難題相談 3

 世間話を始めた沖と優の会話を松壱が聞き流しているうちに、玖郎が現れた。
「どうだった」
「うん」
 松壱の問いかけに玖郎は頷いて見せるだけで、あとは視線を上へと投げる。その視線の先から。ふわりと風を巻いて、一人の男が境内に降り立つ。
 優は息を呑んだ。高所から飛び降りたのではないと分かった。空中から鳥が降り立つように、重力との折り合いをつけながら爪先が地面につけられる。白いティーシャツの上に纏った黒無地のシャツが風を孕んでいる。穿いているジーンズも靴も黒い。地に踵がつくと、急に重さを得たようにシャツが下方に垂れた。短い黒髪がさらりと揺れる。
 そして、男は不機嫌さの滲んだ無表情で社の下の三人に視線を向けた。黒く見える双眸が、紫を帯びていることに気付いて、優は彼が目的の人物であることを察した。人間に見えるが、人間ではない――そのことを視界の外で理解する。
 松壱は驚いて立ち上がった。一瞬だけ、隣の優を見下ろす。彼女は不思議そうに三頭目の黒い獣を見ていた。
「来るとは思わなかった」
 松壱は半ば茫然と呟いた。まとわりつく風でも振り払うように、黒刀は軽く首を振る。
「沖の正体も知っているんだろう」
「あ、ああ……それもそうか」
 それでも釈然としない気持ちで松壱は優を振り返った。
「羽山さん、彼が黒刀だ」
 優はしばらく目を瞬いていたが、やがて息をついた。
「なんていうか、イケメンっていうのはむしろ畏れ多い感じですね?」
 ゆるいうえに軽い言葉に松壱は目眩を覚えた。ちらりと黒刀を見やるが彼は無表情のままだった。少女の言葉が理解できなかったのかもしれない。
「えーと」
「あ、お世辞とかじゃないですよ」
「いや……まあいいか」
 投げやりに言って、松壱は首を振った。階段を下りて黒刀に近づく。あとから沖と優もついてきた。
「話は聞いた」
 傍までやって来た松壱に黒刀は短く告げる。
「会う必要はない」
「だろうな」
 予想していたとおりの答えを得て、松壱は沖のほうを見た。その顔には諦めないと書いてある。
「天狗だってばれなきゃいいだろ」
「そういう問題ではない」
 黒刀はゆっくりと首を振る。
「すれ違ったところで風が吹くだけのこと。人と人ならず者の接触はその程度のものであるべきだ」
 松壱は視線を下げた。冷たい口調はふだんのぶっきらぼうなそれとは違う。優がいるからだと推し量ることができた。慣れ合う気など毛頭ない、そう言っている。
 優はどう思うだろうか。彼女の表情を盗み見ると、意外にもまっすぐに黒刀を見ていた。不満そうにも不安そうにも見えない。あるいは人間嫌いだという情報から覚悟はしていたのかもしれない。
「でも、袖擦り合う縁を大事にしたいって、そう思ってもいいだろう?」
 言い募る沖に黒刀は冷めた視線を送る。
「お前がそうしたいならそうすればいい。だが、そのおせっかいに俺を巻き込むな」
「冷たい」
 沖は間髪入れずに返す。
「いつもの五割増しくらい冷たい」
 相手の眉間に皺が刻まれるが、そんなものは見慣れている。
「そりゃあ、こっちだって無理強いする気はないよ。でも、黒刀には譲歩がない」
「譲歩する必要はない」
 沖は唇を歪めた。もとより他人が干渉するような事柄でもないことは分かっている。嫌だというなら仕方ない。だけど、それ以上に人間を拒絶するその態度が悲しかった。
「黒刀君」
 口を開いたのは玖郎だった。周りの視線がそちらに移る。優は沖と同じ青い目を見つめた。
「人間だと思わず、会ってみれば? 雪女でも猫娘でもいいじゃない。だって、ユキちゃんは平気なんだろう?」
 紫暗の双眸が細められる。
「……お前は俺の話を聞いていなかったのか?」
 侮蔑のこもった声に、玖郎はさらりと返す。
「聞いてた。でも、僕は恋する女の子の味方だから」
 嘘だ、と松壱は思った。
 確かに玖郎は黒刀と比べれば人に対して好意的だ。しかし、それでも野生の狐。沖ほど親密な感情は抱いていないはずである。
 ならば、なぜ優に味方するようなことを言うのか。答えは簡単だ。
(楽しいからだ)
 だが、松壱はあえて口を挟まなかった。短気な黒刀は玖朗の軽口にかかれば容易に普段の顔を出すだろう。重苦しい空気は自分とて遠慮したい。
 玖朗は肩をすくめて笑う。
「黒刀君はかしましい女の子の相手なんか面倒くさいだけだろうけど、乙女にとってはまだまだ大事な気持ちなんだからさ」
「知るか」
 黒刀は吐き捨てた。
「だいたい話もしたことのない男の何が好きだというんだ? 見てくれか? そんなものが大事だと言われても片腹痛いだけだ」
 松壱は内心で同意する。
(それもそうだな)
 しょせん一目惚れなのだろうから。
 実際、沙良は黒刀を前にして告白のひとつでも出来るだろうか。まず、なんの接点もない他人に話しかけられるかどうかも怪しい。
「そうは言っても、文字通り『人並み』の顔じゃないしねえ。ちょっとは自覚したほうがいいんじゃないの? 分かってやってる松壱より性質が悪いよ?」
「誰の性質が悪いって?」
 笑顔が可愛いと評判の宮司が眉根を寄せて口を挟むが、玖朗はそれを無視した。腕を組んで首を傾げる。
「あれ? つまり顔は合わせてるんだよね? 黒刀君はその子のこと覚えてないの?」
 黒刀は問われてそのまま松壱を見やる。
「どんな女だって?」
「……お前な」
 端から興味がないから確認することでもなかったのだろうが。どう説明しようかと思考を巡らせたところ、優が口を開いた。
「私、覚えてますよ。二人が会ったところ」
 黒刀が少女を見下ろす。優は説明しますよとでも言いたげに小首を傾げた。
 沖はそんな彼女を感心して見つめる。
(相変わらずいい「目」をしてるなあ)
 優は相手が妖魔だろうと悪意さえ感じられなければ、それを恐れることがない。そして、その判定能力は高いと言える。
「初詣で人が多かったでしょう。人混みを抜け出そうとして躓いた沙良を支えてくれましたよね?」
「ありがちだなあ」
 黒刀が答える前に玖朗が苦笑する。優は眉を下げて笑った。
「ありがちですけど、でも、実際にそんなことがあるとは思わないじゃないですか。ふつう、そのままこけるか、自力で踏みとどまって終わりですよ」
 なるほどと頷く玖朗を見て、それから優は黒刀に視線を戻した。
「だから、見てくれだけじゃないんですよ?」
 優しくされたからだと訴える。
「私はなんで人間じゃない人がいるんだろうって、そっちのほうが気になってたから、顔はよく見てなかったんですよね。それにさっさといなくなっちゃったし、えーと、黒刀さんって呼んでも大丈夫ですか?」
 少女の言葉に黒刀は気難しげに眉を寄せる。呼称の問題ではない。呼ぶことを許すということは、この少女と関わりを持つということだ。
 しかし、またしても玖朗が先に口を開いた。
「好きに呼んだらいいと思うよ。僕の推奨は『黒刀様』だけど」
 ばつが悪そうに睨む黒刀に、玖朗は当然のように返す。
「だって、この子、沖のことを『沖様』って呼んでるだろう。じゃあ、黒刀君も『黒刀様』だ」
 その意味が分からず、優は目を瞬いたが、玖朗は構わずに続けた。
「あ、僕は野良だから『玖朗』でいいよ。『お兄さん』って呼んでくれてもいいけど」
 頭上に疑問符が増え始めた優を見かねて、松壱は息をついた。どこまで話そうか少し考えて、端的な言葉を選ぶ。
「黒刀は人外の世界では格の高い存在なんだ。だから玖朗の言うことは一理あるが、厳密に俺たちが気にしなきゃいけないことでもない」
 黒刀の制止の視線には応えず、松壱は続けて玖郎を顎で示す。
「こいつは言葉のまま、野良狐さ。呼び捨てにでもなんでも好きにすればいい」
 はあと優は理解半分に頷く。沖は苦笑いを浮かべて肩を竦めた。
「俺のことだって、べつに呼び捨てでもいいんだけどね」
 優は少し困った顔をして沖を振り仰いだ。
「えーと、でも、やっぱり私からしたら神様みたいなものですし」
 神社のご神体として存在し、事実その力でもって助けてくれた。感謝の気持ちと同様に、親しくなっても彼に対する敬意は消えないと思う。
 こちらの答えに対する沖の微笑みが寂しそうに見えた。彼が人間好きで、人間に対して親しく思っていることを知っている。敬意を持たれることは、本当は彼の望みではないだろう。
「それに今から呼び方を変えるのもちょっと照れ臭いです。もう定着しちゃったし」
 優は力説するつもりで両拳を握ってみせた。
「私にとって『沖様』は『沖様』なんです」
 沖ははにかんで返す。
 松壱がいいんじゃないかと言った。
「ユキだって『沖様』だしな。そのくせ、黒刀は『黒刀』だし」
 そういうお前はぜんぶ呼び捨てだろうと、その場の全員が考えたが、誰も口にしなかった。そんな周囲の目線を受けても、松壱にはなんの痛痒もない。
 優はくるりと黒刀を振り返った。
「じゃあ、黒刀様って呼びます」