初心者マジックアイテムの入門 5

 魔獣の血に触れると、魔石は変化する。
 レイヌイの血に濡れた海石はまさにその状態で、暴走していた。
 暴走した魔石が何を引き起こすのかは未知である。詳しいことはまだ解明されていないのだ。
 輝く海石に手を伸ばしたザックは、背後からの少年の叫びにびくりと動きを止めた。
「ザック!」
 闇音がそちらへ駆け寄ろうとする。しかしそれよりも早く、海石の暴走は力を発動させた。
 森の中に潮騒が響く。青い石の周りは空間が撓(たわ)み、波打ってまるで海そのものだった。
 いや、実際に海水が溢れて高く飛沫を上げるのが目に見える。
「すごい……」
 フレイムが思わず呟く。
 こんな暴走ははじめて見た。闇音も足を止めてそれに見入っている。
 美しい幻想。
 遠い大陸の果ての映像。それが山の中に出現したのである。
「……グルゼ……?」
 呆然と、呟く声が聞こえた。ザックだ。
 見やると彼は震えていた。まるで怯えるように。
「何で……? 何で島の海が……」
 それを聞いてフレイムは気がついた。
 この映像はザックのものだ。
 過去の音を伝えるだけの海石が魔獣の血によって暴走し、見せたのは過去の映像だった。それも一番近くにいる青年の記憶。
 果てなく広がる紺碧。すべての生命の源。
 フレイムは思わず口を覆った。
 涙が出そうだ。
 濃淡のある青。輝くほどに白い雲が沸き立ち、上空を飛ぶ鳥の影がそれに落ちている。鳥は小さく、はてなき蒼穹を音もなく漂っている。
 泣きたくなるほどに、美しい海。
 なのに、どこまでも悲しい。寂しい。
「やめろ!」
 耳を覆って、目を瞑って、叫んだのはザックだった。
 それに応えるかのように、映像が砕ける。ぱんっと乾いた音を立てて、散ってゆく。
 フレイムは魔獣の血の中で粉々になる魔石を見た。

 夜。フレイムたちは大きな木の下に火を置いた。昼間に魔獣に襲われたばかりなので、闇音が結界を張った。
「一晩中張ってて大丈夫なのか?」
 ザックが尋ねると、闇音は無言でうなずいた。
「補助魔術は僕がかけておくよ」
 グィンが木の実をかじりながら口をはさむ。
 一連のやり取りをフレイムは向い側から、何も言わずに見ている。
「お願いします」
 静かにそう言い、闇音はザックの横に腰を下ろした。
「なんだ? もう寝るのか?」
 影に入るのか、暗に尋ねてくる主人に闇音は首を振った。
「あなたこそ大丈夫なんですか?」
 まっすぐに見据えて尋ね返す。ザックは驚いたような顔をした。
「何が?」
「……無自覚ならいいです」
 そっけなく返し、闇音は無表情に遠くを見つめた。
 ザックはしばらく影の精霊を見つめていたがやがて肩をすくめて、剣を磨き始めた。
(気づいてないのかな?)
 向かいに座っている青年をフレイムは見つめた。
 魔石の暴走後のザック。青褪めて震えていた。座り込んだまま――本人は一分かそこらだと思っているのかもしれないが――、十分近くその場を動こうとはしなかった。
(なんで……?)
 グルゼの海は、フレイムにとって言葉にできないほど美しいものだった。
(思い出したくなかったのかな……)
 考えてみれば、ザックは島でのことを話さない。聞けば答えてくれるが。
 フレイムは目の前の炎に視線を移した。赤い炎は彼にとって、憎悪の象徴だった。その心のままに村を焼いた。
 その光景を思い出すと、胸の奥が張り裂けるように痛む。
 苦しく息を吐き、無言で剣を磨く青年をまた見やった。
(俺のせい、だよね)
 少なからず傷つけてしまったことは分かる。闇音の態度を見れば一目瞭然だ。
 けれど決してフレイムを非難しようとはしない。それがかえって辛かった。
「なに?」
 視線を感じたのか、ザックが顔を上げる。心の準備はもちろんまだで、フレイムはあわてて首を振った。
「見惚れたって何も出ないぞ」
 からかうように言って微笑む。
 いつもと変わらないその笑みに、フレイムは咽喉が詰まるような感覚を覚えた。
 何度かの逡巡の後、フレイムは覚悟を決めた。
「あの……ね、話が、あるんだけど」
「ん?」
 首を傾げる。続きを促しているのだと悟り、フレイムは首を振った。
「二人だけで、話したいんだけど…」
 言いながら、闇音の視線が突き刺さるのを感じる。
「……いいかな?」
 遠慮がちに許可を求める。ザックは真意を測りかねるといった表情ながら、うなずいた。
「いいけど」
 その言葉を得てから、フレイムは闇音のほうを見た。いつもより冷たい視線。
 しかし、やがて嘆息が漏れた。
「ザック、あまり遠くへ離れてはいけませんよ」
「分かってるよ。んな、ガキじゃないって」
 ザックが立ち上がりながら、鞘に収めた剣を腰に刷く。
「グィン、ちょっと待っててね」
 自分の精霊の頭を撫で、フレイムはザックとともに焚き火から離れた。

「お、星がすごいな」
 天上を眺めながらザックが声を上げる。
 つられてフレイムは上を見やった。満天の星空というのだろう。白い光が瞬いている。
「で? 話って?」
 近くの木に背を預けながら、ザックが首を傾げて尋ねる。フレイムはわずかに目線を泳がせた。
「謝ろうと、思って……」
「……え?」
 星明りと遠くの炎のわずかな光。それだけが光源だったので、ザックがどんな顔をしたのかはよく分からなかった。
 おそらくは意味が分からないといった複雑な顔をしているのだろうが。
「海石さ、俺が買ったの暴走しちゃっただろ?」
 悲しい色をした美しい海だった。
「ザック、島の絵を見て、その……嫌な思いを……したんじゃないかと思って…」
 あくまで推測なので、それを口にするのは勇気がいった。
 間があった。
 静かな闇の中に、虫の音が小さく響く。
 自分の杞憂だったのだろうかと、フレイムが不安に思い始めたころ、ザックが口を開いた。