一条の銀の光 14

 背の高い高級宿。昼間はその大量の窓ガラスが陽光を眩しく弾いたが、夜ともなると闇を映し、ぽっかりと白い月が目玉のようで巨大な魔物のようにも見える。
 その中のひとつ、とある金持ちが借りた豪奢な客室。しかし今は不穏な空気の漂うそこに、金髪の魔術師の姿があった。
 セルクはそこに残る血痕をじっと見つめていた。
 半日ほど前は、ここに黒髪の剣士が倒れていた。
 右腕の付け根から、肘にかけてばっさりと肉は裂けていた。溢れる血は放っておけば確実に彼の命も連れて行っていただろう。
 下級の緑の精霊では癒す事は出来なかった。何よりグィンはその前に大量に魔力を消費していたのだ。
 影の精霊にいたっては、――彼では癒しの魔術は使えない。闇音はただ剣士の名を呼び続けていた。悲痛な声で。
 セルクは金色の睫毛を伏せた。
(でもそんな事は、正直……どうだっていいんだ)
 床に残されたどす黒い染み。
(……ザックからは魔力なんか感じられなかった。そう、微塵もだ)
 けれど、彼は神通力の壁を破った。
 それを可能にしたのが、「これ」だ。
(でも、どうして……?)
 セルクの思考はそこで途絶えた。
 おもむろに扉が開かれる。
 そこに淡い金髪をした大男が立っていた。彼のトレードマークであるはずの大剣は背負われていない。
「やあ、ガンズ。もう動けるの? すごいね」
 緑眼の魔術師は笑って、任務上の上司を迎えた。ガンズは灰色のズボンで上半身は白いシャツだけを着ており、左肩には包帯が透けて見えている。
 ガンズは顔をそむけながらも、彼に近づいてきた。
「……おまえが、癒したと聞いた」
 低い声が漏らされる。
 セルクは肩をすくめてみせた。
「余計なお世話だった? それとも完全に癒せなかった事に文句を言いに来たの?」
「……いや」
 一言そう答えて、ガンズも床の血痕を見つめた。薄暗い部屋の中で、無意識に目を細めている。
 しばらくして、顔は上げずにセルクに向かって問いかけた。
「……あいつも癒したのか?」
 セルクも彼に合わせて、視線を落とす。
「血止めだけだ。……僕では無理だった」
 そう、影の精霊があまりにも辛い声を出すので、耐え切れず手を貸したのだ。
 我ながらお人好しだと、セルクは自嘲を浮かべた。
「俺はトリアから離れる」
 唐突にガンズはそう言った。
 セルクはまじまじと名高い剣士の横顔を見つめた。厳しい世界に身を置く彼の横顔は鋭く、瞳は険しい。
「ザックに負けた。十近くも年下の若造に負けたんだ。これから先、どんなに俺が修行しようと、若いあいつの成長には追いつけない」
 苦い声が続ける。
「……これ以上は意味がない」
 ガンズは静かに窓の外を見た。青白い月の支配する夜の世界。
「……助かりそうだったか?」
 やがて小さな声でまた問いかける。
 セルクはなんだか奇妙な気分になった。
「君が斬ったんだろ」
 そう言うと、薄い水色の瞳に睨まれた。セルクは唇の端を歪ませた。
「……助かるんじゃないの?」
 するとガンズは無言で身を翻し、出口に向かって歩き出した。
 金髪の魔術師は黙ってその後ろ姿を見つめた。静かな、剣士の後ろ姿だ。
 闘う者の背中など、実際そう見れるものではないだろう。セルクが口を開こうとするのを、ガンズの声が遮った。
「お前はどうするんだ?」
 聞かれてセルクはきょとんとした。予想していなかった問いだ。
 ガンズは振り返った。
「このまま、奴らを追うのか?」
 セルクは頭をめぐらせた。しばらくして、剣士と視線を合わせる。
「ザックの事も気になるんだけど」
 言いながら、ガンズのもとへと歩み寄る。
「危ない道を渡るのはごめんだし」
 昼間見た極彩色の神通力を思い出す。あれは、人の手に負えるものではない。
 そして、胸に残っている疑問。
 どうして愛しているとはいえ、他人のために命を張れるのか。それがセルクには理解できずにいた。ガンズが自分で斬った相手の安否を気遣うのも理解できない。
 理解できないその事柄は、興味深い事でもあった。
「君の再就職活動も面白そうだね」
 そう言って微笑んだセルクを、ガンズは怪訝そうに見つめた。
「どこがおもしろいんだ」
 心底嫌そうに吐き捨てられ、セルクはただ肩をすくめて見せた。

 その後、彼らが組んで自由契約の賞金稼ぎになったというのは風の噂である。