赤き魔女の封印 25

 様子のおかしい王妃に対して、どう応じるべきか判断しかねて、ウィルベルトは視線を巡らせた。揺れるカーテンの隙間からのぞく空は白い。
(……マリー・マクスウェル)
 脳裏に金髪の女性が過ぎるが、記憶は遠く、像は曖昧だ。
「ウィル、下がれ」
 不意に手元から声が響いた。アレスだ。
「魔力密度が高まっている」
 魔術を使う前には魔力を溜めるため、術者の周囲の魔力密度が高くなる。それを悟ったならば、応じる手段を取るべきだ。
 剣の状態のアレスが発する声は使用者以外には聞こえない。ウィルベルトはそっと後ず去った。
(魔力? ザックは使えない。王妃か?)
 眼前の二人を見比べる主の疑問を察して、アレスが答える。
「二人が近くてどちらか分からん。とにかく、もっと下がれ。でなければ俺を抜け」
 ウィルベルトは剣の柄に手をかけた。だが、「敵」のいないこの場では、王族を前にして無許可の抜剣は出来ない。
(……敵?)
 ウィルベルトが双眸を細めたその時、王妃の繊細な指が「敵」を指した。
「マリー、この男を消してちょうだい」
 二人に対峙する赤い髪の男を指した。
「何を」
 ウィルベルトの言葉は続かなかった。
 考えるよりも先に手がアレスを抜く。肌は一気に高まった魔力の気配で粟立っていた。
 目の前で火花が散る。遅れて金属同士がぶつかりある音が耳を劈(つんざ)いた。
「アーステイル!」
 叫んだのはアレスだった。
 その声を聞いて、ウィルベルトはやっと相手を見た。
 相対するはザック。そして、その手には一本の剣が握られていた。
「馬鹿な」
 初代イルタシア国王の愛剣「アーステイル」。今は国宝として内殿の宝物庫に納められているはずの品である。細身の剣でありながら常軌を逸した強度を誇り、上級程度の魔術防御をも貫く雷撃を持つ。
 アレスがそれと認めなければ、おそらく信じることは出来なかったであろう。使い手の失われた、魔法剣だ。
「ザック!」
 呼びかけるも返事はない。
 ウィルベルトは力に任せて相手の剣をさばいた。ザックは表情を変えることなく、床を蹴って間合いを取る。
 魔法剣を扱うには程度に差はあれ、魔力は必須である。リルコで彼を見たとき、マリー・マクスウェルの封印は確かに効力を発揮していた。
「……昨日の夜か」
 昨晩、アレスとサラが感じた魔力の波動。あのとき封印が解かれたのだ。
 だが、例え封印が解かれたのだとしても、すでに幼くはないザックが魔力を扱えるはずがない。あるとすれば、それは他者が彼を彼の魔力ごと魔術で操っているときだ。
 誰が――考えるまでもない。
「陛下」
 ウィルベルトは王妃を見た。
「ザックに何をしたのですか」
 被術者の感情を殺した支配の術。ザックの双眸は昏(くら)い。
 王妃は場違いに微笑んでみせる。相手の表情の歪んだ様が楽しくてならないというようにも見えた。
「マリーが帰ってきたのです」
 その声の軽やかさに、ウィルベルトは瞼の裏側が焼けるような錯覚を覚えた。
「遠い過酷な地から私の元に」
「陛下!」
 怒号に王妃が口を噤む。
「何を仰っているのですか!」
 ウィルベルトは首を振って訴えかけた。
「ここにいるのはマリー殿ではありません!」
 王妃の眼差しは冷たい。
「あなたはまた嘘をつくのですね」
「嘘では」
「いいえ、あなたの言うことは嘘ばかり! マリー!」
 王妃が腕を振るのと同時に、ザックは間合いを詰める。ウィルベルトは歯噛みして構えた。
「ザック!」
「呼びかけても無駄です! ウィルベルト・スフォーツハッドの声は届かない!」
 王妃の放つ言葉は魔力を帯びていた。その声がザックを支配している。
「ザック!」
 剣を交え、間近に翠の混じる黒い双眸を捉えてウィルベルトはその名を呼んだ。
「ザック! 目を覚ませ!」
 ザックは眉目を歪めた。苦痛を堪えるように、歯を食いしばる。
 操作魔術の効果と本来の意志が反発しているのだろう。上手くいけばザックの意識は戻るが、精神崩壊の危険も伴う。ウィルベルトはそれ以上呼べなかった。
「マリー! アーステイルを!」
 王妃の声にザックはぴくりと反応する。
 アーステイルの刃が魔力を帯びた。神臓の神通力だ。ウィルベルトもまたアレスを持つ手に魔力を込めた。二本の魔法剣の間に火花が散る。溢れた魔力がぶつかり合い、生まれた気流が二人の髪を撫でた。
 ウィルベルトが飛び退(すさ)る。その後を追って、アーステイルから雷撃が放たれた。アレスが青い軌跡を残して宙を切る。
 神臓の力を持って放たれた雷撃は、しかし使い手が正統の持ち主ではなかったために、本来の力を発揮していなかった。衝撃波は容易く雷撃を掻き消し、空気を激震させ、室内を走り抜けた。
 瀟洒な壁に亀裂が走る。王城ホワイトパレスの尖塔の一角が崩れた。叩き込むようにして風が吹き込んでくる。遠くでどよめきがあがった。
 瓦礫の崩れる音を背景に、魔力と煙と風が室内で踊る。カーテンとタペストリーは翻り、三人の間を遮った。
「ザック!」
 ウィルベルトはザックの影を見失った。雷撃を防ぐために確認は出来なかったが、衝撃波を受けたのなら気絶しているかもしれない。
「……ウィルベルト・スフォーツハッド」
 王妃の声が耳を打つ。
 室内の魔力密度が上昇していた。戦闘の相手とみなしていなかったが、王妃は確かに魔術を扱うのだ。ウィルベルトが振り返って構えようとしたとき、扉が打ち破られた。
 硬い足音が石の床を踏む。裂けたカーテンが舞う中、誰がその扉を開けたのか、ウィルベルトの位置からはつかめなかった。
 扉のほうへ目を凝らした瞬間、魔術による閃光に打たれた。視界が白く明滅する。
「っ……あ」
 ウィルベルトは片手で顔を抑えた。よろめきながらも、アレスを支えにして踏みとどまる。痛みはなかったが、眩暈がした。考えようとする端から思考が消えていく。
 一点に定まらない視界にぐるりと床が映る。端に黒髪が見えた。霞む瞳で必死にザックの姿を捉える。
 彼は床に倒れていた。目を伏せたその顔は、十年前に見た幼い寝顔を髣髴とさせる。
「ザック……」
 そのままウィルベルトの意識は暗い淵に沈んだ。