赤き魔女の封印 17

 長かった。
 二十年以上もの月日が流れてしまった。
 だが、とうとう「彼女」はこの手に戻ってきた。

「王后陛下がお呼びだ」
 エルズは部屋に来るなりそう言った。
 飛竜がザックのところを訪れた翌日の夜のことである。明日には隙があれば来るとアーネストも言っていた。
「……何の用で?」
 今まで王妃がこの部屋を訪れることはあっても、呼び出されることはなかった。
 警戒心を見せるザックに、エルズは小さく笑った。
「お呼びだ」

 グレー調の自分の姿が廊下に映っている。丁寧に磨き上げられた長い廊下を、ザックはエルズの後について進んだ。
 壁は高く伸び、頭上で弧を描いている。一定間隔置きに埋め込まれた天井画は、その視線までも感じられそうな写実性があった。
(見られているみたいだ)
 実体の自分も、鏡像の自分も。
 嫌な気分だった。
(こんな所で生きていかなきゃいけないんじゃあ、……俺は貴族向きじゃないな)
 緑豊かな島を選んでくれた両親に感謝しようとザックは思った。
 やがて、エルズの足が止まった。
(銀の扉……)
 小さな蔓薔薇が浮き彫りに施された美しい扉。まるで秘密の花園への入り口のような印象を与えられる。
「ここ……、王妃様の部屋?」
 ザックが問う。
「普段お使いになっている部屋ではないよ。ただ、王后陛下が作らせた部屋ではある」
 エルズはそう言うと、一歩下がった。怪訝な顔をするザックに笑いかける。
「私には入室許可が下りていない。王后陛下は魔術をお使いになられる。君が扉に触れれば開くはずだ」
「……え」
 それは一人でこの部屋に入れということか。
 エルズはいつもの含みを持った笑みを顔に貼り付けた。
「王后陛下がお呼びだよ」
 ザックは息を呑んだ。
 鏡のような床から、冷気を感じたような気がした。

     *     *     *

 賓客用の部屋でありながら反逆者の軟禁用に使用されている部屋に忍び込み、ザークフォードは眉を寄せた。
「いない……」
 その言葉にあとから入ってきたアーネストも怪訝な顔をする。
「おかしいですね。今までこんなことはなかったのに」
 部屋はもぬけの殻だった。
 ザークフォードはバルコニーにも出てみたが、結界は張られたままである。ここからザックが外に出たわけではなさそうだ。
(そうだ、素養はあれど、彼は魔術は使えないのだ)
 室内に戻ると、アーネストはフードを深く被って、外に出る格好をしていた。
「一度、家に戻ります。フレイム君に状況の変化を伝えた方がいいでしょう」
 ザークフォードは首を傾げた。
「部屋が移動になっただけかもしれないのに? 余計な不安を与えてしまいはしないだろうか?」
 少年を気遣う壮年の男に、アーネストはかぶりを振って見せた。
「……嫌な、予感がするのです」
 アーネストは唇を歪めた。
「嫌な予感とは……」
 魔力の強い者は予見の能力に似たものを極たまに発揮することがあるらしい。
 何か見えたのかと問うザークフォードに、アーネストは視線を向けた。
「フェルビッツ様、ここまでありがとうございました。おかげでジオルドともいつもスムーズに会うことが出来ました」
 何を思ったのか、急に礼を言う青年にザークフォードは目を瞬いた。
「……そして、もし、今後……我々が王室に歯向かうことになったら……」
 アーネストの金の睫毛が、翠の双眸を覆い、そしてすぐにまた双眸がこちらを見据えた。
「目を瞑っていてくださいますか?」
「それは……」
 ザークフォードは言い淀んだ。
 今は退団したとはいえ、もとは金獅子だった自分である。王室への忠誠は失われていない。ここまでアーネストに手を貸したのは、ザック・オーシャンが罪人だとは思えなかったし、そうでなくても親族が面会も出来ないのはおかしいと感じていたからである。
 だが、アーネストたちが罪人に面会する以上のことをしでかすのであれば、場合によっては反逆罪が適用される。
「私は……」
 アーネストが言葉を待って、こちらをじっと見つめている。
 宝玉のような翠と輝く金と――ああ、そして黒髪の。
(……私は……弱いんだ)
 くるくる表情を変える愛らしい公爵嬢にも、ダンスステップの一つも知らなかった黒の剣士にも。
 彼らが逃避行すると相談してきたときも、駄目だと諌めることは出来ず、結局――
(目を瞑っていた)
 そして、そのツケが今に回ってきている。
「目は瞑れない」
 低い声でそう応じると、アーネストの肩がわずかに揺れた。
 この年若い公爵は、敵だと判断すれば即座にその血の力を振るうのだろう。
「手を貸したい」
 ザークフォードの紡いだ言葉にアーネストは目をぱちくりと瞬いた。滅多に見ない赤き館の当主の呆けた顔に、ザークフォードは微笑んだ。
「東方の国では、乗りかかった船だ、と言うらしいが?」
 おどけた調子で言うと、アーネストはすぐに口元ににやりと笑みを刷いた。
「毒を喰らわば皿まで、とも」
「そういうことだ」
 そうだ、手を貸したいと思いつつも貸せなかった、二十二年前のツケを払わなければいけない。自分さえ、しっかりとジルに味方して、公爵令嬢との仲も公に認めてやれば、彼らが密かに王宮を去る必要もなかったのかもしれないのだ。
 そして、あんなに早く、島よりもなお遠すぎる国に行くことはなかったのかもしれない。
「では、急いで戻ろう。状況は変わった」
 ザークフォードが力強い声で促すと、アーネストもしっかりと頷いた。
「そうですね。このままジオルドに何かあっては困ります」
「うん? いつの間にそんなに愛情が湧いたんだ?」
 扉へと歩を進めながら、問う。
「愛情なんて。これで彼がはっきりとどうしようもない愚弟だと分かったんで、一発殴らなければ気がすまないことになったというだけですよ」
 私が殴る前に他の者に手を出されては、殴りにくくなるでしょう――そう、アーネストはさらりと答える。ザークフォードは眉を下げるしかなかった。
 そうして、二人は足早に純白の王宮を後にしたのだった。