ひらりと桜の花弁。
 どこからともなく飛んでくる欠片に、見惚れていたと気づいた時には音を奪われているような気分になる。
 生垣を越えて少し歩けば、そこはもう山林だ。広葉樹もあれば、針葉樹もある。鳥もいれば、獣もおり、雑多な妖や山精たちが逍遥している。濃い緑の木立に陽光が柱をつくる、そこに彼らの影を垣間見ることができた。
 桜の木もこの山のどこかに生えているのだろう。見たことがないということは、おそらく裏山だ。人の立ち入らない険しい斜面を持ち、翼を持つ黒い獣が棲んでいる。
 この山に来てどれだけの歳月が過ぎただろうか。何度この春を数えただろうか。
 白い花弁の舞が無音の時を奏でて、今と過去との境界を曖昧にするようだった。
「良くないな」
 そんな話をすると、翼を持つ獣はそう言った。否定の言葉を吐きながら、その容貌は冴え冴えとして無表情だった――あの頃はそうだったのだ。「高嶺」の誰もが彼を避けて。彼は会いに来るこちらを見るともなしに見やって去っていく――。
 その日、話を聞いてくれたのは気まぐれだったのか。それとも自分はよほど「まずい」顔でもしていただろうか。
「過去の出来事が、今まさに肌を掠めていくように感じるんだろう」
 目を瞬くと、黒刀はほんのわずかに唇を歪めた。それは挑発の笑みで、警告なのだと汲み取れた。
「囚われるとろくなことがないぞ」
 そう告げる紫黒の瞳もどこか蠱惑的で、白い花弁とさして変わらないもののように思えた。
(そんな春もあったな)
 沖はぼんやりと天井を見上げる。日差しを浴びた縁側は抗いがたいほどに心地よく、すべての気力を奪い、代わりに眠気を与えた。
(でも、このまま寝るのもちょっと怖いよね)
 寝ている間に違う時代まで飛んで行ってしまいそうだ。寝がえりを打って冷たい床板を撫でる。
 背を向けた庭では白い花弁がひらひらとちらついていた。

「沖」
 名を呼ばれて、ぼんやりと瞼を持ち上げる。次いで、頭のすぐ横にどさりと籠が置かれて、沖ははっと覚醒した。
「こんなところで寝るなよ。いくら陽気が良くても、まだ寒いだろ」
 上体を起こして振り返ると、洗濯物をしまい終えた松壱が縁側から室内に戻ろうとしているところだった。いつの間にか空が赤黄色に染まり始めている。どうやら睡魔に負けてしまったらしい。
 状況を把握して、沖は息をついた。
「うん、でも俺、毛皮あるし」
 今は袴姿だから、相応の防寒しかできない。だが、あまり寒くなるようであれば、狐姿になればいいのだ。ともあれ、まだその必要はないように感じられた。
 寝そべったまま腕を組んで顎を乗せる。それを枕代わりにまた目を閉じた。
 松壱のため息が耳に届く。
「あっそ」
 頭の横の籠が持ち上げられ、廊下を踏む足音が離れて行った。
 寝るなと言いながら、洗濯物を取り込む作業の間は放っておいてくれたわけか。起こすか起こすまいか悩んだ末の折衷案だったのだろう。
(……優しい)
 耳を澄ますと、家の奥で松壱が作業をしている音が聞こえた。時計は手抜きなく時間を刻んでいる。外では鳥がさえずり、草花が風に応え、虫が鳴いていた。獣は草木を掻き分け、仲間を呼んでいる。
 耳を撫でる音の群れはまるで整然性がなく、そして心地良い。命の気配に包まれる感覚は沖に安堵をもたらした。口元に微笑を浮かべて聞き入る。
 つい先日まではもっと静かだった。日差しが暖かくなるにつれて、山中が目を覚まし始めている。美しい季節は目の前だ。
 庭のツツジやヤマブキはもう少し先だろうか。沖は外に視線をやった。
 赤い光の中、白い破片が過る。音が遠のく。何も考えられなくなる。
 何も考えたくないのだ。
 あの春に何があったのか、なぜああなったのか。どうして、誰もいなくなってしまったのか。
 白く翻る花弁は雪のように見えて、冷たい春の象徴だった。
 沖は片手で視界を覆った。
 あのとき、抱き締める腕の温かさが、自分をこの世に繋ぎ止めた。

 薄く黄金色を帯びた白い月がこちらを見ている。周囲の薄雲を淡く照らす光は常世のもののようだ。羽衣が夜空にたなびいているように見える。
 鳥居の上で、沖はぼんやりとその視線に応えていた。
 夜風が髪をさらう。その風に煽られて白い小さな花びらがいくつも舞い上がってきた。ひらりひらりと上昇して、光の粒が地上から湧き上がっているようだ。
 そのまま月光に導かれて月まで飛んでいくのだろうか。
 まるで――
(……魂だ……)
 春の嵐に巻き込まれて散った同族たち。
 清浄な月へ往けるなら、彼らの心も少しは安らぐだろうか。
(そう思うのは、自分への慰め、か)
 死んだ者がどう安らぐというのか。彼らはもう、笑うことも、泣くことも、怒ることもない。
 知らずに自嘲を浮かべる。うつむくと、赤い鳥居を雫が打った。

 俺も連れて行って。

 言えるはずがない。
 自分だけが助かって、今更そんなことが言えるわけがない。
 指先が冷たく凍る。引き止める腕ももうない。
「沖!」
 呼ばれてはっと顔を上げる。見つめた先には満月。
 だが、そこに差し伸べてくる手はない。
「おい、どこ向いてんだ。こっちだ。降りて来い」
 続く呼びかけに我に返って、沖は声の主を探した。視線を下げると、すぐに見つかる。日本人にしては淡い色の髪。月明かりを受け、白いシャツが暗闇に溶けるようだ。
「マツイチ……」
「早く降りて来いよ」
 松壱はため息混じりに沖を促した。
 だが、沖は降りてこない。じっとこちらを見下ろしている。
「沖?」
 松壱は眉を寄せた。
 月光を弾き返す水面。沖の瞳は夜闇の中で冗談のように明るく輝いている。ひやりと冷たい零度の光。
 満月と巻き上げられる花弁を背景にして、それは美しい光景でもあったが、背筋をぞっとさせる危うさがあった。現し世から一歩遠のいているような絵だ。
(疑っている目だ……)
 何度か見たことがある。こちらを主と認めていない瞳だ。
 春が巡るたびに、沖は仲間を失った傷に苛まれ、そして疑う。仲間と共に行くことを許さなかった者を。
 松壱は彼を数百年見続けた妖魔の言葉を思い出した。
「囚われるなとは言ったが、あいつはどうしてもそれを捨てることができない」
 目を背けたいと思いながら、そう望む自分を許せない。傷に対して、何も感じなくなることが恐ろしいのだろう――。
 四百年を経て、「高嶺」はなお沖を癒すことができないのだと、思い知らされる。
 松壱は空気を吸い込んだ。夜の冷たさに肺が震える。
「月佳」
 一言。沖の身体がびくりと震える。
「月佳、降りて来い」
 水の瞳が抗おうとするのが見えた。真名に縛られるのを拒もうと、耳をふさぐ。それで何が変わるわけでもないのに。
 松壱は続けた。
「月佳、そこは寒いだろう。こっちへ来い」
 逆らえないのは分かっていた。
 涙をこぼして、沖が鳥居を蹴る。跳躍は緩やかに重力を無視した。
 ふわりと、白い手が松壱の肩に触れる。それを捕らえて、松壱は相手を抱き上げた。本来の姿がしなやかな獣であるせいか、沖の身体はそう重くない。
「マツイチのばか……」
 男の肩に顔をうずめて、沖が呟く。松壱は苦笑を漏らした。
「おまえってこの時期はダメだな」
 流れるような黒髪を撫でてやる。
「長めに冬眠して、夏に起きてきた方がいいんじゃないか?」
 涙を飲み込もうと、沖が短く息を吸う。
「……そんなに寝てられないよ。だいたい俺は冬眠なんかしないし」
 言い返す声は憮然としていて、もういつもの彼だった。
「今日もずっと昼寝してなかったか?」
 笑って告げると、沖は不服そうに眉を寄せる。松壱がその手を取った。
 指先を温かい手が包む。
「マツイチ?」
「こんなに冷やして、風邪でもひくつもりか?」
 たしなめるように言いながら、松壱は沖を下ろした。沖は離された手を閉じて開いて見下ろす。指先は温かくなったが、おそらくそのぶん松壱の手が冷えただろう。
 ぼんやりと自身の手を見つめている狐に、松壱はため息を零した。家に向かって歩き出す。
「お前はうちのご神体なんだから、風邪なんかひくなよ。評判が落ちたらどうするんだ」
 主人のあとを追いながら、沖は唇を尖らせる。
「ご神体が風邪にかかったなんて誰が信じるんだよ」
 松壱は歩きながら指を折った。
「羽山さんは信じるだろ。千里だってお前が風邪だと言うなら信じるだろうけど、あいつはお前を御神体だとは思ってないからな。黒刀は馬鹿は風邪引かないはずだって言いそうだな」
「黒刀こそ風邪引かないじゃん」
 沖は腕組みをして山の方を睨む。数える指をひとつ増やして、松壱は皮肉げに笑った。
「そうだな、あとは東條さんも信じるんじゃないか?」
「えーっ、優や千里君はともかくあんな奴には心配されたくない」
「心配するかどうかは知らないが」
 松壱は肩を竦めてみせる。
「心配されたくないなら、風邪を引くなよ」
 沖は笑った。隣を歩く主人の手を握る。ふだんなら振り払われるところだが、彼はそうはしなかった。落ち込んでいたことを見抜かれたことはもう分かっている。
「マツイチの手、あたたかーい」
「お前のが冷たいんだよ」
 松壱は呆れたように呟く。沖はもう一方の手で悩ましく自分の頬を撫でた。
「いやあ、手が冷たい人は心が温かいって言うよね」
「それは人の話だ。お前は狐だろ」
「人も狐も心持ちは変わらないでしょ」
 片手で胸元を押さえながら沖が反論する。
「どうだか」
 短く答えて、松壱はそっと笑みを浮かべた。月明かりしかない夜道ではばれないだろう。
 今年は大丈夫だ。去年も大丈夫だった。来年も大丈夫だろう。
 月がいくら呼びかけても、花弁がいくら誘っても、沖はここに残る。
 松壱は満足して囁いた。
「さっさと家に帰るぞ」
 繋いだ手を握り返す。
「うん」
 沖は微笑んで返した。