王都は久しぶりの雨だった。数日続いた白い空には黒い雲が重く垂れ込み、雨は朝から途絶えることなく静かに振り続けている。
時は夕刻を指していたが、街はすでに暗く静まり返っていた。人影も少ない。
そんな中、雨と人目の間を縫うようにして、足早に進む者があった。雨具を兼ねる黒いコート、そのフードを目深に被っている。足音も静かだが、これは意図したのではなく、癖なのだろう。
しかし、その肩を掴む者がいた。はっとして振り返る。
「誰だ」
「はじめまして、先生」
気さくに挨拶するその男は白っぽい茶色の髪をしていた。瞳が異様に赤い。
黒コートは警戒心も露(あらわ)に後ずさる。
「先生などと呼ばれる覚えはないぞ」
フードから漏れる声は低い。赤眼の男――飛竜はにやりと笑った。相手の腕を掴んで逃げられないようにする。
「ちょっと話があるんだけど、いいかな?」
「急いでいる」
黒コートは腕を振り払おうとしたが、出来なかった。体だけ一歩下がる。
掴んだ腕から緊張と僅かな不安を感じ取りながら、飛竜は相手の顔近くで囁いた。
「ザック・オーシャンのことで」
フードの奥で目が見開かれる。それを覗き見て、飛竜は満足そうに双眸を細めた。
* * *
夜になり、フレイムはカーテンを閉めようと窓に近づいた。遠くに光る街灯を見つめながら、冷たい窓をそっと撫でる。
月例会でのザックのことはアーネストに聞いた。初めこそショックを受けたが、無事であるという事に安堵もした。操作魔術は決して解けない魔術ではない。生きているなら大丈夫だ。
(でも、どうして……)
イルタス六世は犯罪者としてフレイムとザックを捕らえようとしていた。フレイムを捕らえて神腕の力を利用しようと考えていると言うのはあくまで部外者の想像である。実際そうではなかったとしても、なぜ王妃がザックを従えるのだろうか。
フレイムは息をついて振り返ると、窓の桟に体重を預けた。
(俺に出来ることはないのかな)
月例会からすでに五日が経つ。城へは入れない。外もそうそう出歩くわけには行かない。フレイムはネフェイルに言われたとおり、神通力を制御する練習を重ねる毎日だった。
首を傾げて窓の下を見下ろす。室内の明かりでぼんやりと裏庭の様子が浮かび上がっていた。白い花が凍えるように咲いている。雨に打たれて葉が震えていた。
見るともなしに見つめているうちに、フレイムは葉が揺れるのが雨のせいだけではないことに気づいた。
葉々の間に動くものがある。
息を詰め、カーテンに隠れるようにして目を凝らす。
「……人だ」
黒いコートに身を包んだ人間が一人、花の間を進んでいた。真っ当な客には見えない。
侵入者だろうか。
「グィン、来て」
グィンを呼ぶと、フレイムは部屋を出た。慌てる主人を不思議に思いながらもグィンは一緒についてきた。
アーネストの執務室へ向かう。廊下を曲がると、ちょうど彼が部屋を出たところだった。
「おや、フレイム君。どうかしたのかい?」
フレイムは裏庭の方向を指差した。
「あ、あの……ヘンな人が」
「変?」
アーネストとグィンが目を瞬く。フレイムは手振りでフードを表現した。
「裏庭に顔を隠した人がいます」
それを聞くと、アーネストは返事もせずに身を翻した。フレイムたちも追う。
館には結界が張られている。城のものには劣るが、侵入者に気づかないはずがない。相応の手練だとうことだ。
「敵なの?」
グィンがフレイムの顔の横で囁いた。フレイムは緊張して胸元を掴んだ。
マクスウェル家はフレイムを匿い、ザックを救出しようと動いているのだ。注意を払っていても、外部に漏れ、敵が現れる可能性はなくならない。
裏庭にはピロティから出られる。アーネストはそちらへ周った。すぐにフードを被った人間を見つける。
(結界を破っておきながら……隠れるという言葉を知らんのか)
「誰だ!」
叫ぶと、黒コートはこちらを見た。
「やあ」
気安く手を挙げる。予想外の反応にアーネストは立ち止まった。雨の中、ぱさりとフードがとられる。
あとから追いついたフレイムとグィンが驚きの声を上げる。
「ウィルベルトさん!」
少年に覚えてもらっていたことを喜ぶ様子で、赤い髪の男が微笑む。
フレイムがピロティから出ようとすると、アーネストがそれを制した。見上げると、彼はウィルベルトを厳しい眼差しで見つめていた。重い調子で口を開く。
「……スフォーツハッド公爵、我が家になんのご用ですか。そのような格好で裏庭に入って、盗人と間違われても文句は言えませんよ」
ウィルベルト・スフォーツハッドは金獅子の副団長だ。王の命を聞く、フレイムたちの敵である。アーネストの反応は当然だろう。
「そうだね」
頷いてウィルベルトは腰に手を回した。剣をベルトから外し、差し出す。
「話を聞いて欲しい。決して君達を傷つけに来たのではない。アレスは君に預けよう」
アレスはスフォーツハッド家の家宝である。イルタシア国内に二振りしかない魔法剣。アーネストは目を見張った。
暗闇の中、光を受けた雨筋が輝いている。フレイムは同様に屋内の光でやっと判別できるウィルベルトの顔を見つめた。リルコでも見たその顔。ずっと穏やかで、優しい笑みを浮かべていた。そして、意を決すると、アーネストに向かう。
「あの、せめて屋根の下でお話しませんか。ウィルベルトさん、具合が悪いんじゃないですか?」
アーネストはフレイムを見やり、それからもう一度ウィルベルトに視線を戻した。雨に打たれながら、微苦笑を浮かべている。
「フレイム君、無用の気遣いだよ」
「でも」
言い募る少年の肩をアーネストが掴む。
「駄目だ。アレスで攻撃されたら、私は君を守りきれない」
ザックと同じ顔で窘(たしな)められ、フレイムは躊躇してしまった。うつむいて口を噤む。きっと自分が喋る分だけ、ウィルベルトが外にいる時間が長くなるだけなのだ。
アーネストはウィルベルトに向き直った。
「行方不明だと聞いていましたが、今までどこに?」
フレイムは驚いて顔を上げた。ウィルベルトが失踪していたとは聞いていない。答えを求めてアーネストを見つめるが、彼はこちらを見なかった。侵入者だけを注視している。
「それは受け入れてもらえなければ話せない」
「潜伏して我が家を探っていたとも考えられる」
アーネストが反発すると、ウィルベルトは目線を下げた。
「……他のことなら答えられる」
アーネストは溜息をつく。フレイムの言うとおり、見ていればウィルベルトの息が上がってきていることが知れた。剣を掲げる手がわずかに震えている。熱でもあるのだろう。
「話とは、我々に味方してくれると、そういったものでしょうか?」
「……そうだ」
神妙な面持ちで頷く。
「ただし、王には手を出さないと約束してもらわねばならない」
アーネストは片眉を持ち上げ、笑いを含んだ。
「これは驚いた。この場でさらにあなたから条件が出せるとお考えですか」
ウィルベルトは首を振る。赤い髪から雫が落ちた。
「分かっている。だが、これだけは譲れない」
彼はどうあっても王のことでは引かないだろう。アーネストは腕を組んでさらに続けた。
「では、もし、拘束結界の解除と金獅子の足止めをお願いした場合、あなたにはそれができますか?」
「できる」
即答だった。
「仲間を裏切ると?」
アーネストが見下ろした視線を投げると、ウィルベルトは笑った。似つかわしくないシニカルな笑みだ。
「そのほうが誰も失わなくてすむ」
一理ある。彼自身で金獅子の相手をすれば、その力の及ぶ限り、誰も死なせずに足止めできるのだ。アーネスト達ではその保証がない。
フレイムはアーネストの袖を引いた。
「アーネストさん、もう……」
言いさしたその時、それまで黙っていたグィンが前に出た。
「闇音を殺した奴を教えて!」
「グィン?」
フレイムもアーネストも驚いて、緑の精の後姿を見つめた。
雨を受ける男の眼差しに苦痛が過ぎる。
「……私にも咎がある」
返ってきた答えに、グィンは首を振った。
「君が『そいつ』を止めようとしたのは知ってるんだよ! だから、もういいんだ!」
悲痛な響きにウィルベルトの顔が歪んだ。フレイムは手を伸ばして、グィンの体を包み込むようにした。
「……グィン」
「答えて!」
雨を遮る主の手の中で、グィンは喚いた。ウィルベルトが剣を下ろす。
「どちらだ?」
「え?」
問い返されて、グィンは眉を寄せた。
「殺した者と殺せと言った者、どちらを知りたい?」
空色の瞳は悲しみと怒りをない交ぜにし、赤い髪の男を映して、夕焼けのようだった。
その眼差しに、フレイムは動悸が速くなるのを自覚した。彼女がこんな思いを抱えていたことに気づいていなかった。
「両方」
短い返事。しとしとと雨が葉と花を打つ音が四人を包み込む。
おもむろにウィルベルトが口を開いた。
「緑の精は豊穣と癒しの象徴だ。君は、知らないほうがいい」
グィンが息を呑む。フレイムは手の中の温もりを胸元に抱き寄せた。手の平が涙で濡れる。
その様子を見ていたウィルベルトがふいに片膝をついた。限界だ。アーネストはピロティを掛け降りた。
「スフォーツハッド公爵」
濡れた泥に自らも膝をつき、肩を支えるべく腕を差し出す。ウィルベルトは隣に屈んだ男の顔を見つめた。ザック・オーシャンとよく似た顔。翠の瞳は彼との血の繋がりを示している。
「マクスウェル公爵、君に従兄弟(いとこ)がいること、十年前に私が隠匿した」
熱で掠れた声で告げ、睫毛を伏せる。
「すまない」
アーネストはウィルベルトを支えて、立ち上がった。
「従弟(いとこ)を守ってくださったこと、感謝しています」