一条の銀の光 13

 最初に五感を支配したのは痛みだった。
「―― っ」
 だがザックは手を離さそうとはしなかった。
「早く離れろ!!」
 遠くでセルクが叫ぶのが聞こえる。
 神通力が作り上げた壁は全力で他者を拒否した。
 青い月と赤い炎の記憶が脳裏を過ぎる。拒絶を示した少年。
(くそっ。それでも、あいつは俺を信じたんだよ……!)
 腕の先がもげて消し飛ぶような感覚にも襲われた。実際に腕がちぎれることはないのだが、そう感じるほどに壁はその先への侵入を許さないのだ。
(……だが、入る)
 ザックは心の中で呟いた。
(入ってみせる)
 ゆっくりと壁に触れた手に力を加えた。
 強い反発の力がかかる。ザックには見えない、魔力の火花が散った。
「無茶だ。……そんな魔力もないくせに、不可能だ」
 セルクは半ば諦めて、そう言った。
 誰が見てもザックには魔力がない。そんな人間に神通力の結界を越えられるはずがない。
 無理をすれば大怪我ではすまないのに。
「何で……。何でそんなことができるんだ」
 うつむいて呆然と呟いた瞬間、ばんっと木の板を叩きつけたような轟音が耳を打った。次いで、炎のような魔力が唸りを上げて、室内を巡る。
 セルクは顔を上げた。無理やり侵入しようとする青年を壁は拒んでいる。
 ザックはただ壁の中心を向いている。こちらからは表情は伺えない。
(……フレイム)
 無理なのか。助けることはできないのか。
 ザックはただ壁を押した。
 ――無理。
 頭の奥深くで誰かが囁いた。
 か細いその声は女性のものだった。しかし「誰」なのかは分からない。
(うるさい)
 ザックは頭を振った。無理ではない。ここで諦める気などない。
 ――通れない。
(無理なものか。俺は通る)
 ――できない。やめて。
 悲鳴のような囁き。
(黙れ。俺には破れる。分かっているんだ!)
 誰とも知れない声に向かってザックはそう叫んだ。
 ――やめて……。
 泣き声を孕んだ深い囁きはそのまま途絶えた。
 だがそんなことなどどうでもよかった。
(そうだ、俺にはできる。……分かっている)
 目に見えない壁を睨んだ。
 自分はこの壁を越えられる。確信があった。
 なぜそう思えるのかはまったく分からないが、ザックはそう理解した。
(俺はこれを、破る)

 ぐにゃりと極彩色の壁が歪むのをセルクは見た。
 ザックが触れている部分を中心に渦を巻いている。空間がたわみ、大きな圧力がそこにかかっているのがわかった。
「……嘘だ」
 ありえない。
 フレイムが正気に戻ったわけではない。神通力が弱まったわけでもない。
 なのに。
「……破られる?」
 魔力を微塵も持たない、平凡な肉だけをまとった、人間に。
 神の力で作られた結界が破られる。
「ありえない」
 無意識に言葉は滑り出た。
 こんなことはありえない。
 しかしザックの周りの壁は、確かに渦がつぶされたように歪んでいる。結界が破れる兆候だ。
 セルクは息を呑んだ。

 どんっと重い音が大きく響き、床が揺れた。
 闇音は思わず、近くの壁にすがった。
(なに? いったい何が?)
 ザックを追ってすぐにホテルに入ったものの、後から出てきた私兵団の残りの兵に足止めを食わされてしまった。それを今しがた片付けたところであった。
 轟音は頭上から響いた。
 フレイムがいるだろう部屋。ザックが向かった部屋。
 どちらに言い換えても、好ましい状況とはいえない。フレイムの暴走した魔力が爆発にも似た現象を起こしたのかもしれない。
 そのときザックは?
 闇音はぞっと恐ろしい未来視に目を見開いた。
 返り血を浴び、青い顔をした青年。無理に笑って見せようとした青年。仲間のために躊躇(ちゅうちょ)なく駆け出した青年。
 愛してやまない、たった一人の主人。
「……ザック……!」
 闇音は階段を駆け上った。

 目の前に見慣れた青年の顔があった。
 朦朧とした頭でそう理解する。
「……ザック?」
 フレイムは掠れた声でそう問いかけた。
「そうだよ」
 崩れるようにして倒れた少年を腕に抱き、ザックはしっかりとうなずいて見せた。
 結界はもうない。
 霧が晴れるかのように、散って消えたのだ。
「……なんで。だって血が……」
 泣き出しそうな響きを帯びた声でフレイムは呟いた。
「ばかだな。返り血だよ」
 ザックは小さな笑みを浮かべた。
 少年の白い手が青年を包む布を掴む。その瞳は驚きと安堵が入り混じっている。
「本当……に?」
「ああ」
 そう答えてやると、フレイムは静かに目を閉じた。穏やかな呼吸音が耳に届く。
 ザックはその細い体を優しく抱きしめてやった。
「信じられない」
 セルクが呟く。
「何で……」
 ザックは金髪の魔術師を振り返った。
「さあ……な」
 魔力に意志の力が勝るかどうかなどザックには分からない。
 ただ、壁は消えた。それは事実だ。
 セルクが次の言葉を紡ぐ前に、闇音が勢いよく飛び込んできた。
「ザック!!」
 五体満足な主人を認めると、安堵の色を浮かべて駆け寄ってくる。
 ザックは何も言わずに影の精霊がそばに来るのを待った。
「フレイム様は……」
 青年の腕の中で眠る少年を見つめ、闇音はザックを見上げた。
「大丈夫だろ」
 静かに答えが返ってくる。
「頼む」
 フレイムを抱える腕を差し出され、闇音は少年を受け取った。
「……大丈夫ですか?」
 闇音は眉を寄せて、主人の顔を覗き込んだ。
 見るからにザックは蒼白な顔をしていた。疲労が濃い。
 間があった。
「……悪い、闇音……」
 音にならない息だけの声が漏らされる。ザックはそのまま、倒れた。
 濡れ雑巾を床に叩きつけたような音が響く。
 闇音は何もできずに見つめた。
 ザックの、布に隠されていた右腕から真っ赤な血が流れていくのを。
 それが見る間に床を染めていくのを――。