一条の銀の光 4

 隣の部屋には闇音もグィンもいなかった。机の上に買い忘れた夕食の材料を買いに行ってくるというメモが置かれていた。
 フレイムは化粧を落とし、服を着替えるとふらふらと外へ出た。
 白い太陽は憎いくらしくもさんさんと輝いている。
 行くあてもなく、宿からしばらく歩いたところで足を止めた。ぽたぽたと、頬を伝った雫が乾いた土を濡らす。涙は自分の意思を無視し、溢れて止まない。
 歩く気力も出ず、フレイムは道端の木に背を預け、ゆっくり腰を下ろした。
 ザックが心の底から「関係ない」と言ったわけではないと分かっていた。分かっていても、だめだった。いつのまにか彼の言葉は自分に多大な影響を及ぼすようになっていた。冗談でも、嘘でも、ザックの言葉は直接、心に響いた。
 それは自分が彼に対して、大きな信頼を寄せているせいである。――信頼を寄せずに入られなかったのだ。彼は神腕も含めた自分を受け入れてくれた数少ない人間なのだ。
(あとで謝ろう……)
 誰だって知られたくないことがある。自分はそこに立ち入ろうとしたのだ。ザックが怒っても仕方ないような気がする。
「あら、フレイムくん?」
 驚いたような高い声が掛けられ、フレイムは涙のあとをこすって顔を上げた。
 声を掛けた人物が背をかがめる動きによって美しい黒髪が肩口を滑る。
「……雪さん」
 フレイムは目を丸くして彼女の名を呟いた。彼女は大きな紙袋を抱え、心配げに自分を見下ろしている。
「大丈夫? どこか怪我したりしたの?」
 雪は自分の涙のあとに気づいているのだ。フレイムは静かな笑みを浮かべて、首を振った。
「いいえ。……ちょっと、喧嘩しちゃって……」
 言葉の最後が上擦る。雪は頬に掛かった髪を後ろへやった。
「喧嘩って……、ザックさんと?」
 彼女の声にはいくらか罪の意識が感じられた。自分がさせた女装が喧嘩の原因ではないかと思ったのだろう。フレイムは慌てて手を振った。
 雪はフレイムの横に腰を下ろし、紙袋を木にもたれさせた。フレイムは彼女の秀麗な横顔を見やった。
「雪さん……、あの、お店のほうは?」
「ああ、今日はお昼からお休みなの」
 彼女は赤い唇に人差し指をあて、片目を閉じて笑った。つまり、フレイムのために彼女の店は今、午後からの休業を決定したのだ。
 フレイムは慌てて口を開こうとしたが、彼女の折角の好意を無駄にするのも気が引けて、押し黙った。
「喧嘩の理由……、聞いてもいい?」
 雪は優しく目を細めた。フレイムは少しためらいながらもゆっくり口を開いた。
「……要らないことを聞いて、怒らせてしまったんです」
「要らないこと?」
 彼女はそのことに触れてもいいかという意味も含めて聞き返した。フレイムは小さくうなずいた。
「彼が最近、不機嫌な理由」
 不安について聞いたことも喧嘩の要因ではあるのだろうが、当人が否定したので口にはしなかった。
「そんなことで?」
 雪はやや驚いたような声を出した。
「ザックさんは寛容さに欠けているのかしら?」
 フレイムは首を振った。
「そんなことは全然。……ただ、やっぱり機嫌のよくないときだったから……」
 雪はため息をついた。
「でもフレイムくんはザックさんを心配して尋ねたんでしょう?」
 フレイムはしばらく口をつぐんだ。
「……分かりません。そうかもしれないし、彼が俺に何も話してくれないことに不満を感じていたからかも……」
 フレイムはふと、後者のほうが正しいかもしれないと思った。ただ単に自分の不満を晴らすためだけ、ザックが不機嫌な原因に対する好奇心を満たすためだけだったかもしれない。フレイムは自己嫌悪にうつむいた。
 フレイムの考えていることがいくらか分かったのか、雪は少し肩をすくめて笑った。
「そんなものよ、誰だって。私だって彼氏の隠してることが気になって仕方ないもの」
 ザックは彼氏じゃないのだが、そう思いながらもフレイムは笑った。
 一瞬。辺りの空気がまるで風船のように弾けた感覚に襲われた。
 地面に輝く光の線が走る。
 結界だ。
 そう思ったときにはすでに遅く、二人の寄りかかる木の周りに魔術陣が張られ、その光の壁が天に駆け上った。 
   フレイムはばっと立ち上がった。雪は何が起きたのか分からずに辺りを不安げに見まわす。
「フレイムくん?」
 フレイムは彼女の呼びかけには答えず、結界を張った人間が現れる方向を睨み据えた。
 日の光に短い金髪が輝く。細められ、満足そうな光を浮かべた緑の双眸。
「……セルク」
「こんにちは、フレイム・ゲヘナ」
 セルクは笑って挨拶をし、雪を見やった。
「逢い引きの最中だった?」
 フレイムはきっと厳しい目をセルクに向ける。
「雪さんは関係ない。巻き込んだら、許さない」
 先程までとは打って変わった、フレイムの凄みを利かせた声に、雪は目を見張った。果たして自分はどういった騒動に巻き込まれようとしているのか、不安げに首を捻る。
 セルクは両手を上げて陽気に答えた。
「それは君しだいだ」
「どうしろと?」
 フレイムは片目を細め、苦い顔をする。
「僕と一緒に、僕の雇い主に会おう」
 セルクは場違いなほどにさわやかな笑顔を見せた。彼の言葉を正確に訳せば、おとなしく捕らえられてくれ、ということだ。
「それで雪さんに手出しはしない?」
「神に誓って、それは約束しよう」
 セルクの答えにフレイムは静かにうなずいて雪を振り返った。
「お店のほうへ戻ってください」
「フレイムくんは……?」
 雪は不安げな目を向けた。フレイムは首を振る。
「私、ザックさんに知らせてくるわ」
 雪はフレイムの手を掴んで泣き出しそうな声で言った。
 セルクの耳にも雪の言葉は届いていたらしい。彼は手を振った。
「お嬢さん、それは止めておいたほうがいいと思うよ。ザックのところには怖い剣士が行ってる筈だから」
 その言葉にフレイムが目を大きく開く。
「なんだって……?」
「ガンズが痺れを切らしたのさ。チームを二つに分けた。僕を筆頭に君を捕獲する班。そしていつもその邪魔になる、ザックを始末する班にね」
 セルクは喉の奥で軽く笑ってそう告げた。フレイムは微動だにしない。
 雪がますます不安になった。二人の男の会話は一般人が交わせるほど、穏やかなものではない。生き死にが関わっているのだと直感する。
 フレイムの頭の中でセルクの言葉がぐるぐると鳴り響く。
 ――ザックを始末する……。
 呑まれたように、眉一つ動かさないフレイムの肩を雪が揺さぶった。
「フレイムくん、私行くわ!」
 気を抜けば、悲鳴にもなってしまいそうな雪の決断の声にフレイムは我に返った。
 ゆっくりと雪の顔を見る。濡れた黒い瞳が彼を見つめていた。
「……だめです」
 フレイムは声を厳しくして雪の震える肩に手を置いた。雪は首を振る。
「いやよ。私の大事なお客様を見捨てるわけにはいかないわ」
 きっぱりとした雪の口調に、フレイムはきつく目を瞑った。
「……どうしても……?」
「もちろんよ!」
 雪は意志が強く、勇気の溢れる女性だった。フレイムは心の奥で彼女を羨んだ。
 しばらく沈黙したあと、静かに彼女の額に唇をあてる。柔らかい光が、文字のような物を描いた。
「災い避けです。確実に身を守る物ではありませんが、あなたを危険から回避させてくれます」
 雪はわずかに熱を感じ、額に手をやった。手には何もつかなかったが、どこか心がほっと安らぐ気がした。
「ありがとう」
 雪は柔らかい笑みを浮かべた。フレイムはその笑顔を笑顔で受けとめ、それから声を落として彼女に囁いた。
「ザックはこの先の宿にいます。もしかしたら近くを闇音さんとグィンが通るかもしれません。そのときは彼らに……。決して無茶をしないでください」
 雪はしっかりうなずくと、フレイムの頬に接吻した。思わず、頬を染める少年に微笑み、宿のほうに向かって駆け出していく。
 セルクはその後ろ姿を黙って見送り、フレイムの方に手を差し出した。
「行こうか」
 フレイムはセルクのほうへ歩み寄り、その手を音がするほど激しく打ち払った。
「ザックが死んだときは、全員、容赦はしない」
 ガラス玉の瞳は強烈な光を伴い、金髪の青年を睨みつけた。セルクは肩をすくめて笑った。
「では不本意ながらも、ザックの無事を神に祈っておこう」
 眩しそうに天を仰ぎ、セルクは指を鳴らして結界を解除した。それから雪が駆けて行った方向を目だけで見、愉快そうに笑った。
「まあ、この世界の美醜の比率が醜い方に傾くのは忍び難い事だ。彼女とザックが無事なら、美の女神もほっと息をつくだろう」
 冗談を言うセルクを見るフレイムの視線を冷たい。セルクはそんな彼の視線は軽く無視して歩き出した。
 フレイムは拳を握り締め、おとなしく彼の後について歩いた。