ウィルベルト・スフォーツハッドにまつわる掌編

エイルバート

 しわひとつない白いシャツに袖を通す。ひやりとした感触が懐かしく思えた。ウェストコートを着て、上着を羽織る。最後に、ウィルベルトは赤い髪を編み始めた。
 背後のオットマンには金の懐中時計とアレスが置かれている。
 現在、月例会から五日目の朝である。目が覚めて、動けるようになったら、もう心は決まっていた。もちろん不安はあったが、「自分が選ぶ答えはこれなんだろうな」という、結論のような予測がはじめから頭の端にあった。
 ノックが聞こえ、返事もしないうちに、扉が開けられる。慣れた事だ。
「ウィル、雨が降っている」
 部屋に入ってきた人物は少し焦りを帯びた声でそう言った。
「うん、分かってる。コートも貸してもらえるかな。ちゃんと綺麗にして返すから」
 髪留めをつけながら、顔だけ振り返る。今着ている服もこの館の主のものだ。背格好が近いというのは便利なことである。
 扉からこちらに直進してきたエイルバートは、違うと言った。
「そうじゃない。今日はやめろと言ってるんだ」
 結い終えた髪を片手で背中に投げやって、ウィルベルトは笑う。
「大丈夫だよ」
 エイルバートは顔をしかめた。
「まだ熱が下がりきってない」
 言いながら、窓の外を見やる。弱くも強くもない、雨は静かだ。
「外に出たらぶり返す」
「過保護だなあ。いつからそんなに優しくなったのさ?」
 肩をすくめる。ウィルベルトはエイルバートの横を通り、ソファに腰を下ろした。
 後姿になってしまった友人を見下ろして、エイルバートは呟く。
「お前のせいだ」
 ウィルベルトは振り返らない。ただ少し、頭の俯き加減が大きくなった。
「そう仕向けた覚えはないんだけど、な」
 その声に滲んだ不安を感じ取って、エイルバートは双眸を細めた。
 過去にも、過保護に、丁重に扱った時期があった。
 彼がグルゼから戻った後――思い出すと自分に腹が立つのだが――、腫れ物を扱うように接した、接してしまった。求められるものすべてに応じて、不安など感じないようにしてやろうとしたのだ。
 だが、それに一番最初に反発したのは、当の本人だった。
 エイルバートはソファの背後に歩み寄って、背もたれに手をついて体重をかけた。
「お前が、あまりにも不甲斐ないせいだぞ。戦士でもないパスティアに敗れるなんぞ論外だ」
 呆れた口調でそう告げると、ウィルベルトは笑って振り返った。
「エイルバートが邪魔したんじゃないか」
「人のせいにするな。お前が油断したんだろう」
 言い返して、相手の頭を手の甲で叩く。叱られているのに、なぜか嬉しそうだ。
 エイルバートは溜息をついた。
「……なぜ、自ら辛い道を選ぶんだ?」
 もう一日休むだけでだいぶ違うはずだ。
 ウィルベルトは腕を組んだ。
「楽な道を選ぶのも難しいと思うんだけど」
 エイルバートが首を傾げると、眉を下げて笑う。
「楽な道を選ぶと逃げたと言われるかもしれないから」
「それはそうだが。お前はもうちょっと楽な道を選んでもいいと思うぞ。私は辛いにも楽にも緩急があった方がよいと思う」
 そう言って、もうひとつ溜息をついてみせると、ウィルベルトはその手をとって目を伏せた。
「楽はさせてもらったよ。五日間、助かった」
 エイルバートは赤い睫毛を見つめた。これほど長い間側にいたのは久しぶりだった。候補生時代の野外訓練以来だろうか。
「少し、痩せたな」
 言ってから、三日は何も食べていなかったのだから当たり前だと気づいた。なんとなく居心地が悪くなって、掴まれている手を引き戻す。
 ウィルベルトは空になった手で自分の頬を撫でてみせた。
「頬は痩せやすいらしい。またすぐ元に戻る」
 肌を這う指先につられて、自分も手を伸ばしそうになって、エイルバートははたと手を引いた。
(子どもを心配する親じゃあるまいし)
 どのくらい痩せてしまったのか気になるし、額に触れて熱があるのかも確かめたい。
(馬鹿馬鹿しい。本当にいつからこんな心配性になったんだ)
 引き金は分かっている。
 グルゼから戻っての報告中に倒れた姿と、パスティアの足元に倒れた姿とが重なって見えたのだ。
(ショック、だったんだ)
 誰よりも強い、そう思っていた人間が人前で倒れた。仮眠室まで運んでやって、震える手を握ってやることしか出来ず。短く切られた髪が痛々しくも見えて――。
「……エイルバート?」
 名を呼ばれて、はっと我に返る。冷水を浴びた心地で、エイルバートは呆然とウィルベルトを見た。長い三つ編みが目にとまる。
「思考の小道にでも迷い込んだか?」
「……あ、ああ」
 言い訳も思い浮かばず、素直に頷く。そしてこめかみを押さえた。
「……泥沼に嵌っていた」
 ウィルベルトはソファの背もたれに頬杖をついた。
「疲れてるんじゃないのか? そうだ、五日前に休めと言うつもりだったんだ」
 思い出して寂しそうに笑う。
「まいったなあ、私のほうが倒れるなんて。負担を、かけてしまった」
 ごめんと呟く声は小さくしぼんだ。
 揺れる赤い睫毛がどこか眠たそうにも見えた。実際、眠いのかもしれない。身体はまだ休養を望んでいるはずだ。
「ウィル、もういい」
 エイルバートはそう言って、ソファの背もたれに腰掛けた。ウィルベルトが首を傾げるようにして見上げてくる。
「どうせ、止めても聞かないのは分かっていた」
 時間がないのだ。アルディラの豊穣祭までにザック・オーシャンにかけられた魔術を解かなければならない。
 そして、ウィルベルトは自分を助けてくれた少年とその養父への恩をまだ返していない。彼はきっと今がそのときだと思っているのだろう。
 エイルバートは分かっていた。自分もウィルベルトの立場だったら同じように行動するはずだ。
「無理をするのもしないのも、決めるのはお前だ。私は忠告するだけだ」
 急に突き放されて、ウィルベルトは少し不安そうに眉を下げた。それでも頷く。
「……ああ」
 それから、相手の言葉を噛み締めるように、目を伏せた。
 神妙な面持ちの幼馴染みをエイルバートは鼻で笑う。
「お前は雨に打たれ、マクスウェルに辿り着く頃にはふらふらになっている。倒れて公爵に迷惑をかけるだろう」
「……嫌な予言をするな」
 ウィルベルトが眉根を寄せて、上目遣いに睨んでくる。
「極めて的確な予想だ」
 にやりと笑って、エイルバートはソファから腰を浮かせた。
「コートを取ってくる」
 それから、安堵の表情を浮かべるその肩を手で押す。間抜けた悲鳴と一緒にウィルベルトはソファに転がった。
「遅くなるから、それまで寝ていろ。半日なら出発が遅れても構わんだろう?」
「遅くなるって?」
 寝転んだまま、ウィルベルトが問いかけてくる。エイルバートはソファの端に掛けてあったひざ掛けを取って、相手に投げやった。
「推して測れ」
 部屋を出る間際に振り返ると、了解と示した片手だけが背もたれの向こうからこちらを見ていた。エイルバートは口元に笑みをはき、そのまま扉を閉める。
 これから城に戻って仕事のひとつでも片付けてこよう。それくらいの時間があれば、眠そうだった彼も一休みできるはずだ。

イルフォードとディルム

 見るからに重そうで、不要な緊張を与える扉。その硬い一面を手の甲で四回叩く。すぐに返事があった。息を呑む。
「候補生ディルム・フォゾットです」
 名を告げると、入りなさいと指示があった。
 部屋はイルタシア王室の擁する護衛団《金獅子》の長の執務室である。他団員は別室で待機するので、候補生であればなおさら足の遠い場所だ。
 一礼して、室内に踏み入れる。正面に広い机があり、その向こうに逆光を受けた人物が立っていた。逞しいシルエットを持つその人こそ、現金獅子団長イルフォード・ヴァンドリーである。こちらを見つめる視線があったが、表情は陰になっていて覗えない。相手が何も言わないので、居心地悪くなって視線を横に滑らせた。そして、ぎょっと息を詰まらせる。思わず声を上げそうになったが、なんとか堪えた。
 執務机の斜め手前にあるソファ、そこに人が仰向けに寝転んでいた。
(なっ、なんでこんなところで寝てる奴がいるんだよ!?)
 長い足を肘掛けから投げ出し、腹の上で軽く手を組んでいる。顔の上には光を遮るためであろう本が伏せられていた。だが、それが誰であるのか、ディルムはすぐに分かった。
 本の下から覗く赤い三つ編み。この炎のような色の髪を持つ人間は現在王城には一人しか存在しない。
(これが、新しい……上司)
 ディルムは双眸を細めてその人物を見下ろした。その胡乱な眼差しを受けてか、苦笑を含んだ低い声が響く。
「徹夜明けなんだ。見逃してやってくれ」
 いつの間にかイルフォードが机の前まで歩いてきていた。間近に巨躯の男を見上げて、ディルムは思わず肩を強張らせる。水色の瞳は聞いていたとおり、どこか冷たい。だが、先ほど投げかけられた声は存外に優しい印象があった。
 イルフォードは赤毛の男を一瞥し、それからディルムに向き直った。
「まあ、贔屓目に見ても行儀の良いことではないがな」
 そして、大仰に溜息をつく。
 ディルムは小さく笑った。団長はこちらの緊張を悟って、どうにか気を楽にしてやろうと考えているらしい。まともに話すのは初めてになるが、その心遣いが嬉しかった。
 候補生の笑みに、イルフォードは満足そうに頷く。思っていたより付き合いやすそうな人だと、ディルムは内心で安堵した。
(でも、この人はどうなんだろう)
 赤い髪の男を見下ろす。
(疲れてるにしたって、新しい部下が来るのに寝てるってのはどうなんだ。頑張って起きててくれても悪くはない気もするんだけど……)
 団長からの呼び出しだったので、この男に何かを期待していたわけではない。だが、軽い徒労感を覚え、胸中で溜息を零した。

 あいたソファに腰掛け、ディルムはイルフォードに今後の任務や方針について説明を受けた。
「質問はあるかね?」
「あの方とはいつお話できるんでしょうか?」
 まだ寝ている赤毛を指し、ディルムはそう尋ねた。イルフォードは無表情で答える。
「昼前にまたここに来なさい。その頃には起きている」
「……分かりました。他には特にありません」
 イルフォードは立ち上がって、説明に使った資料を机の上に戻した。振り返って、ディルムを見下ろす。
「おいおい分からないことが出てくるだろうが、それは副団長に指示を仰ぎなさい」
 ディルムは立ち上がって、頷いた。
「はい」
 部屋を出ようと扉に手をかけたとき、イルフォードがぽつりと声をかけてきた。
「仲良くな」
 ディルムは振り返って、水色の双眸を見つめた。
「努力します」
 それだけ答えると、団長の執務室を辞した。

 扉が閉まるのを待って、イルフォードはまた溜息をついた。
 不意に本の下から声が響く。
「部下なんかいらないって言ったのに」
 低いが、独特の柔らかさを帯びた声。聞く者の気を落ち着かせるその声に、しかし、イルフォードは眉を寄せた。
「起きていたのなら挨拶でもしてやれ。きっと第一印象は最悪だ」
 男は視界を遮る本を片手で持ち上げた。上半身を起こし、団長を見上げる。双眸は髪の赤とは対照的な深い海の色をしていた。
「挨拶? 私が部隊を全滅させた史上最悪の副団長だと伝えればよかったのかな?」
 棘のある言葉と裏腹に、その表情は穏やかだ。優しい笑みさえ浮かべている。
「そんなことを自分で言って、落ち込んでも私は慰めてはやらんぞ」
 イルフォードは冷たく言い返して、腕を組んだ。
 ウィルベルト・スフォーツハッド――それが目の前の赤い髪の男の名だった。前金獅子団長の長男であり、魔法剣士としての才も受け継いだ、疑いようもないサラブレッドだ。
「ディルム・フォゾットはできた候補生だ。短い期間でお前のサポートを十分にこなせるようになるだろう」
 ウィルベルトは興味なさそうにぱらぱらと本をめくる。イルフォードは窓の外を見やりながら言葉を紡いだ。
「ただ、少し短気だな。正義感も強いし、エイルバートと似ているかもしれん」
 ぱしんと乾いた音を立てて、本が閉じられる。ウィルベルトはおもむろに立ち上がった。頭ひとつ背の高い団長を見据える。
「部下は要らない。私は一人でいい」
「金獅子の副団長が部下も持たずにいるなど、できると思っているのか」
 咎めるように声を低くすると、ウィルベルトは笑った。威嚇するような鋭い笑みは滅多に見られるものではない。
「外聞を気にするなんてイルフォードらしくもない」
 イルフォードは微動だにしない。
「噂などどうでもよい。だが、団員の士気に関わる」
 間を一歩詰める。腕を伸ばせば、その顔に手が届く。イルフォードは肩に掛かる赤い髪に触れた。
「炎の剣士」
 ウィルベルトの顔が歪む。
「お前はお前が自覚している以上に皆に人気があるのだ。人を避けるような言動をとるな」
 真っ直ぐに見つめてくる眼差しから逃れるように、ウィルベルトはうつむいた。拳を握り締め、呟く。
「……分かっている」
 イルフォードは下を向いた男を見つめた。その両肩には耐え難いほどのプレッシャーが圧しかかっている。周囲からの期待と部下からの憧れ、そして本人が抱える不安。決して細くはない肩なのに、折れそうにも見えた。
 その肩を軽く叩いてやる。
「ウィル、もう少し寝ていろ。疲れているだろう」
 ウィルベルトは片手で顔を覆った。
「悪夢でも見そうだ」
 しかし、頭(かぶり)を振り、顔を上げると、いつもの笑みを見せる。
「熱めの紅茶が飲みたいなあ。身体を暖めてから寝た方が良さそうだ」
 イルフォードも笑う。
「甘えられてもな。自分で淹れろ」
 作り物の笑顔を責める気にはなれなかった。笑えるということに一番安心したいのは本人なのだ。自身で選んだ努力をしているのに、どうして「無理に笑うな」などと言えるだろうか。泣かして愉悦に浸る趣味もない。
(倒れそうになったら支えてやる。それだけでいい)
 手を繋いで引いてやる必要などない。
「ウィル」
 紅茶の準備をしているウィルベルトに声をかける。イルフォードは表情を変えないまま、自分の右腕を務める男を見つめた。
「フォゾットと仲良くするんだぞ」
 ウィルベルトは一瞬きょとんとすると、肩をすくめて笑った。
「努力する」

イルフォードとヴェルナール

 王都はいつでも美しい。秋は王城正門から真っ直ぐに伸びる石畳の両脇を赤い木が彩る。白を基調とした壮麗な建物の多いホワイトガーデンも、この季節ばかりは紅葉に賞賛を譲る。
(なぜ、この景色を見てもなお、赤い髪が嫌だなんて言うんだろうな)
 何かあるとすぐ落ち込む後輩を思い出しながら、イルフォード・ヴァンドリーは窓際で溜息を零した。その側に男が歩み寄る。
「珍しい、一人か」
 低く柔らかい声が耳を撫でたが、それが怒鳴ると誰もが縮み上がることをイルフォードは知っている。振り返って、その声の持ち主に会釈する。
 ヴェルナール・スフォーツハッド、王室直属の剣士団《金獅子》を束ねる男だ。金獅子団員のイルフォードにとっては長く世話になっている上司である。背が高い上に、王城では珍しい赤い髪を長く伸ばしており、どこにいてもすぐに目に付く。彼の父親もまた金獅子の団長であったが、決して七光りでその地位を継いだのではない。齢四十を超えるその男に、イルフォードは今でも敵わないと思う。
 ヴェルナールは頷いて、イルフォードが見ていた景色に視線を移した。
「もう朝晩はだいぶ冷え込むな。まあ、お前に限って体調を崩すこともないだろうが」
 紅葉の美しさについては何も触れないところが、実にこの男らしい。イルフォードは口元を緩める。
「団長こそ、ご子息が寝相の悪さゆえに身体を冷やしていないか心配なさった方がよろしいかと」
 ヴェルナールは気さくに笑った。
「そう言うな」
 そして声を落とす。
「それに、あれは今それどころではない」
 あれ、とはイルフォードの落ち込みやすい後輩であり、ヴェルナールの息子でもある、ウィルベルト・スフォーツハッドのことである。イルフォードは眉を寄せた。
「きちんと睡眠はとっているのですか」
「いや」
 部下の問いにヴェルナールは短く答えた。それから側のソファに腰を下ろす。
「うなされているようだ。サラがつきっきりになっている」
 ウィルベルトはこの夏をグルゼという西の島で過ごした。その旅の往路で心に酷い傷を負った彼は、島でそれを癒したにもかかわらず、王都に戻ったことで再び痛みに襲われているらしい。三日前に議場で倒れてからは城にも来ていなかった。
 線の細い穏和な男だが、決して弱くはない。それがイルフォードが彼に対して持っていた印象だった。緩い笑顔の持ち主で、一見は軽薄にも受け取られがちだが、剣筋の迷いのなさが彼の積んだ修練を物語っている。
「エイルバートが見舞いに行きたいと言っていましたが」
 エイルバート・グリツェデンもイルフォードの後輩である。彼もまたイルフォードと同じような印象を持っていたらしく、今回のウィルベルトの弱々しい姿に衝撃を受けた様子だった。
 ヴェルナールは首を横に振る。
「引き止めておいてくれ。エイルバートはウィルを甘やかし過ぎる」
 ウィル、と息子の愛称をヴェルナールが口にするのは珍しいことだった。いつも部下たちの前ではウィルベルトと呼ぶ。
(この方も気落ちしているようだ)
 内心驚きつつ、イルフォードはそれを顔に出さずに無表情を保つ。
 ヴェルナールは大きく溜息を零した。額の端を手で押さえて眉根を寄せる。
「いや、今は甘やかしておくべきなのか?」
「その必要はないでしょう」
 答えると、ヴェルナールは顔を上げた。覗うような視線は滅多に貰えるものではない。イルフォードはあくまで単調に言葉を紡いだ。
「グルゼでだいぶ甘えさせたのでしょう?」
 ヴェルナールが息を呑む。相手が口を開く前に、イルフォードは続けた。
「雪が降るんじゃないかと思った、とご子息が仰っていました」
 グルゼまでウィルベルトを迎えに行ったのはヴェルナール一人だった。そして帰ってきた二人を大陸側の港で迎えたのは、イルフォードとほか三人の剣士である。いつも厳しい団長が息子を気遣う姿に、四人で目を疑ったことは記憶に新しい。
「あいつめ」
 ヴェルナールは小さく呻く。
「でも、嬉しそうでしたよ」
「いらんことを言うな」
 間髪入れずにそう返されて、イルフォードは今度は笑みを浮かべた。
「グルゼでそうだったように、緩やかな時間があれば、いずれ回復するでしょう」
 急かすのは良くないと、暗に告げると、ヴェルナールは視線を逸らす。そのまま、室内は沈黙に包まれた。
 イルフォードはうつむいた上司をじっと見下ろした。赤い髪、青い瞳は確かにウィルベルトと同じものだが、顔立ちはあまり似ていない。甘さを含んだウィルベルトの容貌に比べて、ヴェルナールは精悍だ。それでも、先ほどのように上目遣いで見つめられると、印象が重なるのだから、やはり親子なのだと思う。
 そんな取りとめもない考察をしていると、やがて、ぽつりと低い声が漏らされた。
「次の団長はお前だな」
 イルフォードは男の顔を覗くように首を傾げた。相手がそれ以上言わないので、答える。
「指名してくださるのでしたら、慎んで承りますが」
 もともと自分が団長になる可能性は五分と読んでいた。もっと言えば、副団長になるのだと思っていた。次の団長もまた赤い髪の剣士だろうと。
 ヴェルナールは口角を上げた。
「ふ、物怖じないな。お前になら任せられる」
 イルフォードは向かいのソファに腰を下ろした。
 ヴェルナールは確かに息子に厳しい。だが、それは期待しているゆえのことだとは誰もが知っている。
「今回のことでご子息の株は下がりましたか」
「いや、私にとってはそういうわけではないが、周囲の目を考えれば、団長にはつけられんだろう」
 不可抗力とはいえ、窮地で仲間を失い自分ひとり生き残った人間を、組織の頭にすえるのは少なからず反発もあるだろう。他に適任者がいるなら、そちらが求められるはずだ。
 イルフォードは膝の上に手を置いて、床を見つめた。
 何よりウィルベルトが遺族の目に耐えられないだろう。
「退団を促すつもりだ」
 耳を打ったヴェルナールの声に、イルフォードは顔を上げた。薄いブルーの瞳を見開く。
 珍しく驚きの表情を見せる部下に、ヴェルナールは軽く手を振って見せた。
「親馬鹿と言われるかもしれんが、ウィルはこれまで私の期待に良く応えた。多少甘い性格に育ってしまったが、人望を得るには悪くはない。……だが、すべては私の独善だ」
 息をついて、さらに続ける。
「これ以上のことは求められんよ。これまで何も望まなかったウィルが、もし今こそ望むなら、私はそれを受け入れるつもりだ」
 イルフォードは眉を寄せた。
「ウィルベルトが退団を望むと?」
「望まないと思うか」
「分かりません。私はウィルベルトではないので」
 即座に言い返して、さらに続ける。
「退団を提案するのは結構ですが、促したり、押し付けたりするのはやめていただきたい。そうでなければ、貴方は独善に陥ったままになります」
 言い切って、イルフォードは肩を上下させた。
 深い海色の眼差しがこちらを見ている。
 団長への道は途絶えただろうか、そんな考えが頭を過ぎったが、しかしヴェルナールは笑った。
「お前には敵わんな」
 思わず目を瞬く。
 ヴェルナールは笑みを消して、目線を下げた。
「……難しいな。正直、何が最善なのか分からないでいるところだ」
 長い指がソファに立てかけた剣の柄を撫でる。鞘の中身はかつては強力な魔法剣だった。持ち主と長く共闘したその剣は、今は息子が携えている。
「どの作戦でもこれほど悶々としたことはないぞ」
 視線遠く語る男に、イルフォードは遠慮がちに口を挟んだ。
「目標が定まっていないからでしょう。戦術の練りようもない」
 なるほどと相手は頷く。
「本人と話をすれば見えてくるのではないですか」
 そう言うと、ヴェルナールはうつむいて、また顔を上げて、視線を逸らした。
「すぐに泣き出して話にならなそうだな」
 イルフォードは笑った。肩をすくめて見せる。
「仕方ないでしょう。貴方がそういうふうにお育てになったのですから」
 部下の言葉にヴェルナールは反論もせずに苦笑だけ浮かべる。困ったようなその表情は、やはりウィルベルトに似ていた。
「大勢の剣士を導いた貴方ですから、子育てにも自信があるのかと思っていました」
 これにはヴェルナールは眉を寄せた。不満げな顔で、それでも笑いを含んだ声で応じる。
「馬鹿を言え。部下は大勢もったが、息子はあれ以外にはおらんのだ」
「ああ、それもそうですね」
 頷いて、イルフォードは視線を外に戻した。鮮やかな赤を目の前で見たあとでは、遠い紅葉は先ほどより霞んだように感じる。
 不意にヴェルナールが呟く。
「惜しいな」
「は?」
 何の話かと振り返ると、男はソファの背もたれにすっかり寄りかかってこちらを見ていた。自嘲のような、曖昧な笑みを浮かべている。
「息子でなく娘だったなら、お前の嫁として貰ってもらおうかと考えるところなのだがな」
 予想だにしていなかった台詞にイルフォードは唇を曲げた。本当に娘だったとしたら、きっと惜しんで簡単に嫁には出さないだろうに、と思う。
「はあ」
 生返事をして、ふと思いついて言葉を継ぎ足す。
「別に息子でも、貰っても構いませんよ」
 ジョークのつもりだったが、ヴェルナールは両手で顔を覆うと、黙り込んでしまった。

イリーナ

「よく眠れました?」
 澄んだ声音が耳を撫でる。ウィルベルトは枕に頭を預けたまま、こちらを覗き込むイリーナを見上げた。プラチナの髪が肩口を滑って鎖骨へと流れている。
「……ああ」
 寝起きの乾いた声で答え、髪を撫でた手を頬へ移す。
「起きていただろう? 私が寝るまで」
 イリーナは眉を下げた。だって、と返す。
「不謹慎ですけれど、嬉しくて。久しぶりの帰宅でしたから」
 いつもなら帰宅して一番喜ぶのは当の本人なのに、今回は違っていた。国外出張の土産は一週間の謹慎だった。
「ごめん」
 謝罪とともに溜息を吐き出して、ウィルベルトは視線を逸らす。長い間一人にしていたのに、昨夜は成り行きを説明しただけだった。
 イリーナは慰めるように笑みを浮かべ、赤い前髪を撫でる。
「一週間も一緒にいられるなんて奇跡です。貴方が定年退職するまでないと思っていました」
 髪を梳く指先の心地よさに双眸を細めながら、ウィルベルトはぽつりと答える。
「そうか、そうだね……」
 その言葉はそこだけ切り取ればただの同意だった。だが、イリーナは眉をひそめた。海色の双眸が自分を見ている。
「いつも、寂しい思いをさせてる」
 低くて柔らかい声。イリーナはこの声が好きだった。けれど、謝るときが一番優しくて、それが切なかった。いつも、謝らせてばかりいる。
「私で」
「それ以上言ったら怒ります」
 言葉を遮って、イリーナは夫の顔を両手で包み込むようにした。
「私が貴方を選んだんですよ」
 すでにほとんど怒っている声で言葉を紡ぐ。
「親が選んだのだとしても、貴方がどんなに強くて地位も功績もある男でも、嫌なら絶対に触れさせはしませんでした」
 そう言うと、ウィルベルトは目元を緩めた。頬に触れる手に擦り寄る。
「噛み付かれなくてよかったよ」
 甘える仕草にイリーナは嬉しくなって、そのまま相手の横に寝転んだ。瞼と唇のそれぞれにそっと触れるだけのキスをする。
 くすぐったそうに笑ったウィルベルトの髪をもう一度撫でて、息をついた。
「昨日の話、もっと詳しく聞かせてください」
 ウィルベルトは唇の端を歪める。
「つまらない話だよ。できれば聞かせたくない」
 イリーナは目を伏せて首を振った。それから相手の肩を撫でる。
「私の独占欲を満足させるために話してくださいな。貴方のこと、全部知っておかなければ気がすみません」
 軽い口調で冗談めかしくそう言う。ウィルベルトはまいったなと呟いて、困ったような顔をした。それでも、ぽつぽつと語り出す。
 心地よい声に滲む悲しみに耳を傾けながら、イリーナは剣を持つ大きな手を握り締めた。指に新しい傷ができている。
 横に並んで守ることは出来ない。走ることもできないこの身体は、ただもどかしさばかりを抱え込んでいる。
 けれど、この悲しみをどうか半分に。
 また前を向く、その力になれたなら。
 そうしたらきっと、傍にいることができて良かったと、そう思える。

マクスウェル家の人々

 頭を下げて部屋を辞する。
 部屋は屋敷にある客室の中では最上のものだった。今、中に居るその人はそれだけの人物だということだ。
 音を立てないように扉を閉めると、彼女はやはり音も立てずに廊下を進んだ。突き当りの角を曲がり、ふと息をつく。
「……本物だった」
 その一言に、角で待っていた他のメイド達が顔を喜色で染めながら、口では信じられないと言葉を紡ぐ。
「うっそ」
「本当に? 本当に?」
「ほら、やっぱり見間違いじゃなかったんだわ」
「茶色に見えるような曖昧な色ではないもの」
「格好よかった?」
「お顔色が優れなかったけど、それは間違いなく」
「ねえ、どんな感じ?」
 そうしてひとしきりはしゃいだ後に顔を見合わせた。
「……本当に『あの』公爵なのね」
 憚るように声を潜めて誰かが呟き、他が頷く。
「『あの』組織の副団長よ」
「それ、名前を言ったも同然よ」
 くすくすと笑いながら。
「赤い髪も魔法剣士も、たいがい彼の代名詞は彼しか指さないわ」
 ひとりが首を傾げる。
「でも、どうして、こんな時間に?」
「そもそもマクスウェルとの交流はなかったはずよ」
 客室の担当を任されたメイドが眉を下げる。若いが機転の利く優しい女性だ。
「今は体調を崩して休んでおられるのよ。近くで具合が悪くなって、それで旦那様がうちに連れて来たのかしら」
 アーネストが「家の外には決して漏らさないように」と言いつけたりしなければ、それで納得するところなのだが。
「まあ、すぐに旦那様から説明があるはずよ。このまま一人に任せて、それだけですむような相手じゃないのは確かだもの」
 この場では年長の――それでも三十には満たない年だ――メイドが溜息を零す。
「それもそうね。実際、私達がこうやってこぞって様子を見ようとしているだけでも、旦那様には嬉しくないことでしょうし」
「そのとおりだ」
 ごほんと咳を孕んだ低い声にメイド達がびくりと反応する。振り返ると、マクスウェル本邸の執事が苦い顔でそこに立っていた。
「まったく、お前達ときたら、本当に目敏くて困る」
 怒っているというよりは呆れているような声だった。メイドは安堵しながら、苦笑する。
「知らない振りをしろと言われても、少々難しいですわ」
「英雄でも見た気分かね」
「ラタドワン劇場の人気俳優を見た心地です」
 わざとミーハーな例えをする若いメイドに、執事は溜息を零す。「だから、我慢できずにはしゃいでしまいます」と言外に言われたも同然だ。
「まったく、君達は事態を判っているのか。今、この屋敷には外部に知られてはならないお客様が他にもいる。大声で笑っている場合ではないのだぞ」
 年長のメイドが微笑む。胸元に片手を添えて、執事を見上げる形で首を傾ける。
「心得ています。私達も旦那様を窮地に追い込むつもりは毛頭ありませんよ」
 ただ、と続ける。
「長く続く緊張状態の中、わずかでも心浮かれる出来事に喜ぶこと、見逃してはくださいませんか」
 執事はふと笑う。老練の男は、稀に悪戯な笑みを見せた。
「だから、大声を出すなと言っているのだ。知らない振りをさせてくれたまえ」
 メイド達は互いに顔を見合わせて、やはり笑った。
「心得ましたわ」
「お客様に落ち着きのない女だと思われたくはありませんもの」
「まあ、あなた、気に入られてどうするつもり?」
「いやだ、公は既婚者よ」
「フレイム様だって可愛らしい方だわ」
 可愛いのはお前達だと、執事は内心で苦笑しながら、鈴が鳴るようにさえずるメイドたちを見下ろす。
 ただ一点、憂鬱になることといえば、アーネストがスフォーツハッド公に対して、気を許していないことか。ならばなぜ屋敷にあげたのか、情に流されたのだろうと指摘すれば彼は落ち込むだろう。自覚があるのと他者に指摘されるのでは受ける傷がまるで違う。
(しかし、アーネスト様を情で流すとは、大した人もいたものだ)
 持って生まれた性質か、後に身に着けたものかはさておき。
「さて、おしゃべりはそこまでだ。これからアーネスト様からお話がある。すぐに二階の広間に移動しなさい」
 手を叩いて促すと、メイドたちは「はい」と返事すると変わり身も早く足早に動き出す。そうして全員が廊下の向こうに消えていくのを見送って、執事は一人で溜息を零した。

アーネスト

 男の熱は高かった。疲弊した寝顔を眺めてアーネストは眉を寄せた。
(なぜ、ここまで衰弱しているんだ?)
 はじめ、熱があるのは雨に濡れたせいだと思っていた。だが、いざ服を着替えさせてみれば、彼のコートは撥水加工がほどこされていたのだ。実際、濡れていたのも地面に膝をついたズボンと、頭だけだったのである。
(ただの熱ではないのか)
 では、体調に変異を起こさせるものは何か。毒か、でなければ、魔術だ。
 魔術が使われた痕跡を探ろうと、アーネストは男に向かって手を伸ばした。が、すんでのところでその手を掴まれる。身を強張らせながら、アーネストは一歩下がった。
 手を掴んだのは、寝ているはずの男だった。
「う……」
 小さいうめき声が漏らされ、赤い睫毛が揺れる。次いで朦朧とした眼差しがこちらを見た。が、すぐに視線は移動し、ぐるりと周囲を見渡す。
「……あれ?」
 ベッドの天蓋を見上げて青い瞳を数回瞬くと、男は、ウィルベルト・スフォーツハッドはアーネストを見つめた。アーネストが声を発せず黙っていると、掴んだままの手に気づく。
「すまない、間違えた」
 それだけ言って、あっさりと手を離した。
 アーネストは開放された右手を左手で撫でる。相手の手から伝わった熱がまだそこに残っているような感触があった。
「暴漢と?」
 小さな笑みを添えて問うと、ウィルベルトも弱々しくながら笑った。
「ああ」
 返事は短い。長く喋る気力がないだけなのかもしれない。もしくは、気心の知れない相手だからかもしれない。そう考えるうちにも、相手の瞼が下がっていく。
 不意に、物足りないような、悔しいような気持ちになって、アーネストはベッドの端に手をついた。ウィルベルトが閉じかけた瞼を持ち上げて、こちらを見やる。
「何?」
「……その熱、魔術によるものでしょう」
 まだ調べていないから当てずっぽうだった。魔術に対する訓練を積んだ相手であることを考えれば、毒の方が確率は高かったかもしれない。
「さすがマクスウェル当主」
 ウィルベルトは楽しそうに双眸を細める。だが、それが愛想笑いであることはアーネストにも分かった。
「何があって? いや、誰から?」
 ウィルベルトは首を振る。
「いろいろ、あってね」
 話すのは面倒だと言いたげな声だった。
「あなた、意外と淡白ですね」
「よく言われる」
 遠目にしか見たことがなかったが、金獅子の団員に囲まれるウィルベルト・スフォーツハッドはいつもにこやかに笑みを浮かべており、人懐こい人物なんだという印象があった。
「私はうわべだけの人間らしい」
 アーネストは眉を寄せた。
「そんなことはどうでもいいですが、自分を卑下する人間は嫌いです」
「……実に魔術師らしい。そう思って、面と向かって言える人間は少ない」
 褒められたのか皮肉られたのか、判断しかねてアーネストが黙ると、ウィルベルトは笑って上半身を起こした。アーネストが顔をしかめる。
「寝ててください」
「君が寝かせてくれないんじゃないか」
 眠ろうとするのを邪魔したのは確かだ。ばつが悪く、アーネストは目線を下げた。
 ウィルベルトはクッションを挟んでヘッドボードに体重を預けた。
「それで、君は何を知りたいんだ? 今回のことに関してはあとでフレイム君も含めて話をしたい」
「いえ……それはそれでいいんですが」
 逸らした視線の先、身を起こしたウィルベルトの長い赤い髪が目に付いた。三つ編みにしてあるが、だいぶほどけて乱れている。
 相手が待っているのを感じて、アーネストはなんとか質問を捻り出した――最初の質問に答えていないくせに、と思いながら、自業自得であることも認めて――。
「……どうして、うちに来たんですか?」
 ウィルベルトがきょとんと目を瞬く。アーネストは決まりの悪さに眉を寄せながら続けた。
「フレイム・ゲヘナがここにいること、すでに金獅子に知られているんですか?」
「ああ、……いや、まだ知られてはいないと思う」
 ウィルベルトはアーネストを見つめた。ザックと同じ顔をした年若い魔術師。
「ただ、彼が頼るならここだろうと思ってさ」
「……違っていたら、どうするつもりだったんですか?」
 ウィルベルトは肩をすくめた。
「ちょっと恥ずかしいことになってたかな」
 なんとなく頭痛を感じて、アーネストは片手で額を押さえる。
「『すみません、間違えました』?」
「そうそう」
「……それで済むと思ってるんですか?」
 声を低くして問い返すが、王室直属の剣士はまるでふさわしくない調子で続ける。
「家宅侵入か。拘置所に一晩かな。始末書も書かなければ」
「馬鹿な。あなたは行方不明だった。そんなことになるわけないでしょう」
 相手の胸倉を掴む。ウィルベルトは特にその手を払うようなことはしなかった。間近に迫った翠の双眸を真っ直ぐに見返す。
「下手をすれば私があなたを監禁していただなんて難癖をつけられかねない」
 怒気のこもった声をものともせず、ウィルベルトはくすりと笑った。
「この状況を見られたら否定できないね」
 その言葉を理解するなり、アーネストは手を離した。忌々しげにウィルベルトを睨み、しかし、すぐに脱力して盛大に溜息をついた。
「まったく、あなたという人は……」
「何?」
「金獅子の団長殿に同情申し上げる」
 首を傾げる相手に、それだけ言って、サイドテーブルに置いていた銀鎖を手に取る。
「これでもう監禁という嫌疑からは言い逃れできなくなりますが……」
 短いネックレスにも見えるその華奢な鎖をウィルベルトが訝しげに見つめる。
「あなたの魔力を封じます」
 その鎖の効力を悟って、ウィルベルトが身じろぐ。やっとそれぞれの立ち位置に応じた形勢になったことに、アーネストは少し満足した。不満といえば――まるで悪役になった気分だ。
「別に身体を傷つけるような効果はありませんよ」
 ウィルベルトが「しかし」と呻く。
「魔術は必要ないでしょう? 魔法剣を手放しておいて、今さら何を躊躇するんですか」
 ベッドに片膝をつき、熱のせいでまともに身動きできない相手の手を取る。
「それとも、魔術で何かなさるつもりで?」
 翠の双眸が剣呑に光る。
 ウィルベルトはぐっと息を呑んだ。しかし、観念したらしく、やがて肩の力を抜いた。
「分かった」
 鎖を巻きやすいように、自分の意志で手を差し出す。アーネストは銀鎖をその手首にかけた。二重に巻く。
「別に、魔術で何かするつもりだったわけではないんだ」
 冷たい感触で魔力が断ち切られるのを感じながら、ウィルベルトは小さな声で呟いた。
「ただ、……その、アレスもいないから……少し、不安で」
 アーネストは鎖の端と端を留め金で繋ぎながら、相手の顔を見上げた。落ち込んでいるような、しょんぼりした顔に思わずたじろぐ。
(年上、のはずだが)
 気まずくなって目線を逸らし、下へ落とす。
 熱い手は指が長く、優雅な形をしていたが、よく見ると傷だらけだった。どれも古い傷だ。
「あの……」
 アーネストは呻くように声を絞った。
「そんな顔をしないでください。気が咎めてしまうじゃないですか」
 下を向いたままだったが、気配で相手が微笑んだのが分かった。
「そんな可愛い人ではないだろう、君は」
 アーネストは唇を歪めた。
(まさか今の顔はわざとか……?)
 しかし、反論すると墓穴を掘りそうな気がして、そのまま相手の手を離した。立ち上がって、背を向ける。
「……用は済みました。もう寝ていいですよ」
「いや、いい。すっかり目も覚めたし」
 そう言って、ウィルベルトはサイドテーブルの時計を見やった。
「これから話をしよう。フレイム君を交えて」
 アーネストは呆れながら相手を見下ろした。
「そんな熱で何を言ってるんですか。明日でいいですよ」
「そんなにやわじゃないよ」
 ウィルベルトは三つ編みを結いなおしている。腰に手をあて、アーネストは溜息をついた。
「熱を取り除きましょう。魔術によるものなら、私にも治癒できます」
 ウィルベルトは嬉しそうに笑って、しかし、首を振った。
「ありがとう。でも、いいんだ。あまり簡単に治ってしまうと、次もまた油断してしまう」
 アーネストは双眸を細めた。
「損な性格ですね」
 ぽつりと告げると、ウィルベルトが驚いた様子で目を瞬いた。
「何か?」
「いや、それはあまり言われないな」
 驚くほどでもないような答えに、アーネストは首を傾げる。ウィルベルトはくすくすと笑いながら、結い終えた髪を自分で引っ張った。
「でも、今朝言われたばかりだ」
 怪訝そうにこちらを見ているアーネストに、ウィルベルトはそれ以上は何も言わず、ただ笑ってみせた。