赤き魔女の封印 30

 雨上がりの朝、食事を終えてしばらく経った頃、フレイムはグィンとともにウィルベルトに呼び出された。
 陽を浴びるマクスウェル邸の庭は廊下から見下ろすだけでも、目に潤いを与えてくれる。歩きながら景色を楽しむフレイムの耳に、緑の精の声が響いた。
「用があるなら、向こうから訪ねてくるべきだと思うんだけど」
 グィンが唇を尖らせる。ウィルベルトは朝食の席にいなかった。彼らを呼びにきたのはマクスウェル家の使用人である。
 グィンの普段どおりの態度にひとまず安堵しつつ、フレイムは眉を下げた。
「そうは言っても、相手は貴族だし。俺はそっちのほうが恐縮して困っちゃうよ」
「スフォーツハッド様はまだお加減が悪いのですよ」
 口を挟んだのは、彼らを案内する初老の使用人だった。口元に微苦笑をはいて、彼は続ける。
「だのに、朝も早くから動き回ろうとなさるんで、主人が怒ってしまって」
 主人というのはアーネストのことだろう。使用人は頬をかく。
「ああ、部屋から出るなと?」
 フレイムが笑って尋ねると、彼は目尻にしわを刻んだ。
「ええ、熱が下がるまでは」
 ということは、危惧したとおり、ウィルベルトは自らフレイムの元を訪ねる気だったのだろう。アーネストが客人であろうと我侭を許さない人間でよかったと、内心でほっと息をつく。
 話をしているうちに、目的の部屋についた。使用人がノックをするとすぐに返事がある。
 ウィルベルトはシャツの上にカーディガンを羽織っただけの簡単な格好をしていた。緩やかな線の印象が、彼を凄腕の剣士であることを忘れさせる。フレイムは無意識に緊張していた肩の力を抜いた。
 ウィルベルトが使用人に礼を言ってもとの仕事に戻らせる。フレイムたちは部屋の中央、テーブルの傍まで招き入れられた。
「おはよう。わざわざすまないね」
「おはようございます」
 だいぶ顔色の良くなった男を見上げて、フレイムは微笑んだ。
「アーネストさんに怒られたそうですね?」
 ウィルベルトは苦笑して答える。
「大丈夫だというのに許してくれなかった」
「俺はアーネストが正しいと思うぞ」
 部屋の奥から聞き慣れない声が響いて、フレイムはぎょっとしてそちらを見やった。青い髪の男が優雅にベッドに腰掛けている。
「あれがアレスだよ」
 ウィルベルトが剣の銘を口にする。驚いた顔でこちらを見つめる少年に、アレスはにやりと笑みを浮かべた。立ち上がって、歩み寄ってくる。
「フレイム・ゲヘナ」
 ウィルベルトより背が高く、切れ長の紫がかった青い目はどこか意地悪そうに見える。フレイムは思わず一歩足を引いた。
「リルコで見たときも思ったが、なんてえか、弱そうな」
「アレス」
 たしなめる口調の主人を一瞥して、笑みの形に曲げた唇で溜息を零す。何も言わずに、アレスはソファに腰を下ろした。
 ウィルベルトは眉を下げて、フレイムに向き直る。
「すまない」
「いえ」
 フレイムは首を振る。神腕の力を賞賛されることが苦手な彼にとって、アレスの言葉はたいして苦痛でもなかった。むしろ、買いかぶりではない評価が得られてほっとする部分がある。
 ただ、強くなろうとしているのだから、こんなことで安堵していては駄目なのだと、胸中で自分に言い聞かせておく。
「まあ、とりあえずかけて」
 促されて、フレイムはソファに腰を下ろした。ウィルベルトはかけてあった上着の内ポケットから何かを取り出し、その向かいに座る。
 そして、手の中のものをそっとテーブルの上に置いた。
「もっと早く渡せたらよかったんだけど」
 青い石が黒い盤面にこぼれる。それはネックレスのように見えた。細長い皮製のひもに青い石がひとつ輝いてる。しかし、これがどうしたのか分からない。綺麗だという感想しか持ちようがなかった。
「これって……?」
 ウィルベルトが差し出した品を見つめ、フレイムは目を瞬いた。グィンが息を呑む。
「闇音の」
「え?」
 フレイムはグィンを見やった。唇を震わせて、その石を凝視している。
「……ザックが、闇音にプレゼントしたのに……なんで」
 ウィルベルトはその声を聞きながら石を見つめた。
「ザックが……そうか、これはグルゼの海の色だな」
 彼を育んだ青い海。
 記憶に甦るのはザックを呼ぶ影の精霊の表情。悲しみに泣きそうな、それでいて愛おしむような――。彼女は失われてはならない存在だと、そう感じた。
 だが、救えなかった。
「影の精霊が消えたから、これだけが残ったのだと思う」
 グィンはぺたりとテーブルの上に膝をついた。ぽろぽろと涙が落ちる。
「闇音……」
 うつむいて、両手で顔を覆う。
 フレイムはつられて泣きそうになるのを堪えた。グィンの小さな後姿は自分がしっかりしなければいけないという気持ちにさせる。以前はこんなふうに感じることはなかった。彼女はいつもフレイムを先導するように前に立ち、手を伸ばして笑っていた。
 これまでどれだけ支えられただろうか。
 フレイムはグィンの頭を撫で、ウィルベルトを見据える。
「どうして、ウィルベルトさんがこれを?」
 ウィルベルトは視線を青い石に向けたまま、口を開く。
「これは金獅子のヴァンドリー団長がスウェイズで拾得したものなんだ」
 イルフォードはどんな意図でこれを持ち帰ったのだろうか。彼が捨て置いていたら、この石は今もスウェイズの道端に転がっていたのかもしれない。
 ウィルベルトは唇の端を持ち上げた。敵わない。あの男はいつもそ知らぬ顔で周囲の上を行く。
「そう、彼が拾ったものだが、私の好きにしてよいと言われている」
 ガラス玉の双眸は変わらず、まっすぐにこちらを見ている。その眼差しの真摯さに、ウィルベルトは嘆息を零した。
「私は君に預けたい」
 フレイムは目を瞬いた。驚きと疑問の混じった色を顔に浮かべながらも、相手に手で遮られて黙る。
「あげるんじゃないよ。預けるんだ」
 念を押して、ウィルベルトはさらに続ける。
「ザックに返してほしい」
 その一言にフレイムは目を見開いて、息を吸った。
 昨晩、彼がやってほしいと言っていたことがなんだったのかを悟る。
「ザックを元に戻せるのは、きっと闇音君しかいないんだ」
 ウィルベルトはネックレスを手に取る。
「君にはこの石をもって、ザックにかけられた操作魔術を解いてもらいたい」
 青い石を手のひらの上で撫で、遠くを見やり。
「……私ではダメなんだ。ザックにとって、私は闇音君を奪った一端だから……」
 息をついてうつむく。しかし、すぐに顔を上げて、フレイムを見つめた。
 皮の紐を指に絡めて、石を掲げてみせる。天上灯の光に青い輝きが揺れた。
「できるかい?」
 男の双眸が石と同じように光を反射する。
 グィンも涙を拭って、主人を見上げた。
「お、れは」
 声が震えた。
 周りの視線が自分に集中している。期待を向けられるということをフレイムは初めて知った。
 答えは是しかないはずだ。
「半端なものなんて役には立たないぜ」
 アレスが笑う。ソファに崩れるように腰掛けているにもかかわらず、目線はフレイムより上にある。
「さっさと覚悟を決めろよ」
 高慢な声。だが、馬鹿にしているわけでないことは分かる。彼は煽ることで背を押しているのだ。
 膝の上で握り締めているフレイムの手に、グィンが自分の手を重ねる。小さな、でも確かな温もり。
「フレイム」
 できるよと言外に含んだ声。
 フレイムは緑の精霊を見下ろして、しっかりと頷いた。
 闇音も一緒だ。できないはずがない。
「やります」
 手を差し出す。
 ウィルベルトは微笑んで、同じように腕を伸ばした。
「頼むよ」
 少年の手にネックレスを握らせ、さらに自分の手で包む。
 その手は温かく、フレイムを安堵させた。
「助力は惜しまない」
 病み上がりの人間だということを忘れさせる力強い声。フレイムの顔に自然と笑みが浮かぶ。
「ありがとうございます」
 礼を言って、頭を下げると目に光が差し込んだ。天井灯ではない、その光の方向、窓の外を見やる。
 青空が輝いていた。
「いい天気だね」
 フレイムの視線に気づいたのか、ウィルベルトがそう呟いた。眩しそうに双眸を細めている。
 その横でアレスが頭の後ろで手を組んで、ふんぞり返るようにして外を見やる。
「しかしまあ、見事に晴れたな。ウィル、マクスウェルに来るのは一日ずらしたほうが良かったんじゃないか?」
「言うな」
 剣精の指摘にウィルベルトは視線を逸らす。
 フレイムは苦笑を浮かべた。確かに、雨でさえなければ、彼の体調も悪化はしなかっただろう。
「気分転換に外にでも行きませんか。庭の花が綺麗でしたよ」
 アーネストはウィルベルトに「部屋にいろ」と言ったようだが、少々の散歩くらいは大目に見てくれるだろう。叱られたら、自分が謝ればいい。家の中でじっとしているにはもったいない天気だ。
 場を和ませようという少年に、アレスが笑った。からかうような、呆れるような口調で問う。
「お前はお尋ね者の自覚はないのか?」
 フレイムは頭をかいた。
 実際のところ、背が高くない自分は、花木の多い庭では簡単には見つからないだろう。だが、ウィルベルトとアレスは目立つ。
 困ったような笑みを浮かべて、別の提案をする。
「えーっと、じゃあ、ピロティでお茶でも」
 アレスは笑みを浮かべたまま、主人のほうに視線を投げた。ウィルベルトは慣れた様子で首を傾げて応える。
「アーネスト君に怒られないかな」
 そう言いながらも、ウィルベルトは立ち上がる。誘いを受けてくれるらしい。さらに、アーネストに対する呼称が変わっていることに気づいて、フレイムは嬉しさに目元を緩めた。
「こっそりやると怒られると思うんで、アーネストさんも誘っちゃいましょう」
 グィンがわざとらしく自分の頬を両手で押さえる。
「フレイムって怖いもの知らずー」
「怖くないよ」
 フレイムは微笑む。
 一瞬きょとんとしたグインは、すぐに相好を崩した。
「仲間だもんねえ」
 そう言って、くるくると宙に舞い上がる。
「僕、お菓子も食べたいな。アーネスト、用意してくれるかなあ」
「茶会なら茶菓子は必須だろう」
 歩み寄ってきながら、アレスがそう言った。そして親指で、背後――上着を準備しているウィルベルトがいる――を指す。
「ウィルは甘いもの食べないから俺がもらう」
「えー、ジャンケンでしょー?」
 上級精霊相手にも物怖じしないグィンこそ、怖いもの知らずだとフレイムは思った。
 他より遅れてウィルベルトが会話に混じってくる。
「半分に分ければいいじゃないか」
 至極当然のことのように、彼は笑った。
 しかし、アレスとグィンはあからさまに顔をしかめる。
「だめだ、こいつは何も分かってねえ」
「ロマンがないよね」
 口々に言う。
 意味が分からないといった様子で、ウィルベルトは腕を組んで、首を傾げた。
「フレイム君はどう思う?」
 フレイムは扉を開けながら、三人に最上の笑みを向けた。不安げな表情を浮かべていることが多いだけに、屈託のない笑みは花が綻ぶ様にも似て、見惚れずにはいられない。
「甘さを控えたお菓子にすれば良いと思います」
 そして、行きましょうと外へと促す。
 三人は視線を交わし、そして一様に顔を笑みで染めた。
 問題はたくさん残っているけど、それでも着実に前へと進んでいる。良い方向を向いていると感じるのは、きっと気のせいではないはずだ。
(だって、こんなにたくさんの笑顔に囲まれるのは久しぶりだから)
 そして、ここにはいないあの人の笑顔も、必ず取り戻す。改めて決心して、フレイムは軽く睫毛を伏せた。
 今はしばしの休息を。
 たわいない会話さえ幸せに思わせてくれる、そんな陽光に包まれた庭を片手に。
 束の間の、緩やかな時間を楽しむのも悪くない。