その上官はたいがい笑顔を浮かべている。
穏やかとも優しげとも表現できそうな綺麗な笑みを向けられて悪い気はしない。ただ、もっといろんな表情ができるはずなのに、そう考えると、その笑顔は無表情にも見えた。
「クラング」
ジィルバは今は笑っていない「その上官」を呼び捨てにした。もとより上司だなどとは思っていない。本人からもそう思わなくて良いと言われている。
「クラング」
笑顔でないどころか、頬杖をついて目を閉じたままこちらを見ない。ジィルバは手の甲で机を叩いた。
「……なんだ」
ようやく漏らされた声は低く不機嫌そうに響いた。また、その掠れた音から、彼が眠っていたのだと悟る。
「眉間に皺ができてるぞ」
ジィルバはそう言って、数枚の紙をついと差し出した。先日請け負ったUR任務の報告書だ。指揮官であるクラング・ヒンメルの署名なしでは完成しない。
目線だけ動かして、その書類を見やり、クラングは盛大にため息をついた。背筋を正して、ペンを手に取りながら口を開く。
「文字は丁寧に書くように」
それだけ言って、署名する。内容については問題ないらしい。
返された書類を受け取りながら、ジィルバは首を傾げた。
「何かあったのか?」
「別に。ただ頭痛が酷くて」
答えながら、クラングは顔をしかめる。
「側で喋らないでくれ。頭に響く」
「医務室なり自宅なりで休んだほうがいいな。お前に用がある人間はことごとく話しかけてくるぞ」
忠告すると、クラングは頭を抱えてうつむいてしまった。
「医務室……医者か。君は医者に掛かるような不調はあるか」
ジィルバは視線を泳がせて、ここ数年を振り返った。
「ないな」
クラングは再びため息を零した。
「天使の頑健さが羨ましい」
ジィルバは目を瞬いた。
天使を持ち上げるようなことは決して口にしない男である。彼は天使の存在そのものを憎んでいる。――いや、今のは嫌味だったのかもしれないと考え直す。
その思考に伴う表情の変化を見上げて、クラングは脱力した様子で呟いた。
「君は本当に……」
みなまで言わずに言葉を切ると、おもむろに立ち上がる。
「医務室に行ってくる」
億劫そうに言って、彼はとぼとぼと歩き出した。その背を見送りながら。
「ついていってやろうか」
声を掛けるが、片手を振られただけだった。
「ヒンメル中佐」
医者の声に顔を上げる。
若い男だ。と言っても、おそらく年上だろう。どことなく締まりのない顔をした茶髪の医者をクラングは見つめた。
この医者は軍医とは少し違う。軍部が支援している研究所、その医療開発センターから派遣されて来ているのだ。そして、クラングは研究所の人間に良い印象を持っていなかった。
「熱はないですし、他の検査結果を見ても異常はないですね。睡眠もきちんととっておられるようですし……」
医者はカルテを見つめながら、ペンで自身の顎を突付いた。机上のモニタに視線を移し、それからこちらを見る。
「精神的なものかもしれません。何かお悩みでも?」
「……いえ」
持病のような長い付き合いの悩みはさておき、最近増えた悩みはない。
「そうですか」
医者はあっさりと引き下がった。
「痛み止めを出しておきましょう」
「効くんですか?」
「ま、気休めですが。ないよりは安心できるでしょう」
精神的なものなら、薬を飲んで「大丈夫だ」と思い込めば治る、ということだろうか。クラングは内心でため息をついた。悪化したらどうしてくれようかと考える。
カルテに薬の名前と量を記載して、医者はそれを看護士に渡す。普通ならばそれで終わりのはずだが、彼は少し言いづらそうにしながら愛想笑いを浮かべて話を続けた。
「あの、よろしかったら、法力感度の測定を受けてい」
「お断りします」
相手の言葉を遮って答える。
医者は肩をすくめた。
「せっかくですから。頭痛の影響が出ているかもしれませんし」
クラングは椅子から立ち上がって、側の籠に置いてあった上着を手に取った。
「法力感度の測定は一年に一度受ければいい。そういう義務です」
「定期測定だけでは分からないこともあるでしょう。それにAクラスのデータは少ないのです。数が揃えば今後の研究にも……」
彼の言う「Aクラス」とは、法力感度クラスのAからAAAまでを指している。「高感度」と評されるクラスだ。クラングとジィルバはAAAに格付けられている。
「同じ人間のデータを集めても仕方ないでしょう」
「いやいや、大事なことですよ。研究が始まって間もない未知の分野ですから」
それでも頷かず、クラングは医者を見下ろして冷笑を浮かべた。
「診察、ありがとうございました」
礼を言って、きびすを返す。
「気が向いたらいつでもどうぞ。あ、お薬受け取って帰ってくださいね」
背後から悪びれもなく声を掛けられ、片手で額を押さえる。痛みは治まりそうにもない。
(頭痛が感染してしまえばいいのに)
胸中で毒づいて、クラングは薬剤師のもとに足を向けた。
「治ってないぞ、眉間の皺」
医者の診察を受けたその翌日、用もないのに執務室までやってきてジィルバはそう言った。
「うん、なんというか」
曖昧な返事をしてクラングは仕事の手を止めた。ジィルバが側まで歩み寄ってくる。
「薬は貰わなかったのか」
「貰ったが飲んでない」
「なぜ」
「苦いから」
クラングは一粒だけ穴の開いた錠剤のシートを手にとって見せた。
「ちゃんと飲まないとダメだ」
「ちゃんと飲む必要はないようだよ。気休めだと言っていた」
ジィルバはため息をつく。
「使えない医者だな」
クラングは笑うだけで、返事はしなかった。あの不躾な医者にジィルバが掛かることはないだろうから、それだけは安心できる。
「辛いときにまで笑う必要はないんだぞ」
ぼそりと呟かれて、クラングは顔を上げてジィルバを見た。相手は視線を逸らす。
「その、……見てるほうも辛くなる」
クラングは目を瞬いて、それからうつむいた。
「ああ」
短く答える。
ジィルバが何か言おうと言葉を選んでいる気配がした。が、彼が口を開く前に扉をノックする音が響いた。どうぞとクラングが答えると、金髪の女性が顔を覗かせる。
「ああ、君か」
頼みごとをしていた事務員だ。ストレートの髪を肩まで伸ばした、甘やかな笑みを持つ美人である。ジィルバの灰色の軍服と類似したデザインの制服。しかし、スカートを穿いた彼女が戦場に出ることはないだろう。
「ヴァント中尉、話があるならまたあとで聞くから」
そう告げると、ジィルバは頷いて執務室から出て行った。おそらく話はないだろう。彼は様子を見に来ただけのはずだ。
入れ替わりに、女性事務員が机の前まで寄ってきた。
「結果が出ました。データはこちらに」
「ありがとう」
差し出された紙片を受け取る。軽く目を通して、クラングは顔を上げた。
「無理を言ってすまないね」
「いいえ。中佐のご依頼ですから」
事務員は微笑む。肩口にかかる金髪がふわりと揺れた。
「このことは他言無用でお願いしたい」
「ええ、もちろんです」
心得顔で頷く相手に、クラングは薄い笑みを浮かべる。頭痛は続いているが、知られたくはなかった。
「お礼をしたいのだが、何がいいかな」
女性はぱっと頬を染め、それから両手と頭を横に振った。
「いいえ、そんな、何もいりません」
下心があったから依頼を引き受けたのだろうことは承知している。
紙片を机に伏せて置き、クラングは悪戯に誘うような口調で続けた。
「口止めをしたいんだよ。私を安心させてくれないかな。何がいい? なんでも構わないよ」
女性は見つめられるのを恥らうように視線を下げる。それから何度か逡巡した様子で口を開いた。
「なんでもよろしいんですか?」
「ああ」
「あの、でしたら、……キスを」
そして一度は逸らした視線を絡めてくる。誘惑を兼ねた要望に、クラングは苦笑した。
「それは私が喜ぶだけなんだが」
手招きをする。
「おいで」
雨音が遠くに聞こえる。室内に薄暗さを感じて、クラングはデスクライトを点灯させた。
一人で紙面を見つめる。そのデータは医者から渡された錠剤の成分分析の結果だ。無機質な書体で打ち出された成分名をひとつずつ確認していく。
(一番分量が多いのは鎮痛剤か。ラクトース、安定化剤……)
そして――。青い双眸を細める。ありがちな鎮痛薬では見られない成分。だが、クラングはそれを知っていた。
(……法力感度を高めると疑われている化合物)
片手で頭を押さえながら、紙片を机に置く。
馬鹿にしている。
測定を拒めば、こちらの同意なしに投薬実験を行おうとする。それが違法であることも意に介さない。どれだけ思い上がっているのだ。
どれだけ、見下しているのだ。
希少種――法力感度クラスAAAの人間が研究所でそう呼ばれていることは知っている。
(煩わしい)
鈍い痛みが頭を刺す。
(なんて煩わしいんだ)
好奇の目で見られることには慣れたつもりでいたが、頭痛が苛立ちを酷くした。
無意識のうちに握り締めていた拳をゆっくりと開く。クラングは胸に溜まった濁りを吐き出すことも出来ず、緩慢な動作で立ち上がった。粉臭くなった上着を脱ぎ、ソファに横たわる。
光源は厚い雲の上の陽光とデスクライト。闇というには物足りない暗がりで、雨音に耳を傾ける。
雨が好きだった。
人の声も、機械の音も、天使の気配も、遠くに押し流してくれる。白く幾重にも重なるカーテンのように、外界を遮ってくれる。
雨音に包まれて気持ちが落ち着いていく。ふわりと眠気が瞼を撫でた。肌寒さはあったがさほど気にならない。
ただ、何も考えなくてすむ、それだけを求めてクラングは意識を手放した。
雨雲が遠のいた次の日。
「ヒンメル中佐」
一人で廊下を歩いていると、先日の若い医者が声を掛けてきた。こちらが足を止めると駆け寄ってくる。
「あれから具合はどうですか」
クラングはいつになく愛想のない顔で応じた。
「だいぶいいです」
「そうですか、それは良かった」
相変わらずこちらの不快な表情を読み取らない。その無神経さが癇に障る。クラングは相手の肩を突き飛ばした。壁に背をぶつけて、医者が小さく呻く。
「なにを……」
痛みに歪んだ顔の横を狙って、コンクリートの壁を殴りつける。鈍い打撃音が響いて、医者は肩をすくめた姿勢で硬直した。
壁に拳を擦り付けたまま、クラングは相手に覆いかぶさるように身体を近づけた。
「あの薬……」
囁くと、男の目に焦りが浮かんだ。動揺を隠し切れない声で答える。
「あ、ああ、あれ、効きましたか」
「さあ、どうでしょう。一錠たりとも飲んでいませんので」
優しい口調に、しかし医者は冷や汗を流した。ナイフで頬を撫でられている気分だ。
「そ、そうですか」
「飲めるわけないでしょう。副作用も分かっていない開発中の新薬なんて」
医者は固く目をつぶった後、息を吐いて、顔を上げた。覚悟を決めたらしい。
「そうですよね」
だが、笑顔は引き攣っていた。
「あなたが兵士なら、死なない程度に殴り倒しているところなんですが」
クラングはざらりと壁を撫でた。
「どうして欲しいですか?」
間近に海色の瞳。横から差し込む光に長い睫毛が影を落として蠱惑的だ。耳を撫でる柔らかい声音に、脅されているのか誘われているのか混乱しそうになる。
だが、肌を刺す怒気が男を現実に引き戻した。息を呑んで、笑顔になりきれていない笑顔のまま答える。
「えーと、その、許して、もらえますか」
乞うと、相手は吟味もせず口を開く。
「今後、あなたは私に関わらない」
応じないわけにはいかない。
「はい」
「過去のデータも参照しない」
「え、それは……あ、ああ! ええ! もちろんです!」
冷気を感じて医者はひたすら首を縦に振った。
「ジィルバ・ヴァント中尉のデータにも触れてはいけない」
「……なぜ?」
問い返すと、黒髪の中佐は壁から手を離した。刃物のような笑みを浮かべて。
「死にたければどうぞ」
闇はそれだけ告げた。
しばらく顔を見せていなかったジィルバが執務室を訪れた。
「頭痛は?」
そう言いながら、この前と同じように近づいてくる。
「だいぶいいよ」
「原因はなんだったんだ?」
良かったとも言わないそっけない男をクラングは好ましく感じた。言葉にしなくとも、安堵してくれていることは分かっている。
「ストレスじゃないかな。壁を殴ったらすっきりしたよ」
答えて、クラングは手を振って見せた。左手に包帯が巻いてある。
「まるで望ましくない治療方法だな」
ジィルバが顔をしかめてその手を睨む。
「しかも、利き手を痛めるなんて。お前らしくもない」
不満げに言いながらも、かいがいしくこちらの手を取る。
珍しいことだと思いながら、クラングは椅子に座ったままジィルバを見上げた。
「ここ数日で、少し後悔していた」
白い包帯を見つめながら、ジィルバが呟く。
「俺が法術を使えたら、こんな傷すぐに直せるのに」
頭痛も、という意味だろう。
クラングは眉を下げた。
「私は法術を使えない君が好きなんだがね」
「天使であるか否かと、傷を癒せるか否かを切り離して考えている。治癒の力を捨てたことはやはり損失だったと思う」
頻繁に怪我をしていた戦時中でさえ、ジィルバが悔やむような態度をとったことはなかった。そんな心配をさせるほど、自分は辛そうにしていただろうか。
沈んだ銀色の双眸を見上げて、クラングはあいていた手をさらに重ねた。
「君が力を持ったままだったなら、あの時、私は撃っていたんだと思うよ」
出会ったとき、クラングはジィルバが天使なのか人間なのか判断できなかった。ただ、その美しさに目を奪われて、銃を構えたまま立ち尽くした。
「なくて良かったんじゃないか?」
「そういう問題じゃ」
「ジィルバ」
クラングは首を振った。手を解いて、そのまま抱き寄せる。相手の胸元に顔をうずめながら言葉を紡ぐ。
「今は聞きたくない」
ジィルバは口を噤むと、その背を撫でてやった。
そして、頭痛は緩和しただけで、完治していないのだと気づく。愚痴など零すべきではなかった。
戦後、この男はあまりこちらを頼らなくなった。年頃からしてそういうものなのだろうと思う一方で、不安も覚えていた。若い彼には負担の大きすぎる立場を与えられたのではないか、と。
そんな彼がこうして弱気を見せているのだから、到底拒めるはずがなかった。
「ジィルバ」
甘えるような眠そうな声が響く。
「なんだ」
応えながら、ジィルバは整髪料で固めている髪を勝手に梳きほぐした。隙なく整えた髪はそれこそ頭痛の原因にも見えた。もう少し、肩の力を抜いてもいいのに、と思う。
「今夜は非番か?」
「ああ、そうだが」
「君の手料理が食べたい」
ジィルバは少し驚いた。
クラングから言ってくるのは珍しいのだ。もともとジィルバがおせっかいで彼の食事を作り始めたからである。もちろん、断る理由はない。
「何が食べたいんだ?」
聞き返すと、クラングは顔を上げて、こちらを見つめた。青い双眸には疲れが窺える。
相手が何も言わないので、ジィルバも黙った。落ちてきた前髪をそっと撫でてよけてやる。
やがてクラングは口元を綻ばせた。かつて戦場で見せたあの笑みだ。
「ジィルバ、君は法力なしでも私を癒してくれる」
見ていて泣きたくなるような――。
「クラング」
呼びかけを無視するように視線を逸らし、立ち上がる。それから彼はやっと気づいた様子で前髪を掻き上げた。
「君ね、私は犬猫じゃないんだから、気安く髪を触らないでくれ」
ジィルバは息をついて、肩から力を抜いた。
「猫みたいだとは思うが」
珍しく甘えてきたかと思ったら、食事の要求だったなんてありがちな話だ。
「心外だな」
ため息をつく黒猫を見つめて、促すように首を傾げる。
「それで、何が食べたいんだ?」
「キャットフード以外で頼むよ」
ジィルバは思わず苦笑いを浮かべた。
「それはもちろん」
クラングも笑って、それこそ猫が懐くような仕草で相手の肩に頭を寄せる。
穏やかな表情は見慣れたものだ。だが、目の前にあるそれは無表情には見えない。
本当に気を許してくれているのだとジィルバは理解した。寄りかかる温もりを懐かしく思いながら、その肩を抱き寄せる。
「お前の好きなものを作ってやるよ」
クラングが安堵の混じった声で呟いた。
「いい頭痛薬だよ」