一条の銀の光 2

 起き上がり、洗面台の前に立ってみた。
 鏡に映し出された自分。眉間には縦皺が刻まれている。ザックはがっくりと肩を落とした。
(『フレイムが怖がってる』って……?)
 むむむと鏡に顔を近づけ、自分の顔と睨めっこをした。片眉を吊り上げたり、口をへの字に曲げたり――ふと、顔の変化を止める。
 ぴちちちと遠くで小鳥のさえずる声だけが耳に触れる。外は晴れ、眩いばかりに太陽は輝いている。極平和な夏の日。この一室だけが外界から完全遮断されたように、虚しい空気が漂う。
 ――誰もいない部屋で自分は何をやっているのだ。
 ため息をつき、馬鹿らしいと手を振る。そう思いながらもちらりと鏡に目をやる。
(……怖い……か?)
 否定するように今度は首を振る。
「あいつは気が小さすぎるんだ」
 ザックは木の壁を乱暴に蹴り、ベッドに戻った。その際、壁に見事についた足跡は闇音によって発見され、ザックが一晩かけて雑巾で消すこととなる。

 シェシェンの商店街はカルセと違い、露店はなく、白い壁に大きな窓のついた店々が軒を連ねて建ち並んでいる。入り口の上には、店の看板が取り付けられていた。
 通りはさほど混んでいない。日傘を差したり、タオルで顔を拭ったりしているのが目に付く。フレイムはそんな人々を横目で見やり、自分の頭に手をやった。自分の髪の毛以外はとりたて何もついていない頭は太陽の光に熱くなっている。
(帽子……欲しいな)
 フレイムは帽子を持っていなかった。しかし、これからまだ暑い日が続くだろう。必要な代物かもしれない。
「フレイム、あれ! 服屋さん」
 グィンが、窓から色とりどりの衣装が覗く店を指差す。白い石造りの路上をフレイムと闇音は先を飛ぶ妖精について歩いた。
 赤い木枠に厚いガラスがはめられたドアを押し開くと、カランカランとベルが鳴り響く。
 冷気が開かれた扉から流れてくる。この店にも魔術が掛けられているようだ。フレイムは思わず肩をすくめ、腕をさすった。
 布の匂いが漂う店内はライトが明るく、磨き上げられた床は鏡にも劣らない。フレイムはその床に映る自分を見つめ、ほうっと息をついた。
「東方の服ですか」
 闇音が店内を見渡し、感嘆の息を漏らした。
 東、と言っても様々なのだが、闇音が言ったのは東の島国のひとつのことである。詰襟と、ボタンではなく紐で布地を繋ぐ形の服である。裾は足元まであり、その下にズボンを穿いたりもする。
 フレイムもつられて周りを見やった。セルクが着ているものに似ていると彼は思った。
 店の奥から年若い女性が現れた。艶やかな黒髪を耳の下で真っ直ぐに切り揃え、赤い紅をさした美しい女性だ。赤い光沢のある生地に、黒い糸で華が刺繍された東の衣装にその身を包んでいる。
「いらっしゃい。どんなお洋服をお探し?」
 明るく高い声が響いてフレイムはドキッとした。落ち着いた雰囲気から二十代くらいの女性かと思ったら、その声には瑞々しい若さが感じられた。
「店主ですか? それにしてはお若いですね」
 闇音が女性に笑顔で話しかけると、女性も可愛らしい笑みを見せた。
「ええ、まだ十九よ。小さい頃にこの国に移り住んできたの」
「フレイムより二つ年上だね」
 グィンが身を乗り出して、女性に話しかけた。
「あら、妖精さん。フレイムって?」
 女性はグィンの頭を撫で、わずかに首を傾いで尋ねた。緑髪の妖精は闇音の陰にいる少年を指差した。闇音が横にどくと女性はフレイムをまじまじと見つめた。フレイムはどうしていいのか分からず淡く頬を染める。
「ふふ、可愛い子ね。私の名前は雪(シュエ)よ。よろしくね」
「あ……、はい」
 フレイムはぽつりと小さく返事をした。
「あら、あなた男の子? やだ、女の子かと思ったわ。ごめんなさい」
 フレイムの声を聞いて、雪は笑って謝った。女の子と間違われ、フレイムは顔を赤くしてうつむく。
「お詫びにいい服を見立ててあげるわ。こっちへいらっしゃい」
「あ……あの」
「いいから、いいから」
 雪が少年の手を引く。フレイム自身は服を買うつもりはなかったのだが、女性の手を振り払うわけにもいかず、半ば引き摺られるようにして店の奥へ連れて行かれた。
 精霊二人は木偶の坊のように突っ立てその様子を見ていた。
「うーん、旦那ピンチ?」
 グィンが腕を組んで言った。旦那こと、一人で宿に残っている黒髪の青年の精霊である闇音が、両手を上げて首を振る。
「あの旦那様は素直じゃないですから、フレイム様が愛想を尽かすのも早いかもしれませんね」
 二人はふっと笑って顔を見合わせる。
「ま、いいか。闇音も服を選びなよ」
「私に新しい服ですか?」
 そう言って自分の黒い服を摘む。グィンはずらりと並んだ服を見渡しながら声を弾ませる。
「うん。こういう服は闇音に似合うと思うんだ」
 精霊二人は自分たちの主人を笑いの種にしておきながら、そんなものどこ吹く風といった感じだった。
「うーん、本当にあなた男の子?」
 雪は店の奥の大きな鏡の前にフレイムを立たせた。鏡の両脇には白い布の仕切りが立てられている。
 フレイムは小さくうなずいた。これでも十七年間、正真正銘の男として過ごしてきたのだ。しかし、成長期に入る十七歳にもなって、女と間違われるというのは屈辱を通り越し、悲劇であるような気がした。
「元から白人なのでしょうけど、色白ねぇ。髪の毛も綺麗」
 後ろからフレイムの肩に手を置き、雪が一緒に鏡を覗きこむ。淡い香水の香りが漂う。次第に大きくなる鼓動を感じ、フレイムは邪心を振り払うように軽く首を振った。
 雪は黒いガラス製の台の上にある四角いラタンの籠から巻き尺を取り出した。
「あなたこの町の子じゃないわよね。旅人さん?」
「あ、はい……」
 肩幅から寸法を取り出した雪を肩越しに振り返りながら返事をする。
「さっきの精霊さん達と三人で?」
 腕を上げてと指示をしながら雪は質問を続ける。
「いいえ。あと、男の人が一人……」
 高い天井を仰ぎながら答えると、今朝の不機嫌なザックの顔が思い出される。
 ふうと小さくため息をついた少年に、雪は赤い唇の端をいたずらそうに吊り上げた。
「お兄さん? 喧嘩でもしたの?」
 確かに兄貴分という印象の男ではあるが、フレイムは首を振った。
「いっ、いいえ、最近知り合った人です。喧嘩も……してません」
 言いながらもうなだれるフレイムに、雪は苦笑した。
「旅は道連れ、ね。仲良くすることよ」
 そう言って、雪は全部の寸法を測り終えると、巻き尺を籠にしまった。
「うーん、うらやましいくらい細いわね」
 寸法を書き留めた紙片を見つめながら、雪が頬に手をやり、ため息を漏らす。あまり嬉しい事じゃないんだけど、そう思いながらフレイムはその様子を眺めた。
「派手な服は好き……じゃないみたいね」
 濃淡のベージュで描かれたチェックのシャツと、無地で白いズボンを履いているフレイムを上から下に眺める。
「まあ、目も髪も色が薄いから、濃い服じゃあ折角の綺麗な瞳が埋もれてしまうわね」
 そう言って雪は何処かに消えてしまった。一人になってしまったフレイムは鏡を覗いた。
 色の白い、儚げな顔つきをした少年がこちらを見返している。
(女の子に見えるかな……)
 ザックやネフェイル、ついでにガンズを思い出す。皆たくましい体躯を持っている。どうして自分だけが小さく、細いのだろう。
(神様は不公平だ。俺だってもうちょっと男らしく生まれたかったのに……)
 曇りのない鏡を見つめ、深く息をつく。
「こんなのはどう?」
 背後から響いた高い声に振り返る。
 雪の手には沢山の淡い色をしたチャイナ服が抱えられている。それらを台の上に載せ、そのうちの一枚を取り上げた。
「これが一番のオススメなんだけど」
 桜色で、襟と合わせの部分にラベンダー色の装飾がある。可愛らしい組み合わせだ。
 フレイムは怪訝そうに首を捻った。
「これ……女物じゃないですか?」
 服を持っていた雪は笑顔のまま一時停止をした。しばらくして再び動き出す。
「気のせいよ」
 微動だにしない笑みでそう答え、ひとまずその服を台の上に置く。仮面のような笑顔にフレイムはわずかに不安を覚えた。
 そして哀れで健気な少年の悪い予感は的中する。
「フレイムくん。しばらくお姉さんの着せ替え人形にならない?」
 手を合わせ、しなを作った雪の言葉にフレイムは絶句する。
 台の上に置かれた服の山はもちろん、化粧箱らしき物がちらちらと目に付く。
「……結構です……」
 喉の奥からやっとの事で声を絞る。
「そんなこと言わないで」
 エナメルで美しく彩られた爪のある指が頬に触れる。フレイムはごくんと唾を飲み、じりじりと後ろに足をずらした。
「私、フレイムくんみたいに可愛い子で遊ぶの夢だったのよ」
 そんな夢を語られても、自分は女装をして喜ぶような趣味などは持ち合せていない。むしろ、それはコンプレックスを強くするだけだろう。
 かつんと踵(かかと)が鏡の縁にぶつかる。もう逃げられない。
 見えない天を仰ぎ、覆うように左手を額にやる。赤い唇が優美に弧を描く様子が、眼の端に映った。
「フレイム様、遅いですね……」
 服を見るのに飽き、店内に置かれた椅子に腰掛けていた闇音が時計に目をやる。
「美人のお姉さんと楽しく、服でも選んでるんじゃないの?」
 グィンは闇音の横の椅子に綺麗なハンカチを広げ、蝶の形に結んだりして遊んでいる。おそらくは売り物なのだろうが、闇音はあえてそれを取り上げようとはしなかった。もし、何かしらあって買い取る羽目になっても、稼ぐのは何の事はない、闇音の主人だ。
「それでいいんだけどね。そのために連れてきたんだもん。最近、元気なかったから」
 誰かさんが怖い顔してるおかげでねと闇音を見上げる。闇音は軽く肩をすくめてみせる。
「男の意地というものがあるんでしょう。私には理解できませんがね」
 主人以外には対した執着を持たない精霊はため息をついた。
「まあ、確かにフレイム様が元気になることは良いことですね。もうしばらく待ちますか」
「うーん、僕見てくる。どんなの選んでるか気になるし」
 小さな妖精はハンカチをその場に置き、店の奥へ飛んでいった。

「ふふ、可愛いわー、フレイムくん」
「……俺は泣きたいです」
 言葉どおり目尻を潤わせ、ピンクに彩られた唇から嘆きを漏らす。
 淡い色の前髪は左側で分け、藤色の小さな石が花の形に並んだピンで留められている。先程の桜色のチャイナ服を着せられたフレイムはどこから見ても愛らしい少女であった。
 腿まである長いスリットから脚が見えないように裾を押さえる。
(こんな格好、他の三人に見られたらどうしよう……)
 グィンは笑ってからかい、闇音はきっと褒めるだろう。ではザックは?
 普段なら笑い飛ばすかもしれない。しかしあの不機嫌な顔をどう変化させるのか、フレイムにはいまいち想像できなかった。今よりもっと機嫌を悪くするかもしれない、そう思うと背筋に悪寒が走る。
「今度はこの服にしない?」
 雪が楽しそうに、今度は青いドレスを手にする。
 フレイムはげんなりと肩を落とした。