アーシアは俺を愛してくれた。
それは真実だ。あの心の触れ合いを、俺は覚えている。
だが、不変ではなかったのだ。
彼女はルード・ダーケンを愛し、次に俺を愛した。
「俺はお前を裏切らない」
――不変だろうか?
(……怖い……)
自分は追われている自覚があった。この、腕のせいで。
恐怖とともに腕が痛む。歯を食いしばり、フレイムはぎゅっと右腕を掴んだ。
変わらないものなどないのだ。脈動し続けるこの世界は変わらずにはいられない。
人も、その流れからは外れられないのだ。
ザックも変わるかもしれない。
警戒すべき対象へと。
「おはよう」
廊下ですれ違ったザックが、フレイムにそう声をかけてきた。
「……おはよう」
暗澹(あんたん)な気持ちで挨拶を返す。
その表情の暗さを見て、ザックは眉を寄せた。
「なんだ? 具合でも悪いのか?」
フレイムはうつむいて首を横に振った。相手の顔をまともに見ることが出来ない。
「……いや、ちょっと怖い夢を見ただけだよ」
「そっか?」
ザックは頬骨のあたりを掻いて、首を傾げた。
「……まあ、大丈夫だったらいいんだけどさ。朝晩も冷え込んできたし。風邪、引くなよ」
耳に触れる声はいつものように温かい。
フレイムは振り返らぬまま頷いた。
「うん。ありがとう」
ザックは違和感を感じながらも、あえて追求しようとは思わず、そのまま止めていた歩を戻した。
足音が遠ざかるのを聞きながら、フレイムは袖口で顔を拭った。
(……このことだったんだ)
長い睫毛を涙に濡らしながら、フレイムは悟った。
不安と猜疑に揺れる心。
ザックたちとともに行動を始めてからは久しく忘れていた、体の奥底に潜む疑心の暗鬼。
(ネフェイルは……俺は、人を信じられない、そう言ったんだ……)
大切な者を守りたいという心よりも、憎くてならない者を殺したいという気持ちが強くなる。だから、ネフェイルはフレイムには力を与えない――彼はそう言いたいのだとフレイムは思っていた。
だが、違ったのだ。
大切な者を守りたいという心よりも、誰とも関わりたくないという思いが大きい。力を持てば、フレイムはただ逃げるためだけにそれを用いるだろう。
そのように心の弱い者には魔術を教えられない、とネフェイルは言おうとしたのだ。
廊下の突き当たりは洗面所になっている。向かいに自分の顔を見つけてフレイムは足を止めた。
細くて頼りない、弱い少年がこちらを見ている。
万の軍に匹敵すると言われる神腕は彼にとって不幸を運ぶばかりで、何の役にも立たなかった。
(……でも)
それでも力が欲しいと思った。
フレイムは真っ直ぐに鏡を見つめた。
(守りたいと……思ったんだ)
「……フレイムが、なんか変だったな」
部屋に戻ってきてそう呟いた主人を、闇音は振り返ってみた。
「変、とはどのように?」
「なんていうか……人見知り状態って言うか……」
ザックは眉を寄せる。闇音は慰めるように笑みを浮かべてみせた。
「きっとナーヴァスになってらっしゃるんですよ。恋人を殺した男を思い出せなんて言われてるんですから」
ザックは頭を掻いた。
「そうだな……」
怖い夢を見ただけだと言っていた。
(大丈夫だよな。昨日も笑ってたし)
頷き、それから彼はポケットに手を突っ込んで、闇音を見た。
「今日……何日だっけ?」
「四日ですよ」
闇音は即答する。
「だよな」
ザックは笑って、手に握っていたものを差し出した。
「……なんですか、それ」
細い皮ひもにぶら下がった青い石。透明度が高く、朝日を弾いて内側が輝いている。
「誕生日プレゼント」
「え……?」
戸惑う闇音の手にその石を握らせながら、ザックは続けた。
「おまえ、誕生日分かんないとか言うからさ。とりあえず、俺がお前に初めて会った日に振り替えようと思って……」
そうだ、今日で出会って一年目になる。
「……あ」
ありがとうございます、と言わなければいけないのに、言葉は胸に詰まって出ようとしなかった。
こんな、こんなに幸せなことがあるだろうか。仕える身でありながら、その主人から誕生日だからと何か貰えるなど。
初めての感情に闇音は少なからず動揺していた。
「あ、……あのこれ、女物ですけど……」
口をついて出た言葉は感謝を表すものではなかった。思わず硬直する闇音には気づかず、ザックは苦笑を浮かべてみせた。
「いや……確かに、俺はお前を男として見てるけどさ。お前に似合うものを探したらそれになったんだよ」
勘弁な、と付け足す主人に、闇音は首を振った。
「いいえ……。いいえ、ありがとうございます」
掛け替えのないものを手に入れた闇音は青い石をしっかりと握り締めた。
「うん」
嬉しそうに笑うザックに、闇音も笑みを浮かべる。
「――っと、俺、タグルたちのところに行かなきゃ」
時計を見て、ザックは慌てて上着を羽織った。闇音は石を素早く身に付ける。
「私も行きます」
昨日の外出はグィンと一緒だというのであえてついて行こうとはしなかっただけだ。だが、一人だと言うのならば、そうはいかない。
「友達のところへ行くだけだよ」
「お願いします」
縋るように訴えてくる精霊に、ザックはシンシュウでのことを思い出した。
闇音を側に置いておかなかったがゆえに、彼に負担をかけることとなったのだ。
「分かった。来いよ」
主人の許しを得るや、闇音は彼の影へと身を投じた。