庵で

 雪は舞って闇に消えていく。屋内の灯りに照らされ、きらりきらりと閃いて。
 ずっと眺めていても飽きないような気がした。
 ここ数年、正月三箇日は高嶺神社の手伝いに借り出されていたのだが、高嶺宅の人手が増えたため、二日目以降はお役御免となった。つまり、明日から気ままな生活に戻るのだ。
 慰労だと酒を振舞われてから、どれくらい経っただろうか。耳が風の音しか受け付けなくなったのではないかと錯覚しそうになった頃、背後から別の音が響いた。
「黒刀君」
 呼ばれて振り返ると、玖郎が縁側から降りてくる。全員寝たのだと思っていたが、起きてきたらしい。
「うわっ、さっむ〜。平気なの?」
 髪を風に乱され肩をすくめる。黒刀は降りかかる雪を手で遮りながら答えた。
「ああ。これくらいはまだ平気だな」
「そりゃすごい」
 玖郎は片手に持っていたガラス製の小ぶりのコップを差し出した。それを黙って見つめ返す男に、もう一方に持った日本酒を掲げてみせる。上等のものだ。松壱が持ち出すことを許可したとは思えなかったが、黒刀は気にしないことにした。新年早々、つまらないことで悩みたくはない。
「サシで呑んでみたいと思ってたんだ」
「庭で?」
「いや、できれば風くらいはしのげるところを願いたいけど、雪見酒も悪くない」
 どう見ても寒くて堪らない顔をしている男に、黒刀は小さく笑った。
「うちに来るか?」
「え」
「少し歩く。……いや、寒いからな。お前の部屋のほうがいいか」
 玖郎は慌てて首を振った。
「いや、ぜひ、お招きいただきたい」
「ろくなつまみはないぞ」
「それはまあ、味のある昔話でも」
「面白い話なんて持ってないんだがな」
 ため息をつきながら、黒刀は歩き出す。玖郎は笑ってそのあとを追った。
「黒刀君は仏頂面して座ってるだけで面白いよ」
 返す言葉も思いつかなかったのか、黒刀は軽く首を傾げただけだった。玖郎は笑みを浮かべたまま続ける。
「松壱がああいうふうに酔うとは思わなかったよ。随分と上機嫌になるんだな」
「ああ、日頃の鬱憤も笑いに変えてしまってる。いい酔い方なんだろうな」
 玖郎は黒刀に追いつき、横に並んで相手の顔を覗き込んだ。
「黒刀君は酔わないんだね」
「ん、まあ、酒なんて水みたいなもんだ」
「大したもんだ。俺、自分より強い人なんて初めて見たよ。ザルというよりワクだね」
「よく言われる」
 応える声が笑いを含んでいるのを聞き取って、玖郎は黒刀も機嫌が良さそうだと踏んだ。そもそも、まさか庵に招いてくれるとは思ってもいなかった。
 高嶺宅の裏手から森に入り、しばらくして、不意に黒刀が立ち止まる。
「そこだ。目晦ましの結界を張ってある。越えられるか?」
 指差す先には周りと同様、木々が茂っているだけだ。だが、玖郎は興味深そうに目を凝らした。
「ああ、なるほど。どおりで見つからなかったわけだ。うん、そうと分かれば越えられると思うよ」
 よしと頷いて、黒刀は先に歩き出した。そのあとについて、玖郎は結界を越えた。ゆたりと水の中を歩くような、柔らかな抵抗感があった。振り返るが、そこには何も見えなかった。暗い森があるだけだ。
(これは庵主がいなければ、誰も結界を越えることはできないだろうな。山神のものだ)
 ――意外と独占欲が強い。心中で皮肉って玖郎は笑みを浮かべた。
「玖郎?」
 先に庵の中で灯を点した黒刀が振り返って声を上げる。玖郎は駆け寄った。
「ちょっと考え事をしていた」
「ん?」
 庵の戸を閉めながら、黒刀が首を傾げる。蝋燭に照らし出された二人ぶんの影を見上げながら、玖郎は答えた。
「いや、一人暮らしって寂しくないのかなあと思って」
「寂しい?」
 黒刀が笑う。
「そんなものには縁がない」
 高嶺や沖がいるからか。玖郎が問う代わりに双眸を細めると、黒刀は笑みを柔らかくした。
「この山にはたくさんの生き物がいる。そのすべてが俺の守るべきもの。俺の側に在るもの。寂しくなどない」
 玖郎は思わず手を伸ばして、相手の頬に触れた。
「もっと笑えばいいのに」
 黒刀は視線を逸らし、男の手を払う。
「俺の笑顔はタダじゃないんだ」
 そのまま歩き出して、庵の中に上がる。玖郎は眉を下げて笑った。
「……照れてるの?」
 聞こえないように言ったつもりだったが、黒刀が振り返って眉を寄せた。冬の空気は思いのほか澄んでいる。玖郎は首を振ってごまかした。

 お互い無言でコツンとコップを鳴らす。
 部屋の真ん中に炉、入り口に蝋燭を立てて、薄暗いものの、人でない二人には十分な明るさだった。室内は質素というよりは、何もないという様だ。大掃除を黒刀に手伝わせると部屋から物がなくなってしまうのだと松壱が言っていたことを思い出す。よほど収納がうまいのか、思い切り良く捨ててしまうのか。
 長く考え事をしながら一口呑み込んで、玖郎は息をついた。
「改めて、明けましておめでとう」
「おめでとう」
 玖郎はもう一口呑んで、今度は大きく息を吐いた。ぐるりと天井を見上げる。
「ここは居心地がいいね。寒くないし、静かだし、なんだろう、落ち着くよ」
 黒刀はコップを揺らした。
「古い建物だからな。お前に馴染む気なんだろう」
 そう言う本人の気も普段と比べて随分と優しくなっている気がする。視線は下を向いてるが、口元には微かながら笑みも浮かんでいる。
(悪くないな。こういうの)
 おそらく沖などがいたのでは見せてくれないだろう。このようなくつろいだ表情は。
 どれだけ親しくなろうと、「高嶺」が奉るのが「御狐様」であり、「山神」でない以上、黒刀と沖たちの間の壁はなくならないはずだ。この山に入ってさほど経っていない自分は「山神」側でも「御狐様」側でもないと、そう判断されているのだろう。
(通じ合えるはずなのに、心を開けないというのは苦痛のような気もするが……)
 玖郎は首を振った。今は暗いことは考えたくないし、話に持ち出すのも無粋だろう。
「黒刀君は今年の抱負、考えた?」
「毎年同じだ。揺草山の平穏を守る」
 答えて、目線で相手を促す。
「お前は?」
 玖郎はコップのふちを指先で撫でながらうーんと答えた。
「一年の計は……とは言うんだけど、まだ考え中なんだよね」
「悩むか」
 その問いは言外に「その年になっても」と含んでいた。玖郎は苦笑する。
「なかなかね。もう数えられないほど繰り返しているはずなのに、明けるたびに考えてしまう」
 相手の手中のコップが炉の光を受けて、ゆらゆらと輝く。それを見つめながら、玖郎は続けた。
「そうだな、沖たちともっと仲良くなりたいかな」
 そして顔を上げる。
「黒刀君とも、ね」
 言って酒瓶を差し出すと、コップを傾けて受け入れてくれる。
「目標立ての前に実行しているようだが」
「俺ってずるいんだ。できることしか目標にしない」
「高すぎる目標を立ててもいけない。反比例して、諦めの敷居が低くなる。――お前はそんなことはもう分かっているだろうけどな」
 少なくとも四百歳は年上の相手にそう言って、黒刀は笑った。なみなみと注がれた酒にそっと唇を寄せる。その様子を見つめながら、玖郎は頷く。
「ああ、目標を低くするのもいけない。バランスが難しい。目標を立てることがすでに一つの難関のようだよ」
「その難関を破りやすくするには、きちんと昨年の反省をすることだ。同じ過ちを繰り返さないように。それだけでも目標になる」
「それもそうだ」
 玖郎は笑って首を傾げた。
「珍しく饒舌だね。こいつは潤滑油足りえたかな」
 酒瓶を斜めにしてみせる。黒刀はきょとんとして、それから首を横に振った。
「いや、沖たちと呑むと俺がしゃべる暇がないからな。その反動だ」
 今度は玖郎が言葉を失う。しかし、すぐに笑い出す。
「確かに。ほんっとうに、沖と松壱ばかりしゃべってるよね。ははは、そうだ、黒刀君は頷いてるだけだった」
「お前もよくしゃべってたな」
「あはは、ごめんね。俺も自制できる性質じゃないみたいでね」
 思わぬところでツボに入ってしまい肩を揺らしていると、黒刀が酒瓶を手に取り、酌をしてきた。
「ふふふ、ありがとう。嬉しいな。美人にお酌してもらうの」
「沖は呼ばんぞ」
「え? あー、沖も美人だけど、酔うとあれだからね。お酒で付き合うなら黒刀君のほうがいいなあ」
 調子に乗って叩いた軽口だったが、相手はふわりと微笑んだ。
「俺もだ」
 玖郎は見惚れて、息を呑んだ。ゆっくりと吐き出しながら、口元を手の甲で拭う。
「俺、もうちょっと呑んでたら、今ので黒刀君にキスしちゃうところだった」
 これまた酒の勢いで言ってしまい、怒られるかと思ったが、黒刀は苦笑するだけだった。
「安心しろ。そのときは殴ってやるから」
 酒の席で出てくる冗談を受け流すだけの余裕はあるらしい。普段もこうだったらいいのに、と思ったが、それでは二人だけで呑む価値がなくなることにも気づいた。
 玖郎は頬が緩むのをこらえて、なんとか普通に笑って見せた。
「黒刀君」
 名を呼んで、コップを掲げる。
「今年もよろしく」
 二度目の乾杯に応えて、黒刀はもう一度笑った。
「こちらこそ」