薔薇の下 5

 冷えた夜風は感覚が鋭くなるような錯覚を与えた。実際は一日の疲れが出て、あとは休むだけの時間帯である。
(錯覚でも構わない)
 ジィルバは公道の真ん中に立ち、星と街灯が輝く闇に目を凝らした。
 軍の部隊とは合流していない。大人数でいては天使が出てくるはずがないのだ。完全武装した軍隊に一人で向かおうとするほど浅はかな天使ならば、そもそも軍を脱走できるはずがないだろう。
 そして、一番の理由は一人のほうが気安いからである。人に囲まれているのは落ち着かない。
 ジィルバは小さく息をついた。
 普段なら交通量も少なくない道なのだが、今はしんと静まり返っている。避難警告――避難と言っても、内容は自宅待機である――のせいで誰もいない。信号だけが無意味に働いていた。
(断罪の天使。最悪の――悪魔だ)
 今の世界には必要ない、天使時代の廃棄物。
 両手で銀の銃を握り締める。
(来い……!)
 声に出したわけではないが、それは大気を震わせて街を駆け抜けた。
 ジィルバの特性。天使との導通。
 反応はなかった。
(いや、隠してる)
 息を殺した肉食獣の緊張が伝わってくる。
 街のどこかに、闇に溶け込んだ天使がいるのだ。
 断罪の天使は救済の天使と比べて、本当に同種族なのかと疑うほどの巨体を誇る。それが可視の状態で騒ぎにならないはずがない。脱走した天使は身を潜めているのだ。
 疑問があった。
 そう、天使はその肉体を不可視の状態にできるのだ。
 そのため、天使の監視にはジィルバ同様、特に対天使の感覚が鋭い人間が選ばれている。天使の法術、幻術に対する特別な訓練を積んだ者たちもいる。
(なぜ、気づかれずに脱走することができたんだ?)
 考え事は長く続かなかった。
 風を感じて、戦慄する。咄嗟にジィルバは後ろに跳んだ。
 びしっ!――唐突に、先ほどまで立っていた地面が砕ける。
(来た!)
 ジィルバは前方に向けて銃を構えた。全神経を見えない敵に向ける。
「一人か……」
 闇が話しかけてくる。見えないはずの大気が揺れているように見えた。
「おまえは、かの銀闇の使者か……私を殺しに来たのか」
「おとなしく軍にいればよかったのにな。逃げ出したお前は馬鹿だったんだ」
 ジィルバは静かに言い返し、闇の中の天使を睨んだ。
 これほど近ければ、姿は見えなくても、相手の立ち位置は完全につかめた。敵は前方、自然体でこちらを見下ろしている。高さは三メートル程あるか。
 肉で作った戦闘ロボットだ。そう皮肉ったのはクラングだっただろうか。確かに断罪の天使は人型ではあっても人間には見えない。“完璧な美しさを持つ人間の姿”をした救済の天使とはやはり異なるものなのだ。
「私は愚かではない。我々に比べて脆弱であるのに独りで行動するお前こそが愚かなのだ」
「その過信がお前たちの敗因だ」
 吐き捨てながら、ジィルバは引き金に指をかけた。
「……人間の反乱時における天使の過信は認めよう。そう、団結した人間の力は確かに強い」
 天使は自由戦争を自由戦争とは呼ばない。
 彼は続けた。
「私はお前を排除しようと思う」
 片足を引いて、構える。隆々とした筋肉に包まれた断罪の天使の構えは、爆発しそうな弓だった。
「お前は今までもこれからも我々の障害になる」
 銃を構えたまま、ジィルバは片目を細めた。
「……そうだ。俺は全力でお前たちを妨害する」
「分からんな」
 呟いて、天使の足が地面を蹴る。
 同時にジィルバは引き金を引いていた。天使の法力で覆われた肉体を貫く特殊な弾丸。反動で一瞬のけぞりそうになりながら、それでも銀の瞳は不可視の天使を捉えていた。
 こちらに向かってくる速さは変えず、天使は軽く首をひねる。眉間を狙った弾丸は天使のこめかみを掠めただけに終わった。
 舌打ちする暇もなく、ジィルバは体をひねった。人の頭ほどもあるこぶしが隣接する空気を切り裂く。
 反転しながら、こぶしを打ち下ろした後の膠着状態(こうちゃくじょうたい)にある天使に向かって、再び銃声を響かせる。光を内包した天使独特の双眸が一閃した。
 どくんと天使の体が大きく脈打ち、次の瞬間には七メートルほど後方に敵は跳んでいた。
 間合いが開いて、ジィルバは止めていた息を吐き出した。
 また自然体に戻って、天使はこちらを見つめてきた。こめかみの傷はもうない。
「……人間にしては速い。そして、その銃……、変わっているな」
 ジィルバは銀の拳銃を顔の横に掲げて見せた。
「自由戦争時代にお前の仲間を何人も殺した銃だ。弾丸は天使の肉体に入れば、その法力をゼロに収束させる」
 法力なしでは天使は傷を癒せない。つまり、この銃で急所を撃たれたらそのまま死ぬしかないのだ。
 天使の表情が変わった。
 銀闇の使者とその銃とを見つめる。
「それは人間の科学力では不可能な技術だ」
 ジィルバは小さく笑みを浮かべた。
「……そうだな」
「どういうことだ」
 天使はもはや実体としてジィルバの目の前に現れていた。その体の発光が公道を照らしている。
 分かっていたのに、改めてそれを目にして、ジィルバはじくじくと背中の傷がうずくのを感じた。
「ひとりの天使が作った銃だ。お前たちは裏切られたんだよ。その天使はお前たちに疑問を感じていたんだ」
 早口になっていくのを自制できない。
 ジィルバは銃を構えたまま、声を大きくした。
「お前たちは法力を使いすぎたんだ。神の創ったこの世界の法則を捻じ曲げてしまった。お前たちが、天使が、世界を壊したんだ!」
 しゅうぅ……食いしばった断罪の天使の口元から白い息が漏れている。蒸気だ。
 力の源、熱。天使の肉体は高温を保ち、その爆発エネルギーが人間の四肢を両断する力を生むのである。
「塵から創られた土人形が……」
 唸る声は地響きのようだった。
 発熱した天使の肉体が赤く光っている。ジィルバは構わず最後の一言を発した。
「その土人形をただの人形だと思ったのが間違いだったんだ!」
 言い終わるが早いか、巨躯が眼前に迫る。
 あっという間に肉薄してきた天の使徒に、ジィルバはためらわず引き金を引いた。先ほどの話を受けてか、天使は弾を掠らせもせず、完璧によけた。だが、それは予想していたことだった。
 作ったのはわずかな間。ジィルバは後ろへ跳び、銃を右手だけで構えると、左手をポケットに突っ込んだ。
「手榴弾でも投げるのか!」
 嘲笑いを含んだ天使の声が耳障りに聞こえる。
 ジィルバはさらに後退しながら、左手に握ったものを押した。とたん、闇夜を引き裂くけたたましい警報が鳴り響いた。
 天使が止まる。
「基地の非常警報も鳴っているはずだ」
 長い警報のあとジィルバは持っていた警報機兼発信機を投げ捨てた。
 ため息をつく。
「天使にしては気が短い。そしてその口、よく喋る」
 ほんの先刻、相手が言ったことを皮肉を込めて言い返す。
 だが、頭は切れるようだ――とは口には出さなかった。
(せっかくの機知を『補って余りある』短気さだ)
 胸中でさらに皮肉を述べて、ジィルバは断罪の天使を見つめた。
「天使時代を復活させるためには、そうだ、最初に俺を殺しておけ」
 前後から多くの足音が聞こえてくる。遠くにはヘリの音もある。
「だが、まだ無理だ」
「――いや、今だ!」
 叫んで断罪の天使が飛び掛ってくる。
 やはり気が短い。どこか他人事のように感じた。
 避けられない。
「やめてーっ!!」
 高く澄んだ声に耳を打たれ、ジィルバははっとして一歩足を引いた。
 下がらなければ衝撃だけで鼻くらいは潰れていたかもしれない位置で、巨大なこぶしが止まる。――天使は動けないようだった。
 大きく見開いた瞳がこちらを凝視している。
 動けないと分かるとジィルバはそれを無視して、声の出所を捜した。
 公道の横、並木のある歩道、そのさらに奥の細いわき道を駆け去っていく金の髪を彼は見逃さなかった。
(リヒト!?)
 呼びかけは声にならず、かわりに背後から別の声がかかった。