残片 4

 石段をすべて降り終えて、沖は振り返って仰いだ。階段の頂上は左右の木に隠れている。葉の隙間から赤い鳥居が覗いていたが、松壱の姿が見えるはずもなかった。
「沖様?」
 足を止めた養い親をユキが呼ぶ。沖はそれに気づかず、先ほどのことを思い出していた。
(マツイチ、変だったな……)

「じゃあ、行ってくるね」
「ああ」
 そっけない返事はいつものことだ。
 ただ日の光を吸い込んだような明るい双眸が、静か過ぎる気がした。
「帰りが遅れても連絡はいらないから。三日いないら四日いなくても気づかないさ」
 そう意地悪を言って松壱は口元に笑みを刷いた。
「何言ってるんだよ。確かに遅れる可能性はあるけど、さ。連絡もするから。ちゃんと電話出てよ」
 もう四百年も行っていない土地へ向かうのだ。いつ予定外の出来事が起こるかも分からなかった。むしろ予定通りの行程で進めない可能性が高いかもしれない。
「いらないよ」
 松壱は抑揚なく言う。
「せっかく封印を解いてやったんだから、羽を伸ばしてくればいいさ。実際オキツネ様がいるかどうかなんて普通の人にはわからないんだから」
「もー、高嶺ってば、そう甘やかすようなこと言わないでよ。沖様が羽目を外したらユキが苦労するじゃない」
 まるで引率者かのように言って、ユキが腰に手を当てる。
 松壱は少女の姿をした銀狐を見下ろして微笑んだ。
「お前こそ年相応に羽目を外せばいいさ」
「失礼ね、ユキは子供じゃないわよ」
 松壱は肩をすくめて、沖に向き直った。
「じゃあな。あんまりのんびりしてると電車に乗り遅れるぞ。まったく、公共機関で移動しようなんて今どきの妖怪は変わってるな」
「無駄な妖力消費を避けるに越した事はないよ。人間とそうは変わらない」
 答えたのは玖郎だった。松壱はそちらを見やり双眸を細めた。
「じゃあ、行ってきます」
 沖は笑ってそう言った。軽く手を振る。
「ああ……」
 茶髪が風に揺れて光に溶け込む。
 松壱は髪も目も肌も淡くて、出掛けるのは沖たちのほうなのに、いなくなるのは彼のほうな錯覚がした。

「氷輪」
 玖郎の声が耳を打ち、沖ははっとして振り返った。
 白いシャツと黒いジーンズを着た玖郎が遅れている沖を待っている。
「行くぞ」
「……うん」
 後ろ髪を引かれる思いで沖は歩き出した。

      *      *      *

 黒刀はガラス戸の内側から空を見上げ、眼差しを鋭くした。
(神域の結界が薄れている……)
 神社という一つの聖域はそれだけで結界を成す。その結界を強固なものにし、外敵――邪心を持つ魑魅魍魎の侵入を防いでいたのは、ご神体として結界の内側にいた沖である。
 結界が薄れたということはすなわち沖が揺草山から離れたということ。それも高嶺の封印なしで、だ。
(これで強力な妖怪は揺草山への侵入を可能に出来る)
 無論、結界で弾くほどでもない小妖怪は常に出入りを繰り返している。
(四百年ぶり、か)
 そのとき、考え事をしながら廊下を進んでいた黒刀は何かに躓(つまづ)き、バランスを崩した。
「……っわ」
 咄嗟に床に手をつき、顔を打つことは避けられたが――黒刀は避けられたが、あいにく躓かれた人物は強(したた)かに頭を打ち、小さく呻いたあと、上に覆いかぶさっている天狗を睨みつけた。
「……お前は何がしたいんだ」
 言わずもがな、縁側に座っていた松壱である。
「いや……すまん」
「いいから早くどけ」
 煩わしそうに告げて松壱は相手の肩を押す。だが黒刀は動かず、ブラウンの前髪に指先で触れた。
「捨てられた猫みたいな目してんなよ」
 逆鱗にも触れたと気づいたときには既に遅かった。乾いた高い音が晴れた空に響く。
「誰が猫だ。この鴉!」
「なっ、猫ッ毛のくせに!」
 ひっぱたかれた頬を押さえながら黒刀は喚いた。松壱は眉を吊り上げる。
「うるさい!」
 べしっと黒刀の額を叩き、松壱は彼の下から這い出た。
「だいたい捨てられたってなんだ」
 乱れた髪を手櫛で直す松壱を見ながら、黒刀はその横に座った。
 理由を言えば松壱が怒るのは目に見えている。それに、本当は分かっているのだ。認めたくないから、わざわざ聞き返して、否定させようとする。
「……別に、なんとなく」
 黒刀は適当に濁した。
 頬杖をついて、松壱が目元を緩める。そして可笑しそうに天狗を見やった。
「なんだ? なんとなくで頬を腫らしたんじゃ割に合わないんじゃないのか?」
(腫らしたのはお前じゃないか……)
 熱を持ち始めた頬を指先で撫で、黒刀は唇を歪めた。
 松壱はそんな男を笑って、視線を空へと昇らせる。その横顔を見ながら黒刀は口を開いた。
「お前はここで何してたんだ?」
「……うん、なんとなく、だな」
 答える松壱は遠くを見つめたままだ。
 黒刀は双眸を眇めた。
「高嶺、あまり深く考える必要はないと思うぞ」
 沖が帰ってこないかもしれないなんて。
「考えるって何を?」
 不思議そうに松壱がこちらを見つめる。
 松壱は一人だ。母と祖父はだいぶ前にこの世を去っているし、祖母は足を悪くした身内のために遠くドイツに離れている。父は――。
 黒刀は首を振った。
「……今日の昼食。何でもいいから」
 長い間を置いて並べられた言葉に、松壱は一瞬目を見開いた。それから笑う。
「何でもいいなら何も言うなよ。食事はリクエストがあるときだけ言ってこい」
 何でもいいなんて困るだけだ、と彼は言って立ち上がった。そのまま歩き出すのを追って、黒刀も腰を上げる。
「どこに行くんだ?」
「買い物。昼は中華にしよう」
 振り向かないまま答えて、松壱は廊下を曲がり、外へと出て行った。