難題相談 5

 前日から雨が降ったりやんだりしていた。陽は顔を出さず、冷たい空気が肌を撫でる。今もまた雨が降っていた。小降りではあったが、木々に囲まれた場所はひときわ大きく雨音が響いている。
 伊納沙良は傘を後ろに傾(かし)いで、石段を見上げた。石はじっとりと雨を含んで重い色をしている。瞼を水滴が打って、傘を戻した。
 学校帰りに立ち寄った神社は人影も見当たらず閑散としている。雨音が傘を包む音は耳に心地よかったが、足元が湿る感覚はいいものではない。
 友人には、あの日思い当った人物は人違いだったと謝られた。そもそも彼女の問題ではなかったのに、手を煩わせてしまって謝りたかったのはこちらのほうだ。
 だからなのかもしれない。この長くてきつい石段をもう一度登ろうと考えたのは。何かしなければいけないような気がしたのだ。
 一方で、もう諦めようという気持ちもあった。相手の素性も分からない。助けられはしたが、それが彼のすべてではない。手を貸したのは気まぐれか偶然で、本当は酷い人間なのかもしれない。もしそうであるなら、わざわざ事実を知る必要はないないし、知りたくもない。
 だから、叶うはずもないと思いながら石段を昇り、それでおしまいにしようと、そう思った。
(我ながら悲観的だけど)
 ため息を零す。さすがに息が白くなるほど寒くはない。沙良は唇を引き結んだ。

 中腹まで来て足を止める。背後を振り返って、ここまで登った自分に関心してしまう。
(こんなことで満足してもしょうがないのだけど)
 前回は優が一緒で、喋りながら登ったからあっという間に思えた。傘を打つ雨音を聞きながら、取り留めもなく思考を巡らせる。授業のこと、課題のこと、新刊の本のこと、初詣のこと――。
 顔を見たのはわずかな時間だったが、網膜に焼き付いた。こちらを見下ろす紫暗の瞳は心配しているふうもなく、ただ黙ってこちらを支えていた。
(そうね……優しくは、ないのかもしれない)
 突然のことに上がってしまい、礼を言えなかったのだが、相手もまた何も言わなかった。人混みを避けるようにして去っていった背の高い後ろ姿も記憶に残っている。おおよそ愛想というものは見当たらなかった。
(なのに)
 沙良は片手で頬を押さえた。熱い。
 その冷たい容貌が頭から離れず、もう一度会いたいという気持ちは日毎に強くなっていった。恋心と称していいのかは分からない。気に入った絵画をまた見たいという気持ちと何が違うのだろう。
 分からないから、切りがないから、早く諦めてしまったほうがいいと思った。
 こんなに会いたいという気持ちを抱えたまま――?
 沙良は残りの段数を気にして顔を上げた。そのとき散漫な気持ちになっていたのがまずかった。
 石段に掛けた足が滑る。
 声も出なかった。つい先ほど見下ろした高さが脳裏を過る。落ちたらどうなるのか。
 答えを得るより先に肩を支えられた。
 己の体勢を理解できないまま、それでも滑らせた足で下の段を踏み抜く。それでやっと上体の安定を得ることができた。水が跳ねたのか、靴下に濡れた感触がじわりと広がる。心臓は痛いほどに早鐘を打ち、沙良は大きく息を吸った。傘を握りしめる。
 肩を支えていた腕が離れ、慌てて振り返る。礼を言わなければ。助けてくれた相手はすでに背を向けて去ろうとしていた。その後ろ姿。
 短く整えられた黒髪。振り仰ぐ長身。黒いシャツに見覚えはないが――。
「あの!」
 男は石段から道を逸れようとしている。その先には林。どこへ行くというのか。あの日も男を追うことはかなわず、見失ってしまった。まるで逃げられているようだと思う。
 ふだんならそんなことが出来るはずもないのに、沙良は男のシャツを掴んだ。小雨に晒されて冷たく湿った手触り。黒い髪が揺れて、男が振り返る。
 紫黒の双眸を、沙良は感動を持って見た。
 オーバーシャツの下には、白いティーシャツを着ているようだった。穿いているジーンズも黒で、鈍いモノトーンの印象は、しかし、その冴えた相貌によって引き締められている。切れ長の目に直毛の黒髪が涼しげで、結んだ唇はいかにも寡黙そうだ。
 見下ろされて、沙良は思わず肩を震わせる。
「なんだ?」
 低い。囁くような静かな声音に心が痺れる。以前に会った時はその声を聞くことはできなかった。
「あの、あ……」
 声が上擦る。だが、今しかないのだと、二度も機会を棒に振るのかと、自分を叱咤する。
「ありがとうございました。あの、以前にも助けていただいて……、そのときの分も……ありがとうございました」
「……以前?」
 男は首を傾げることもしなかった。
 覚えていないのか。想定はしていたが、自覚している以上に自分は期待を持っていたらしい。ぎゅっと胸の奥が委縮するのが分かった。
「あ……すみません」
 小さく声を漏らす。再会に対して一人で舞い上がっていたのかと思うと、羞恥が強まって顔を上げていることができなかった。そうしてうつむいてしまうと、今度は涙がこぼれそうになって後悔する。泣くようなことではないはずだと思うのに、動揺はますます気持ちを不安定にした。
「なぜ謝るのかは分からんが」
 男は感慨もない声で続ける。
「足元には気をつけろ。今のは運が良かっただけだ」
 怒られているわけでもないのに、気分はそんな心地だった。頭上に感じる視線が苦しい。
「……は、はい」
 息を絞って出した声は涙声で、男が目を瞬いたのが分かった。だが、沙良にはどうしようもできなかった。なんでもないと顔を上げることもかなわない。
 男は逡巡したすえに口を開いた。
「……神社に用があるのか? このまま一人で登れるか?」
 気遣う言葉。階段から落ちかけたことに驚いて泣いてしまったのだと解釈したのだろう。
 このままでは悪戯に相手を困らせてしまう。息を吸って沙良は目を開いた。ふと自分の足元を見る。己の靴の周りは雨が落ちていない。だが、男の靴を雨粒が打った。その様子が視界に入ってはっと顔を上げる。
 そういえば、相手は傘を持っていなかった。助けられた上に、いつまでも雨の下に晒していたのか。
「す、すみません、あの、これ」
 何も考えられないまま、勢い余って傘を差し出す。男は首を振った。黒髪から滴が落ちる。
「いや、いい」
 沙良はゆっくりと傘を引き戻した。相手が濡れているのに自分だけ雨をしのぐのが気まずくて、そのまま傘を閉じる。固い切っ先が石段を引っ掻いた。
「濡れるぞ」
「いいんです」
 絞り出すようにして言葉を紡ぐ。
 沙良はなんとか笑顔を作ってみせた。
「転びかけた時にも濡れましたし。いっそ滑らないよう杖代わりにする方が良いような気がします」
 縋(すが)ればこの人は一緒に登ってくれるだろう。
 だが、そんなことは望めない。
「そうか」
 わずかだが男が唇を歪めた。笑ったのだと分かった。嫌味でもなんでもなく、少女の提案が可笑しかったようだ。
 それだけのことだったが、沙良の気持ちはぐっと軽くなった。相手はべつに怒っているわけでも、疎んじているわけでもないのだ。
 ただ、助けてくれた通りすがりの人だ。
「大丈夫です。一人でも」
 ぺこりと頭を下げる。
「ありがとうございました。……あの、風邪などお気をつけてください」
 男は頷いた。
「ああ。お前もな」
 それだけ告げて林に向き直る。軽い身のこなしで石段を蹴ると、舗装されていないけもの道に降り立つ。
 そのまま、男は振り返ることもなく木陰に消えていった。
(どこへ行くのかしら……)
 暗い林を見つめる。
(……どこから、来たのかしら……)
 誰もいなかった。転ぶ前に石段から下界を見下ろした時、人影などなかったはずだ。
 再び寂しい石段を見下ろす。不思議な気分だった。
 しとしとと降雨が木々や草花に吸い込まれていく音が全身を包む。
 白昼夢でも見ただろうか、自分を疑い始める。もう一度会いたいと思うあまり? そっけないけれど、確かに優しい――そんな都合のいいものを見たのか。
 沙良は石段の頂上を振り仰いだ。小雨を降らす薄い雲が目に眩しい。灰色の視界に、赤い鳥居が小さく見える。
 白昼夢を見せた存在がいるなら――。
(神様……?)

 沙良は石段を最後まで登り切り、社の前で願い事ではなく礼を言った。