮殿、翼を大きく広げた大天使を前に、ジィルバは動けなかった。
「悔いはないのに……、大天使が倒れる瞬間を忘れられない……」
 舞い散る白い羽根。
「……軍人ではなく、個人として悪魔の処理にあたりたいんだ……」
 クラングはジィルバの手を取った。眉を寄せて、苦渋の表情を見せる。
 ジィルバが罪悪感に苛まれていたことは知っている。体温を調節できず、高熱を宿す体は、まるで灼熱の業火で焼かれているようだった。
 それを知っていてなお、今まで自分の配下に置いていた。
「……考え直せ」
 じっと訴えるように見つ返してくるジィルバに、クラングは首を振った。
「私情だけではない。UR……軍の内部処理を行っていた君を、私の独断で辞めさせることはもう……できないんだ」
 ゆっくりと言葉を紡ぐクラングを見つめながら、ジィルバは瞳を揺らした。
 上からの許可が下りない。では、軍を抜けるためには脱走しかない。だが、それはリスクが大きい。
 視線を落とした青年に、クラングは苦しげに漏らした。
「……君の翼をもいだのは、私たちか……?」

      *      *      *

 病室は静かだった。
 定時に医療班の者が具合を尋ねに来るくらいだ。クラングもたまに菓子やら持ってやって来るのだが、大抵はすぐにブルーメンに連行されていってしまう。そうしてたまった菓子箱がサイドテーブルに山を作っている。
 ベッドに腰掛けたまま、窓の外をぼんやりと眺める毎日。
 その間、ジィルバはずっと軍でのこれからの自分のありようについて模索していた。
 悪魔を処分するには、悪魔に関する情報が最も速く正確に伝わる軍部にいることは、とても効率のよいことだと言える。
 だが――。
 大天使は美しく気高い人だった。彼でもあり、彼女でもある彼(か)の人は神のために人界を清く保とうと、誰よりも心血を注いでいた。
(……俺は愚かだ。人間の味方をしておきながら、後悔している)