翠の証 18

 その瞬間、ザックは凍りついた。
 美しい母の笑みが脳裏に浮かぶ。薄いすりガラスが挟まれたようにはっきりとしないが、それはあまりにも優しい。
「……嘘だ……」
 掠れた声で否定する。
「嘘じゃない」
 シギルはザックをきつく抱きしめた。押し殺した声で囁く。
「私がその兵の死体が見つかった事をマリーに知らせに走ったんだ。彼女は穏やかな笑みを浮かべて、お前を抱いていた。そして、私に告げたんだ。自分が殺したことを」
 ザックは養父の腕の中で首を振った。
「相手は軍人だぞ? あの母さんに殺せるはずがない」
「……殺せるさ」
 シギルの声は微かに怯えの色があった。
「マリーは『神臓』の持ち主だったんだから……」
 ザックは一瞬、戸惑った。「心臓」かと思ったのだ。しかし今朝のフレイムとの会話が思い出される。ザックは首筋に冷たいものが這うような感覚を覚えた。
 ――「神臓」?
 シギルは瞬きもせず虚空を見つめている養子を見た。優しくその肩を揺する。
 ザックは弾かれたように、シギルの顔を見た。
「その様子だと、神通力の事は知っているな?」
 シギルの声にザックはゆっくりうなずいた。彼にとって、神通力は今でも未知の力であったが、フレイムの魔術にとてつもない気配を感じるのは確かだ。
 シギルは小さく息をついて自分の椅子に腰掛け、ザックにも椅子に戻るよう示した。
「正確には血が力を持っているんだが、血液量の多い心臓から魔力を引き出すようなものらしい」
 シギルは自分の足元に目を落としながら、喋った。
「つまり、実のところイルタス兵が狙っていたのは、マリーだったというわけだ」
 ザックは息を呑んだ。母親が神臓の持ち主だということはもちろん、魔術が使えるということも知らなかったのだ。
 フレイムがイルタス王に狙われている。自分は彼を守りたいと思った。
(何か……、変だ)
 ザックは自分の手のひらを見つめた。
「夫の仇を討つことはもちろん、お前を守るためにも、彼女は自らの手を汚したんだ」
 シギルの声に顔を上げる。
「神通力は遺伝しないというのが、今のところの一般論だ。しかし可能性が皆無でない事もまた、事実だ」
 ザックは睫毛を瞬かせて、養父を見つめた。
「……俺には、魔力なんかない」
 自分は小さな火を起こすのにだって、道具を必要とする一般人だ。闇音と初めて会った時だって、彼自身が話すまで、彼が精霊だと分からなかった。
 シギルはうなずいた。
「ああ……、そうだな」
 ザックは窓の外の青い空に目をやった。今、養父から明かされた事実はあまりにも重かった。何も知らずに自分は育ったのだ。周りにいた友達と同じように、普通に。
 父は母を守ろうと、命を投げ打った。母はその父の命を奪った男を許さなかった。
 耳に遠く、潮騒の音がこだまするような気がした。
 ふと、小さな疑問が甦る。
「……母さんは、何で死んだんだ?」
 ずっと病死だったと言い聞かされていた父は殺されていたのだ。母親も病死だと思っていたが、酷く不安を覚えた。
 シギルはじっと養子を見つめていたが、やっと彼の口から漏らされた問いに眉を寄せた。
 天井を仰ぎ、手のひらで目を覆う。
 祈るように。
「……許してくれるか?」
 ほとんど自問のような呟き。聞き取れるか否かのその声にザックは耳を傾けた。
「彼女は、殺した」
 彼の瞳から涙が溢れる。
「……私が」
 ザックは立ち上がった。養父の顔を凝視する。
 ――何だって?
 口に出したつもりだったが、音にはならなかった。
 心臓が信じられない速さで鳴り響く。無意識に手が震えはじめる。
「愛してしまったんだ。他のものがどうでも良くなるほどに……」
 神に懺悔するかのように中年の男は呟いた。
 ザックは愕然と立ち尽くしたまま、その涙が床に落ちるのを見た。
「……しかし、彼女が一生の伴侶として、ジル以外の者を選ぶ事はなかった」
 その姿は神に愛を誓った女達と変わらなかった。我が子を胸に抱き、死んだ夫の事を悼む女。それは宗教絵画にも似て、美しい光景だった。彼女は子どもだけでも幸せになるようにと笑顔を絶やさず、無償の愛を注いだのだ。
「耐えられなかった……」
 いくら愛の言葉を囁いても、彼女はいつも、淡い笑みを浮かべるだけだった。しかし、その笑顔には強い拒絶が窺えた。
「青い月が輝く夜だった」
 最後までマリーは自分の愛には応えてくれなかった。
 その白い首を締めたのだ。自分でも信じられないほどの、涙を流しながら。
 彼女はその翠の瞳に涙を浮かべ、自分の頬に細い手を伸ばしてきた。
 ――ザックを……。
 掠れた声で訴えられ、背後で泣き声を上げている子どもに気が付いた。
 ――愛してあげて。
 彼女はその長い睫毛を伏せた。
 自分の事を、殺してしまうほど愛した男。その愛に応えられない自分。
 唇だけを震わせ、彼女は謝って、そして息絶えた。
「……とんでもない事をした。自分も死なねばならないと思った」
 シギルは涙に濡れた黒い瞳でザックを見た。
「だが、泣くんだ。火でもつけられたかのように、酷く泣くんだ」
 傍によって腕を伸ばすと、子どもは母親を殺した張本人にわけもわからず縋りついて、また泣いた。理解し得ない恐怖に怯えながら泣いていた子どもにとって、差し伸べられた手は救いでしかなかったのだ。
 まだ幼く、母がなぜ死んだのか分からなかった子どもはすぐに自分に懐いた。他の子どもたちと一緒に遊び、時に喧嘩して、元気に成長していく。くったくのないその笑みに、何度自分の心は安らぎ、そして罪悪感を覚えただろうか。
 シギルはゆっくりと立ち上がりザックに近づいた。伸ばされてきた腕からザックは思わず身を引いた。
 シギルの瞳が喪失の感に揺れる。彼は静かにザックを見つめた。
「でも、やはり耐えられなかった。日に日に、マリーに似てくるお前を育てる事に、耐えられなかった」
 だから、島を出たんだと低く呟く。
 ザックは自分の頬を熱いものが流れていることに気が付いた。手で触れてみると、指先が濡れる。
 シギルは低い声で、訴えた。
「殺してくれ」
 机の上に置いてあった短剣を手に取り、ザックに差し出す。
「ジルの遺品だ。これで、殺してくれ」
 ザックは震える手で、重い銀の装飾が施された短剣を、受け取った。
 奥歯を噛み締め、眩暈すら起こしながら、その剣を抜く。
 白銀の切っ先が鈍く輝いた。
「ザック……」
 シギルは再び彼の傍に歩みより、その肩を抱きしめた。
「お前のためだけに存(ながら)えた命だ。お前の手で絶ってくれ」
 温かい腕の中で、ザックはしゃくりあげた。
 自分はきっと、この男を斬らなければならない。
 父が命を賭して守った母の仇である。父のためにも、斬らなければならない。
 白い刃は、それだけで死の色だった。