薔薇の下 3

 この地上には二種類の天使がいた。
 人に教えを説き導く《救済の天使》と、驕れる人間を裁く《断罪の天使》である。
 人間を殺すことが出来るのは断罪の天使。彼らの多くは自由戦争で散った。
 そして残った断罪の天使は、救済の天使と一緒に軍で保護されている。ただし、救済の天使の中には教会に保護されている者もいる。
(まあ、断罪の天使なんて教会で扱うには危険すぎるからな)
 断罪の天使は救済の天使と違い、決して人間とは相容れない。人間の持つ負の感情を裁く者たちだ。小さな欲望までも断罪するというわけではないが、罪人が現れない限りは、彼らが大天使の住む神殿からは出ることはなかった。
 ジィルバは自宅の玄関の扉を見つめた。
 今、この向こうには救済の天使がいる。
 救済の天使は人と触れあい、迷う者を助け、弱き者を守って暮らす。自由戦争以前はどこの教会でも見かけることのできる存在であった。“人間以上の力を持った優しき者”である彼らは人間達から愛されていた。
 そのため、断罪の天使が排斥される風潮にあった戦時中、戦後であっても表立って救済の天使を処分することはできなかった。
 その救済の天使、しかも子どもが脱走するのは初めてのことだった。そして自分はそれを隠匿しようとしている。
 古傷が痛んだ。苛むように。
(俺はリヒトに何をさせたいんだ……)
 自問は苦痛を増長するだけだった。答えは出ているのだ。だが、それを自覚するだけの勇気がない。
 自分の罪を認めることになるから。
 背中に冷たい汗を感じなら、ジィルバは深く息を吐き出した。

 大丈夫だ。過去は薔薇の下に埋めてしまったんだから。
 赤くて、何も見えない。

     *     *     *

 優しい赤で染められていく空。
 それを窓から眺めながら、リヒトは眉を寄せた。
(……彼はまだ、動いていない?)
 星がひとつきらめいていた。軍の保護施設から見たのはと違う方向に。
(僕、これからどうしよう……)
 銀闇の使者は、どうも自分を軍に突き出す気がないように思える。何を考えているのかは理解できないが、助かることは確かだった。
(だって……このままじゃ帰れない)
 そう、このままにはしておけない。
 改めて決意して、リヒトは唇を引き結んだ。
 それから間もなくジィルバが帰ってきたのだが、彼は特にリヒトに何も言わず、奥の部屋へと向かってしまった。
 不思議に思って、リヒトはひょいと部屋の中を覗いた。
「あ、何かお手伝いしましょうか?」
 中はキッチンで、冷蔵庫を前にジィルバは腰を曲げていた。軍服の上着は側の椅子にかけてある。声を聞いて、彼は入り口に立つ少年に気づいた。
「いや……特にないが、……肉は食べられるか?」
「あ、……だめです」
 答えて、リヒトは申し訳なさそうに首を振る。
「天使には多いな。まあ、欲しいと言われてもここにはないんだが――俺も肉は好きじゃない」
 見るとどうしても死体の記憶が甦ってくるのだ。殉職した仲間、殺された人間、殺した天使……。
 ジィルバは目を伏せた。小さく首を振る。
(過ぎたものは戻らない)
 自分に言い聞かせて、改めて冷蔵庫に向かう。と、赤いものが野菜室を占拠していた。滑らかな曲線を描いて瑞々しく光る、歯を立てるとその果汁が溢れるだろう健気に張り詰めた赤い肌。
 直送大安売り、宣伝のおばさんに無理やり買わされたものだ。
「トマト……か」
 リゾットにしよう。直感で決めて、一人で頷く。
 ジィルバはトマトを取り出すと、黙って扉のところに突っ立ている少年に目をやった。
「部屋で待っていていいぞ」
「えっと、でも……」
 助けてもらったことへの遠慮があるのだろう、手伝いたいのだと青い目が訴えている。ジィルバは首を振った。
「大丈夫だ。料理は好きなんだ」
 テーブルの上にトマトを置き、冷蔵庫の横にぶら下げてあるエプロンに手をかける。
「本当にいいんですか……?」
「ああ」
「……じゃあ、見ていてもいいですか?」
「ああ。………何?」
 流れで返事しておいてから、質問の内容を反芻し、ジィルバはエプロンを着る手を止めて少年を見つめた。リヒトが言いにくそうに肩をすくめて見せる。
「僕、誰かが料理しているところって、もうずっと見たことないんです。小さい頃、母が料理していたのをぼんやり覚えてるだけで……」
 天使の保護施設での食事は軍側が用意する。もちろん、その食事が調理されている現場を見ることはできないだろう。
 だが、それとこれとは話が別で、自分は他人に調理現場を見せるほどの腕前ではない。
「……見ていて面白いものでもないぞ」
「いいんです」
 にこりと、それこそ天使のというにふさわしい笑みを見せ、リヒトはキッチンに入ってきた。ジィルバから少し離れた位置で立ち止まり、もう一度笑う。
(……まあ、いいか)
 邪魔になるわけでもない。ジィルバはエプロンの紐を締め、調理台に向かった。

 音と香りの調和。
 リヒトはダイニングテーブルから引っ張ってきた椅子に腰掛けて、じっとジィルバの後姿を見ていた。
 包丁がまな板を叩く軽やかな音。切り開かれたトマトから漂う甘酸っぱい香り。
(不思議。心が和む音と香りだ……)
 背もたれに寄りかかって目を瞑ると気持ちよくなってくる。
(覚えてないのに、懐かしい感じ……)
 霞のかかった母の後姿を目の前の男に重ねてみる。思わず顔が綻んだ。

 トマトのリゾットは文句の付けようもなく美味しい。だが。
「……あの、ジィルバさんは軍で何をしてるんですか?」
 無言の重苦しい食事にいたたまれなくなったのか、リヒトが遠慮がちに尋ねてくる。
 向かい側の席で、ジィルバは手を止めると、数瞬思案する表情を見せた。
「はっきりいえば雑務だな。……俺はどうも特異な位置にいるらしい。表向きは少尉か何かだった気がするが……いや、中尉だったかな」
 不明瞭な回答にリヒトは目を瞬いた。
「表向きはって……?」
「とりあえず軍の書類に記載されている俺の階級。俺は別に歩兵だってなんだっていいんだ。だが、一歩兵がそうたびたび大佐に話しかけられていたらおかしいからな」
「……あの、よく分からないんですが……」
 青い瞳が困ったような光を浮かべている。そこでジィルバはリヒトが本当に「何も」分かっていないことに気づいた。
「ああ、逃げた天使を捕まえるのは特務の中でもさらに裏の仕事なんだ――ちなみにURと呼ばれている。軍内でその存在は公然の秘密だ。だが誰がそれを行っているのかは、ほとんどの人間が知らない。軍の失態の事後処理だからな。内部のごたごたを片付けるときもある」
 だから表向きは中尉だと、そこまで話すと、リヒトは首をひねった。
「なんとなく分かった気もします……。でも……、それって僕に話しちゃっていいんですか?」
「だめなんだろうな」
 ジィルバはあっさりと漏らし、リヒトの顔色を窺った。わずかだが先ほどよりも顔が青い気がする。
 秘密を知ったからには始末される、そんなことでも考えているのだろうか。
 ため息をついて、ジィルバは手を振った。
「別にお前一人が知ったからと言って、何が変わるわけでもない。URを行う俺をお前が止められるとは思えないしな。バレなければそれでいいと俺は思ってる」
「はぁ……」
 なんとなく自信のない返事を返してくるリヒトに、ジィルバは軽く笑んでみせた。
 初めて見せたその優美な笑みが、実は意地悪なものだと、リヒトは見惚れてしまった後に気づいた。ジィルバがそのまま続ける。
「バラしはしないだろう? 助けてやったんだから」
 リヒトは口をぽかんと開けて、ジィルバを見つめた。それから徐々に眉を歪める。
「……ジィルバさんて、そういう人だったんですか……」
「どういう人だって?」
 面白がるように聞いてくる。リヒトは頬を紅潮させた。
「人の弱みを握って、いうことを聞かせるような卑怯な人だって言ってるんです。そんなのはダメですよ。人道に悖(もと)ります!」
 語気も強く言いつける。しかしジィルバは喉の奥でくつくつと笑った。
「……人道に悖る、か。子どもでも天使だな」
 銀の瞳が剣呑に光る。椅子に座ったまま、リヒトは体を引いた。
 食器を持ってジィルバは立ち上がると、少年を見下ろし、冷めた声で告げた。
「悪いな。俺は最初から人道なんて歩いてないんだ」