薔薇の下 12

 隔離施設から一般保護施設に戻されてしばらくたった後、第三司令部から呼び出しがあった。リヒトは不安で胸を塞ぎながら、闇の中で見ただけだった要塞に足を踏み入れた。
 施設の職員に連れられて、長い長い廊下を進み、階段を上る。不思議な世界だった。誰もが灰色か黒の軍服に身を包んでいて、立ち止まって見慣れない挨拶を交わすのだ。軍も、外界とは違うところなのだとリヒトは感じた。
「入りなさい」
 大きく頑丈そうな木の扉の前で、職員が声をかけると穏やかな声がそう指示してきた。
(……大佐だ)
 その美しいけれど、身を切るように冷たい双眸を思い出して、リヒトは息を呑んだ。
 扉が開かれて一番初めに目に入ったのは、床一面を埋める赤い絨毯。それから真っ直ぐに上昇した視線の先にヒンメル大佐はいた。
「久しぶりだね」
 金髪の少年天使を見て、クラングはそう告げると、付き添いの職員に部屋から出ておくように指示をした。リヒトの背後で扉が閉められ、静寂が残された二人の間に漂う。
 居心地悪そうにする少年に、やがてクラングは嘆息した。
「……なぜ、今頃呼び出されたと思う?」
 どこか投げやりな感を含む声色に疑問を覚えながらも、リヒトは小さく答えた。
「施設脱走の件の処分が決まったから……ですか?」
「……普通はそう思うな。ああ、私もそうしたいところだよ」
 さらには肩までも落として、クラングは側に置いていた書類を片手に持って振って見せた。
「特別外出許可証だ」
 一瞬、大佐の言葉の意味が分からず、リヒトは目を瞬いた。
「……え?」
「まったく、何で私がこんなものを拵(こしら)えなくちゃならないんだ」
 ぶつぶつと呟きながら、クラングはさもどうでもいいように紙片をリヒトのほうへ投げやった。反射的に腕を伸ばしながら、紙面を読み取り、リヒトは驚愕に目を見開いた。
 許可される者として書かれた自分の名前、施設登録ナンバー、許可期限、注意事項……そして――
 監視員、ジィルバ・ヴァント。
 両手でしっかりと許可証を受け止め、リヒトは何度も見直した。
「驚いているだろう? 私だって信じたくないさ。足まで撃たれておきながら……、どうも彼は痛覚が鈍いらしい」
 両手を広げて、クラングは首を振る。
「女性陣からの憎悪のオーラを謙虚に受け取りたまえ――、一日デートのご指名だ」
「えぇっ!? あ、あの、どういうことですか?」
 あわあわと呂律も怪しく問うと、きっと鋭い視線を向けられた。思わず後ずさりをする。
「私が知るものか。私の仕事はその書類にサインをするだけだ。分かったら、さっさと出て行いけばいい」
 そしてぷいっとよそを向かれて、リヒトは彼が悔しくてならないのだということに気づいた。
 重傷を負わせてまで、天使と関わらせまいとした部下が、天使の外出許可を求めてきたのだ。やり切れぬ思いであることは、リヒトにも容易に知れる。
「えっと……、あの、どうもありがとうございました。……じゃあ、失礼します……」
 いいのかなーと思いつつ、ぺこりと頭を下げ、扉に手をかける。その瞬間、挑戦的なクラングの言葉が背中に突き刺さった。
「存分に、楽しんできたまえ」

 ばくばくと緊張しきった心臓を押さえながら、大佐の執務室の前でリヒトは息を吐き出した。
 手の中の白い紙に目を落とす。
(なんだって、ジィルバさんはこんなもの……)
 今更、なんの用だというのか。施設へ帰れと言ったのは彼のほうである。
「……もう、おかげで大佐さんには睨まれちゃうし」
「……睨まれたのか……」
 ぽつりと呟く声。
 リヒトはぎょっとして顔を上げた。灰色の軍服。綺麗に梳(くしけず)った銀髪。そして、見下ろす銀の瞳。
「ジィルバさん!?」
 思わず叫ぶと、ジィルバはわずかに顔をしかめた。高い声が耳ざわりだったらしい。その様子にむっとして、リヒトはわざと甲高い声で問いながら、書類を相手の胸板に押し付けた。
「これ、なんですか? 今更僕に何の用があるんです?」
 頬を高潮させた少年に、ジィルバは苦笑した。許可証を落とさないように押さえながら答える。
「ああ、急ですまないが少し付き合ってくれ」
「な、なんで、僕が……」
 相手の笑みに怯みながらも、反論しようとする。しかしジィルバは少年の頭に手を置いた。
「嫌だなんて言うなよ? 俺だって、散々クラングに嫌味を言われたんだからな」
 頭を押さえる手に圧迫感を覚えながら、リヒトはしぶしぶ頷いた。満足そうに笑む青年を見上げて、リヒトはせめて一言放った。
「ジィルバさんて、結構卑怯ですよね」

      *      *      *

 少年天使が出て行った後、一人になったクラングに将軍の元へ来るように連絡が入った。
「こんな依頼が来たぞ」
 そう言って白髪の混じり始めた将軍はクラングに数枚の書類を渡した。受け取り、目線を文面に走らせて、クラングは眉を寄せた。
 恰幅のいい将軍が器用に片眉を上げてにやりと笑う。
「さて、どうする?」
 第三司令部を統括する男の問いに、クラングは顔を上げた。
「時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「……ふむ。三分か? 三日か?」
「三日ください」
 慣れた口調で答える部下に笑って、将軍はよしと言った。
「好きにするといい」
「ありがとうございます」
 敬礼して、クラングは笑みを返した。

      *      *      *

 白いセーター、灰色に近い青のジーンズ。羽織ったコートは彩度の低いダークブラウン。全体的にコントラストの低い組み合わせだ。
 だが、それゆえにジィルバの静謐な美貌が埋もれないでいる。
「リヒト?」
 ジィルバがぼうっとしている少年の名を呼ぶ。リヒトははっとして彼の側まで駆け寄った。
「あ、あの、どこに行くんですか?」
 ジィルバが私服に着替えるために、軍から一度彼の家へ帰り、今また彼の家を出ようとしているところだ。
「おまえはどこだと思うんだ?」
 すぐに答えてくれると思っていたのに、ジィルバはそう聞き返してきた。不思議な感じがした。
(もしかして……楽しんでる?)
 リヒトは男の端正な横顔をじっと見詰めた。
「……楽しいところだと……嬉しいです」
 ためらいがちにそう答えると、ジィルバはリヒトを見下ろして笑みを浮かべた。リヒトがぼっと顔を赤く染めるが、ジィルバは既に前に向き直っていて気づかなかった。
「……そうだな。楽しいところだと、人は言う」
 そう呟く彼の双眸はどこか遠い憧憬の地を見ているようだった。